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白井胤治


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白井胤治( しらい・たねはる )とは、戦国時代の軍師である。生没年不詳。出した後の白井浄三(じょうさん / じょうみ)の名も知られる。白井下総とも。立たないけど黒子じゃないですの!


概要


白井胤治とは生まれ、育ち、生没年、貌など、全てがはっきりとしないの軍師(※1)である。
千葉氏の傍流に当たる白井氏の出と言われ、さらに彼の嫡養子や孫は豊臣とか徳とかに仕えてもいるため、一概に生まれ育ちがはっきりしないわけでもないらしいのだがそれはまあおいておく。
いずれにせよ、特にを持っているわけでもない下総の小領にすぎない彼の名が後世に伝わっているのは、兵8倍という圧倒的不利な状況を覆して攻軍を撃退した『臼井の戦い』において、KOEI公式チート越後の虎、聖将上杉謙信撃退するという大金星を上げたことのみによる、と言っても過言ではない。実際それ以外よくわからん人やし。
一説には三好三人衆に仕えていたが、諸修行のために下総に滞在していたとも伝わる。


臼井城の戦い


時は1566年、前年末から上杉謙信(当時は虎だが、面倒臭いので以下謙信で統一する)は恒例行事となった関東遠征を行っていた。越後、上野下野常陸などの軍勢を合わせ、その数はおよそ一万五千以上。その軍勢が標としたのが、下総の有千葉氏、その臣(実際にはここらへんの下総地域は独立色が強く、千葉独立、あるいは同君連合としたほうが妥当だそうな)原胤貞が守るこの臼井であった。

その臼井原胤貞は、上杉軍襲来!の報に対し方々へ援軍を要請したが、千葉は自の本である本佐倉城の防備を固めるのに忙しく、対上杉の頼みの綱・小田原北条氏も房総半島の強・里見氏と交戦中で援軍を出す余裕がなく、送られてきたのは北条ひとり備え松田康郷率いるわずか数十人。全てを合わせてかき集めても二千人がせいぜいという有様で、攻めが始まって数日後にはくも一つを残すだけ、というところまで追い詰められていた。上杉謙信自身が

「これほどの小城、何程の事かあるべき。一攻めに揉み落とせ」

なんて言うほどであった。

ここで颯爽と現れたヒーローこそ、本項の主人公、白井胤治であった。
かねて「今孔明」とその名を関東一円に知られていた胤治は、なぜかこのときたまたま
臼井に滞在しており(※2)、進退窮まった胤貞から揮権を譲られると、

「このたび大敵発向すといえども、さらに恐れるべからず。敵の上に立つ気は、いずれも殺気にして囚老にして消える。味方の中に立つ軍気はみな儀に王相に消える間、敵は敗軍疑いなし」(意訳:敵は大軍で攻めてきているが、恐れる必要はない。なぜなら味方の士気は敵のそれよりかに強く、敵は負ける。間違いない!)

と士気を鼓舞し、謙信の号どおり総攻撃に移ろうとした上杉軍に対してに引きこもって耐える、のではなく、

門を全開にして突撃する

という奇策に打って出たのである。落寸前の兵が突撃してくるなどと考えていなかった上杉軍は混乱し、かなりの死傷者を出してしまった。北条一人備えこと松田康郷はその戦いぶりから赤鬼とあだ名されるほど奮戦して見せた。
と、ここで終わりではない。なんと言っても兵差はまだ圧倒的に上杉側有利。当然次の日も戦いは続いた。謙信は「昨日あれほどの暴れっぷりを見せ付けたのだから、今日も同じような作戦で来るだろう」と考え、打って出てきたところを迎撃する構えを取った。

胤治は出てこなかった。

ぶちのめしてやろうと手ぐすね引いて待っていた謙信はすっかり肩透かしされてイライラしてしまい、ある臣に「今日は千悔日と言い、先に行動を起こしたほうが敗れる日です!」と進言されたにもかかわらず、「そっちが来ないならこちらからだ!」と言わんばかりにに攻めかかってしまった。この動きを胤治は読んでいた。
上杉軍先鋒はを越えの大手門に迫ったが、そこでを倒され、一撃で数人がその下敷きになった。
謙信さすがにこれは不味い、と感じて退却命を出そうとするも、胤治はその上を行った。胤治の号一下、兵が総追撃に転じると、連日の奇襲に参っていた上杉軍は崩を打って敗走。臼井は見事に攻軍を撃退し、落を免れたのであった。
この臼井の戦いにおける上杉軍の死傷者は五千とも言われる。この損がもとで関東、特に常陸下野族が謙信から離反。謙信関東戦略に大きな影を及ぼしたほどの一戦であったとされている。
この戦いはそのあまりの大敗のためか、謙信の伝記『謙信御年譜』は一言も触れていない
(北条サイドのさまざまな記録や文書には上杉軍の大敗が記録されている)


 その他、白井胤治の逸話はWikipedia……と、言いたいところだが、実はあれちょっと不正確なので各自ググってください。ごめんなさい。特にこれ以降の節がWikipediaには欠片もありませんでした。(2010年9月

その後

胤治自身のその後は良くわかっておらず没年も記録されていない。ただ、彼の子孫について少し触れておく。
胤治は後年になるまで男子恵まれず、養子をもらい嫡子とした。白井宗幹である。しかし彼を養子にした後に実の息子が生まれてしまった。しかも二人。しかし胤治は実子を嫡子とはせず、白井を宗幹に継がせた。

この宗幹(と、胤治の実子二人)は小田原の役にも北条方として従軍し、落浪人となっていた。が、その後どこでどうなったのか宗幹は秀吉の直臣となり、義(胤治の次男)・胤幹も豊臣秀次に仕えた、とされる。
その後、最終的に宗幹の三男・幹時が督を継ぎ、その長女が徳川家康、次女が淀君女となっている、というのはちょっとロマンがあるんじゃなかろうか。更に幹時の子は水戸家老となった(※3)。

余談。淀君女となっていた次女「良」、彼女大坂城ののち落ち延びてとある旗本と結婚息子をもうける。その孫がかの絵事件を引き起こした大年寄役「絵(江)」であった。

注釈

※1・・・「軍配者」という記述もあり、山本勘助の例のようにたぶん厳密には軍師よりも軍配者(=占い師に近い)のほうなんですが(実際気がなんたらっていう逸話は占いの話だし……)、ただ、胤治の揮(&アドバイス?)で謙信軍を撃退という逸話は軍師(=アドバイザー)に近いモノとして「軍師」と表記。ニコ百だしいい……よね?
※2・・・『胤』という名はもともと千葉氏累代の字(通字あるいは系字という)なので、もともと胤治は千葉氏配下からの援軍だったのでは、というのが個人的な見解。
※3・・・宗幹の代から徳川頼房に仕えたとの記述あり。本文がごちゃ付くので記載せず。


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最終更新日: 10/09/21 03:30
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