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立花宗茂


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「立花宗茂」たちばな・むねしげ 1569 ~ 1642)とは、高橋紹運立花道雪と言う(良い意味でチートな武将が作り出した日本史上屈の「武勇」と「信義」をあわせもち、豊臣秀吉本多忠勝と並べて

「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一」

と評した程の「清廉」且つ「儀」で「信義」を重んじる武士の見本の様な存在である。しかも関ヶ原の戦いに敗れて易された後に、旧領・柳川の大名へ復活を遂げた「奇跡は起こす!起こしてみせる!」と本当に起こしてしまった・西無双

名将言行録においては、

と、ベタ褒めされているのが当然だと思える程(良い意味でチート完璧超人

なお、「統増(烈風伝での誤記ネタ」「吉弘統虎」「高橋統虎」「立花統虎」の他、10回ほど名を変えており、「立花宗茂」は最晩年の名である。


概要


筑前岩屋高橋紹運の子に生まれ、男子かった雷神立花道雪立花誾千代立花ギン千代)を妻に迎える事で養子になった。つまり「剛勇」と「忠義」の両面で武士の理想を背中る(良い意味でチート父親達を見て育ったことになる。

の戦いに敗れてである大友氏が衰退する中で、養立花道雪没し、実高橋紹運もまた763の死兵を率いて島津軍に対抗し、豊臣秀吉九州征伐軍到着までの時間稼ぎに奮闘して玉砕する等の悲劇が続く。その中で宗茂は実の意思をんで島津軍に対抗し、豊臣秀吉九州征伐軍到着まで戦線を持ちこたえさせた。その奮闘ぶりを評価されて豊臣秀吉より感状を与えられるとともに、大友氏の臣から筑後柳川13万石の豊臣秀吉直臣にとりたてられた。

の役/慶長の役では、朝鮮へと出兵し、寡兵を率いて大軍を打ち破る等の大戦果を挙げた。しかしこのときは鬼島こと島津義弘がさらに上を行く戦果を挙げた為に、いまいち立てていない。

関ヶ原の戦いでは、厚遇してくれた豊臣秀吉への恩義から西軍として参加し、大津を攻め落とす等活躍した。しかし関ヶ原の戦い決戦の場に参加することなく西軍が敗れた為、前進撤退を敢行して脱出してきた島津義弘と共に九州へと落ち延びた。その後説得を受け入れて東軍に降伏し、柳川を開した後に易処分となった。

はじめは加藤清正の客分として過ごした後、由布惟信ら付き従う臣を引き連れた浪人の身で京都に昇る。自身の易処分が解けるように尽し、江戸にて居生活を送る中で徳川秀忠御伽衆に列せられて陸奥棚倉1万石に取り立てられ、大坂の陣で認められて柳川の大名に復活する。関ヶ原の戦いで西軍について易されて旧領の領に復帰したのは立花宗茂のみであり、まさに奇跡を起こした。

その後は、普段は江戸住まいを続けていたが、原の乱が起きると柳川勢を率いて参加し、立花宗茂ここにありを周囲に見せつけ、江戸にて76歳の大往生を遂げた。

お坊ちゃまなところもあったが基本スペックは質実剛健で義理堅く、清廉潔で裏表がく、功を誇る事もなく人の恨みも買わないと言う完璧超人であり、多くの武将に武士の見本として厚遇された。

また、立花宗茂よりもコーエーに厚遇されることに定評のある正妻立花誾千代立花ギン千代)との仲は、立花誾千代立花ギン千代)の「私は男だ」な性格等もあり上手くいかなかったが、柳川の大名に復帰した際は、世した立花誾千代立花ギン千代)をんでいる。

その他「立花宗茂」の詳細についてはWikipeidiaの該当記事参照の事。[外部]


(良い意味で)チート伝説


良い意味でチートな立花宗茂の温厚篤実な人間性を物語エピソードとして、彼本人が軍法についてった言葉が残っている。

特別に何流の軍法を使うわけではない。
常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、法に触れた者はその法によって対処する。
したがって戦に臨むとみな一命をなげうって戦してくれ、それがみな拙者の功になる。
その他によい方法はない。

このように、臣を一兵卒まで大事にするを旨とするとった。

世間的には「もっと評価されるべき」武将なはずなのだが認知度は高くない。理由としてはまず、戦国時代の後半から登場する事が挙げられる。また多大な功績を挙げても、その時だけ更に上の功績を挙げる輩(島津義弘とか島津義弘とか島津義弘とか)がいた。そして実高橋紹運や養立花道雪も個性的なエピソードと明確なアピールポイントを持ち、さらに立花誾千代立花ギン千代)は、自分以上にコーエーに優遇されている。

しかし、そんな立花宗茂には「もうそれでいいよ」といいたくなるような(良い意味でチート伝説にあふれている。


生まれた時からすでに(良い意味で)チート


立花宗茂は、実松永久秀を飲ませたい武将ランキングの西の1位たる高橋紹運であり、この武士の鑑の様なDNAを受け継いだ立花宗茂は、生まれつき頑健で、よくを飲む子であったといわれている。を育てろ」と言ったとか言わなかったとか

まだ一桁の年齢の段階ですでに聡明で弁舌に勝る子供であったとされ、八歳の時に行った見世物の最中に、群集の中で争いが起きて死傷者がでてまわりが大騒ぎする中でも然と供の者に

今日の見せ物はこれで終ったのか

と言ってのけた。々に騒ぎの場が立ち去らんとしてこの場が危険であると進言する供の者に対しては、

お前たちが慌てるとはおかしなことだ。
々は、あの論争の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかって来るようなことがあろうか。
見せ物がまだ終ってないのに、どうして立ち去る必要があるのか

笑顔で答え、実際に騒ぎはすぐに静まって見世物が再開したといわれている。なにこの「お持ち帰り」したくなるお子様ぶり。

また、高橋紹運が、重罪を犯した臣を別の臣に命じてらせた際に、すれ違いざまに後ろから一り殺した事を「後ろからるのは簡単だし、卑怯者の所業だよね」と罵る者がいた。それに対し幼き立花宗茂は、

突然行きったのであれば、前後を問わず、その場で討ち止めてこそ手柄だ。
敵を討つのに容易なところを避けて、討ちにくい方法で切りかかって、仕損じたら何とする。
お前たちのような者は、私が成長した後には、軍利の邪魔になるであろう。

武士正論を展開して黙らせたと言われている。立花宗茂10歳の時のことである。すいませんこの子お持ち帰りしたいんですが。


幼年にて器量抜群


ある時、まだまだ幼い立花宗茂に対して猛が襲いかかってきた。

すでに武士の基本スペックを備えていた立花宗茂は、恐れることなくを抜き、すれ違いざまに猛を強くいて退散させた。

後日、高橋紹運が話を聞き、猛り殺さなかった理由を問いただしたところ、立花宗茂は、

というものは敵を切るものと承っております

と言い、己の子がまだ幼いのに武士の器量を兼ね備えている事に嬉し涙を流した高橋紹運は、

が子ながら器量雄才ともに抜群だ。
しかし成長して後、自分の才を誇るようなことをしてはならぬ

と釘をさすことも忘れなかったといわれている。まさにこのあっての息子である。


雷神の養子へ


高橋紹運と共に大友のツートップとして牽引する雷神立花道雪には男子の後継者がくて困っていた。

ある時、高橋紹運息子が遊びに来た時、試しに罪人同士でりあいを行わせて、一人があいの後に死に、残った一人も手打ちにした際に、それを見ていた高橋紹運息子の胸に手をいれてみたところ、動悸は一定で落ち着いていた。この事から勇将の資質を察した立花道雪は、理を言って高橋紹運より息子を譲りうけた。

この息子は後の立花宗茂である。

雷神のむす・・・めの立花千代立花ギン千代)をに迎えて立花に養子入りした立花宗茂は、立花道雪流の教育をうけ、

九歳のころ、立花道雪)と一緒に飯を食った折、をむしって食ったところ、武士の作法を知らぬ。女のようなやり方では役に立たぬとひどく叱られた。

とか、立花道雪と共に山を歩いていた歳に、

の毛毬が足にささったので、抜いてくれと言ったら、由布惟信が走り寄ってきて、抜くどころか、逆に押し込んでしまった。
あまりに痛かったが立花道雪)が見ていたので悲鳴を上げるわけにはいかなかった。

といったシゴキにも似た精鍛錬の甲斐もあって、後の西無双は形作られていった。 


初陣で戦功


秋月種実との嘉麻・穂波の戦いで初陣を飾った立花宗茂は、嘉穂八木山石坂秋月勢を迎え討ち、150の兵を率いて戦って敵将の首をとる戦功を挙げ、戦闘全体においても初陣の武将とは思えない冷静沈着にして勇絶倫な揮を見せた。

その後も参加した戦に全て勝利し、立花道雪の出後の留守を狙って攻めてきた秋月種実の軍8000を夜襲や火計で撃破した。この事から、立花道雪は、

性の質を備えており、末は立な武将となるであろう。
長生きしてその姿を見たいものだ。

すでに70歳を越えた身ながら大絶賛した。 


実父譲りの義理堅さ


である大友の戦いに破れて勢を衰退させ、代わりに北上してきた九州最強軍団島津に対して、実高橋紹運は763兵士と共に岩屋に籠もり、島津からの降伏勧告を受け入れずに玉砕するまで戦って時間を稼いだ。

そしてついに立花宗茂の元へと島津の軍勢が迫ってきた。

先に立花宗茂のが守る宝満を調略にて開させた島津軍は、立花宗茂が籠もる立花山城にも、高橋紹運の様に死を選ばずに降伏する旨を勧告したのだが、立花宗茂は、

弔い合戦は望むところだ。
潔く討ち死にする覚悟なれば、々にこのを攻めるがよかろう。
で会釈いたす。

と、実譲りの信義を重んじる姿勢を見せて勇戦し、大友宗麟豊臣秀吉九州征伐軍を上陸させるまでの時間を稼ぐ事に成功し、結果、島津軍は撤退した。 


西国無双


豊臣秀吉九州征伐軍来襲により、島津軍は立花宗茂が籠もる立花山城の包囲を解いて撤退を始めた。

まだまだ20代前半と若い立花宗茂は、豊臣秀吉を迎え入れるよりも先に、撤退する島津軍を追撃して散々に打ち破り、島津方となっていた高鳥居や、宝満、そして生まれ育った岩屋を三日あまりで奪還する電撃戦を展開し、筑前に展開していた島津軍は掃討された。

この武勇と戦功に対して、豊臣秀吉は、

にかくれなき本多八(本多忠勝)に、西無双の立花宗茂

と絶賛し、岩屋で玉砕した高橋紹運の遺志を継いで持ちこたえた事から、

その忠義は鎮西一、またその剛勇も鎮西一

豊臣秀吉から評価されて、大友義統の臣から、豊臣秀吉の直臣にして筑後柳川の大名に取り立てられた。


父の面影


豊臣秀吉から

東西無双の者

と賞賛された立花宗茂が小田原征伐に参加した際に、立花宗茂のに東無双本多忠勝が訪ねてきた。

生涯参加した戦で一度もダメージを追わなかった事に定評のある本多忠勝の来訪を喜んだ立花宗茂は、

後学の為に、是非お話をお聞かせ願いたい。

深夜までを酌み交わした。

そう・・・本多忠勝は・・・立花宗茂の実で一身是義理なる高橋紹運と同い年だった。

徳川家康の忠臣・本多忠勝に、立花宗茂はの面影を見たのかもしれない・・・ 


元主君に遠慮


大友義統の臣から豊臣秀吉の直臣に取り立てられた立花宗茂は、その後、肥後に入った佐々成政人一に悩まされている際に補給戦の確保を的に派遣されたのだが、この時の立花宗茂は、1日で、

と言う途方もい活躍をして見せた事から、豊臣秀吉が従四位従に叙任しようとした。

しかし立花宗茂は、

ありがたき仰せなれど、筋の大友義統が従五位であるからには、それをえるのは筋ではございませぬ。

と言って功を誇らぬ実さを見せて叙任を断ったといわれている。

その後、しばらくしてから従四位に叙任された後、大正4年に従三位を贈られている。


生一本の勇士


の役に参加して渡した際は、小早川隆景揮下に入り、

立花の三千は他の一万に匹敵する。

との小早川隆景の判断から、立花宗茂の3000の兵が先となった。

蹄館の戦いでは、立花直次と共に奮戦して小早川隆景の言葉が偽りでい事を明した。15万の敵軍に3千の兵で突撃して散々に打ち破ったり、夜襲や伏兵で蹴散らす等、武勇と智略を駆使しての如き活躍を繰り広げ、

生一本の勇士

と高い評価を受けた。

また朝鮮に出兵時に、黒田長政臣・井口兵助が立花宗茂のにやってきた。井口が言うには、伏兵によって敵を討ち果たした事から朱を得るに十分だとして、黒田長政勇者である朱許可を願いでたが許可されなかったので飛び出してきたとのこと。朱を許されるには首を七つ取ることが条件であり、この日井口が取った首は五つだった。これを聞いて、立花宗茂は、

他の武功があるからと強いて朱柄を欲しがるのは、かえって弱そうに聞こえる。
その方は今後絶対に首を七つ取ることはできないのか。

武士本質を知る者であれば発奮せざるを得ない言葉で諭して黒田へと帰参させた。加えて黒田長政に対して井口兵助が首七つをとったら必ず朱を与えるように口添えした。その後、井口兵助は事に首七つをとって朱を得たといわれている。


太閤の恩に報いる



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最終更新日: 16/10/09 06:49
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