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織田信忠


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織田信忠とは、戦国時代戦国武将・戦国大名の一人。

三英傑の一人織田信長長男であり、後継者とされていた人物である。


概要



信長の子


織田信長長男として1555年または1557年に誕生。幼名は奇妙丸。元後は勘九郎信重、のち信忠める。

は諸説あり、確認できる史料では「久慶珠」とされているが、これがなのかはっきりしない。生駒氏(生駒吉)から、美濃系の女性濃姫の縁者または女中)、はては濃姫本人とまで言われている。生駒氏である場合は織田信雄と同兄弟となるが、生駒氏の葬儀において茶筅丸(織田信雄の幼名)が喪を務めているので、織田信雄とは異兄弟であった可性が高いとも(信忠の実が生駒氏なら、生駒氏の葬儀喪信忠がやる可性が大)。

1572年または1573年に元。ここで勘九郎信重と名乗る。織田氏は代々織田信定、織田信秀織田信長と「三郎」を名乗っているが、信重は「勘九郎」であった。なおかつて美濃を治めた斎藤道三の系統は「九郎」「新九郎」と「九郎」を名乗っており、信重自身も濃姫の養子になった逸話があり、斎藤家とは強い縁があったと摘されている。なおのちに側近となる斎藤利治は斎藤道三息子である。

1573年、浅井長政朝倉との戦いで初陣を果たし、前線基地である虎御前山砦を守備した。同年、織田信長は両氏を滅ぼした。1574年は東濃における武田勝頼との戦い、伊勢における長島一向一に従軍。

1575年、信重は河尻秀隆らを率い、武田勝頼に奪われた東濃を奪い返すべく出岩村武田重臣である秋山虎繁(秋山信友)を攻める。秋山夜襲を仕掛けるもこれを見抜かれて撃退され、降伏。織田信長の意向により、秋山信友、そしてその妻である遠山夫人を処刑。遠山夫人は信長叔母であった。

1575年11月織田信重こと織田信忠は尾美濃である信長から譲られ、また織田信長の隠居により織田督を継承、織田となった。実権はまだまだ信長が握っていたが、これで便宜上信忠織田となる。織田信長安土城、織田信忠が岐阜という二頭体制がここに始まった。


織田家新体制


織田信忠が織田となったのち、織田では新体制が続々と出来上がっていた。

それにはいくつかのきっかけがある。まず、1576年5月織田重臣であった原田直政石山本願寺勢と戦い敗死。天王寺砦に織田軍武将であった明智光秀らが孤立援で取り残された。この戦いで織田信長はわずか3000で15000もの大軍を退ける奮戦を見せる。しかし、敵のによって信長本人も負傷するに至った。信長公記では「薄手」とするも「照覧」とあり、薄氷の勝利であったといえる。

次に1577年11月織田信長能登畠山氏を救援するため軍を編成。柴田勝家を総大将とし、北陸衆や羽柴秀吉丹羽長秀らも加えた大掛かりな布畠山氏を救援させる。これには畠山氏を攻略せんとす上杉謙信への牽制もあった。しかし、作戦立案を巡って秀吉・勝が対立。羽柴秀吉は独断で離し、残った武将は柴田勝家を中心に的達成しようとするも、上杉謙信によって敗退させられる。後世様々な説や史料研究の対となる、世にいう「手取の戦い」である。

この時期の織田は、足利義昭によって編成された、俗に言う信長包囲網により多方面に敵を抱える状況であった。上杉謙信毛利輝元石山本願寺、武田勝頼北条氏政らが協調して信長に当たるよう、足利義昭は策を巡らしていたわけである。一方織田は、当である織田信長が率いた織田軍は精強でありかつての狭間、根坂、天王寺のような劣勢であっても跳ね返せる強な軍団を率いることができたものの、信長のいない戦場では臣の不協和音や独断専行などを招き、思うような戦果をあげられない状況であった。すなわち「信長不在でありながら、まるでそこに信長がいるような一元的軍隊」がめられたわけである。


栄華


1577年、織田信忠は雑賀討伐及び松永久秀の討伐に出。配下に明智光秀羽柴秀吉筒井順慶らを置いた大軍であった。結果雑賀衆は降伏、松永久秀は自するなど一定の戦果を得ている。しかし雑賀衆はその後も離合集散を繰り返し、結局安定するのは豊臣秀吉の紀州征伐までかかった。

1578年、織田信忠は明智光秀丹羽長秀滝川一益、羽柴秀吉らを加えた7万もの大軍で中国へ向かう。中国地方では毛利輝元が10万の軍を擁し、吉川元春小早川隆景らに分け与え展開していた。結局、着状態に陥ったため、織田信長はさらなる援軍を送る前に戦略的である尼子氏の救援を諦め撤退させた。同時期、離反した別所長治の支である攻略。この際、実織田信孝足軽と功を競い、織田信忠がそれを諌めたという逸話が残る。後の武田勝頼征伐時の信忠の行動を考えるとお前が言うなと言いたいところである。以後中国征伐は織田信忠、ついで羽柴秀吉羽柴秀勝を擁する)に委ねられる。

1579年、謀叛を起こした荒木村重の討伐に出。再び明智光秀ら畿内衆を率いての大軍であった。途中荒木村重夜襲により信忠を急襲されるも、辛くも撃退。続く同年4月に再度荒木村重が急襲したが再び織田信忠らによって撃退される。荒木村重は再起と毛利輝元の救援を見込んで尼崎、ついでへと逃亡。池田恒興池田輝政らに落とされると毛利領に落ち延びた。

1580年、追放された佐久間信盛安藤守就の後任としてその旧領を統治。

1581年、高天神攻防戦において徳川家康武田臣、岡部元信の争いに後詰として清に在正御えでは序列1位で八十騎を率いる。賀征伐で津田信澄とともに信長のもと戦後処理。

1582年、武田勝頼征伐に出滝川一益、森長可河尻秀隆美濃衆を率いる。高遠では信忠自ら奮戦して柵を破り塀の上に上がってに乗り込み攻略する。勝頼率いる武田軍は組織的抵抗がほとんどできないまま3月11日に自。これにより甲斐武田は滅亡、没落することになる。織田信長々と甲府に入り、論功行賞で織田信忠をべた褒めして「下の儀も御与奪」とまで褒める。この後恵寺を焼き討ちして織田信長に苦笑いされたりもしたが、ともかく織田信長の後継者として確かな功績を立て続け、名や信望を得ており、織田下揺るぎなしと思われていたのは確かである。



しかし、1582年5月27日、運命が大きく変わる出来事が起こる。この日、森蘭丸成利)が口上を伝え、中国御出する織田信長を迎えるべく、見物を取りやめるよう伝えた。当時、徳川家康織田信長に拝謁すべく上しており、信長の勧めもあって見物を行っていたのである。結果、徳川家康の案内役は長谷川秀一に交代し、織田信忠は信長の待ち受けるへ向かった。歴史Ifはないが、果たしてそのまま見物を続けていたら信忠の命運はどうなっていただろうか。今となっては知る由もない。

5月29日夕刻、織田信長が上信忠の上日時はわかっていないが、6月1日公家衆が歓待を試みるも「見参」はなかったと史料には伝わっている。そして6月1日深夜、丹波亀山にて明智光秀が「逆心を企て」「下のとなるべき調儀を究め」(信長公記より)決意をし、織田信長を自させるために、本寺へと兵を進める。中疑わしい者を見聞し、農民であろうと殺させた速かつ慎重な下克上であった。

6月2日未明、ついに本能寺の変が起こる。本寺やその付近の寺院は堅な要塞として造られていたものの、兵数に差がありすぎるこの状況ではどうすることもできなかった。明智軍は13000、先鋒3000、織田軍は500もいなかったと言われている。また広範囲に渡って宿泊していたこともあり、集まるのに時間がかかった。

織田信忠は妙覚寺で明智軍襲撃の報を受け、信長も既に知っていたと言われている。その上で信忠仁親王を宮中へ逃がし、二条で篭って奮戦した。寄せ手を3度撃退し、信忠自らを振るい敵を討ち取ったと言われる。が、いかんせん多勢に勢であり、結局信忠も自した。この際瀕死臣に「来世で恩賞を授け報いよう」といい、臣が感したという話が伝わっている。遺骸はである織田信長ともども見つからず、これが生存説に繋がり、少なくとも山崎合戦で明智光秀に対して不利に繋がったようである。

織田信忠が二条から脱出していれば、というのが歴史IFとしてよく伝えられる。しかし、当時のは周囲を山に囲まれており、しかもの周囲は明智領で、一開けた南側からは明智軍がやってきており、結局難しいのではないかとも言われる。また較対としてよく言われる二条から脱出に成功した人でなしの織田有楽斎であるが、彼は変当時に織田信忠のもとにいなかったとも言われており、山内康豊同様に中に宿をとっていたため難を逃れたという説がある。


織田信忠の縁者・与力・家臣



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最終更新日: 17/02/03 21:44
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