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一般的には空母の部隊である「第一航空戦隊」などが有名だが、水上機母艦による「第十一航空戦隊」や海軍の基地航空隊である「第二十一航空戦隊」、訓練隊の「第五十航空戦隊」、輸送機部隊の「第一〇一航空戦隊」なども存在した。
とはいえ基地航空隊の航空戦隊などは、太平洋戦争の開戦直前や戦中に立てられた部隊であり、「航空戦隊」といえば長年にわたって空母の部隊を指す呼称であった。
この項では第一航空戦隊を中心に、日本海軍における空母の運用史を観察する。
日本海軍が初めて【航空機を積んだ艦艇から、航空機を発進させて作戦を行なう】という運用をした艦艇は、第一次世界大戦での青島(ドイツ植民地)攻略戦における「若宮」(若宮丸)である。
「若宮」はもともと、日露戦争の際にロシア向けの物資を積んでいて日本海軍に鹵獲された「レシントン」という英国製の輸送船で、その後「若宮丸」と名を改めて、海軍が輸送船として使っていた。大正2年(1913年)から航空機(水上機)用設備を設置する工事を行い、その年の秋の演習より水上機を運用。最終的に航空設備を設置し終えた大正3年(1914年)8月23日、ドイツへの宣戦布告と同時に中国へ出撃する。
搭載の機体はモーリス・ファルマン式水上機(モ式イ号。本来は陸上機の車輪を、水上機用フロートに付け替えたもの)が4機。大型1機と小型1機は成形のまま、小型2機は分解して積んでいた。発着艦については、もちろん射出機(カタパルト)など存在しない時代なので、発艦は機体をデリックで海面におろして自力発進させ、着艦も艦のそばに着水した機体をデリックで釣り上げて回収する、というものだった。
大正3年9月4日、「若宮丸」は青島のドイツ軍基地に対して初めて航空機を発進させる(天候不良のため成果なし)。翌9月5日、「若宮丸」を発進した大型の三座モ式機は青島基地の偵察に成功。ドイツ巡洋艦「エムデン」の不在を確認するとともに、基地に対して爆弾を投下する(日本海軍史上初の航空攻撃)。
9月16日、「若宮丸」航空隊は膠州湾内のドイツ軍艦艇に対して爆弾投下。一発が敷設艇に命中して撃沈となり、海軍史上初の航空攻撃による撃沈戦果を挙げる。しかし9月30日、「若宮丸」がドイツ軍の敷設機雷によって浸水・座礁。艦は修理のため日本へ退却し、機体は戦地に残って海岸での発進・着水による運用を続けた。
大正4年(1915年)6月、「若宮丸」は二等海防艦に類別されて軍艦「若宮」へ改名。
大正9年(1920年)4月、新設の艦種「航空母艦」(「水上機母艦」はまだ無い)に類別される。
大正9年6月、「若宮」の前部甲板に滑走台を取り付け、英国製のソッピース・パップ戦闘機による日本海軍史上初の艦艇甲板からの発艦実験を挙行、成功する(搭乗の桑原虎雄大尉は、大正11年の戦艦「山城」主砲塔上からの発艦実験にも成功)。
大正15年(1926年)の編成を最後に、「若宮」は連合艦隊の所属を外れて佐世保鎮守府警備艦となり、昭和7年(1932年)までに除籍・解体された。
「鳳翔」の影に隠れる事が多いが、「若宮」もまた、日本海軍空母機動部隊の先駆者的存在であった。
「若宮」と同様に輸送船から水上機母艦へ改造された艦に「高崎」があったが、こちらは年一回の大演習で水上機を運用するのみでほとんどの期間を輸送任務で過ごし、「航空母艦」への類別もされなかった。
大正14年には航空関係設備を撤去して輸送船に戻され、昭和に入ると陸軍へ譲渡された。
「鳳翔」は【空母として建造されて完成した、世界初の軍艦】である。
「鳳翔」以前、イギリス海軍が巡洋艦「フューリアス」の前甲板と後甲板から砲塔を撤去して平甲板化(艦橋が居座ったままで、前甲板と後甲板は分断された状態)したのを初めとして、建造中の商船から改造した「アーガス」(英)、石炭補給艦から改造した「ラングレー」(米)が全通甲板形式の航空母艦として存在していた。
これらは他艦種からの改造であり、最初から全通甲板式の空母として登場したのは「鳳翔」が最初となる。同時期に、イギリスでは全通甲板空母「ハーミーズ」を建造中(1924年2月に完成)だったが、「鳳翔」が先に完成した(1922年12月27日)。
「鳳翔」の就役に先立って、三菱航空機が一〇式艦上戦闘機を開発。大正12年(1923年)2月、懸賞金一万円をかけて行われた「鳳翔」初の着艦実験に、三菱のテストパイロット・ジョルダン大尉(英国)が挑戦して成功。翌3月、日本海軍の吉良俊一大尉が日本人として初めての着艦に挑んで成功する(海軍大臣賞状と金杯を授与)。
なお、吉良大尉は二回目の着艦では失敗して、機体もろとも飛行甲板から転落。救助後、すぐに三回目の着艦に挑んだ。「鳳翔」は海軍初の着艦に成功した空母であると同時に、最初の着艦失敗事故を起こした空母でもある。
何分にも「鳳翔」は、日本海軍が初めて手にした全通甲板空母であり、運用方法は暗中模索が続いた。建造当初、艦の右前方に設置されていた艦橋は、発着艦の障害物であり危険だとしてすぐに撤去され、飛行甲板の前側につけられていた傾斜も無意味であるとして、改装時に真っ直ぐに改められた。
そして何より、空母への発着艦自体が危険行為であり、事故が頻発した。大正15年(1926年)1月、有明海での訓練中に起きた一三式艦戦の転落事故では、救助の駆逐艦がいったんは機体を釣り上げたものの、ワイヤーが切れてしまって機体水没。パイロットが殉職する。
この訓練は、戦艦「長門」をはじめとする第一艦隊の訓練の一環として行われていたが、事故当時他の艦艇はそれぞれの訓練作業に勤しんでおり、「鳳翔」のそばには警戒の駆逐艦一隻がついているだけだった。「鳳翔」の事故報告書は、空母の訓練中は艦隊として注視するとともに、事故救助などの補助作業にあたる専属駆逐艦を空母につけるよう求めている。
【最初期の第一航空戦隊】
編成時期 | 空母 | 随伴 | |
---|---|---|---|
昭和3年度(4月~12月) | 赤城 鳳翔 | 第六駆逐隊 | 梅 楠 |
昭和4年度(4月~12月) | 第四駆逐隊 | 羽風 秋風 帆風 太刀風 | |
昭和5年度 | 加賀 鳳翔 | 第一駆逐隊 | 野風 波風 沼風 神風 |
昭和6年度 | 赤城 鳳翔 | 第二駆逐隊 | 峯風 澤風 矢風 沖風 |
大正11年(1922年)に締結されたワシントン海軍軍縮条約の結果、日本海軍が編成を目指した「八八艦隊」計画は頓挫。「長門」「陸奥」以外の八八艦隊の戦艦は廃棄対象となり、このうち巡洋戦艦「天城」と「赤城」は空母への転用が認められ、改造工事が行われる。
ところが大正12年(1923年)9月の関東大震災により、横須賀で工事中だった「天城」が被災して修復不能となったため、標的艦として処分予定だった戦艦「加賀」が、代わりに空母へ改造されることになる。
昭和2年(1927年)3月、「赤城」就役。翌昭和3年(1928年)4月、「鳳翔」と、そのトンボ釣りとなっていた二等駆逐艦「梅」「楠」と合同し、初めて空母による戦隊【第一航空戦隊】が編成される。搭載機数で三倍、排水量で四倍の格差がある軍艦による戦隊だったが、ともかくもここから日本空母は新たな歴史をスタートさせる。
昭和3年3月に「加賀」が就役してからは、大型の「赤城」と「加賀」を一年おきに交代で運用し、「鳳翔」がサポートする体制を取るようになる。
初代の一航戦司令官となった高橋三吉少将は、戦艦「扶桑」艦長や連合艦隊参謀長を務めた、当時ごくふつうの大艦巨砲主義者で、戦隊司令官の椅子がまわってきたのも年功序列によるものであり、それを承知の高橋は最初就任を断ったが、空母の研究をすることが戦艦の活用に役立つからと説得されて渋々引き受けた。
そして「赤城」艦長・山本五十六のサポートを受けて務めた一年間の司令官の任期で、高橋はすっかり航空戦力の可能性に取りつかれ、この約10年後に連合艦隊司令長官へ就任したころ、軍縮条約の破棄を受けて建造される事になっていた新型戦艦(大和型戦艦)の計画について「新戦艦を造るより、もっと航空戦力の充実に力を入れるべきではないか。戦艦は考えなおしてはどうか」という意見を言い、軍令部の担当者を仰天させている。
この時期でも依然として事故は多く、昭和4年4月、東シナ海で訓練中の一航戦の艦攻隊(一三式艦攻)が空母へ帰還しようとしたところ、母艦との誘導交信を取り損なったのと急激な天候悪化で方位を見失い、最後は燃料切れで海に不時着。7機の乗員は付近を通りかかった漁船に救助されたが、2機の乗員(4名)は行方不明。後日、済州島に遺体が打ち上げられる惨事となった。
事故原因のひとつに、航空機の操縦・航法維持・戦闘行動を行なうパイロットへの過剰負担が挙げられたことから、この後、艦攻については航法士を増員して乗員3名とするようになった。
編成時期 | 空母 | 随伴 | |
---|---|---|---|
昭和7年度 | 加賀 鳳翔 | 第二駆逐隊 | 峯風 澤風 矢風 沖風 |
昭和8年度 | |||
昭和9年度 | 赤城 龍驤 |
昭和7年(1932年)1月、第一次上海事変が勃発。「加賀」と「鳳翔」で構成されていた一航戦は、臨時編成の第三艦隊に加わって出動。1月末から上海と周辺軍事拠点への航空攻撃を開始する。艦載機としては「若宮」以来18年ぶり、全通甲板の航空母艦としてはもちろん史上初の軍事行動である。
上海事変では、
という、様々の“ 史上初 ”が記録された。第三艦隊の野村吉三郎長官は、「加賀」機の戦果に感状を与えた。
昭和7年7月に提出された一航戦の報告書では、昭和3年以来4年間の航空戦隊の運用について種々の提言を行っているが、その中で戦隊の駆逐艦について、平時・戦時の空母支援作業(トンボ釣り)の役目が重大であるとともに、空母に搭載している対空火器(高角砲・機銃)があまりにも貧弱で用を成していないことから、対空火器を充実させた駆逐艦を空母の周囲に配置し、防御に万全を期することを述べている。
報告書は、この措置を空母だけでなく主力艦(戦艦)にも採ることを提言しており、逆に言えば、この時代から少なくとも空母の側では、戦艦すら艦上機によって撃破・撃沈出来るという自信を持っていたことがうかがえる。
この頃、海軍では着艦作業のための「着艦指導灯」(着艦誘導灯)の実用化に成功。昭和8年に「鳳翔」へ試験搭載されたのを最初に、以後の空母へ標準装備されていった。
米軍空母が着艦誘導灯を装備するのは太平洋戦争より更に後の時代で、戦中でも米空母は手旗信号によって着艦作業を行っていた。このため、空母への帰還が日没後となったマリアナ沖海戦(昭和19年)では着艦事故が相次ぎ、日本軍との戦闘より、この事故によって失われた機体のほうが多かったという。