ニコニコ大百科モバイル

7/2(月)よりスマホまたはPCでアクセスした場合、各デバイス向けのサイトへ自動で転送致します


落合博満


ヨミ: オチアイヒロミツ
掲示板をミル!
339カキコ!

落合博満(おちあいひろみつ)とは、ロッテオリオンズ中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ日本ハムファイターズで活躍した元プロ野球選手であり、2004年から2011年まで中日ドラゴンズを率いた元監督、元ゼネラルマネージャーGM)。

日本プロ野球史上三度三冠王を達成した大打者であり、また監督としても中日ドラゴンズ金時代を築いた名将である。

2011年野球殿入り。


現役時代


OB
落合博満
基本情報
日本
出身地 秋田県若美町
生年 1953年12月9日
身長
体重
178cm
80kg
選手情報
投球・打撃 右投右打
守備位置 一塁手三塁手二塁手
プロ入り 1978年ドラフト3位
引退 1998年
殿堂入り 2011年
経歴
選手歴 監督コーチ
プロ野球選手テンプレート

高校時代はほとんど練習に参加せず、映画ばかり見ながら、試合のときだけ野球部に加わっていた。東洋大学でも体育会系の慣習に染めずすぐに退部、大学中退。その後プロウラーしたが、プロテストに向かう途中でスピード違反で捕まり受験料を罰として取られ、プロテストを受けられなくなり挫折。社会人東芝府中に加わり、ここで頭を現す。

1978年ロッテオリオンズドラフト3位で名され入団。プロ入り時、既に25歳だった。背番号は6で、巨人時代の1994年日本ハム時代は背番号6を他の選手(それぞれ篠塚和典田中幸雄)が使用していたため、それぞれ60、3を付けていた時期がある以外は現役のほぼ全期間を通して背番号6を付け続け、落合の代名詞ともなっている。

当時の監督だった山内一弘の打撃導が合わず、流でバッティングを磨き上げたことが、後に「オレ流」と呼ばれるようになった由来。当時、そのバッティグフォームを金田正一に面と向かって酷評されたことで金田を嫌っており、2000本安打を達成した際にも、金田が中心である名球会への入会を拒否している。

1980年シーズン後半にレギュラーを掴むと、1981年には打率.326首位打者を獲得。1982年には打率.325、32本塁打99打点で史上最年少で三冠王を獲得。ところが、どれも突出した数字ではかったため豊田に「三冠王レベルではない」と批判された落合は、1985年にそれを見返すかのように打率.36752本塁打146打点という驚異的な成績で再び三冠王いた。翌1986年三冠王を獲得、3度三冠王いたのは現在落合のみである。

しかし、「プロ野球選手の評価は」と言してきた落合の年俸の高騰が、当時のロッテ不人気ぶりによる経営状態とそぐわなくなり、また落合が絶大な信頼を寄せていた稲尾和久監督が解任されたこともあって、1986年シーズンオフに4対1という大トレードで中日ドラゴンズに移籍する(交換相手は牛島和彦上川二、平沼桑田茂)。この際、日本人選手として初めての年俸1億円プレイヤーとなった。中日移籍後も毎年のようにタイトル争いに絡み、2度の本塁打王・打点王にく。

1993年には導入されたばかりのFA制度を利用し、読売ジャイアンツに移籍。この落合の移籍によって、当時巨人一塁手だった駒田徳広は出番を奪われ横浜FA移籍する。巨人に移籍した時は既に40歳をえていながらも、長嶋茂雄政権初期の巨人軸打者として活躍し、1995年2000本安打を達成(前述の通り名球会入りは拒否)。1996年西武からFAで移籍してきた清原和博の入団に伴い出番をめて自由契約ヤクルトスワローズ日本ハムファイターズからオファーが来たが、額を提示してきた日本ハムに入団する。1997年は前年に死球を受けた左手の怪の影もあり、打率.262、3本塁打、43打点に終わり、翌1998年は開幕こそ4番で起用されるも、この年の日本ハムは「ビッグバン打線」の元年ともいえる年であり、シーズンが進むにつれスタメンから漏れ代打起用が増えていった。戦意を失った落合は、10月7日ロッテ戦で5回に代打出場したのを最後に、自由契約という形で現役を引退した。

生涯通算打率.311日本人右打者の歴代最高打率。鈍足の右打者でありながら圧倒的な打撃成績を残し続けたことで、「プロ野球史上最高の右打者」に挙げられることも多い。

ポジション一塁手三塁手。二塁を守っていたこともある。歴代全プロ野球選手ベストナインを選出する際には、一塁は王貞治、三塁は長嶋茂雄がいるため、本職ではない二塁手として選出される場合が多い。


中日監督時代


引退後は解説者を務めたのち、2003年オフ中日監督に就任。それまでコーチの経験がかったため本人は断ろうとしたが、妻に押しきられて就任を受諾した。

就任直後「補強を凍結し、現有戦を10底上げして日本一になる」という約を掲げる(この年行った補強は、現役引退のはずがゴタゴタで巨人を退団した川相昌弘と、横浜を退団したドミンゴ・グスマン広島を戦外になった筒井正也の獲得のみ)。また「一芸に秀でた選手を使う」という方針も掲げた。それまで3年間一軍登板かった川崎憲次郎を開幕投手に抜するなど、全ての選手を横一線で競争させることでチームを刺セ・リーグを制覇し、同じく1年伊東勤率いる西武ライオンズとの日本シリーズに挑むが3勝4敗で敗れた。

2005年横浜からタイロン・ウッズを獲得して連覇を狙うが、ウッズが乱闘で出場停止中に始まった交流戦で失速。後半に阪神を猛追するも逃げ切られ2位に終わる。

2006年落合自身「この年が最強」と言い切るチームを作り上げ、阪神の猛追を振り切ってリーグ制覇を果たすも、日本シリーズ日本ハムの勢いの前に屈した。

2007年シーズン2位に終わるも、クライマックスシリーズを全勝で勝ち上がり日本シリーズへ。前年敗れた日本ハムリベンジを果たし、53年ぶりの日本一へ導く。第5戦での山井大介の降については物議を醸した(後述)。中日の選手・監督として初の正太郎賞を受賞。

2008年は波に乗りきれず3位。2009年巨人に大きく引き離され、3位とも離れた2位独走に終わる。

2010年はほとんど補強を行わず迎え、前半戦は苦戦したが、投手が5試合連続封を達成するなど巨人阪神が失速した場からスパートをかけ、貧打を投手カバーし優勝。CS前の「全選手登録消」が話題を呼ぶ。CSでも巨人を破り2007年に果たせなかった全優勝を狙ったが、日本シリーズではロッテと死闘の末2勝4敗1分で敗れた。

2011年統一球の影からか、前年以上の貧打に陥り前半戦から大苦戦。8月の時点でも一時は5位に沈むなど、Aクラス入りすら危うい状況であった。しかし9月22日、首位ヤクルトとの直接対決を前に任期満了による落合退任が突然発表されると、チームは逆に奮起し猛な追い上げを見せ、ヤクルトを逆転。最大10ゲーム差をひっくり返し、球団史上初の連覇を成し遂げた。チーム打率チーム総得点とも12球団最下位での優勝はプロ野球史上初の記録。最後の標であるリーグ優勝からの全制覇をしてソフトバンクとの日本シリーズに挑み、圧倒的不利の下評の中3勝3敗の逆王手まで持ち込んだが、最終戦に敗れ、悲願の全制覇はならなかった。

在任期間の成績は優勝→2位→優勝→2位日本一)→3位→2位→優勝→優勝(連覇)と、歴代の中日監督の中でも最長政権となり、最高の成績を残した。中日球団の70年以上の歴史の中で、優勝9回のうち4回が落合政権である。
8年間全てAクラス入り(しかも3位は一度だけ)、クライマックスシリーズファイナルステージ皆勤賞一、リーグ優勝からの日本一だけは果たせなかったものの、名将の称号を確かなものにしてグラウンドを去った。


GM時代以降


2013年オフ中日ドラゴンズ初のゼネラルマネージャーに就任。同時に選手兼任監督に就任した谷繁元信とともに、12年ぶりのBクラスに転落したチームの再建を任されることになった。

2年前に半ば追い出されるように中日を去った落合だが、落合の後を継いだ高木守道監督率いる中日は、2012年こそ2位を確保したものの、2013年は4位に転落。落合解任の理由に観客動員の低下を持ち上げ、首中日OBで固めファンサービスの強化を謳ったが、逆にますます観客動員は低迷した。このため落合解任を導した坂井球団社長を失い、監督時代から落合の理解者であった白井オーナーの発言が増したというのが落合GM就任の背景のようである。

しかし、Bクラスから抜け出すことはできず、2016年に至っては20年ぶりの最下位となる結果を喫し、2017年1月契約了をもって退任した。
現在野球解説者として活動する。


人物・戦術


選手時代は生活の全てを野球げており、その尋常でない練習量に関する逸話には事欠かない。ただ本人は努を人に見せることを嫌い、カメラの前でそういった姿を見せることはほとんどかった。また前述の通り、プロとして年俸での評価を何よりも重視した姿勢を見せ、何かと物議を醸した。

また、先述の通りプロ入り時から一時期の例外を除いて背番号6をつけ続けていた。監督期も背番号は66、和歌山県太地町には落合の記念館兼別荘の形が6形、フレームに六と入った眼鏡など、6へのこだわりは強い。

監督としては「勝利こそ最大のファンサービス」という立場をとり、勝てる試合は確実に勝ちにいく采配にした。また選手の情報(特に故障など)を開しないなど底した情報管理の体制を取った。そのため、チーム状態が悪いように見えても、シーズンが進んでいくと気が付けば上位にいるということが多かった(2010年2011年はまさにその典である)。ただその分、明らかな捨て試合を作ることもあり、プロ野球の「業」としての側面を軽視しすぎである、という批判を受けることも多かった。

2007年日本シリーズにおいて、日本一のかかった第5戦、8回まで安打四球、パーフェクトを続けていた山井大介を降させ、守護岩瀬仁紀を送り出した采配は各方面で物議を醸した。岩瀬は9回を3人で抑え史上初の継投による完全試合を達成(ただし参考記録である)。この采配は「業」よりも「勝利」を優先する落合采配の徴ともいえる。


次へ»
最終更新日: 19/02/22 07:52
タグ検索 パソコン版を見る


[0]TOP
ニコニコ動画モバイル
運営元:ドワンゴ