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西郷隆盛


ヨミ: サイゴウタカモリ
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大久保「今のところはオマンサアを逮捕せよというだけのお申し付けでごわすが、どういう処分を仰せ付けられるか、わかりもはん。縄の恥を受けた上に切腹などということになるより、今の内に切腹した方がようごわす。しかし、オマンサアだけを死なせはしもはん。オマンサアのなさったことは、二人が相談の上で決めたことでごわす。罪があるなら、二人は同罪でごわす。一緒に死にもす。刺しちがえて死にもそ。わしは決心して、ここへお連れしたのでごわす(´・ω・`)

西郷「一蔵どん、さしちがえて死のうとは、いつものおはんに似合わん浅慮なことばじゃ。わしは仰付に先立ってを切ったりなんどはせんぞ。おはんは命といわれたが、命というものは人間にはわかりはせん。人間に出来ることは、命に素直に従うことだけじゃ。わしは照さんとのことがあって、考えに考え、やっとそれがわかった。自殺は小の恣意をもって命に限定をつけることじゃ。決してしてはならんのじゃ。その上、もしわしら二人がここで死んだら、下のことはどうなると思いなさる。々の志はが継いでくれもす。わしら二人がおらんければ、日本はどうなりもす。薩摩を導いて行きもす。今この時こそ、男がを食いしばって、こらえぬかねばならん時でごわすぞ(  ◕ω◕  )」

大久保「・・・・・・」

西郷「あるいは久はわしにたいして切腹の処分を考えておられるかも知れんが、わしが黙っておれば、それはわし一人ですむ。死ぬのはわし一人でよか。わしは決して余計なことは言いはせん。おはんはあとにのこって、わしが分まで働いて下され。そうしてもらえば、わしは思い残すところはなか(  ◕ω◕  )」

大久保「・・・済んもさん。考えが浅うごわした。わしにあるまじきことでごわした(´;ω;`)

(参考:音寺潮五郎『西郷隆盛』)

罪を受け入れた西郷は宿で謹慎し、久の命により4月11日鹿児島に送還されることになった。

西郷という重しがくなった過激派達は寺田屋に集結し、暴発寸前のところで久示で鎮圧に向かった奈良原八郎らによって同士討ちが起こる。寺田屋事件である。

知人同士が殺し合いをするというこの悲惨な事件で朝廷の信任を得た久はその余勢を駆り、勅使の大原重徳を伴って江戸に向かった。その頃西郷鹿児島山川港で処罰を待つ身だったが、寺田屋事件の末を聞くと、「何ちゅうことをしたのか。もう薩摩は勤王の二字を唱えることはできん」と憤った。

6月西郷鹿児島から徳之に流され、更に8月には遠で最も重い罪とされる流刑地・永良部へ流されることとなった。


二度目の遠島


文久2年(1862年)8月16日永良部に上陸した西郷は、ニ坪程度の四方が屋のような格子でできた小屋に閉じ込められた。

ざらしの狭い小屋での生活でだんだんと衰弱していく中、気の毒に思ったの村長の尽によって小屋から座敷へ移り住むことが認められ、奄美大島の時と同じように子供たちの教育を願う民が出てきたため塾を開いた。

役人やの有者達の中にも教えを乞う者が現れ、いつの間にか導者のような立場になっていた。


再び帰還


文久3年(1863年)、八月十八日の政変により長州士を中心とする尊王攘夷朝廷から排除され、その後合体による参預会議が発足し、薩摩標が達成されたかに見えたが、幕府の意を受けた徳川慶喜の謀略によって参預会議は解体に追い込まれ、薩摩は方向性を見失いかけていた。

このような状況の中、精忠組出身者から西郷待望論が浮上し、高崎太郎高崎五六の二人を介して久に奏上する。西郷を憎む久は渋ったが、結局「「左右みな(西郷を)賢なりというか。しからば愚昧の久独りこれを遮るは論に非ず。太守・忠義)に伺いを立てよ。良しと仰せられるなら、わしも異存はない」と容認した。

元治元年(1864年)2月22日、精忠組の吉井幸輔と実西郷(従)が永良部西郷を迎えに行き、28日、約1年半ぶりに鹿児島山川港に上陸。3月14日に上して大久保と久に面会し御軍賦役(軍官)に任命される。

この時から、自らに与えられた命を全うするための西郷の本格的な活動が始まった。


禁門の変


御軍賦役に任命された西郷は、政局に介入しすぎたため攘夷、佐幕双方から睨まれることになった薩摩の方針を一歩後退させて、「朝廷慮にのみ従う」という趣旨を表明して状況を見極めることにした。

前年の八月十八日の政変において連携した佐幕会津とはこれ以上付きあう必要はないだろうと判断し、以後疎遠となっていった。また、この頃長州の動向を探るため、中村半次郎(野利)を長州派遣している。

6月4日池田屋で新選組と攘夷志士との間で乱闘事件が起こったことをきっかけに、長州から軍勢が京都兵された。名は「長州冤罪に訴える」ということだったが、孝明天皇は「絶対に許さないよ」と拒否。長州側が「これは慮ではなく会津の謀略だ。は騙されているのだ」とヤンデレぶりを発揮して交渉が泥沼化して行く中、西郷は「これは会津長州の私闘であるから、薩摩は手を出さず中立を守る」という立場を取り、薩摩からは積極的には関与しないように努めた。

7月19日長州軍が天王山天龍寺、石清水八幡宮の三方向から御所に向かって進軍を開始すると、撃退するようにとの命が在に下り、薩摩軍もこれに従った。

伏見街道や御所の御門、蛤御門戦闘が繰り広げられ、特に蛤御門来島又兵衛が率いる長州軍により門を突破されて戦となった。

これを察知した西郷は兵を率いて蛤御門に向かい、長州軍と交戦。自らも弾を受け負傷しながらも来を討ち取り、長州軍を敗走させた。


西郷と勝


7月23日長州軍が敗退した京都では朝廷から長州征伐の勅許が下り、8月2日には幕府から長州征討が出された。禁門の変で功績のあった西郷は、征長総督・徳慶勝の参謀に加わることになった。

禁門の変の勝利で自信を深めた幕府は西に出兵の号を出し、次いで9月には文久年間に緩和された参勤交代を元に戻すと発表。出兵費用も馬鹿にならず「どういうことなの・・・」と諸に不満がくすぶる中、西郷福井士の紹介で11日に幕臣・勝舟と初めて面会した。

この時勝は西郷に対して幕府の内部事情について詳しく話した。

勝「ァ幕臣だからこんなこと言っちゃいけねぇんだが、幕府はもう手がつけられねぇんだYO!京都戦争で暴客どもが恐縮したからモウ下泰になったと安心しきって打毬やって遊び呆ける極楽トンボの老中が居るわ、責任とろうとする者が居ねぇわ、正論を言えばごもっともごもっともといいながら裏で手を回して遠ざけやがる。幕府オワタ\(^o^)/

西郷「そのような奸吏を辞めさせることはできんのでごわしょうか?(  ◕ω◕  )」

勝「出来んこともぇが、後引き受けられるもんが居ねえのYO!( ゚Д゚)y─┛~~

西郷「諸から協するというのはいかがでごわしょう?(  ◕ω◕  )」

勝「ダメだねぇ。例えば薩摩からこういう意見があるがと言えば薩摩に騙されているのだと言われるのがオチさ。モウ幕府は運が尽きたのぜ( ゚Д゚)y─┛~~

西郷兵庫の開港について朝廷がひどく嫌っておられますが、もし異人が大阪湾に直接乗り込んで来たらどうなさるのでごわしょう?(  ◕ω◕  )」

勝「それについては策がある。幕吏は異人達にも軽蔑されて役に立たんから、雄の賢侯4、5人が連合して異と一戦交えることが出来るくらいの武背景に異人達と交渉すればいいのサ。横浜長崎の貿易を拡大するかわりに兵庫は開かない、というように条理を踏んで堂々交渉すれば異人達もかえって喜ぶのぜ。そうすれば雄の連合が政権を預かることになるし是も定まるのぜ( ゚Д゚)y─┛~~

だらしねぇ幕府を忌憚なく批判する勝の歪みねぇ幕府オワタ論に感心した西郷は、大久保に宛てた手紙の中で

「勝氏へ初めて面会仕り処、実に驚き入り人物にて最初は打ちくつもりにて差し越し処、とんと頭を下げ申し侯。どれだけか智略のあるやら知れぬに見受け申し。先ず英雄肌合の人にて、佐久間より事の出来儀は一層も越えわん。学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候得共、現時に臨みては、の勝先生と、ひどくほれ申し侯」
「摂へ異人相迫り節、初めてこの策を唱え出、急速に決し様致さずては相成申す間敷、一度この策を用いては、いつまでも共和政治をやり通し申さずては相済み申す間敷間、もしこの策を御用いこれはば、断然と割拠の色を顕し、を富ますの策に出ずては相済み間敷と存じ奉り

(「元治元年九月十六日 大久保一蔵宛書簡」)

と記し、やがて「共和政治(雄による連合政権)のためには倒幕も仕方ないね」との考えに至る。

10月22日、勝は幕府からの帰還命を受け江戸に戻ると御役御免を申し渡されて居の身となった。宰していた神戸軍操練所の塾生達の中に禁門の変で長州側で戦った者たちがおり、その責任を問われてのことであった。去る直前、勝は操練所の坂本龍馬ら塾生達の身柄を薩摩で保護して欲しいと西郷に願い、西郷もこれを承諾した。


長州処分


10月22日大阪城にて征長総督・徳慶勝のもと、出兵した諸と幕府役人が集まり軍議を開いた。参謀として出席していた西郷は、先日の勝との会談で幕府の退を感じ、強硬策から融和策に転換していた。

この軍議で西郷

長州内部は現在抗戦と恭順とに分裂しているため、これを利用して彼ら自身の手で始末をつけさせれば駄な戦を起こす必要なくケリをつけられましょうが、もし理に厳罰を下せばかえって一丸となり、死に物狂いで立ち向かってくるでしょう(  ◕ω◕  )」

し、長州側との交渉については自分に任せて頂きたいと言った。

許可を得た西郷は、10月26日長州の支である岩領に赴き、領吉川監物に対して三家老及び四人の重臣の処刑を要した。応じた吉川は本に連絡し、11月11日から12日にかけ、処刑が実行された。

16日に家老らの首実検が行われ、幕府の使者としてやって来た大付・永井尚志が吉川に対して尋問を行った。この際永井子の差出し、の明け渡しなど全面降伏を要した。それまで行われてきた周旋を視した意見だったため、その場に居合わせた西郷

「全面降伏というのであれば周旋も談判も一切不要なのだからはじめから武で解決すればよろしかったでしょうが、もし戦になれば彼らは一丸となって抵抗してきます。 半年や一年では到底片付かず、参戦した諸も疲弊し不満が続出して手のつけられないことになり、幕府の御威は失墜、土崩瓦解するでしょう。よくよく御思慮願います(  ◕ω◕  )」

と諭した。永井は反論できず、徳慶勝もこれに賛同したため、結果的に強硬論は立ち消えとなり、最終的に五卿の動座と随従している浪人の素性報告、子の隠居・謹慎、山口政事堂の破却が実施されれば討伐軍は解兵されるということになった。

19日、西郷の元に、奇兵隊をはじめとする長州の諸隊が五卿を担ぎ出して「絶対に引き渡さないよ」と気勢を上げているという情報が届いた。西郷はこれを徳慶勝に伝え、諸隊幹部と会いに行って交渉したいと申し出、21日に広島から小倉に向かった。

23日、小倉に到着。12月4日小倉に滞在していた西郷の元に土佐脱浪士の中岡慎太郎が面会をめてやって来た。中岡西郷に対し、隠居後の後継についての周旋と、長州を包囲する兵の撤退をめ、西郷は「難しいが大いには折る」と返答した。この時の縁で西郷中岡は親しくなり、後に長同盟の周旋で協することとなる。

11日に西郷は下関に渡り、諸隊幹部達と会談して五卿動座を受け入れさせることに成功。その後も幕府や会津から「処分が軽すぎる」として厳罰がめられたが、その度に西郷と、西郷に同調する徳慶勝によって阻止され、長州は危ういところを「賊」と呼んだ敵に救われる形となった。

27日、正式に撤兵命が布告され、第一次長州征伐はとりあえず幕府側の不戦勝で終結した。だが、この結果に幕府や佐幕諸、そして徳川慶喜は強い不満を持つ。

「尾老和議の論、大島吉之助奸賊也。私を捨て周旋などと申す事にて、筑前北岡一同相働き、督府の下帯、と勘合申さず、言断の模様。永井大監御存意一々相立て申さず、土崩瓦解の勢に相成
(『肥後士・上田兵衛書状』)

「総督の英気至りて薄く、に酔いよりも甚だしきとの説、の銘は大島とか申す由」
(『元治元年十二月十二日 長岡護美宛 徳川慶喜書状』)

とは焼酎を意味し、大島とは当時「大島吉之助」と名乗っていた西郷のことである。

この面下での対立が翌年慶応元年(1865年)以降の第二次長州征伐に繋がるgdgd茶番劇が繰り広げられる原因となり、薩摩が幕府を全に見限るきっかけとなっていった。


幕府滅亡の兆し


西郷長州処分の周旋を行っていた12月15日高杉晋作が下関の功山寺で決起し、長州領内で内戦が始まった。撤兵直前の出来事で、これを巡って佐幕から強硬論が出されたが、西郷薩摩軍単独の撤兵も辞さない構えで反対した。結局西郷の意見が採用され、前述の通り27日に撤兵が決定された。

元治2年(1865年)1月4日西郷は帰の途に着き、15日に鹿児島に到着。子に謁見して現在の状況と今後の見通しについて言上した。

同じ頃、長州処分の結果に不満を持った幕府は、長州子と五卿に対して江戸に出府するようにと命じ、1月25日には参勤交代の督促が諸大名に通達された。薩摩の代表として西郷がこれまで行ってきた周旋活動に対する明確な反対の意思表示であった。

西郷大久保一蔵はこれに対抗するため役割を分担し、大久保25日に上して在中の小松帯刀と共に朝廷工作を開始。西郷2月中旬に鹿児島を出て25日に五卿が預けられていた太宰府を訪ね、幕府の五卿出府要請を受け入れないよう筑前侯・黒田長溥(ながひろ)に訴えた。

3月5日博多から出航し、11日に京都に到着。その頃江戸から阿部正外・本宗秀の二老中が三千の兵を率いて上し在を退けようとしていたが、先に上していた大久保の妨工作によって逆に長州子や五卿の江戸招致中止と参勤交代復旧の中止、更に将軍・徳茂の上を促す沙汰書を朝廷から出させることに成功。二老中は何ら成すところ京都から撤退していった。

29日、幕府は朝廷から中止の沙汰書が出された長州子の招致について、長州があくまで拒むなら再征伐するのでその為の準備を始めるようにと諸に通達した。更に2月から3月にかけては水戸天狗党の乱に関わった者たち350人以上を斬首に処した。

このように権回復をして強硬策をとり続ける幕府に強い不信感を持った西郷全に幕府を見限り、朝廷の下での諸による連合政権の立に向けて動き始めた。


薩長同盟


5月1日西郷は一旦鹿児島に戻り、幕府の長州再征には参加しない方向で論をまとめあげていった。

同時期、土佐脱浪士の坂本龍馬中岡慎太郎土方左衛門などによって長提携の話が西郷小松らに持ちかけられ、長州代表として桂小五郎が下関で会談に応じる事になった。西郷薩摩の代表としてと会談するため、鹿児島にやって来た中岡と共に5月15日に下関に向かった。


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最終更新日: 17/04/08 22:38
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