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西郷隆盛


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18日、途中佐賀の宿に宿泊中、京都大久保から「至急上するように」との連絡が入ったため、中岡の願いを振り払ってそのまま京都へ行ってしまったとされる。この時の西郷の挙動は実際大久保から連絡が来ていたかどうか確実な拠がいため、情勢を見極めるための西郷の独断か、もしくは島津示ではないかとも言われている。

下関で待機していた西郷が来なかったことに激怒したが、坂本らの周旋で引き続き和解のための駆け引きが行われていく。

6月24日、上していた西郷のもとに坂本中岡両名が訪れ、との会談すっぽかしについて問い質すと謝罪して正式の使者を出すと答え、武器弾薬軍艦の購入についても薩摩が仲介することを約束した。

一方京阪では徳茂が大阪城入りし、23日には芸州広島を通じて長州の支である岩、徳山の両大阪に呼びつけ、出てこなければ討伐すると通告した。京都に滞在していた西郷は幕府と長州とのやり取りを冷ややかなで眺めていた。

9月に入ると再び上した大久保と入れ替わるように大阪に下った。同兵庫開港をめる英以下列強使節が艦隊を率いて大阪に現れると、これを機会に幕府から外交権を奪って雄連合政権を打ち立てようと大久保に書状を送った。大久保朝廷工作によって雄連合や長州再征の中止を謀ったが徳川慶喜工作活動に及ばずいずれも失敗した

京都での暗闘が繰り広げられる中、西郷黒田了介(清隆)を正使として12月長州派遣、正式に会談を申し入れた。木戸貫治と名したはこれまでの経緯からしたが、高杉晋作井上聞多()、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有)らが会談に賛意を示し、毛利敬親も「そうせい(  ゚д゚  )」と承認したため、会談に臨む決意を固めた。ここに漸く長同盟の機運が高まってきた。

翌年慶応2年(1866年)1月8日木戸京都薩摩邸を極秘裏に訪れた。邸には西郷大久保小松らが居り、西郷達は盛大に歓迎し、事について論じ合ったものの、肝心の同盟に関する話は一向に進まなかった。

「毎の通り寝覚也。の日出勤致さず、八ツ時分より小松へ、の日長の木戸ゆるゆる取り会いたく申し入れ置きに付、参り様にとの事ゆえ参り処、皆々大かね時分参られ伊勢殿西郷大久保吉井奈良原也。深更まで相咄し、事段々咄し合い事」
(桂久武『慶二年正月十八日 上日記』)

西郷木戸深夜まで事について議論したが、この時の会談の模様を同席していた吉井友実言として伝える文書がある。

木戸申分に最昨年の首級にて何も相済て、御処置遵法の口気に付、西郷より今日まず之をべ、他日はれて御上の節、共に嘆願致度と申へ共、同意の色不見
(『吉川経幹周旋記』)

西郷は第一次長州征伐の際に長州子が幕府に提出した「恐懼慎みて御沙汰奉待」という謝罪状の文章があるため、「これに則って新しい処分を受け入れれば幕府は長州を攻める口実がなくなり、薩摩長州とともに上して赦免運動を行う」と木戸に伝えたが、「どんな小さい処分でも断固拒否する」と木戸が受け付けなかったため、会談が物別れに終わったと言うのである。

20日、木戸が帰ろうとしていた時坂本龍馬木戸の元を訪れ、一部始終を聞くとすぐに西郷小松に談判した。

坂本「言われなかったかお坊さんに!人の事を思えって!
心を変えるんじゃねえのか心を!!」

西郷「(  ◕ω◕ )Σ!!」

坂本「和解する理由。なぁんで和解すんのーとかねー。
同盟する理由。なぁんで同盟するんだろーとか。
理由ばかり考えてんじゃないの?理由理由理由って!
考えてるだけじゃ、何も変わんないんだよ!?

周りのこと思えよ、応援してる人たちのこと思ってみろって!
あともうちょっとのところなんだから!

一所懸命、ひとつのところに命を懸ける!だからこそ、Never Give Up!!」

21日(22日説も)、坂本の説得を受け入れた西郷は、小松坂本を交えて木戸と会談。6か条の盟約が取り決められる。この時西郷達は成文化しなかったため、木戸が当時の記憶を頼りに書き留め、それに坂本が相違ないことを朱で認めた文書が後世「長同盟」と呼ばれる盟約の覚書である。

24日、寺田屋に宿泊していた坂本の元に捕吏数十人が押しかけ、同行していた長府士・三吉慎蔵と共に応戦・脱走する事件が起こった。左手の親を深く切られたが三吉が薩摩邸に救援をめ、危うく難を逃れた。

3月5日西郷小松は、快復した坂本、三吉、先に邸に避難していた楢崎龍(お)、駆けつけた中岡慎太郎と共に蒸気船で出航。下関で中岡と三吉が降り、坂本、おはそのまま随行。一路鹿児島に向かった。


暗闘・慶喜対薩摩


同盟の成ったことを受けて然勢いを盛り返した長州は、幕府からの問罪を全に拒絶し、徹底抗戦の構えを見せた。4月、幕府は諸に対して出兵命を出すが、薩摩は出兵拒否の意見書を提出。大久保が老中と丁々発止のやり取りで出兵命を撥ね付けた。

6月7日、幕府は長州に対して宣戦布告、第二次長州征伐が始まった。

四方面から侵攻する幕府軍を長州軍が押し返し、一部では圧勝する。敗報が続く中、7月20日将軍・徳茂が失意のうちに病死した。

茂の後継者として最有視された徳川慶喜は自発的に征夷大将軍に就任しようとせず、諸侯や朝廷から推される形での就任にこだわった為、将軍職に位期間が生じた。また、8月30日居中の岩倉具視による発案で22人の卿による朝廷上層部への抗議活動が起こり、佐幕親王、関白二条斎敬が辞職に追い込まれ、続いて朝廷から諸大名への上が布告された。

京都に滞在していた大久保はこれを好機と捉え、将軍職及び幕府の絶とその権を雄会議に委譲させるための工作活動にを入れていた。

「幸にして将軍職御辞退固く申上て、議は諸来会までは相働き申す間敷付、に機会失うべからずと存じ間、共和の大策を施し、征夷府の権を破り、皇威の大綱相立ち様、御尽伏して冀(ねが)い奉り
(『慶応二年九月八日 西郷隆盛宛 大久保利通書状』)

だがこの上の結果は、大久保の意に反して上した大名が慶喜に謁見して意見書を提出するだけの燥なものとなってしまった。更には孝明天皇の反発を受け、22卿の他反幕府卿が軒並み退けられ、結果的に薩摩にとって不利な状況となった。

このような状況の中、12月5日に慶喜は徳幕府十五代将軍に就任。朝廷内部も佐幕に占められ、薩摩にとって京都政局は厳しい状況となるかに見えたが、25日に最大の佐幕たる孝明天皇が悪性の痘瘡によって唐突に崩御。

あけて慶応3年(1867年)1月9日仁親王(明治天皇)が践祚。また孝明天皇崩御に伴い、それまで処罰を受けて朝廷内で活動できなくなっていた反幕府の廷臣達が大赦によって復帰し、朝廷内の勢図に変化が生じ始めた。

新たな局面を迎える中、西郷大久保小松の三人は、雄連合政権を実現するための活動を開始した。当時重大な案件として浮上していた長州に対する処分で幕府に非を認めさせること、また兵庫開港の勅許について、これを慶喜の単独行動で取得させず、諸大名による会議で取得することで外交権を含めた政治を幕府から奪おうと考えた西郷は、有志大名による会議を実行に移すべくまず鹿児島で久を説得して了承させ、次いで伊達、土佐山内容堂に謁見して上を要請。小松が説得した越前福井嶽を合わせた四人が会議招集の要請に応じて5月までに全員が上した。

14日、四侯と慶喜の会議が行われたが、長州問題と兵庫問題のどちらを優先処理するか、また長州に対してどのような措置を取るのかで意見がまとまらず、19日になると容堂が病欠と称して撤退。23日から24日にかけて一を通した議で慶喜が反対する卿らを押し切って兵庫開港の勅許を取得。長州処分についてはこれまで通り長州側から嘆願があれば寛典に処すとの態度を崩さなかった。

四侯会議は慶喜に軽くあしらわれる結果になり、話し合いによる政権移譲が不可能であることを悟った西郷は、武を用いた倒幕路線へとを切り替えた。


武力倒幕是非曲直


四侯会議の失敗を見届けた西郷大久保小松らは挙兵の準備を整え始めたが、その動きに薩摩内部から反対意見が起こった。

文久3年の八月十八日の政変を導した高崎太郎は「何故そんな危険を冒してまで長州に義理立てしなければならないのか」と反発し、寺田屋事件で刺客となった奈良原喜左衛門に至っては「西郷を説得し、聞き入れられなければ刺し殺す」とまで言い放った。また重臣や島津一門からも反対者が現れ論が二分された。

このように薩摩内部も一枚岩というわけではなかったため、表向きは「討幕のための出兵ではなく、あくまでも幕府の権朝廷へ移譲するための背景としての武である」としつつ秘密裏に計画を進めていった。特に島津には討幕挙兵の件は慎重に伏せられた。

5月21日西郷中岡慎太郎を介して土佐の反幕府である(板垣)退助と会見。武倒幕の同志として引き込む一方、平和裏な政権移譲に望みを賭ける土佐参政・後藤象二郎とも一定の距離を置きつつ連携を取る。6月20日には西郷らと後藤の間で、政権移譲による王政復古と議員制度の確立を誓う土盟約が取り交わされた。ただし武を用いるか否かを明文化しておらず、この後路線の違いが浮き彫りとなっていく。

8月14日土盟約の意を計り兼ねた長州は、京都で挙兵計画を進める西郷の元に使者を遣わした。使者に対し西郷は以下のように述べた。

居合の兵員、千人有之問、期を定め其の三分のーを以御所之御守衛に繰込、
正義之堂上方不残御参内御詰被成、今一分を以会津邸を急襲仕、残る一分を以堀川
幕兵屯所を焼払策に有之、且許へ申越兵員三千人差登、是は浪花城を抜き軍艦
破砕する為、尚江戸表に定府其外取合千人位罷居、外に浪士等同志之者所々潜伏仕
に付き、是を以甲府城に立篭り、旗下の兵隊師に繰込を相支積りにて期を定め
三都一時事を挙げ策略にて、素より勝敗は予期すべからず。弊時は、又跡を継
も可有之と、夫を見詰に一挙動仕心算に御座候。」

「弊て討幕は不仕、事を挙己後、時宜に寄り討将軍之倫旨は可被差出欺、是は御同志
之堂上方より、粗御内意探索仕儀も有之今日延期之儀は、先達て土後藤象二郎
来訪、気付有之、至極之儀に付見込筋逐一詰問処素より其策を持出ても、幕府に採用
之は必然に付、右をに幕と手切れの策に有之、在之者は不残同意に付、
異義之、裁同心と申事ならば帰之上論一定仕、十日相立はぎ直に出、万端可
申上と相約置に付、二郎再上を相待居、万一土協同不得仕得ば、即期を定め弊
一手にて事を挙心組に御産
(村数日記』)

現代文にするとおおよそ以下の通りである。

薩摩邸に居る兵千人を3分割し、うち一つは御所守衛を固め、倒幕卿を全員参内させる。一つは会津邸を襲撃する。残る一つは堀川にある幕府屯所を 襲撃する。次に、鹿児島から三千人の兵を大阪に送り、大阪城を占拠して大阪湾にある幕府軍艦を破壊する。そして江戸に居る兵千人と、水戸浪士などで甲 府を占拠して江戸からの幕府援軍を阻止する。素より勝敗は予期できないが、弊が敗れたとしてもその時はまた後を継ぐもあるでしょう。それを当てに 事を起こすのです」

「弊のみでの討幕はしません。事を挙げた後、時宜によって将軍を討てとの綸旨が下るでしょう。これは同志の堂上(卿)方から御内意を探索済みです。今 日まで延期したのは、先だって土佐後藤象二郎が訪れて申したことが至極最もだったためで、その見込を逐一聞きましたところ、その策(大政奉還)を持ち 出しても幕府が採用しないのは必然のため、それをに幕府とは手切れするとの事でした。在土佐士は残らず同意したため、弊において異議がく、同心 ということであれば帰の上論を一定にし、十日後直ちに上して万端申し上げようと約束したので、後藤の再上を待っているところです。万が一土佐が 協同しなければ、直ちに時期を定めて弊のみで事をあげるつもりです」

このように西郷は挙兵の準備を整えつつ後藤の到着を待っていたが、9月3日後藤大阪に居た西郷の元を訪ねた際、兵を率いてこなかったため、後藤に疑念を持った西郷は9日に会談した際に土盟約の解消を告げた。

10月6日西郷大久保小松の三人は、武倒幕の大義を得るべく中山忠能正親町三条実愛中御門経之に対して討幕の宣旨降下を要請し、居中の岩倉具視を交えて討幕の密勅の作成に取り掛かった。

14日、徳川慶喜は土佐の建書を受け入れ、大政奉還を宣言。同日、長両に対して正親町三条から討幕の密勅が降下された。西郷らにとって慶喜の大政奉還受け入れは意外な結果だったが、既に挙兵の決意を固めた西郷大久保小松元の挙兵反対を封じて京都出兵を促すべく密勅を携え17日に京都を発ち、鹿児島に向かった。

26日、鹿児島に到着した三人は島津・茂久子に謁見し、京都の情勢を伝え討幕の密勅を呈し卒兵上を要。密勅の効果もあり久・茂久は兵を出すことを了承した。

11月13日茂久は三千の兵を率いて大阪に向け鹿児島を発ち、西郷もこれに随伴した。17日、途中で立ち寄った三田長州士や途中から加わった芸州の関係者等と共に挙兵後の作戦について協議した。

21日に大阪に到着、23日に入12月2日西郷大久保後藤象二郎を訪問し、12月5日に挙兵すると告げた。後藤はその場では同意したが、後日延期を要請してきたため、最終的な決行期日は9日に持ち込まれた。


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最終更新日: 17/04/08 22:38
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