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親藩


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親藩(しんぱん)とは、江戸時代の大名の分類の一つ。

代将軍・徳川家康の血を引く系の。つまり江戸将軍の分


概要


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親藩の中でも御三家御三卿は、「徳」姓を名乗ったり(それ以外の徳一門は通常「」姓を名乗る)、「三つ葉」の家紋を使うことが認められた。

6代将軍・徳宣が尾の徳吉通に将軍職を譲る可性を検討して以来、江戸将軍に世継ぎが生まれなかったときは御三家から養子を出すという流れが生まれた(天皇における親王宮のような役割)。
その後選択肢を増やすために「御三卿」も創設され、実際に御三家・御三卿から、8代将軍・徳川吉宗(紀州徳から)、11代将軍・徳川家斉(一から)、14代将軍・(紀州徳から)、15代将軍・徳川慶喜(一から)の4人が江戸将軍養子に入って将軍となっている

江戸幕府の機構の中では、安政・文久の革以前は親藩大名が制度的実権を持つことは許されず(役職に就けるのは譜代大名や旗本のみ)、親藩は、将軍家族・相談役としてサポートするむしろ名誉的な立場であるとされた。

なお、「親藩」という呼称が使われはじめたのは幕末からであり、それ以前には使用例はなく、単に「門」「一門」と呼ばれていた。竹内・編『徳幕府事典』P32


親藩の一覧


徳川御三家

それぞれの祖は徳川家康の九男・十男・十一男。
みな家康が老いてから側室が産み、江戸時代になってから物心がついて健康に育った子たちである。幼少期に領地が与えられ、いずれも初期は家老たちがの実政を任された。

徳川御三卿

御三卿は、江戸時代中期以降に、特定を治めない新しい名門として設立された。
いずれも、幕領から10万石ずつを分け、各地に分散して領有した。

その他

 

ほかにも将軍の分として、多数の徳が大名になったり出戻ったりしていたが、長期にわたって大きな勢をもちつづけたのは、御三家・御三卿・越前会津系のみである。

このほか、譜代大名にも多数の家康叔父・遠戚・兄弟などの子孫)が存在し、十八などと呼称される。
その中で最大の所領を持った桑名(久の一支流)に限り、田安徳から松平定信を養子に迎えて以降は親藩として扱われていたようである。


将軍継承と親藩


江戸幕府の政治機構はかなりしっかりしているようであって、実は大きな問題として、将軍の継承者を決める方法が定まっていなかったことが挙げられる。

常識的には、前任の将軍による最終的な後継者名が絶対的であったが、儒教的な近縁優先や本人の量などさまざまな要素によってたびたび周りが後継者問題で紛糾している。

7代将軍・徳継は幼くして病弱であり、近縁にも適当な後任者がいなかったため、次の将軍を「尾から出すか、紀州から出すか」ということで暗闘があったと見られ、この時期両資格保有者などに不審死が相次いでいる(結局は紀州徳川吉宗が8代将軍に就任)。

14代将軍をめぐって、紀州の徳慶福と一徳川慶喜のどちらを将軍にするかで揉めた話はあまりに有名だが、これは先代の将軍との近縁者を優先する考えに則れば徳慶福(慶福は13代・徳定の従弟。慶喜は水戸から一に養子に入ったため前任将軍との血縁はるかに遠い)が適任。年齢的な成熟やの高さを見れば徳川慶喜が適任。ということであった。

結局、大老井伊直弼の裁定で若い徳慶福が14代・徳茂として就任するが、茂は幕末まぐるしい情勢に対して体的に関わることもできないまま病床に伏し、1866年、20歳にして没してしまう。
茂は「田安徳に生まれた之助(のちの徳達)を後任に」と遺言するが、のっぴきならない情勢の中で3歳の子ども将軍にすることなど幕府の執行部にとっては問題外であり、当時畿内の情勢で幕府側としてのあらゆる対応を一手に負っていた一徳川慶喜が、当然のように15代将軍に任じられるのであった。


関連項目



最終更新日: 15/09/14 04:57
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