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足利義兼(1148~1199)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
義国流源氏のうち在京活動を主としていた足利義康の子として生まれる。母は源頼朝母の妹とも姪ともいわれ、保元の乱前後から河内源氏・源義朝→源頼朝とは深い関係を結んでいた。
治承・寿永の乱では1180年の挙兵以来源頼朝に従い、北条政子の妹を正室とするなど源頼朝と関係を深め、幕府内での地位を固めた。またこの時長い間所領をめぐって争っていた藤姓足利氏が平家方につき没落したため、所領の拡大に成功している。
戦いとしては1184年に源義仲残党狩りを名目に小笠原長清とともに甲斐の制圧を行ったり、源範頼の軍に編成され平家討伐に向かったりと、どちらかといえばサポート役に回されることが多かった。ただその功として1185年に上総介に任じられている。
奥州合戦では本戦で戦功をあげたほか、1190年の大河兼任の乱では討伐軍を率いるなど、頼朝の側近として活動を続けている。
やがて1195年に48歳で早々と出家し、鑁阿寺を建立したほか、亡くなった墓所は樺崎寺となった。
彼の庶長子足利義純は、はじめ新田義重の娘と結び岩松氏を、畠山重忠の乱ののちは幕府によって重忠の妻と結ばれ畠山氏を興している。次男足利義助からは桃井氏が興る。そして三男足利義氏が嫡子として家を継いでいった。
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