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足利義視


ヨミ: アシカガヨシミ

足利義視1439~1491)とは、応仁の乱でおなじみの足利義政である。


概要


応仁の乱の原因、と言われてきたのは今は昔のことであり、彼の将軍後継者としての役割に足利義尚の誕生が特に何か作用したとは今は考えられていない。

しかし、将軍後継者として諸大名と仲が良かった足利義視は、ついに足利義政と対立することに至り、お互いに心のでは認めつつも、晩年まで和解することができなかった。

息子足利義稙の第10代征夷大将軍就任によって後見人としてふるまうも、すぐに亡くなり、政局は明応の政変に向かっていく。


足利義視誕生


永享11年(1439年)に足利義教の十男として生まれた。は義教の正室・正親町三条尹子に仕える女房の小宰相局であり、嘉吉3年(1443年)にわずか5歳ですぐに浄土寺に入室させられている。そして義尋と号した足利義視であったが、26歳の時に転機が訪れる。

寛正5年(1464年)、当時の将軍であり、足利義視の足利義政には子がいなかった。さらに兄弟11人のうち、生きていたのは庶堀越方・足利政知の足利義視の2人だけだったのである。この結果足利義政は足利義視を後継者に定め、足利義視は還俗し、足利将軍が代々最初につく官職である左頭となったのであった。

出川殿と呼ばれた足利義視は翌年元した。ところがその3日後、一人の子供が生まれた。それこそ足利義政の子・足利義尚である。が子を後継者にしようとした日野富子との対立こそが応仁の乱の原因と考えられてきたが、それももう今では昔のこととなった。永遵嗣らの研究によって90年代以降大体の流れが明らかになりつつあり、そもそも足利義視は、足利義尚が生まれた時点で足利義政との合意で中継ぎ将軍という地位に納得していたようだ。
さらに日野富子も、足利義視の息子足利義稙が自分の日野良子であったため、足利将軍がどちらの系統になっても問題ないとさえこの時点ではまだ思っていたようである。


文正の政変


ところが、事件が起こる。文正元年(1466年)に足利義政斯波義敏に斯波氏の督を認め、斯波義廉討伐を行わせた。これに対し、山名宗全畠山義就らが抵抗。足利義政の側近である伊勢貞親が、彼らと関係を結んでいた足利義視の殺を進言したのである。

これに対し足利義視は逃走し、山名宗全細川勝元の協を得、伊勢貞親、季瓊蘂、斯波義敏赤松政則の排除に成功する。世にいう文正の政変である。このことが後々非常にめんどくさい禍根を残す結果となった。


応仁の乱の末に…


翌年、つまり応仁元年(1467年)に細川方が一色義直の邸宅を攻撃する。その直前には畠山義就畠山政長が戦端を開いており、ついに中で応仁の乱が勃発したのである。当初は足利義政、足利義視、足利義尚らがいた東軍が優勢であったのだが、大内が西軍に合流し、一気に不利になる。足利義視は上皇天皇のように室町邸には逃げず、伊勢に下り北畠教具・北畠政郷子を頼った。

しかし、足利義政はしきりに上を足利義視にめ、応仁2年(1468年)に再びに戻ることになる。しかし、足利義視は足利義政の側近たちと、当然といえば当然なのだが対立した。その相手は日野富子日野、そしてかつて自分を殺そうとした伊勢貞親である。

足利義視は上してわずか2か比叡山に逃れ、以前から親しくしていた山名宗全の軍に身を投じた。足利義政はこれに怒り、足利義視とそれに与同する四実仲、三条躬といった公家の官位をはく奪した上に、後上皇朝敵認定をさせる。一方足利義視も西幕府の抱える方として、全に自分に味方するよう命じていった。こうして応仁の乱はとうとう足利義政、足利義視の対立する戦いへと変わったのである。

しかし、文明5年(1473年)の伊勢貞親、山名宗全細川勝元の死によって、少しずつ足利義視は落ち着き始める。対立する東幕府でも足利義尚将軍に変わったこともあり、両営で和の動きがみられるようになったのだ。

こうして文明8年(1476年)に足利義政、足利義視の間で交渉が次第に始まっていく。文明9年(1477年)についに応仁の乱が終結し、足利義視は西軍の土岐成頼を頼って美濃へと下っていった。…とはいえ実は土岐成頼は足利義政の元には帰参せず、足利義視は相変わらず足利義政と対峙する旗印だったのである。

しかし、文明10年(1478年)についに足利義政、足利義視は和を結ぶ。しかし二人が顔を合わせることはなく、12年間足利義視・足利義稙子は美濃に滞在し続けたのであった。


晩年


長享元年(1487年)に息子足利義稙が元する。これは日野富子が子のない足利義尚の跡継ぎに、相変わらず自分の日野良子が生んだ足利義稙をつけようと考えていたからである。

そして延徳元年(1489年)についに足利義尚が病死。足利義視・足利義稙子が上する。足利義澄将軍位を争っていたことから、足利義視は日野富子と協していることをしきりにアピールしていく一方で出。以後、存と名乗ることとなる。

さらに隠居していた足利義政が発作で倒れてしまう。足利義政はようやく足利義視との対面を許し、二人は応仁の乱以来再会することとなる。この後しばらく両者は儀式などを行っていくが、兄弟の間にどのような感情が動いていたかは知るすべはない。ただし、延徳2年(1490年)に足利義政も亡くなった際の法事で、二人が互いに疎遠になりつつも認め合っていたことを示す逸話が残されている。

とにもかくにもこうしてついに、息子足利義稙将軍となった。ところが日野富子細川政元と組み、次第に足利義澄将軍に付けようと動き始めていた。そんな中央政局の中、足利義視は延徳3年(1491年)に亡くなり、明応の政変へと流れは向かっていく。


関連項目



最終更新日: 18/12/27 23:53
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