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近衛 文麿(このえ ふみまろ、1891年10月12日 - 1945年12月16日)とは、日本の政治家である。
五摂家の近衛家の第30代当主であり、後陽成天皇の12世孫である。
公爵である為1916年に25歳に達したことを以って貴族院議員となり自動的に政界に進出することとなった。貴族院議員では形だけの議員という者も多かったが、近衛は貴族院に院内会派「火曜会」を設立するなど積極的に政治活動を行う議員であった。
1931年に貴族院副議長、1933年に貴族院議長を務めるなど貴族院議員としての職を歴任。大衆からの人気も高く、すでに将来の首相候補と言われていた。
1937年に元老の西園寺公望の推薦による大命降下で内閣総理大臣に指名され、伊藤博文に次ぐ45歳7ヶ月という若さで就任した。この第一次近衛文麿内閣の時期に盧溝橋事件が起きている。この第一次内閣は新党結党に関する問題で頓挫し、総辞職することとなった。
第一次近衛内閣総辞職以降しばらくの短命政権を経て、1940年に第二次近衛文麿内閣が発足、「大東亜共栄圏の確立」などを掲げた新体制運動を展開することとなる。この間に大政翼賛会を発足させ、自らが初代総裁に就任している。強硬派の外務大臣松岡洋右の更迭を目的として第二次内閣は総辞職した。
外務大臣松岡洋右(北進論者)の更迭を済ませた第三次近衛文麿内閣が事実上の改造内閣として発足。この内閣では代わりの外務大臣として南進論者の海軍大将豊田貞次郎を任命。この内閣では日米交渉が行われた。
日米交渉が事実上の決裂に向かうとみると近衛は政権の維持が困難であるとして内閣総辞職を決断した。
日本の無条件降伏以後、東久邇宮稔彦王が首相を務める東久邇宮稔彦王内閣で国務大臣として入閣。ダグラス・マッカーサーに対して日本の赤化回避のため皇室の重要性を主張した。1945年10月5日の内閣総辞職を以って政界を引退し民間人となった。
同年12月6日にGHQからA級戦犯容疑で逮捕命令が伝えられるが、出頭期限の12月16日に東京都杉並区で服毒自殺。54歳2ヶ月で死去した。
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