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郡上八幡城


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郡上八幡城とは、岐阜県郡上市にあるである。岐阜県史跡、郡上市重要有形文化財、続日本100名城の一つ。

概要

特徴

[画像を見る]郡上市八幡町、いわゆる郡上八幡と呼ばれる地区に建てられたおで、八幡山と呼ばれる山の頂上に建てられた山城である。

日本最古の木造再建として知られ、瓦屋根がかっていることから別名「積翠城(せきすいじょう)」と呼ばれる。また、紅葉スポットとしても有名で、紅葉が見頃の時にはまるで紅葉の葉で守が炎上しているように包み込んで見えることから「炎上天守」、「炎上」と例えられることが多い。紅葉以外にも、はふもとのと新もみじの中に立つ守の姿が鑑賞できたり、が積もった際は山とともに白銀化粧した姿を見せたりなど、春夏秋冬ごとに様々な顔を見せてくれる勝地として名高い。(下記ツイートで、郡上八幡城観光キャラクターおよしちゃんがその様子をTwitter投稿している。)
また、入り口の高台や守からは郡上八幡を一望することができる。

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https://twitter.com/oyoshi_gujo/status/981375090322374656[外部]
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https://twitter.com/oyoshi_gujo/status/738226282647846912[外部]
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https://twitter.com/oyoshi_gujo/status/1061970074993475584[外部]
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https://twitter.com/oyoshi_gujo/status/1088945633442951168[外部]

は再建された守、附櫓以外にも石垣が現存遺構として残っており、それらは「八幡城跡」という名岐阜県史跡に定されている。岐阜県:八幡城跡 (岐阜県公式ホームページ)[外部]この石垣は、「野面積み」と呼ばれる戦国時代では一般的だった工法で積まれており、戦国時代の荒々しい印を与える外観となっている。堀越峠からの郡上八幡城歴訪 (郡上八幡観光協会サイト)[外部]さらに守の部分は郡上市重要有形文化財に定されている。郡上八幡城 (郡上市観光連盟公式サイト)[外部]また、内にはおよし伝説で登場し、人柱となった女性「およし」をったおよし塚、の院がある。また、山内一豊の妻、千代ゆかりの地としても知られ、山の中にある公園には、山内一豊千代像が建てられている。

[画像を見る]
の院
[画像を見る]
およし塚
[画像を見る]
守から郡上八幡並みを望む
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https://twitter.com/oyoshi_gujo/status/982465527288221698[外部]

これ以外にも、兵庫県竹田城福井県越前大野岡山県備中松山と並んで「天空」の風景が撮れるとして名高く、特定の気条件がそろうと朝霧に覆われた八幡山の頂上から顔を出す郡上八幡城の風景が鑑賞できる。下記のツイート写真中から撮影した画像だが、地上から撮影する場合は国道256号が通る堀越から撮影できる。なお、堀越周辺は狭小路かつ急勾配の高低差を登るため、道路つづら折りになっている。(いわゆる酷道ポイントの区間である。)
通行する内からはかなり見通しが悪くなっており、事故が起きやすいため、路上に駐停をして撮影したり、道路上に三脚を立てての撮影は厳禁であるなお、この警告喚起は郡上八幡城の公式サイトからも通達されている堀越峠からの郡上八幡城撮影に関する重要なお願い (郡上八幡城公式サイト)[外部]

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https://twitter.com/tshashin/status/1095296957700919296[外部]

へはか徒歩で行くことができ、徒歩ではが通ることができる現のほかに、江戸時代の頃に整備された登山を通行することが出来る。残念ながら現を整備する際に西側の古は破壊されてしまったものの、ほかの東南北面から伸びる現在でも通行することが出来る。2と同上

2019年(平成31年)3月23日に放送されたテレビ朝日系列の特別番組「お好き1万人がガチ投票!お総選挙」では、約4000件の跡の中から見事18位にランクインした。これに対しておよしちゃんも喜びのツイートを掲載している。

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https://twitter.com/sousenkyo6/status/1109402818803228673[外部]
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https://twitter.com/oyoshi_gujo/status/1109403203701895168[外部]

構造パラメータ郡上八幡城公式パンフレットより出典[外部]

建築構造 4層5階建 木造建築 創始年 1559年(永2年)
区分 山城 (模擬守) 創建年 1566年(永9年)
規模 面積 守】118.98
【附櫓】22.09
再建年 1933年(昭和3年)
面積 守】309.11
【附櫓】22.09
創始者 遠藤盛数
創建者 遠藤
高さ 守】17.18m
【附櫓】3.72m
その他ゆかりの人物 千代(山内一豊の妻)
霜隊

歴代城主・郡上藩主一覧郡上八幡城公式パンフレットより出典[外部]


代数

代数

(ふりがな)
在任期間(在年年号)
※上段が就任年
 下段が退任年
在任
年数
石高 備考
- 遠藤盛数
(えんどうもりかず)
1559年(永2年)
1562年(永5年)
3年 - 創始者
(初祖)
初代 遠藤
(えんどうよしたか)
1566年(永9年)
1588年(正16年)
22 - 創建者
2代 稲葉貞通
(いなばさだみち)
1588年(正16年)
1600年(慶長5年)
12年 4万石 関ヶ原の戦い後、豊後臼杵に移封
3代 初代 遠藤
(えんどうよしたか)
1600年(慶長5年)
1632年(寛永9年)
32 2万7千石
4代 2代 遠藤慶利
(えんどうよしとし)
1632年(寛永9年)
1646年(正保3年)
14年 2万7千石
5代 3代 遠藤常友
(えんどうつねとも)
1646年(正保3年)
1676年(延宝4年)
30 2万7千石 らに3千石分知
6代 4代 遠藤
(えんどうつねはる)
1676年(延宝4年)
1689年(元2年)
13年 2万7千石
7代 5代 遠藤常久
(えんどうつねひさ)
1689年(元2年)
1692年(元5年)
3年 2万7千石 7歳で死去(遠藤滅亡する)
死去後、所領没収→近江三上へ転封
8代 6代 井上正任
(いのうえまさとう)
1692年(元5年)
1993年(元6年)
1年 5万石 常陸間より入部
9代 7代 井上正岑
(いのうえまさみね)
1693年(元6年)
1697年(元10年)
4年 5万石 に和良3千石を分知
丹波亀山に移封
10代 8代 金森頼峕
(かなもりよりとき)
1697年(元10年)
1736年(元文1年)
39 3万9千石 出羽上山より入部
11代 9代 金森頼錦
(かなもりよりかね)
1736年(元文1年)
1758年(宝8年)
22 3万9千石 騒動(郡上)により
12代 10代 青山
(あおやまよしみち)
1758年(宝8年)
1775年(安永4年)
17 4万8千石 丹波より入部
13代 11代 青山
(あおやまよしさだ)
1775年(安永4年)
1791年(寛政3年)
16年 4万8千石
14代 12代 青山幸孝
(あおやまゆきたか)
1791年(寛政3年)
1815年(文化12年)
24年 4万8千石
15代 13代 青山幸寛
(あおやまゆきひろ)
1816年(文化12年)
1832年(保3年)
16年 4万8千石
16代 14代 青山幸礼
(あおやまゆきのり)
1832年(保3年)
1838年(保9年)
6年 4万8千石
17 15代 青山幸哉
(あおやまゆきしげ)
1838年(保9年)
1863年(文久3年)
25 4万8千石
18代 16代 青山幸宜
(あおやまきよし)
1863年(文久3年)
1869年(明治2年)
6年 4万8千石 版籍奉還後、郡上知事に就任
置県後は東京へ出立

歴史7と同上

室町・戦国時代①~郡上東氏の支配

郡上八幡城の創建は室町時代末期、および戦国時代にまで遡る。当時、郡上一帯を支配していたのは鎌倉時代地頭を請け負っていた東胤行(とうのたねゆき)から流れをくむ郡上東氏。1541年(文10年)、当時の篠(現在の旧大和町にあった)当だった東常慶(とうのつねよし)は、福井越前一帯を支配していた朝倉氏の郡上攻めを撃退。これを機に、郡上八幡城の向かいにある山の山頂に東殿山城(別名:山城)を築き、本拠地の篠から移転した。その後、詳しい時期は不明だが、東氏一族の流れをくむ遠藤盛数(えんどうもりかず)と自身のを政略結婚させた。

室町・戦国時代②~東氏と遠藤氏が対立、暗殺事件から赤谷山城の戦いへ

1550年(文19年)、盛数の子遠藤(えんどうよしたか)が生まれる。1557年(治3年)、のちに山内一豊の妻となる千代が生まれる。

1559年(永2年)、東氏にとって大きなターニングポイントとなる事件が起こる。常慶は、盛数のであった遠藤胤縁(えんどうたねより)の息子の東常堯(とうのつねたか)とも政略結婚させることを論むが、素行が悪く荒くれものであったことを理由に拒否。代わりに六郎右衛門という別の男性結婚させた。それを恨んだ常堯は、東殿山城で開催された八朔の祝いの席の時に、臣に命じて胤縁を暗殺。これを聞いた盛数は、の弔い合戦を大義名分に郡上内で味方してくれる諸将を募り、挙兵。息子である遠藤胤俊(えんどうたねとし)も加わり、東殿山城向かいに位置する八幡山山頂に布。常慶と常尭を相手に「山城の戦い」を起こす。これにより、事実上の内乱騒動へと発展した。

戦は、盛数側が勝利し、東殿山城は落。常慶も戦死した。息子の常尭は落ち延びることに成功したが、潜伏先の帰天正大地震に遭い、の崩壊に巻き込まれた。これによって約340年続いた東氏は滅亡することとなった。

一方、勝利した盛数は、郡上領土を胤俊と折半して領有。のちに「郡上の両遠藤」と呼ばれるようになった。

安土桃山時代①~盛数から慶隆へ、胤俊との一時対立から郡上八幡城創建へ

1562年(永5年)、盛数死去により、当時13歳であった息子の慶が当となる。しかしこれを良しとしなかった胤俊が、慶へ反旗を翻す。これを聞いた慶は対応すべく、後見人であった長井道利の協を得て退けた。敗戦した胤俊は、居であった木越遠藤胤基(えんどうたねもと)に譲ると、宗のそばで隠居した。(同時に慶に恭順の意を示した。)

1566年(永9年)、郡上統一を成し遂げた慶は、八幡山頂上に山城、ふもとに下町を建設することに着手した。これがのちの郡上八幡城の創建である。その傍らで、織田信長の配下につき、の戦いなどで戦功をあげた。


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最終更新日: 19/08/21 03:29
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