アレクサンドロス 単語

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アレクサンドロス

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アレクサンドロス由来の名前

英語
Alexander (アレグザンダー)
(慣用表記:アレキサンダー
ラテン語
Alexander (アレクサンデル
フランス語
Alexandre (アレクサンドル)
ポルトガル語
Alexandre (アレシャンドレ)
ギリシア語
Αλέξανδρος (アレクサンドロス)
ドイツ語
Alexander (アレクサンダー
アイルランド語
Alastar (アラスタル
マケドニア
Александар (アレクサーンダル
ロシア語
Александр (アリクサーンドル
(慣用表記:アレクサンドル)
イタリア語
Alessandro (アレサンドロ)
スペイン語
Alejandro (アレハンドロ
ハンガリー語
Sándor (シャーンドル
ペルシア語
اسكندر (エスカンダル
アラビア語
إسكندر (イスカンダル

アレクサンドロス(古典ギリシア語:Αλέξανδρος ラテン文字転写:Alexandros)とは、欧州圏で広く用いられる男性名であり(右表参照)、姓としても用いられる。女性形はアレクサンドラ(Alexandra)。称はアル(Al)、アレックスAlex)、レックス(Lex)、ザン(Xan)、ザンダー(Xander)、サンディSandy)、サーシャSacha)等々。

概要

元々はギリシア神話女神ヘーラー二つ名で、 ἀλέξω 「護る」+ ἀνδρός男性戦士)の」 、つまり「戦士を守護する者」という意味だが、後に広く「人間を守護する者」と解釈された。東ローマを中心とするギリシア語圏ではごく一般的な名であるため、古来よりこの名をもつ聖人は数多く存在するが(参照exit)、洗礼名として欧州全体に広まったのはルネッサンス以降のこと。

アラビア語圏のイスカンダルアラビア文字إسكندر Iskandar)は、アレクサンドロスの転写ألسكندر Aliskandar[1]頭の al- が定冠詞と解釈されて Iskandar と呼ばれるようになったもの。これはアラビア語等では人名にも al-Iskandar のように定冠詞を付ける場合があり(イダーファ(名詞修飾構文)など)、さらに冠詞と名詞を分かち書きせず一続きに書く習慣による。

世界史の人物としては、マケドニア王のアレクサンドロス3世大王)をすことが多い。本項では以降、彼について詳述する。

アレクサンドロス3世(大王)

紀元前4世紀の古代マケドニアの王。フィリッポス2世の子として生まれる。

アレクサンドロスは14歳から16歳までの間、かの有名なアリストテレスのもと、学友とともに教育を受けた。(なお学友はのちにアレクサンドロスを支える将軍となる。)そうしてその4年後、20歳の時にが暗殺されたことに伴い王に即位すると、東方への大遠征を実行した。

東方大遠征

まず、紀元前334年に小アジアトルコ)でグラニコスの戦いを開始した。味方であるマケドニア軍の兵は38,000に対し敵兵は40,000。しかし彼、アレクサンドロスは手な甲冑を着込み、恐れることなく先頭に立ったという。後に続く部下と共にそのまま突進を決め、マケドニア軍の士気は大いに高揚した。彼は勢いをとどめず波に乗り、を投擲して敵将ミトリダテスを仕留め、戦に勝利する。

続いて紀元前333年にシリアのイッソスでペルシャ帝国と開戦(イッソスの戦い)。ダレイオス3世率いるペルシャ軍の兵100,000という破格のものであったが、この時のアレクサンドロスのカリスマ性は尋常なものではなく、それ故ペルシャ軍は恐れ慄き敗走した。、妻などの女性が捕虜となったダレイオスは、マケドニアに対し和を申し出たが、アレクサンドロスはこれを拒否し、ペルシャ帝国に追い打ちをかけた。

次に紀元前332年に反ペルシャの向きが強かったエジプト解放ファラオ称号を戴くと、都市アレキサンドリアを建てた。

その翌年の紀元前331年には、チグリのガウガメラで、再びダレイオス率いるペルシャ帝国と対峙する(ガウガメラの戦い)。この時マケドニア軍の兵は47,000。しかし対するペルシャ軍の兵20万を軽くえていたが、アレクサンドロスはこれに勝利すると、次々にペルシャの都市侵略虐殺・破壊してまわった。

こうして戦争に次々と勝利した彼は、小アジアトルコ)、エジプトペルシアイラン)、歴史インド世界の北西部(ほぼ現在パキスタン)というとてつもない広範囲を支配下に収めた。

しかしその後、ソグディアナウズベキスタンキルギスタジキスタンに跨る地域)やバクトリアアフガニスタン北部・ウズベキスタン南東端・タジキスタン北西端)方面の遠征中で部下の士気が低下し、祖国マケドニア含むギリシア圏への帰を望む者が現れ始め、溝が生じた。インド方面では北西部を支配下とするが、部下との溝は深まり、これ以上の遠征は断念された。こうして満たされることのないアレクサンドロスは、紀元前323年にスーサへ帰還する。

その後

そんな中でも彼はアラビア遠征を企図していたのだが、志半ばの32歳の若さで急逝してしまう。遺言は「最も強き者が帝国を継承すべし」。

このため後の覇権を争う戦争(ディアドコイ戦争)が勃発し、彼の帝国は重臣のアンティゴノス(マケドニア)・プトレマイオスエジプト)・セレウコスシリア)の手によりに3国家に分裂した。(なお、プトレマイオスしたエジプトは、後にかのクレオパトラを輩出している。)

彼の東方遠征と大帝国の建設は、ギリシア文化東方文化エジプト文化融合を生み、ヘレニズム文化が勃した。なおヘレニズムのヘレニ- とはギリシア自称である。

トリビア 

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関連項目

脚注

  1. *ξ という文字ギリシア方言間でも不安定で、例えばギリシア本土の大半の地域では /ks/ の音を χ (kh) で表すのが一般的であった(それがラテン文字に借用されたのが x である)。よって異言への借用過程で k と s が入れ換わる程度は十分に起こり得る。
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