サッカーフランス代表 単語

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サッカーフランス代表とは、フランスサッカー連盟(FFF)によって編成されるサッカーフランス代表チームである。ユニフォームを基調にをアクセントに使う。称はレ・ブルー(Les Bleus)。

概要

サッカーナショナルチーム
フランス代表
基本情報
国旗
協会 FFF
大陸 UEFAヨーロッパ
FIFAコード FRA
FIFA加盟 1904年
監督 ディディエ・デシャン
FIFAワールドカップ
出場 16回
最高成績 優勝(2回)
UEFA欧州選手権
出場 10回
最高成績 優勝(2回)

FIFAワールドカップで2度優勝ベスト4以上が7度、UEFA欧州選手権ではドイツスペインに次ぐ2度の優勝経験がある世界的な強であり、FIFAランキングで首位に立った経験を持つ8チームのうちの1つでもある。また、数多くの名プレイヤーを輩出しており、ミシェル・プラティニジネディーヌ・ジダンキリアン・エムバペがその筆頭となっている。

伝統的に多くの移民選手が代表選手としてプレーしており、そのため他の伝統べるとはっきりとしたチームスタイルを有していない。移民の多くはアフリカ系の選手が多いが、東欧系やカリブ系、バスク系など様々なルーツを持つ選手が集まった他民族チームと言える。1998年ワールドカップ優勝が成功例となり、近年はチームの半分以上がアフリカなどの移民で構成されるようになった。一方で内の極右からは「ラ・マルセイエーズを歌えない者にフランス代表が務まるか」などと批判されている。

欧州でもトップクラスタレントを毎回抱えているが、それ故に選手のが強すぎる傾向にあり、大きな大会の直前になって内紛が勃発することが多く、これが原因で期敗退に追い込まれることも少なくない。

ホームスタジアムとしては、1998年に自開催のワールドカップに向けて完成したパリ郊外サンドニにあるスタッド・ド・フランスを使用している。

歴史

初めての際試合は1904年。FIFAワールドカップには、提唱者であるジュール・リメのということもあり、第1回のウルグアイ大会(1930年)から3大会連続で出場している。最初の2大会はグループリーグ敗退、1回戦敗退となったが、自開催となった1938 FIFAワールドカップフランス大会では1回戦でベルギー相手に勝利し、ベスト8まで進出している。この頃は、まだ実的にはそこまで高くなく、1950年ブラジル大会は予選敗退で出場できず、1954年スイス大会でもグループリーグで敗れている。

初めてフランス世界に名をかせたのは1958 FIFAワールドカップスウェーデン大会だった。「ナポレオン」の異名を持ったレイモン・コパが攻撃のタクトを振るい、ストライカーのジェスト・フォンテーヌが記録的なゴールラッシュを見せる。フォンテーヌは大会中2度のハットトリックを含む通算13ゴール記録、1大会で達成した最多ゴール記録として現在も破られていない。抜群の破壊を発揮したチームは準決勝でペレを擁するブラジルに敗れたものの、3位に入る大健闘を見せる。さらに2年後におこなわれた第1回大会であるEURO1960でもベスト4に入り、最初の黄金期を築いた。

しかし、コパとフォンテーヌが去った後のフランス代表は長い低迷期に入り、1962年1970年1974年の3大会で予選敗退となりワールドカップに出場できず、出場した1966 FIFAワールドカップイングランド大会は1勝もできないままグループリーグで姿を消している。また、UEFA欧州選手権でも5大会連続で欧州予選敗退。

12年ぶりの出場となった1978 FIFAワールドカップアルゼンチン大会では、20年ぶりに1勝を挙げたもののグループリーグで敗退。しかし、この大会はその後の1980年代ミシェル・プラティニを中心とした麗な中盤を擁し際大会で好成績を収める土台となっていた。

1982 FIFAワールドカップスペイン大会では、1次リーグ初戦のイングランド戦を落とし、エースであるプラティニが怪を抱えて万全ではない状態が続いていたが、2次リーグになるとジャンティガナが台頭するようになり、最終戦の北アイルランド戦で見せたプラティニティガナ、アラン・ジレス、ベルナールジャンジニの4人が形成した中盤による麗なパスワークは「シャンパンフットボール」と称賛され、1958年大会以来となるベスト4進出を果たす。準決勝では西ドイツを相手にワールドカップ歴史に残る名勝負を繰り広げるが、延長戦に入って驚異的なりを見せた西ドイツに同点に追いつかれ、PK戦の末に敗れる。が欠場した3位決定戦はポーランドに敗れ、4位で大会を終える。

開催となったEURO1984では、ジャンジニに代わってルイスフェルナンデスが定着したことで1982年ワールドカップの頃よりも中盤が安定するようになり、彼らが繰り出すパスワークと攻撃は他を圧倒していた。しかもこのときキャリアの絶頂期にあったプラティニ得点にも磨きがかかり、グループリーグ初戦のデンマーク戦で決勝ゴールを決めると、ベルギー戦とユーゴスラビア戦では2試合連続ハットトリックという偉業を成し遂げる。3戦全勝でグループリーグを勝ち上がり、準決勝のポルトガル戦は延長戦に入っても常にリードを許す苦しい試合展開となったが、最後はやはりプラティニの決勝ゴール闘を制し、初のファイナル進出を果たす。パルク・デ・フランスで開催されたスペインとの決勝でもプラティニが直接FKによるゴールを決め、初めてのタイトルを獲得する。この大会は、全試合でゴールを決め、9得点マークする大車輪の活躍を見せたプラティニのための大会となった。1976年から監督を務めてきたミシェル・イタルゴは有終の美をもって勇退する。

シャンパンフットボール」の集大成の大会となった1986 FIFAワールドカップメキシコ大会では優勝補の一とされていた。グループリーグでは低調な戦いぶりだったが、ラウンド16では怪を抱えていたプラティニ調子を取り戻し、前回優勝イタリアを撃破する。準々決勝でジーコ擁するブラジルとこれまた歴史に残る名勝負を繰り広げ、最後はPK戦の末に勝利している。しかしこの試合でを出し尽くしたことで準決勝では前回に続いて西ドイツの前に敗れてしまう。それでも、3位決定戦ではジャンピエールパパンら若手中心のメンバーベルギーを下し、1958年大会以来の3位入賞を果たしている。ちなみにこのときの表式にプラティニピンクポロシャツ姿で登場している。

ところが、プラティニやジレスらが代表を去った1986年以降はまたしても低迷期を迎えることになる。EURO1988では予選で敗れて出場を逃すと、プラティニ監督に就任した1990 FIFAワールドカップ欧州予選でも敗退となる。優勝補の一と評されたEURO1992でもデンマークに敗れてグループリーグ敗退となると、1994 FIFAワールドカップ欧州予選ではパルク・デ・プランスでのブルガリア戦に終了間際の得点で敗れ、土壇場で出場権を逃している(パリの悲劇)。

開催のワールドカップを前に2大会連続予選敗退という危機的状況の中、監督に就任したエメ・ジャケはスター選手だったパパン、エリックカントナ、ダヴィド・ジノラらに見切りをつけ、次の世代を軸としたチーム作りを推し進める。その中心にいたのがジネディーヌ・ジダンだった。彼らにとって初の舞台となったEURO1996ではベスト4に進出。それでもジャケの革はけっして順満帆ではなく、直前の強化試合で得点不足によって結果が残せず、メディアからの大きな批判を浴びながらでのワールドカップを迎えるのだった。

1998 FIFAワールドカップフランス大会では、ジダンユーリ・ジョルカエフを中心としたな中盤とマルセル・デサイー、ローランブランリリアン・テュラムを擁する鉄壁の守備によって戦前低評価を覆す戦いぶりを見せる。グループリーグでは第2戦のサウジアラビア戦でジダン一発退場になるアクシデントがあったものの、3戦全勝で突破。決勝トーナメメントに入るとより守備を意識した戦い方にシフト、準々決勝では最大の関門と見られたイタリアと両者譲らない死闘を繰り広げ、PK戦の末に勝利。準決勝ではドイツを倒すなど大会の台風となっていたクロアチアをテュラムの2ゴールで下し、初の決勝進出を果たす。スタッド・ドゥ・フランスで開催された決勝は、ジダンのヘディングによる2ゴールなど前回王者のブラジル相手に圧倒的な試合展開で快勝し、自開催での初優勝という責務を果たす。試合後シャンリゼ通りはトリコロールで埋め尽くされ、凱旋門には民の英雄となったジダンの顔が映し出されるなど熱狂の渦と化した。また、様々な批判をかわして栄をもたらしたジダンを初めとするフランス代表の移民の子孫たちは、フランス社会における移民の成功者、代弁者として扱われるようになる。

フランスW杯を最後にジャケは勇退し、アシスタントだったロジェ・ルメールが後任に就任。98年のW杯優勝メンバーに加え、ティエリ・アンリダビド・トレゼゲ、パトリック・ヴィエラといった若手が急成長を遂げ、充実したスカッドでEURO2000に出場。アンリやトレゼゲの台頭によって2年前のワールドカップで課題だった攻撃の火力不足も一気に解消される。その中でもやはりチームの中心にいたのはジダンであり、準々決勝のスペイン戦と準決勝のポルトガル戦では2試合連続ゴールを決め、チームを決勝へと導く。決勝のイタリア戦では1点をリードされ敗色濃厚にまで追い詰められるが、終了間際にシルヴァンヴィルトールゴールで同点に追いつき、延長戦のトレゼゲのゴールデンゴールで逆転勝利1984年以来二度優勝を飾ると同時に「ワールドカップ王者は欧州王者になれない」というジンクスも打ち破ることとなった。さらに1年後のFIFAコンフェデレーションズカップ2001でも優勝を遂げている。

まさに黄金時代の絶頂にあったフランスは、各選手が欧州リーグで大活躍を見せ、迎えた2002 FIFAワールドカップ日韓大会は優勝補の筆頭と見られていた。ところが、直前の韓国との善試合でジダンが負傷したことで暗が立ち込めてしまう。ジダンを欠いたフランスは開幕戦でセネガル歴史的大金星を与えてしまうと、続くウルグアイ戦もスコアレスドローに終わる。瀬戸際に立たされた第3戦のデンマーク戦でジダンが強行出場するが、0-2で敗戦。1勝どころか1得点もできないというまさかの結果でグループリーグ敗退に終わってしまう。

大会後、ジャック・サンティニを新監督に迎えEURO2004に出場するが、調子のあがらないままに準々決勝でギリシャに敗れ、敗退となる。そして、大会後何かと悪名高いレイモン・ドメネクが監督に就任。2006ワールドカップ欧州予選では、ドメネクの不可解な不可解な采配によってチームは迷走することになる。だが、フランス政府の後押しもあって一時は代表を引退していたジダンやテュラムクロード・マケレレが代表に復帰したことで安定するようになり、本大会出場を決めた。

ジダンが大会後の現役引退を表明した2006 FIFAワールドカップドイツ大会ではグループリーグではスイス韓国相手に2試合連続ドローに終わるなど苦戦し、第3戦のトーゴ戦で初勝利を挙げ、辛くも2位通過となる。ところが、決勝トーナメントに入るとジダンを飾ろうとチームはまとまりを見せ、ジダン全盛期を思わせる高いパフォーマンスを発揮。若手のフランク・リベリーとして台頭するようになり、スペインブラジルポルトガルといった強を次々と撃破し、1998年大会以来となる決勝進出を果たす。しかし、決勝ではイタリアPK戦の末に敗れ、準優勝に終わる。もっとも結果よりも話題になったのは現役最後の試合ながらマルコ・マテラッツィへの頭突きによって延長5分に退場となったジダンだった。この事件は、マテラッツィがジダンに侮辱的な発言をしたことが発端となっているが、様々な憶測や疑惑が飛び交い、大会後は報道が過熱していた。

ジダンが去った後のEURO2008は厳しいグループに属したこともありグループ最下位で敗退。敗退直後、ドメネクは突如カメラの前でプロポーズをするというサイコパス行動に出る。2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会も地区予選で苦戦し、プレーオフアイルランドを下して本大会出場を決めたもののチーム状態は上向かず、本大会では1勝も上げられずグループステージ敗退。大会途中にはニコラアネルカがドメネクに暴言を吐いたとしてフランスサッカー連盟により代表を追放させられ、これに反発した選手が一時練習をボイコットするなどチーム混乱状態に陥っていた。チーム空中分解させた本人のドメネクは、ようやく代表監督から退くことに。

ローランブラン監督に招聘し再スタートを切ったが、世代交代を後回しにしてきたツケは大きく、EURO2012でが大会中にお芸の内紛が起こり、準々決勝でスペインに敗れて敗退。後味の悪い大会となった。大会後、成績不振を理由にブランが辞任し、後任に黄金期キャプテンだったディディエ・デシャンが就任。2014 FIFAワールドカップブラジル大会は、エースフランク・リベリーが直前の負傷で欠場となりながら順調な戦いぶりを見せるが、準々決勝でドイツに敗れる。

その後続投となったデシャンは、若手を積極的に起用。3度の自開催となったEURO2016では、アントワーヌ・グリーズマンエンゴロ・カンテポール・ポグバらがチームの中心選手として台頭。これまでのパスワーク体からフィジカルとプレー強度、縦のスピードを重視したスタイルで勝ち上がり、準決勝では苦手のドイツを相手にグリーズマンの2ゴールの活躍で勝利。しかし、決勝ではポルトガルに決定機を決められないまま延長戦の末に敗れ、準優勝に終わる。もっともこの大会で植えた芽は2年後にを開くことになる。

2018 FIFAワールドカップロシア大会で注を集めたのは当時19歳だったキリアン・エムバペだった。エムバペ爆発的なスピードと決定武器に期待通りの活躍を見せ、ソリッドな守備をベースにするフランスの攻撃の切り札となる。また、2年前のEUROで活躍した選手たちもさらに成長を遂げ、バランスの取れた隙のチームに仕上がっていた。ラウンド16ではアルゼンチンとの点の取り合いを制し、準々決勝でウルグアイを2-0で制すると、準決勝では「事実上の決勝戦」と言われたベルギー戦を競り勝ち、3度ファイナル進出を果たす。決勝ではしぶとく勝ち上がってきたルカ・モドリッチを擁するクロアチアから4点を奪って勝利し、1998年大会以来20年ぶり2度優勝を成し遂げる。デシャンマリオ・ザガロフランツ・ベッケンバウアーに次ぐ史上3人となる選手と監督両方でワールドカップ優勝を果たすことになった。また、決勝でゴールを決めたエムバペは、1958年大会のペレ以来二人となる決勝でゴールを決めた十代の選手となった。

UEFA EURO2020では、大会直前にカリム・ベンゼマが5年半ぶりに代表に復帰し、エムバペグリーズマンとのの3トップが実現する。しかし、前線タレントった反面、2018年べてチームアンバランスとなってしまい、グループリーグは辛くも通過したものの、ラウンド16でスイスに敗れ、期待外れの大会となってしまう。一方、UEFAネーションズリーグ2020-21では、決勝のスペイン戦でベンゼマエムバペってゴールを決め、初優勝を果たす。

欧州リーグ中に開催となった2022 FIFAワールドカップカタール大会は、前回優勝の立役者であるカンテポール・ポグバ、さらにはこの年のバロンドールを受賞したベンゼマが怪で欠場となった。しかし、大会に入るとの欠場を感じさせない選手層の厚さを見せつけ2連勝でグループリーグを突破。決勝トーナメントに入ってもポーランドイングランドを下し、準決勝では今大会大躍進を遂げたモロッコの堅守も攻略し、2大会連続で決勝進出。エムバペリオネル・メッシの新旧エース対決が注されたアルゼンチンとの決勝では、前半に2点のリードを許す厳しい試合展開となるが、後半にエムバペが2ゴールを決め、延長戦に持ち込む。延長後半にメッシゴールを許し、今度こそ万事休すかと思われたが、10分後にエムバペ1966年大会のジェフ・ハースト以来史上2人となる決勝でのハットトリックを達成し、PK戦に突入。しかし、PK戦では2人が失敗したことで惜しくも準優勝に終わる。

主な戦績

FIFAワールドカップ
優勝(1998, 2018
優勝(2006, 2022)
3位(1958, 1986)
ベスト4(1982)
ベスト8(1938, 2014
グループリーグ敗退(1930, 1954, 1966, 1978, 2002, 2010
EUROUEFA欧州選手権
優勝1984, 2000
優勝2016
ベスト4(1960, 1996)
ベスト8(2004, 2012
ベスト16(2021)
グループリーグ敗退(1992, 2008
FIFAコンフェデレーションズカップ
優勝(2001, 2003
UEFAネーションズリーグ
優勝(2020-21)

世代別の戦績

オリンピック
優勝1984)、準優勝(1900)
FIFA U-20ワールドカップ
優勝2013)、ベスト4(2011
FIFA U-17ワールドカップ
優勝(2001)、準優勝(2023)、3位(2019

主な代表選手

(※太字はワールドカップ優勝メンバー

2022 FIFAワールドカップ・カタール大会メンバー

歴代監督

太字はワールドカップ揮を執った監督赤字ワールドカップ優勝監督国旗付きは外国人監督

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    最終更新:2024/04/23(火) 20:00

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