ジャイアント馬場 単語

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ジャイアントババ

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ジャイアント馬場とは、アントニオ猪木と並ぶ日本を代表するプロレスラーである。
本名は馬場正平。新潟県三条市出身。

概略

三条実業高校在学中にスカウトされ、中退して読売ジャイアンツに入団するが、1959年自由契約となる。その後、大洋ホエールズ練習生となるが、風呂場のケガが原因でプロ野球選手としてのキャリアを終える。

1960年力道山率いる日本プロレスに入団。ほぼ同じ頃に入団した選手にはアントニオ猪木大木金太郎(キム・イル)がいる。その大きな体から、くも将来を見こまれ、同期では一番に海外遠征へと送りこまれた。遠征先のアメリカでは最初「ショーヘイ・ババ」と本名でリングに上がっていたが、やがて「フランケン・ババ」「ババ・ザ・ジャイアント」「ビッグ・ババ」などのリングネームで活躍し、キラー・コワルスキーやディック・ザ・ブルーザーと並ぶ三大悪役レスラーと称された。この頃、コーチとして知られるフレッド・アトキンスのもとで厳しいトレーニングも受けている。

1963年力道山が急逝すると日本に帰し、豊登に代わって日本プロレスエースとして君臨。インターナショナルヘビー級王者として、幾多もの有名外国人レスラー闘をくり広げた。タッグとしては吉村明とのタッグアントニオ猪木とのコンビ「BI」が有名。BIの解散後は、坂口征二東京タワーズも結成した。

1973年日本テレビの後押しを受けて全日本プロレスを旗揚げ。NWAとの強いコネクションを生かして、旗揚げ当初から外国人選手をそろえた。1974年にはジャックブリスコ、1979、80年にはハーリー・レイスを破ってNWA世界ヘビー級王者にも就いた。全日本設立後は、新日本プロレスアントニオ猪木から何度となく対戦要をされたきたが、1979年の「オールスター戦」で「よし、やろう」と言ったきり、対戦はできずじまいだった。

猪木と異なり、異種格闘技戦には消極的だった。一の試合はラジャ・ライオンとの一戦のみだが、その評価は…「お察しください」。

1984年4月スタン・ハンセンブルーザー・ブロディ組との試合で首を痛め、3000を越えた連続出場記録が途絶える。また1985年の対ハンセン戦でPWFヘビー級王座から陥落して以降はタイトル戦線から一歩引き、リング上ではファミリー軍団VS悪役商会のような明るく楽しいプロレスに専念。また全日本プロレス中継の解説者としても活躍した。

1999年1月31日大腸癌の肝転移による肝不全で死去。妻である馬場元子の意志により、レスラーたちには病状を知らせず、最期を看取ったのも元子と姪、実姉、運転手だった和田秘書だった仲田だけであった。同年4月17日には日本武道館ファン葬を開催。5月2日には東京ドーム引退試合が行われた。

主なライバルレスラー

タレント、もしくはキャラクターとしてのジャイアント馬場

その大きな体もあって、昔から大男=ジャイアント馬場という形で数々のギャグにされてきた。特にビートたけしは「オールナイトニッポン」で様々なネタを披露(飛行機に乗るときは、両手をの中に入れてばいになるなど)。今でも使われる馬場ネタの大半は、たけしオールナイト由来と言ってよい。

物真似の題材としても古くから使われていたが、その先駆者は「ぎんざNOW!」時代から物真似してきた関根勤だろう。関根に対して、馬場は「はアッポーなんて言ってないよ」と文句を言ったが、関根が「をぬぐって大きく息をつくときの仕なんです」と実演したのを見て「それは似ている」と認を与えていた。

CMキャラクターテレビ番組レギュラーとしても活躍。グリコの「ジャイアントカプリコ」やヤマハの「マイバンドにも弾けた!という、今考えるとずいぶんなフレーズが流行った)」、日本テレビの「クイズ 世界SHOW by ショーバイ!」などで存在感を見せていた。
その一方、一度ムッとするとテコでも動かないキラーぶりをトーク番組のゲストで何回もみせている。

テレビだけではなく映画にも何本も出演。その多くはやはり、大男としての役柄ではあったが、日本プロレスラーでもっともタレントとして成功したレスラーと言っても過言ではないだろう(アントニオ猪木タレント活動は盛んだが、さすがにゴールデンタイムの番組レギュラーは持っていない)。

漫画アニメキャラクターとしても「ジャイアント台風」や「タイガーマスク」など多数の作品に登場。前述の梶原一騎作品以外でも、スポーツ4コマ漫画の題材として格好の素材だった。

得意技

長身を生かした技を得意としていた。全日本プロレス時代のファイトしか見ていない人は馬場スローモーというイメージしかないが、海外遠征中は巨人らしからぬスピーディーな動きで、当時の動画を見た人の多くが「馬場が速い!」と仰する。プロレス選手としてのジャイアント馬場の全盛期は、このアメリカ遠征中および帰日本プロレスの絶対的エースとして活躍した1960年代後半とされ、全日本プロレスを旗揚げした1973年・34歳の時点ではすでに格闘としては下り坂であった(もっともこの当時、プロ野球でも大相撲でもスポーツ界全般において30代半ばはすでに大ベテラン・老年期と言われていた時代である)。そこから馬場の第二のプロレスラー像としての「衰えた動きをカバーする大きな体ならではの見せ方」が追求されていくことになる。

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