ダブルスタンダード 単語

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ダブルスタンダード

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ダブルスタンダードとは、矛盾の一形態である。ネット掲示板議論などでは「ダブスタ」と略して使用されることもある。

概要

同種事への対処にあたって相矛盾する二つの基準を使い分けることをす。日本語では二重基準など。錯誤が背景にあるもの、感情が背景にあるもの、利背景にあるものなどがある。

スタンダードの必要条件

ここでいうスタンダードとはISOやJISのような規格という意味ではなく、判断基準・ルールといった性質のものである。あるスタンダードを掲げてを行う場合、そのスタンダードを他人に押し付けていることになる。

スタンダードを他人に押し付けるための十分条件は論点先取などの問題になるのでここでは深入りしないが、他人に押し付けるスタンダードであるための最低限の必要条件というものは存在する。

すなわち、スタンダードルールであるという性質上、スタンダードを掲げた本人にも相手方にも時機を選ばず等しくに適用されなければならない。こういった性こそが、ルールが持つ強制の黙示的根拠であり、必要条件なのである。

ダブルスタンダードの問題点

ここまで言えばダブルスタンダードの問題点はほぼ自明であるが、自身が掲げたスタンダードを、自分が有利になるときは人に押し付け、自分が不利になる時には違うスタンダードを持ち出して適用を免れるという行為は、スタンダードの正当性の黙示的前提である性を否定してしまうことになる。

この二つの基準が矛盾していて性を欠く点がダブルスタンダードの本質的問題である。二つの基準それぞれが単独で誤っているかどうかという問題ではない。

ダブルスタンダードが通用してしまう背景

このような不がまかり通ってしまう背景には、全く同じ事と言うものは通常は発生しないため、わずかな差を理由に言い逃れをされたり、仮にダブルスタンダードであることが示されてもそれを判定したり処罰したりする仕組みが存在しなかったりするということが挙げられる。

特に政治家マスコミ国家などは、政治の大きさに例して他者がダブルスタンダードを取り締まることが難しくなるので、弊が大きくなり非常に厄介である。

集団によるダブルスタンダード

対立する基準A,Bを持つ2人が属する集団があるとする。この集団に対してAの基準を提示すればBの基準を持つものが反発し、Bの基準を提示すればAの基準を持つものが反発する。結果として、この集団にダブルスタンダードを有する個人がいなくても、集団自体はダブルスタンダードになってしまう。

的の大は同じだがその理由や細部が異なる者の集団と議論すると起こりやすい。集団と議論する際は集団は原則として完全に一致した意見を持っているわけではないことを頭に入れておきたい。

ダブルスタンダードとして問題にならない場合

基準を二つ持ち出した時点で形式上はダブルスタンダードには違いないのだが、上記で述べた性が侵されない場合はダブルスタンダードの問題にはならない。

他者に影響を及ぼさない場合

他者にを及ぼさない場合は基本的に個人の自由であり、そこに性の問題は存在しない。そもそも己の信条を全ての事柄に当てはめて一貫した対応をとるなど現実にできようはずもなく、ほとんどの人間が生きていく中で「それはそれ、これはこれ」などと言いながら、その理由をきちんと説明できなかった経験はあると思われる。

生き様として批判の対になることはあるが、批判される場合の多くは(間接的・消極的なものを含めれば)他者にを及ぼす場合である。

  • お金を節約するが特定の条件になるとお金を惜しまない: 原則としてその人の内部の問題である。ただし、その人のケチによって損を受けたり、逸失利益があったりした人がいる場合はその限りではない。
  • 普段なら絶対にしないが、しない方がめんどくさい場合はする: 同様に個人内部の問題である。頼みを聞いてもらえなかった人がいる場合はその限りではない点も同様である。

統一した理論で説明可能な場合

Aの時はBの基準、Cの時はDの基準というのはダブルスタンダードだが、「Aの時はBの基準を用い、Cの時はDの基準を用いる」というものを一つの大きな基準と見た場合、「ダブルスタンダードではなくなる。

たとえば、子供自由権の制限や障害者に対する支援等、判断を変える背景・差違が十分に合理的なものであればダブルスタンダードとして問題視されることはない(ただし、背景・差違が合理的であるかにつていは議論の余地がある)。

もちろんこのような制限にまかり通るようならダブルスタンダードというものは一切存在しないことになるが、要はスタンダード性が保たれていれば、ダブルスタンダードの問題は生じないのである。このあたりは重要な点と思われるので後で例を交えて検討したい。

解消された場合

矛盾した過去の基準をすべて撤回すると認めた場合はダブルスタンダードとまでは言えない。考えが議論・時間の経過によって変わることはありえることで、非を認めて過去の基準の変えてはならないというわけでなないからである。だが、過去に支持した基準によって利益を得た後で、状況によって都合のいいように立場を変えているようでは、性が保たれているとは言えず、実質的にダブルスタンダードと変わりない。「手のひら返し」はこれに近いものがある。

何らかの権利・特権が背景にある場合

正当な権利を有する者と有しない者の扱いが、その権利が及ぶ範囲で異なるのは当然のことでありダブルスタンダードには該当しない。

なお、使用者本人がありもしない特権をしてを期していない場合については、ダブルスタンダードよりむしろ暴論・強権の類として批判されるべきものである。

対処

相手がダブルスタンダードを用いている場合、矛盾を前提に含んでいるため、理論上は矛盾摘することで対処可である。しかし、議論に強制が伴わないと、権や人格攻撃など理論外の手段により潰されて対処不可能である場合が多い。以下に対処方法を考え得る範囲で記しておくが、対処できるとは限らないのが現実である。

錯誤に基づくもの

一番対処が容易である。問題の根底や相手の事情を理解していないので、それを説明して錯誤を自覚させればよい。ただし、相手を刺しないように気を遣わなければ、感情的な喧嘩に移行するおそれがある。相手が「自分で錯誤に気づけない程度の能力」しか持ち合わせていないことを忘れてはいけない。同時に、自分になんらかの錯誤があって相手をダブルスタンダードと勘違いしている危険性の検討も怠ってはならない。

感情に基づくもの

どうしても私情が挟まってしまい、統一した理論に基づいて手を下せない場合というのは存在する。相手に矛盾があることを示しながら、説得すれば相手の感情が変わることがあるかもしれない。しかし、感情的な問題なので確実な方法は存在しない。

利害に基づくもの

相手が利に基づいて意図的にダブルスタンダードを用いている場合、説得はまず不可能である。

この場合、相手は実際は利関係や何かしら裏の意図で動いているものの、そのことを言すれば信用が失墜するためそれを防ぐ的で理論を意図して曲げているわけで理論だけで説得することは不可能である。また、利関係者からの圧などにより叩き潰される危険が非常に高いため、通常は説得をあきらめ利調整するしかない。

調整も不可能な場合、相手の利関係や矛盾を暴露することで世論の圧をかけたり、いは相手ごと叩き潰してしまうしかなくなるがこれはもう理論上ではない権闘争であるため、もしやろうというなら自分の権体力・状況を見極め慎重に決断しなければならない。また、自らが煽動者となってしまう危険性も自覚しておくべきである。

集団によるもの

原因は集団における基準統一の欠如である。集団内で基準を統一する仕組みが先に出来ればいいのだが、実際にそれが可である場合は希有である。

これに対し、ある的を持つ集団の構成員間の差異を利用して複数の微妙に異なる意見を一つに束ね、理論が自己矛盾しているとしてその的全体を批判するという詭弁が存在する。 自分が集団側の場合は引っかからないように注意したい。また表面上同じ的を持っている人間でも、意図する理由が違う場合があることも頭に入れておきたい。

労力不足によるもの

ダブルスタンダードを解消するのに時間や労が一人では足りない、というもの。インターネットでのやりとりの「じゃあなんで○○なときは同じことを言わないんだ?」と摘されたときがこれに当たる。

理論的には時間さえかければ解決できるはずだが、無限に労を投入できるはずもなく、現実にはそういった解決は不可能であることが多い。現状をダブルスタンダードが解消されつつある過渡的な状態であるとみなすことで解決が図られることもある。

そもそも、上述の摘自体も「○○なときは同じことを言わない」のだから現在議論でも「言うべきではない」という論法になっており、摘が正しい場合も誤っている場合もある。この点についてはダブルスタンダードの問題から離れてしまうので当記事では扱わない。Wikipediaでは詭弁の項の「自然主義の誤謬」exitに内容的に近いことが書かれている。

実例

関連項目

コラム: ダブルスタンダードはシングルスタンダードに変換できるのか

記事で述べたが、ダブルスタンダードに見えるでも性の保たれた統一的な理論で説明可であればダブルスタンダードの問題にはならない。

1: スポーツの美学

ここでは一部の野球ファン(と例を提供して下さった編集者)には申し訳ないが、一番が立たなさそうな当記事にある下記の事例を用いて説明する。

巨人の補強は汚い補強、阪神の補強はきれいな補強

この事例では「補強は汚い行為」という基準と、「補強はきれいな行為」という基準が混在していてダブルスタンダードであるかに見える。

さて、ここでスポーツの美学について以下のような考え方を持ち込む。

スポーツは対等な関係で正々堂々と勝敗を競うからこそ美しい

あくまでも説明のための例示なので、異論は認めない

さらに、巨人阪神の資の差を考慮する必要がある。巨人の戦績は阪神を圧倒しているが、資でも巨人阪神を圧倒している。たとえば2019年で言えば、過去優勝回数は巨人が37回に対して阪神は5回と巨人の方が圧倒的に多いが、年俸総額でも巨人が約52億円に対し阪神は34億円で1.5倍の開きがある(数え方などで数字が不正確でしたらご容赦を)。こうなってくると、チームの勝敗が試合の前から資によって球場の外でほぼ決まってくる形になり、「対等な関係」が破壊されて「美しい」といえなくなってくる。

そのような見地に立てば、資が豊富な巨人がさらに資を投入して補強を行う行為はスポーツの「美しい」を破壊する「汚い」行為であり、戦績面で劣る阪神が補強を行う行為はスポーツの「美しい」に近づけるための「きれいな」行為であると言うことができるのである。

もちろん補強はルールの範囲内だから問題視するべきではないという立場も存在するが、本コラムでしているのはどちらの立場が正しいという議論ではなく、「スポーツの美学」として統一して説明できる単一の基準が「存在する」という話である。

このように同じ事柄でも切り分け方によってダブルスタンダードにもシングルスタンダードにもなりうる。ダブルスタンダードだと糾弾する前に、相手がどういった立ち位置からしているかを今一度考えてみてはいかがだろうか。

2: 相互主義

報道で、中国人名の漢字日本語読みなのに、韓国人名の漢字韓国語読みであることに疑問を持ったことのある人はいるだろうか。これは、

にそれぞれ起因する。外国人名の読み方としては一貫性を欠いているように見えるが、日中日韓の各二間においては、相互の性が保たれている。

相手の自分に対する態度を常にそのまま自身の相手に対する態度に反映させることは、相手によって態度が変わることになるが、自身と特定の相手という二者間に限ってみれば常に「お互い様」でであるという点は一貫しており、性を欠いたダブルスタンダードの問題とは言えない。外交では相互義と呼ばれている。

切り分け方次第で一貫性があるようにもないようにも見えるものの汎用的なパターンと考えることが出来る。

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