レロン・リー(Leron Lee、1948年3月4日~)とは、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手である。日本での登録名は「リー」
メジャーでは4つの球団を渡り歩いた後、日本のロッテオリオンズに所属し、弟のレオン・リーと共にロッテの主力打者として活躍した。
|
アメリカでは1966年にセントルイス・カージナルスにドラフト指名され契約、69年にはメジャー昇格を果たすが守備の評価が高くなかったこともあって多くの球団を転々とし、72年を境に出場機会が減少していったため、メジャーリーグに見切りをつけ、77年に日本のロッテオリオンズに入団する。
ロッテでは大砲候補として4月2日の近鉄戦で4番打者として初出場を果たすと、翌3日には柳田豊から初安打・初本塁打を記録、しかしその後は一時不調に陥り、マスコミからは「大砲というより、壊れたピストル」と揶揄される。
これを知ってか知らずかリーは奮起し、5月8日から19日には11試合連続打点を記録するなどの大活躍で一時は三冠王を狙える位置にも立つ。
この年は最終的に打率.317、34本塁打109打点というハイレベルな成績を残し、首位打者こそ同僚の有藤通世に譲ったものの本塁打・打点の2冠王を達成。
リーを「壊れたピストル」と評したマスコミも「リーさん、ごめんなさい。不明を恥じます」とわざわざ謝罪記事まで作るほどであった。
翌78年は弟のレオン・リーを日本に呼び寄せて兄弟で強力クリーンナップを形成、80年には打率358、33本塁打90打点で首位打者を獲得し、弟のレオンも打率340、41本塁打116打点でチームの前期優勝(73年から82年までパリーグは2リーグ制)に貢献。
82年こそ故障で規定打席に到達できなかったが、83年に弟のレオンがトレードで移籍してからも有藤通世・落合博満と共にロッテの主力打者として活躍し安定した働きを続ける。
87年には川上哲治の1242試合を超え、1237試合目で1500安打を達成という記録を作るが、さすがにこの年39歳を迎えたリーも衰えには勝てなかったのか、この年は打率.276、9本塁打41打点と低調な成績に終わりそれまで一度途切れたことがなかった「打率3割、本塁打2桁」という記録も途絶え、この年限りでリーはレオンと共にチーム及び日本球界から去っていった。
途中で大洋に移籍し、最終的にヤクルトにも所属するなど3球団を渡り歩いた弟と違い、リーは日本での11年間を全てロッテで過ごした。
日本で積み重ねた1579本の安打はタフィー・ローズに抜かれるまで外国人選手の最多記録であり、また日本プロ野球で通算打率.320は4000打数以上記録した選手の中では一番高い。
2013年には8月31日に行われたロッテ戦の始球式に登場した。
現在は少年野球チームのバッティングコーチをしている。
アメリカでは黒人ゆえの差別も受けたせいか、日本においては「ここでは差別が無い」と喜び、日本人の妻を迎える等温厚な性格の親日家である。
また帽子に収まらんばかりのアフロヘア、ヒットを打った後に白い歯を見せニヤリと笑う愛嬌の良さから日本のファンに愛され、オールスターにも4度出場している。
2014年には、テレビ東京の「YOUは何しに日本へ?」という番組に登場。現在は年に3、4回来日し、日本のディズニーランドを訪れていることが判明している。
試合では右に左にとあらゆるところにヒットを放ち、相手チームの投手陣を「もう投げる球が無い」と嘆かせた。
しかしサイドスローの左投手である永射保だけは大の苦手だったようで、84年には左打者にもかかわらず右打席に立って対戦したこともある(結果はいずれも凡退。)
通算:19年 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
MLB(8年) | 613 | 1769 | 1617 | 404 | 31 | 152 | 19 | 3 | 10 | 133 | 6 | 315 | .250 | .307 |
NPB(11年) | 1315 | 5485 | 4934 | 1579 | 283 | 912 | 33 | 3 | 34 | 473 | 41 | 690 | .320 | .382 |
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/19(金) 13:00
最終更新:2024/04/19(金) 13:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。