七年戦争 単語

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七年戦争1756~1763)とは、ヨーロッパにおいてイギリスの財政支援を受けたプロイセンと、オーストリアロシアフランススウェーデンスペイン(1762年参戦)・及びドイツ諸侯との間で行われた戦争である。

概要

 オーストリア継承戦争(1740~1748)の結果プロイセンに奪われたシュレージエンの奪回を意図したオーストリアマリア・テレジアは長年の敵であったフランスとの対立関係を解消。フランスロシアと同盟を結び、さらにハンガリーザクセンスウェーデンを味方につけた。

 この時点での人口格差はオーストリア8000万に対しプロイセン側400万と圧倒的なものであり、滅亡間近と思われたプロイセンだが、プロイセンフリードリヒ2世の適切な戦争導とロシアエリザヴェータ女の死(1762)によるロシアの離反によって戦局は打開され始め、最終的にイギリスプロイセン側の勝利に終わる事となる。

戦争の経過内容

 1755年に北アメリカフレンチインディアン戦争が勃発。フランスイギリスの対立はヨーロッパにも及び、この機に乗じてオーストリア側が開戦に踏み切るのを察したフリードリヒ2世先制攻撃を行う。

 1756年10月ロボジッツの戦いでプロイセンオーストリアザクセン連合軍を打ち破り、相手の準備が間に合わぬ内にベーメンへ侵攻、プラハを包囲する。しかしプラハを救援に来たオーストリア軍に対して1757年6月リンの戦いで奇襲をしかけるが撃退されてしまう。

 やがて西からフランス軍が、東からロシア軍が到着し、プロイセンは苦にたたされる。しかし11月ロスバッハの戦いでフランスに、12月ロイテンの戦いでオーストリア勝利をおさめ、戦況を有利に進める。その後も1758年8月にツォルンドルフの戦いでロシアを打ち破る事に成功するが、10月にホッホヒルヒの戦いで歩兵の3分の1と砲兵の大半を失う。

 この敗北は兵全に劣るプロイセンにとってかなりの痛手になった。そして1759年8月プロイセンはクネルドルフの戦いでロシアオーストリア連合軍に大敗北し、兵の大半は逃走しわずか三千の兵しか残らなかった。

 壊滅必死と見られていたプロイセンであったが、ロシアオーストリアは互いに対する不信感と今までの敗北による恐怖感で最後の一手を決めることができずこれが後々の敗北につながることになる。

 体制を立て直したプロイセンは1760年8月にはリーグニッツの戦いで、11月にはトルガウの戦いでオーストリア勝利を収めるものの、多額の戦費・人的損耗・土の荒限界が近づいてきていた。さらにイギリスの財政支援10月を持って打ち切られ苦はさらに加速した。

 その一方で、同盟側も綻びが大きくなり始めていた。フランスは北アメリカ及びインドイギリス敗しプロイセンどころではなくなり、スペインに参戦をめるも効果は上がらず、長引く戦争オーストリアの隣にあるオスマン帝国の脅威を増し続けた。しかしながら消耗戦は同盟側よりプロイセンにきつく、戦争の終結は遠くないと見られていた。

 しかし、1762年1月ロシアが女エリザヴェータ死去をきっかけに戦線を離脱。これを受けスウェーデンも講和に踏み切り、長引く戦争に疲弊しきっていた列強は次々と兵をひきあげた。単独ではプロイセンに敵わないことを理解していたオーストリアは和議に踏み切り、悲願であったシェレージエンを取り返すことはわなかった。

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