享徳の乱(享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))とは、室町時代に起こった戦乱である。
関東の戦国時代開始の原因であり、日本における三十年戦争、もしくは室町将軍足利家と関東公方足利家の対立がもたらした室町百年戦争の最終局面である。宗教が絡んでこないだけ欧州よりマシかも知れない。
鎌倉府開府以来積み重ねられた関東における複数の対立軸が鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の対立に集約されて開始された戦乱である。しかし、足利成氏の戦争指導力の高さと、京都の幕府における大名の政治的争いの結果、おなじようにおきた永享の乱とは比較にならないほど戦乱が巨大化かつ長期化した。関東全体が戦域となると同時に、戦乱の影響が南奥羽、甲信越駿に京都の幕府まで巻き込んだため、応仁の乱と並ぶ室町時代最大の大乱となった。
最終的には義詮・基氏以来の鎌倉府体制を崩壊させ、鎌倉公方、関東管領の権力、勢力は大きく縮小。関東における戦国時代を招く原因となった。
そもそもの発端は、南北朝時代に兄・足利尊氏と弟・足利直義が兄弟喧嘩を始めたことによる。元々は仲の良かった二人だが、高師直の権勢が上昇した結果、両者が互いに争い、まず高師直が没落して殺され、次いで直義も死亡という壮絶な結果に終わった。(観応の擾乱)
当初、室町幕府の政務は直義が中心に行っており、この穴を埋めるために、尊氏は当時、鎌倉にいた足利義詮を呼び出し政務を行わせた。そしてこの義詮の代わりに弟の足利基氏が鎌倉に下向した。これが、鎌倉公方(鎌倉殿)及び鎌倉府の始まりである。
この鎌倉公方の下には関東執事、後の関東管領が就いて補佐した。色々な動乱政変を経てこの役職は尊氏の母方の家系である上杉氏が世襲することになる。だが、この関東管領は単純に鎌倉公方の部下というわけではなく、京都の将軍と鎌倉府の関係を取り持つ役目も任されていた。上杉氏は、犬懸上杉家、山内上杉家、扇谷上杉家、越後上杉家などの諸家に分かれて関東やその近隣で勢力を拡大する。
鎌倉府は組織としては小幕府というべき機構であった。京都の幕府は将軍―管領を軸に、探題、守護、その他の下部を統制したように、関東でも鎌倉公方―関東管領を軸に京都の幕府と同じく政所、侍所、問注所、評定衆、引付衆を置いて守護や諸氏族の統括を行い、更には恩賞充行権(おんしょうあておこないけん)すら持っていた。関東地方は先代である鎌倉幕府の本拠地で武家発祥の地であり、加えて守護以外にも有力武士が多数存在する関東統治の難しさを踏まえ、鎌倉時代の「御恩と奉公」を考えれば、これこそ関東の武士が鎌倉公方に従って、後々まで主君と仰ぐ理由となった。また武士の中には、頼朝が幕府を置いた鎌倉の土地こそ、幕府の土地に相応しい。言い換えれば鎌倉には幕府があるべきだという考えがあったのかもしれない。
義詮と基氏は同腹の兄弟であったため仲は良く、この時期の京都と関東の関係は良好であった。基氏とその子孫は基本的にこの京都との関係を背景に、関東の武士の統制及び公方の権力拡大を目指していった。
だが、正平二十二年/貞治六年(1367年)に義詮と基氏が相次いで死ぬと、京都と鎌倉の政治的関係は徐々に冷えていく。
先に、鎌倉は小幕府であるといったが、それは完全に京都から独立していなかった。関東管領、守護の任命権は京都の将軍がもっていた。鎌倉公方が管領、守護を指名し、形式的に将軍が任命するものではあったが、時に京都側はこの任命権をもって鎌倉側の人事を拒否した。この問題は、後々、上杉謙信と北条氏康の時代まで尾を引くこととなる。
加えて、このように京都の将軍から鎌倉公方へ偏諱を与えることで、将軍家と鎌倉公方家は疑似的に親子関係を結んでいた。これは鎌倉公方の血統が将軍に成れる可能性を示唆したが、一方で京都は親、鎌倉が子であり、京都に対し鎌倉が下であることも示唆していた。
こうした扱いに対し、鎌倉公方も不満を覚えていた。京都の方はあくまで鎌倉府及び鎌倉公方は幕府の一機関であるとしたのに対し、関東の方ではどちらも同じ公方であると意識されていた。こうして、鎌倉公方は京都からの独立、更には将軍位の奪取を窺い続けた。二代目鎌倉公方足利氏満は、康暦の政変(康暦元年、1379年)の際、挙兵しようとするも関東管領上杉憲春の諌死によって断念。三代目鎌倉公方足利満兼は応永の乱を起こした大内義弘と手を組んで足利義満に対し、反抗しようともしたが、関東管領上杉憲定の諫言により中止した。
こうした中で、京都と鎌倉の間を取り持っていた関東管領上杉氏と鎌倉公方の関係にも徐々に亀裂が生じていくことになる。その上杉氏も関東での力を蓄えようとして土着の武士と対立する。鎌倉公方は関東の武士たちの統制を取ろうとして、これに対し、京都側から反鎌倉の武士たちを支援して、京都扶持衆と呼ばれる集団を形成した。この結果、
という対立軸が生じはじめていた。これらがそれぞれ別個に絡みつきながら関東は動乱へと突入していく。ややこしいことこの上ない。
こうした中でまず火のついたものが上杉禅秀の乱である。詳細は個別記事に移るが、応永二十三年(1416年)に鎌倉府内部の政治闘争の結果、それまで権力を握っていた足利満兼の弟足利満隆、犬懸上杉家が敗北し、代わって山内上杉家と足利持氏へと権力が移行したのが原因である。これによって、犬懸上杉家とそれに協力していた諸族は没落した。
だが、ここで鎌倉府の中で、自身の権力拡大を狙う足利持氏と乱の早期鎮圧を願う山内上杉家で意見が乖離し始める。乱は、禅宗方の残党への攻撃からそのまま、関東の矛盾を解消するための反持氏勢力への攻撃に変化していった。応永三十年(1423年)も終わりに近づいて、鎌倉府側の京都への謝罪によりようやくこの問題は収束するのである。
だが、応永三十二年(1425年)に五代将軍足利義量が死に、更に正長元年(1428年)には前将軍足利義持が死んで、義持の弟義円が六代将軍足利義教として還俗した。義持死亡時点で僧体でなく義持に最も近い血筋の人物は持氏だった。ところが、将軍になることはおろか六代目を決める籤引に名前すら上がらず、持氏はこれに不満を抱いた。
一方で義満時代の将軍権力を取り戻そうとした義教は、各地の大名を権力を奪いもしくは討伐し始める。この対象には当然の如く鎌倉府も範囲に入っており、義教、持氏とも政治的に強硬姿勢が目立つ両者は激しく対立していく(言ってしまえば両方喧嘩腰)。
京都側では、宿老斯波義淳、畠山満家が義教の強引な政策を抑制し続けていたが、永享五年(1433年)に両者が死去すると、以後幕府では諫言できる者がいなくなり、ついに義教の専制状態となる。一方の関東でも、時の関東管領山内上杉憲実は武力衝突を必死に回避しようとして京都と鎌倉の間を取り持ち続けたが、こうした行動を持氏は裏切りとしてとらえた。
義教は鎌倉府管轄の甲斐国の紛争へ介入し、逆に持氏は駿河や三河の武士たちを味方に引き入れようとした。こうした中で持氏は長男賢王丸の元服の際、長男のそれまでの慣習としていた将軍の偏諱を求めず義久とし、更には鶴岡八幡宮で八幡太郎を名乗らせた。
憲実も義久の元服を契機として完全に対立へと移った。だがこれを京都側が、関東において持氏を抑制できる人物がいなくなったと判断する理由となり、これを受けて義教は持氏討伐の準備を進めていく。
こうした中で、京都対鎌倉、公方対関東管領の対立に火が付くのである。
永享十年八月十四日に憲実が所領の上野国に帰ると、持氏は憲実討伐の兵をあげた。持氏はこれを幕府への反逆ではないと考えていたようだが、幕府方はそうは考えなかった。義教はこれを救うため、八月二十二日には京都から持氏に討たれた上杉禅秀の子の上杉教朝を大将として持氏追討の軍を出す。更には御花園天皇から持氏討伐の綸旨を獲得。持氏は朝敵となったのである。京都側の圧倒的な軍が各方面から迫り、裏切りが続出する中、十一月には持氏は降伏した。憲実は持氏の赦免を願ったが叶わず、翌永享十一年二月十日鎌倉永安寺にて持氏自害。子の義久も同月十八日に鎌倉報国寺にて自害した。これを永享の乱といい、これにより一時的に、鎌倉公方は断絶する。
しかし、まだ終わらなかった。翌永享十二年(1440年)三月、持氏の遺児である春王丸と安王丸を擁して結城氏朝が幕府に対し挙兵したのである。同時に南奥羽で親幕府だった篠川御所足利満直が打たれた。幕府方は直ちに兵を送ったが、諸大名の揃わぬ足並みで、戦いは長引き翌年嘉吉元年四月まで長引いた。だが、結城氏朝は負けて結城城は陥落し、春王丸と安王丸は義教の命で殺された。これを結城合戦という。
鎌倉公方系統の政治勢力が一切なくなったことで、関東は京都の幕府によって他の地方と同じく一元的に統治支配される、はずだった。
ところが、この結城合戦の戦勝会で播磨守護赤松満祐によって、義教が打ち取られ、幕府は大混乱に陥ることとなる。これを嘉吉の乱という。
関東では上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦と動乱が続いた上に、武士団と上杉氏との対立が未だ燻っており、永享の乱と結城合戦の勝者上杉氏とその配下勢力は、幕府の勢力を背景に持氏方に付いた武士団を攻撃、土地を奪い取っていった。
その上関東管領上杉憲実は永享の乱後に出家引退し、弟上杉清方に関東管領の役職を譲ってしまった。結城合戦で一度復帰するも戦いが終わると再度出家し、その上、憲実は京都にいた次男房顕以外の息子を出家させてしまった。文安元年(1444年)清方が死去すると、山内上杉氏の当主がいなくなった。つまり、関東管領もその成り手もいなくなったのである。鎌倉府体制の長官と次官がいなくなり、ここに鎌倉府体制が崩壊してしまい、関東は一気に不穏な状況となる。このため、関東の武士達は鎌倉公方再興を幕府に求めるのである。
上杉氏勢力にとっても、幕府にとっても、鎌倉公方はともかくとして関東管領はいなくては困るので、幕府は綸旨まで持ち出して再三憲実に復帰を促したが憲実はこれを固辞。仕方なく、山内上杉氏の家宰長尾景仲は憲実の息子龍忠を還俗させ憲忠として関東管領に擁立する。憲実は激怒して憲忠を義絶した。
一方鎌倉公方は義教の子を擁立して鎌倉府の再建を目指す動きもあったが、これは嘉吉の乱と上杉氏の反対に合い挫折。越後守護上杉房方の働き掛けもあり、文安四年(1447年)に持氏の遺児万寿王丸を第五代鎌倉公方足利成氏とし鎌倉府再建を幕府が容認したのだった。
新しく始まった再興鎌倉府だが、その歩みは全く順調ではなかった。まず、成氏も憲忠もまだ十代と若く、持氏を支持した関東の武家たちと上杉氏勢力の紛争に指導力を発揮できなかった。加えて、鎌倉公方から京都の幕府に送る手紙には関東管領の副状が付けられることが義務付けられ、これなしでは効力を発揮しないとされるなど、鎌倉公方の権力は従前とはならなかったようである。こうした中で、関東の武士達は成氏に近づき、上杉氏勢力は憲忠の下に結集し、日に日に対決姿勢を強めていった。
こうした中で、上杉氏勢力が動きを見せた。宝徳二年(1450年)四月、東国不双の案者と称された山内上杉家家宰長尾景仲と扇谷上杉家家宰太田道真が成氏を急襲した。成氏は鎌倉を脱出し小山氏、千葉氏、宇都宮氏、小田氏らを味方につけて体制を立て直す。一方の上杉氏も成氏を追って、両者は腰越や由比ヶ浜で激突。ここで長尾、太田両氏は敗北し扇谷上杉家居館糟屋まで逃れていった。
ここで、成氏は伊豆にいた憲実と連絡して、憲実の弟重方(出家して道悦)を仲介役に、扇谷上杉氏前当主上杉持朝(出家して道朝)との和睦を模索した。成氏の出した条件は景仲と道真両名の処断であったが、両家の家宰職を処断することは露骨に上杉氏の勢力を落とすことにつながるため持朝は拒否した。
更に、成氏は幕府の管領畠山持国を仲介とした。この頃、幕府内では畠山氏と細川氏の政治争いがあり、細川氏が関東管領に親しかった。その一方で畠山氏は義教に没落させられた諸族を取り立てており、成氏は畠山氏を頼った。ところが、幕府、持国からの取った行動は、
というものであった。同時期に、名目上長尾景仲、太田道真の両者が引退の意向を見せていた。
結果は、成氏の主張を認めているようにも見えるが、幕府は関東での事を荒立てようとしない方針をとっていた。実のところ、扇谷上杉家家宰は景仲の義弟実景が引き継ぎ、太田道真に至っては家宰職を継続していた。それどころか暫くして両者は赦免を受けている。結局幕府は、名目上では成氏の正当性を認めつつ、実質のところ鎌倉公方の権力抑制を図っていた。
加えて、管領の座が成氏に好意的だった畠山持国から親上杉氏の細川勝元に移り、鎌倉からの申し入れは関東管領を通じたものしか認めないとされ、ここに至って、成氏の政治的手段による権力拡大は挫折することになる。
一度和睦した両者だったが、江の島合戦における鎌倉府体制の矛盾は解消されていなかった。その後も上杉氏、親成氏派の武士双方が領地を押領しあう事態となり、両者の対立は激化する。幕府内部で親成氏だった畠山持国が享徳四年八月に隠居に追い込まれ、成氏はここで政治的手段による権力拡大を諦めて実力行使を決断する。
享徳三年(1455年)十二月二十七日、遂に成氏は憲忠を西御門邸(鎌倉公方館)に招き謀殺した。このとき成氏方によって、同行していた家宰の長尾実景やその子憲景他22人も殺害された。成氏が山内上杉氏の拠点相模国山内を落とす一方、上杉方も長尾景仲が復帰して、憲実次男で憲忠の弟上杉房顕を山内上杉家当主として擁立し、反撃を開始する。ここに享徳の乱が始まった。
憲忠殺害に対し、成氏、上杉氏は即座に幕府に対して即座に自分たちの正当性の主張がなされた。成氏は憲忠の横暴を訴え誅伐が当然であり、幕府から関与されるいわれはないことを記した。だが、当時の管領は親上杉氏の細川勝元であった。また、将軍足利義政もこの関東での乱を契機として自身の権威確立を目指し、かくして幕府は関東管領死去の時点で持氏討伐の方針を固め、翌享徳四年(1455年)一月には景仲ら上杉氏方の支援を駿河守護今川憲忠、信濃守護小笠原光安、越後守護上杉房定に命じ、更に幕府軍を編成し始めた。
一方、関東では一月六日に成氏方の一色直清、武田信長と持朝、道真、景仲の軍勢が相模国島川原で激突し、上杉氏勢力は伊豆国三島まで交代した。景仲は武蔵国河越へと一旦逃走した上で、武蔵国内で扇谷上杉家当主上杉顕房、庁鼻和上杉家当主上杉憲信らと合流、更に上州一揆(上野国の国人たち)、武州一揆(武蔵国の国人たち)も加えて、鎌倉を目指した。成氏方も佐竹氏、大山氏、豊島氏などに軍勢を催促していた。関東全土が成氏方と上杉氏方に分かれ始めていた。
正月二十一日に、両軍は分倍河原で激突。翌二十二日もまた戦闘が発生した結果、憲信戦死、顕房自害、犬懸上杉憲秋自害という上杉方の惨敗であった。敗れた景仲は常陸大掾氏の一族小栗氏の城常陸国小栗城に逃れた。
勝った成氏は二月十八日に武蔵国村岡に進出、三月には上野国へ侵攻し、下総国へと転戦。同月三日に下総国古河へ着陣した。ここは、成氏直臣の野田持忠の領地で、利根川、渡良瀬川の水運、街道の陸運を活用でき、梁田持助、佐々木近江守といった直臣の拠点に近く、更に下総国結城氏居城結城城と下野国小山氏居城祇園城などの成氏支持の諸氏が存在しており、小栗城をにらむには絶好と言えた。成氏もまさか百年以上に渡ってこの地を拠点とするとは考えていなかっただろうが、これ以降、古河は政氏、高基、晴氏、義氏の五代と氏姫に至る古河公方家の拠点となった。
閏四月には、小栗城が陥落し、更に、景仲は天命、只木山まで逃れる。なおも成氏は攻撃を続け、六月には只木山を攻略したが、景仲はなおも逃げて、武蔵国崎西城へと入った。同時期、上野国東部では成氏方が優勢となっていた。
この頃、上杉方も漸く反撃体制が整い始める。三月に房顕が関東管領に任命され、京都から関東へと出陣。次いで、三島にいた上杉軍が今川軍と合流し、四月十五日には相模国箱根まで進撃。六月には、鎌倉を守っていた成氏方の里見氏、印東氏、木戸氏を破って鎌倉を占拠した。
同時期、上野国に房顕が越後守護上杉房定とともに進出して三宮原で成氏方を破った。更に、改元して康正元年七月には下野国まで進出した。ここで成氏も上杉撃退のために軍を出して、上杉軍を撤退に追い込んだが、成氏方に動揺が起こった。上杉方は錦旗(天皇の軍であることを示す旗)、牙旗(将軍の軍であることを示す旗)をもっていたからだ。これにより、成氏方であった宇都宮氏、千葉氏では内訌を起こす。いづれも成氏によって抑え込まれるが、成氏方の動揺は明らかだった。
当面の成氏方の目標は景仲の討伐だった。実質の上杉方中心人物は、京都暮らしの長い房顕ではなく景仲であり彼が打ち取られれば上杉方勢力の減退は免れなかった。康正元年(1456年)十二月、成氏方は景仲がこもる崎西城に押し寄せ、陥落させたものの、景仲はまたしても逃走した。翌康正二年(1457年)に入ると成氏が山内上杉家の拠点、上野国を狙って戦闘が頻発した。
なお、享徳から康正、その後には長禄、寛正、文正、応仁、文明と改元がなされているにもかかわらず関東ではこの後も、享徳の元号が使われて続けた。この時代、改元は幕府主導で行われるため、成氏方の幕府への態度を示すものであり、この乱が、享徳の乱と呼称される由来でもある。
だが、この頃になると戦況は膠着を見せ始める。当時江戸湾に流れ込んでいた利根川の西側を上杉方、東側を成氏方という勢力図がほぼ固まったことが大きい。
成氏は古河を中心として、前線拠点を整備する。成氏自身は下総国古河城を拠点とし、同国関宿城に梁田氏、栗橋城に野田氏を置いた。
上杉方も武蔵国五十子に陣を構えて、戦時体制を整えていく。康正二年(1456年)頃には、太田道灌が武蔵国に河越城、江戸城を建設し、庁鼻和上杉家も武蔵国に深谷城を築いた。扇谷上杉家は武蔵国松山城に上田氏を入れた。
この五十子の陣は、本庄台地の上に築かれた東西2km、南北1kmの巨大な城郭で、関東管領上杉房顕、越後守護上杉房定、相模守護上杉持朝などをはじめ有力者が在陣した。その他、房顕の関東管領としての政治拠点、連歌師による連歌会などが開かれる文化拠点としても陥落までの18年間機能した。
長禄二年(1458年)幕府は事態打開を目指して、将軍義政の庶兄である天龍寺香厳院主清久を還俗させて足利政知と名乗らせ、渋川義鏡、犬懸上杉教朝(上杉禅秀の子)を補佐役として関東へと派遣する。前年度に、成氏の兄で反成氏だった成潤が五十子の陣で死亡しており、上杉方からも成氏の権威に対抗できるだけの存在を求められていた。鎌倉周辺にはまだ成氏方の武士が活動しており安全のために政知は伊豆にとどまる。
その後、長禄四年(1460年)に、成氏方が伊豆にあった政知の陣所を急襲し、政知は同国堀越御所に住処を改めた。堀越御所の誕生である。政知はその後、箱根を越えて鎌倉入りの意思を見せるが、義政から止められている。結局のところ、政知は成氏に対する上杉方の象徴としての役割を求められたのみであり、義政からも上杉氏方からもそれ以上のことを必要とされていなかったのである。これは、関東における軍事指揮も義政が直接上杉氏方と行っていることからもわかる。
だが、これにより、自前の軍事力を持たなかった政知の立ち位置は極めて不安定なものとなった。政知やその近臣渋川義鏡らは伊豆や相模における所領確保のために必死の行動を起こし、その結果両国に所領を有していた両上杉家と敵対していくことになる。
ともかく、政知を公方として擁立したことで、幕府及び上杉氏方は一先ずの体制を建てたといえる。幕府は南奥羽から甲信、関東の勢力を糾合して大規模な成氏討伐作戦を進めていた。
長禄二年(1458年)には上野国における成氏方の有力武将岩松持国を幕府方へと転向させた。同年七月には、陸奥南部の白川結城家の結城直朝に宇都宮等綱を支援させて挙兵させ、更に伊達氏、蘆名氏に白川結城家を援助させた。
信濃の小笠原氏にも兵を出させるよう下知を飛ばし、加えて室町幕府三管領筆頭斯波武衛家当主斯波義敏にも出陣を命じた。斯波氏は守護大名では最高の家格を誇る御一家であり、また奥羽では斯波氏の一族大崎氏が探題を務めており、これを利用して奥州の諸族を糾合する狙いがあった。この頃には、上杉氏も五十子陣の構築などで攻守網が整った。
同年十月頃、政知の下向と幕府の援軍によって勢いを得た上杉氏方は利根川の東、太田庄へと進軍した。だが敗北した。
この失敗は、幕府の命に反し動員に応じない武将が多かったことによる。例えば、出陣予定であった最大の軍事力たる斯波義敏は関東出兵の命に背いて、家臣団との対立を理由として出陣せず、義政による再度の厳命を持っても、関東へ出陣するふりをして、越前で家臣団と戦闘に及ぶ始末であった(長禄合戦)。信濃でも守護小笠原氏が分裂してお家争いをしており、上杉氏への援軍は頓挫した。これを見た諸氏も出陣を躊躇い、ついに義政の作戦はならなかった。既に東国では、幕府は諸氏の統制ができなくなり始めていたのである。
長禄合戦を行った義敏に激怒した義政は義敏から家督を剥奪。堀越公方から軍事力の増強が幕府に要請されたこともあって、義政は斯波氏の当主に渋川義鏡の息子を斯波義廉として就任させて斯波氏の軍事力を堀越公方に直結させようとした。
政知とともに下向した犬懸上杉教朝は、両勢力の仲を取り持つことが期待されていたが、堀越公方と両上杉家が対立し始めると、両勢力の板挟みとなり、寛正二年(1461年)十月に自害した。この影響は上杉方に波及し、扇谷上杉家宰太田道真、下総国守護千葉氏実胤、相模国国人三浦時高、大森氏頼、実頼が引退する。道真の後、扇谷上杉家家宰職は子の資実(出家して道灌)が継いだ。義政は渋川義鏡を失脚させ、扇谷上杉家前当主持朝を説得するなどして収まったが、古河公方の権益確保はならず、事態の根本解決にならなかった。これにより政知が乱の趨勢に影響を及ぼすことはなくなる。
寛正四年には、上杉氏方を指導し続けていた長尾景仲が死去した。家宰職は二年前に子の長尾景信が継いでいた。文正一年(1461年)二月には山内上杉家当主上杉房顕が死去し、景信の要請でその跡を越後上杉家上杉房定の次男上杉顕定が継いだ。応仁元年(1467年)には、扇谷上杉家当主上杉持朝が死去し、子の上杉顕房は戦死していたので、孫にあたる上杉政実がその跡を継いだ。
応仁元年(1467年)一月、京都上御霊神社(現京都府京都市上京区)で畠山義就と畠山政長が家督を巡って激突した。戦闘自体は義就方が勝利したが、将軍足利義政が諸大名に対し両者の援助を止めていたにもかかわらず山名宗全が義就に援軍を送っていたことが、政長と親しかった細川勝元の面目をつぶす結果となった。宗全は一挙に幕政を掌握するが、面目を勝ち取るために勝元は諸国に援軍を要請し、京都は及び諸国は十一年の大戦乱に見舞われる。所謂応仁の乱である。
一説には、享徳の乱が応仁の乱勃発の導火線となった可能性を示唆されている。先に述べたように、斯波義廉は渋川義鏡の息子であり、関東政策のために義政が斯波氏に養子入りさせたものだった。ところが、これはもともとの当主義敏にとって当然不満であり、逆に義敏が義政近臣に働きかけて家督を取り返すなど両者は対立を続けていった。その結果、義廉は岳父宗全を頼り、一方の義敏は政元との連携を模索していった。
また、将軍の権威確立を目的として関東での戦争を進める義政に対して、むしろ将軍権力の弱体を望む諸大名としては関東への派兵は反対する所であって、これが義政、勝元の主流派に対し、山名宗全を代表とする反主流派が反対する原因となった。
だが、それ以上に関東にとってはこの乱以後、幕府が上杉方に対して積極的な支援が遅れなくなったことを意味した。殊に軍事支援は、畿内近国の掌握すらままならなくなった幕府では事実上不可能となってしまった。それでも、義政は関東への介入を続けようとするが、延徳二年(1490年)1月7日に義政が死去した以降、幕府の関東への介入はほぼなくなってしまうのである。
加えて、応仁の乱の最中、成氏方は西軍との連携を成していた。西軍は、乱が発生してから暫くのちに、将軍後継者と目されていた足利義視を取り込んで総大将としたため、正当性の上でも東軍と張り合えるようになっていった。この西軍と成氏が手を組んだことで、幕府の威を背景にして戦っていた上杉方に正当性の面で張り合えるようになる。
文明五年(1473年)六月二十三日、山内上杉家家宰職を務めていた白井長尾家の長尾景信が五十子陣で病没した。家宰職は弟で総社長尾家を継いでいた長尾忠景が引き継いだがこれに反発したのが、景信の子、長尾景春である。景春は自身の家宰職就任を希望したが、家宰職は長尾氏の中から最長老が付くのが習わしであり、加えて三代続けて家宰職に就くと白井長尾家の権力が増長すると考えた上杉顕定はこれを拒否。景春は顕定や忠景を憎むようになる。
この景春の心情に気づいたのが、扇谷上杉家家宰太田道灌である。道灌の妻が景春の叔母に当たるという関係もあって、家宰職の代わりに忠景が持っていた武蔵守護代を景春に与えるよう顕定に打診するが、顕定はこれを拒否して、忠景は家宰兼武蔵守護代となってしまう。更に、道灌は景春の排除を提案するも成氏と対陣していることを理由に顕定はこれも拒否する。
だが、上杉氏内部で白井長尾家と好を結んで利益を得ていた武士達はこの人事によって所領が削減されるのではないかとの不安を覚えることとなる。こうした中で、文明八年(1476年)六月、今川氏の内紛を収めるために道灌が駿河へ兵を率いた間に、景春は五十子陣を引き払い、武蔵鉢型城で兵を挙げた。上杉家中における白井長尾家の影響力はすさまじく、諸氏が次々と陣を引き払って、五十子陣は手薄となった。翌文明九年(1477年)正月に景春は五十子陣を急襲して陥落せしめ、ここに十八年に及んだ五十子の在陣はあっけなく終わった、と同時に長尾景春の乱も勃発したのである。
景春の乱は勢い上野国、武蔵国、相模国を中心に、甲斐国、下総国と関東の上杉方全域に広がる大規模なものとなる。ここに成氏も景春と手を結んで上杉方は一挙に窮地となる。
ところが、この反乱自体は道灌の手によって急速に鎮められることとなる。上野国、武蔵国の景春方は上杉方の手に帰するところとなる。だが、この鎮圧の最中の文明十年(1478年)正月一日、勢力崩壊の危機感を抱いた顕定と、二十年以上の戦乱に飽いた成氏の間でついに停戦が行われることとなる。更に、この時、成氏は上杉方から幕府との和睦に協力するという言質を引き出した。長きにわたる関東の大乱は漸くその終わりが見え始めるのである。これ以後、享徳の年号の使用も見えなくなった。
なお、この停戦の二か月前の文明九年(1477年)十一月に大内政弘の帰国によって応仁の乱が終結。京都の幕府でも、戦後の体制に目を向けられるようになるのである。
とはいえ、この停戦時点では、景春とその与党は武蔵を中心に上野、下総で暴れまわっていた。そのため、上杉方はこれへの対処を余儀なくされてしまい、成氏と幕府の仲介どころではなくなってしまう。これによって、成氏は再度景春と手を結び、景春を幕府との仲介として和睦を模索し始めたのである。これを受けて、上杉方は景春への攻勢を強め、文明十二年(1480年)六月に日野城が陥落し、三年半にわたった乱も収束したのである。
成氏がその後頼みとしたのは、越後上杉家の上杉房定であった。乱の初期から上杉方の主力として活躍し、関東管領上杉顕定の実父でもあり、京都の幕府からの信頼も厚い一方で、成氏の鎌倉公方就任に尽力した人物であると、成氏にとっては打って付けの人物であった。文明十二年(1480年)七月に成氏から房定への仲介申し入れがあり、以後和睦交渉は進んでいく。
文明十四年十一月二十七日(1483年1月6日)に義政から成氏への正式な和睦の御内書が発給され、朝敵にもなった成氏は幕府とも正式に和睦した。これを都鄙合体と言い、ここに二十八年の長きに渡り続いた享徳の乱もようやく終わりを迎えたのである。
まず、和睦の内容として成氏が関東を統治し、伊豆は政知が支配することになった。実質的に成氏の正当性が認められた形だが、上杉氏が内部対立を始め成氏は鎌倉に帰れず、関東公方が二人並列する状態が暫く続くことになった。東国に一定の安定と秩序をもたらした鎌倉府は名実ともに完全に崩壊し、関東は戦乱の世に突入したのである。
また、長尾景春の乱を終わらせた太田道灌及びその主家である扇谷上杉氏の権威が上がった。そのため上杉氏の中で管領を務めていた山内上杉氏はこれに危機感を覚えた。これが後の長享の乱につながっていく。
更に、中央や甲信越駿などを巻き込みながら、三十年間断続的に戦争状態というのは関東地方の武士たちを疲弊させた。これは後に北条早雲ひいては後北条氏の関東侵入につながっていく。
ちなみに享徳の乱の間に、応仁の乱が発生しているため、日本は戦国時代へと突入していくこととなる。
上杉氏方 | 成氏方 | |
常陸国 | ||
下野国 | ||
下総国 | ||
上総国 | ||
安房国 |
|
|
上野国 | ||
武蔵国 | ||
相模国 | ||
伊豆国 | ||
越後国 | ||
信濃国 | ||
甲斐国 | ||
駿河国 | ||
陸奥国 | ||
幕府 |
掲示板
15 ななしのよっしん
2019/06/30(日) 07:26:46 ID: vtBCsnpxuT
信長の野望だと足利成氏クソ強いし
ちゃんと野望も100なのが好感持てる
16 ななしのよっしん
2019/10/07(月) 02:08:21 ID: 500fDgxYgp
この時期の関東情勢は足利成氏と上杉顕定を主軸に太田道灌・長尾景春・北条早雲・長尾為景が絡んでくるって感じよね
つーかヤベー面子だわw
17 ななしのよっしん
2019/10/07(月) 02:49:09 ID: Qg0zH56yPl
早雲・為景の活躍は享徳の乱の時代より後の時期だ
とはいえ、早雲・為景が途中参戦の時点でやばいのだが。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/20(土) 05:00
最終更新:2024/04/20(土) 05:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。