埼玉西武ライオンズ 単語

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サイタマセイブライオンズ

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西武ライオンズ ロゴ

埼玉西武ライオンズとは、埼玉県所沢市にあるベルーナドーム西武ドーム)を本拠地とするプロ野球チームである。単に西武、西武ライオンズ、ライオンズとも。二軍チーム名は同じ。2軍本拠地は西武ドームと同じ敷地内にあるCAR3219フィールド西武第二球場)。

現在監督松井稼頭央2023年~)。

概要

1950年の2リーグ制発足時に誕生した西鉄クリッパースルーツである。シーズン終了後に同じく福岡県を本拠地とする西日本パイレーツと合併し、翌1951年シーズンより西鉄ライオンズとなった(会社の西日本鉄道戦前西鉄軍を経営していたが、解散・消滅扱いとなっているためルーツには含まれない)。

三原脩監督揮の下、1954年1958年の5シーズンで4度の優勝2位1回)を果たす「西鉄黄金期」を築き、「野武士軍団」は人気を博した。しかし、1969年の「黒い霧事件」発覚でチーム全にボロボロになり、1972年シーズンをもって西鉄ライオンズ終焉を迎えた。

太平洋クラブライオンズクラウンライターライオンズについては別記したためここでは省略

1978年シーズン終了後に、土計画との間で球団譲渡の契約がまとまった。条件に「埼玉県所沢市への移転」が含まれており、これを了承したためライオンズ福岡撤退が決定した(西武ライオンズ誕生)。こうして、福岡を本拠地とするライオンズ歴史に終止符が打たれた。

1982年に初優勝を決めて以降は黄金期を築き、パ・リーグで圧倒的な集客を誇った西武ライオンズだったが、1985年に6球団との競合の末に獲得に成功した清原和博による好パ・リーグ全体に波及した。1988年には190万人の集客に成功し、他球団も休日に満員になる試合が出るなどまさにパ・リーグブームと言っていい時代だった。

西武ライオンズの選手の年俸は他球団にべて圧倒的に高かった。ただ、その代わりに選手に対してCM等への出演を禁止していた(1993年に解除)。

1994年森祇晶監督退任までの13年間で11回の優勝(8回の日本一)を果たして黄金時代を築き、2006年まで25年連続でAクラス入りするなど強球団として名を馳せた。しかし、2007年に5位に沈んでついに1981年以来のBクラスに転落した。

2008年シーズンより、チーム名を埼玉西武ライオンズに変更した。ただ「埼玉」とつけただけでなく、県営大宮球場での試合開催、ファン市民が選手と一緒に参加できるイベントを開くなど、これまで以上に地域密着を図るようになった。ちなみに2軍の名称も基本的には1軍と同じだが、命名権売却により2005年2006年インボイス2007年グッドウィル二軍とは異なる名称が付いていた(ともに「ライオンズ」は付かない)。

催試合での観客動員数1万人割れイメージが強かったが、2008年には上記の通り地域密着を活性化させた。これによって2009年は1試合のみ、2010年は2試合と1万人を割ることは少なくなった。

本拠地

福岡時代の西鉄クリッパーズ、西鉄ライオンズ太平洋クラブライオンズクラウンライターライオンズ時代は平和台球場が本拠地。平和台球場現在は解体されて存在しない。

所沢に移転した後の(埼玉)西武ライオンズ時代は西武ライオンズ球場1998年からはドーム化に伴い名称が西武ドームに変更(実際に屋根がかけられて本来の意味でのドームになったのは1999年から)。

命名権売却により、2005年2006年インボイスSEIBUドーム2007年グッドウィルドーム、一旦西武ドームに戻った後2015年2016年西武プリンスドームに、2017年2021年メットライフドームに、2022年からはベルーナドームとなっている。

2018年から球団40周年記念事業として修工事が始まる。

ユニフォーム

西鉄時代
マイナーチェンジを経て、1954年から黒色帽子ラインレターを基調したデザインが登場。胸ロゴドイツ文字と呼ばれた書体で「Lions」、帽子マーク西鉄のNとライオンズのLを重ねたマークとなり、西鉄黄金期を添えた。2008年に行われたライオンズクラシック復刻ユニフォームとして一部の試合で着用された。
西武時代
チームカラーライトブルーとなり、ユニフォームもそれに合わせた。帽子には手塚治虫デザインレオマークがついた。ライオンズクラシックの評判が良かった事や、西鉄時代の歴史融合という意味も兼ねて、2009年からユニフォームからへ大幅リニューアルした。

ライオンズの西武身売りの経緯

西鉄ライオンズは当時まだ20代中西太を兼任監督に抜監督の給料をケチるため)したり、給料の高くなった選手を毎年のように放出していた。そのような経緯でチームは年々弱体化を続け、黒い霧事件発覚による池永正明投手選手の永久追放もあり、西日本鉄道は球団経営の意欲を全に失った。

一時はペプシコーラへの身売りが内定するも、同時期に東映フライヤーズの日拓ホームへの身売りが発覚し、ペプシはこの話を破談にする。事態に窮した当時ロッテオリオンズオーナーであった中村長芳は「個人」でライオンズを引き受けることを決意し、オーナーを辞してライオンズを買収した(福岡野球設立)。

しかし、球場からの収入だけで経営を成り立たせる必要があるにも関わらず

  1. 中村平和台球場弁当契約白紙に戻す
  2. 弁当販売の利権を持つ議会議員の働きかけで平和台球場が使用不可に(中村が他所者なのも理由らしい)
  3. 何とか使用可にはなるものの、使用料が西鉄時代とべて12倍強に

といった経緯もあって経営は火のであった。そこで太平洋クラブ(1973~76年)、クラウンガスライター(1977~78年)とネーミングライツ契約を結んだものの焼け石にで、負債雪だるま式に膨らむ一方であった。中村は伝手を頼って土計画の義明に接触し、ライオンズ埼玉県所沢市への移転を条件に譲渡に成功した。こうして1978年シーズンをもって、福岡市を本拠地とするライオンズ歴史は終わった。

たまにあるのが、西武福岡からライオンズを奪ったという意見である。それどころか、当時は「中村ライオンズ倒産させてたちのライオンズを作ろう」とする者も居るなど、実質的には福岡が追い出したようなものであった。

余談ではあるが、福岡市民が元々大阪の球団であったホークスを受け入れたのは、ライオンズを失ったことへの後悔と反省があってのことだと言われている。

優勝見届け人

どういうわけか他球団の優勝決定をの前で見届けされられるという運命にある。また見届けない年も優勝アシストさせられてたりする。2008年優勝して以降、

2009年 日本ハムサヨナラ負けし、胴上げ見届け
2010年 日本ハムサヨナラ負けで、ソフトバンク優勝決定
2011年 ソフトバンクに敗れ、西武ドーム胴上げ見届け
2012年 ロッテに敗れ、日本ハム優勝決定
2013年 楽天に敗れ西武ドーム優勝見届け。田中の8球も参照
2015年 ソフトバンクに敗れ、胴上げ見届け
2016年 日本ハムに敗れ、西武プリンスドーム胴上げ見届け
2017年 ソフトバンクに敗れ、メットライフドーム胴上げ見届け

赤字は本拠地での見届け

と、2018年に再び優勝するまでの9年間でなんと6回。2015年から2017年まで3年連続で相手チーム優勝による胴上げを見届けている。うち本拠地西武ドームでは4度見届けている。

コラボレーション

2010年を皮切りに、西武に地元埼玉舞台TVアニメとのコラボレーションを年1回をベースに開催している。オリックス・バファローズ戦で組まれることが多い。

1 2010年6月30日 北海道日本ハムファイターズ おおきく振りかぶっておおきく振りかぶってDAY)
2 2011年7月30日 オリックス・バファローズ クレヨンしんちゃんクレヨンしんちゃんデー)
3 2012年6月24日 オリックス・バファローズ らき☆すたらき☆すたデー)
4 2013年6月22日
2013年6月23日
オリックス・バファローズ Saitamaユニフォーム始動だゾ。(クレヨンしんちゃんデー、22日)
らき☆すた 2nd SEASON(23日)
5 2013年8月17日 東北楽天ゴールデンイーグルス 劇場版 あの日三田名前たちはまだ知らない。
劇場版あの花平和ライオンズデー~)
6 2014年7月12日 オリックス・バファローズ ヤマノススメヤマノススメデー)
7 2015年3月29日 オリックス・バファローズ ダイヤのAダイヤのAデー)
8 2016年7月9日
2016年7月10日
オリックス・バファローズ ドラゴンボール超
9 2017年9月9日 北海道日本ハムファイターズ ダイヤのAダイヤのAデー)
10 2018年4月29日 東北楽天ゴールデンイーグルス MAJOR 2nd

ボンバーマン

チーム内ではハドソンアクションゲームボンバーマン」が流行している。選手ロッカーから移動中のバスまで、所構わず爆撃音が鳴りいている。チーム内のランクでは横綱に位置するのが涌井秀章小野寺力大関には石井一久岸孝之2009年には石井一久によって、WBCワールドボンバーマンクラシック)が開催される。ゲームをほとんどしなかった菊池雄星をも巻き込み、「ライオンズの選手がボンバーマンで遊ぶ」ニュースが扱われるようになった。

ハドソンの関係者も喜んでいるようで、コラボレーション企画にはノリノリらしい。

ボンバーマン以外ではナムコファミスタ人気

FA流出という恐怖

シーズンオフになると、毎年のように所属選手のFA流出が話題に上る球団として知られる。

1993年NPBFA制度が導入されて以来、所属選手がFA宣言で流出した数は、12球団の中で西武ライオンズがダントツである。

以下に、FAで移籍した選手を一覧で表示してみる。

  1. 1994年 工藤公康ダイエー横浜西武復帰
  2. 1994年 石毛宏典ダイエー
  3. 1996年 清原和博巨人オリックス
  4. 2003年 松井稼頭央MLBメッツ楽天西武復帰
  5. 2005年 豊田清巨人
  6. 2007年 和田一浩中日
  7. 2010年 土肥義弘MLB挑戦
  8. 2010年 細川亨ソフトバンク楽天ロッテ
  9. 2011年 帆足和幸ソフトバンク
  10. 2011年 ミンチェオリックス
  11. 2012年 中島宏之MLB挑戦→オリックス巨人中日
  12. 2013年 涌井秀章ロッテ楽天中日
  13. 2013年 片岡治大巨人
  14. 2015年 脇谷亮太巨人
  15. 2016年 岸孝之楽天
  16. 2017年 野上亮磨巨人
  17. 2018年 浅村栄斗楽天
  18. 2018年 炭谷銀仁朗巨人楽天西武復帰
  19. 2019年 秋山翔吾MLB挑戦→広島
  20. 2022年 森友哉オリックス
  21. 2023年 山川穂高ソフトバンク

2024年シーズン開幕時点で21人。多すぎである(ちなみに、2番に多いチーム日本ハムで15人)。

これだけの選手がなぜFA宣言して出ていってしまうのか、選手本人の口からられることがほとんどないので、実際のところは不明のままであるが、よく理由として挙げられるのは以下の点である。

今年はどの選手がいなくなってしまうのか、シーズンも終盤に近付くとファン恐怖に怯えるという。中には、「FA権を得た選手は来年はいないものと考える」と達観するファンもいるとかいないとか。

毎年がいなくなるのにAクラス常連であり続けているのはすごい、と他のチームから言われたりするが、西武ファンとしては複雑な思いであろう。


一方で近年はFA権宣言残留も増えている。

  1. 栗山巧 2016年FA権宣言残留
  2. 中村剛也 2018年海外FA権宣言残留
  3. 十亀剣 2019年FA権宣言残留
  4. 増田達至 2020年FA権宣言残留
  5. 熊代聖人 2020年FA権宣言残留
  6. 岡田雅利 2021年FA権宣言残留
  7. 外崎修汰 2022年FA権宣言残留

栗山巧中村剛也は共に2001年入団。周りが移籍していく中長年に渡り打線を支え、共にFA権を宣言して残留。栗山2000安打中村は450本塁打記録するベテランとなった。この二人のコンビは「と牙」と呼ばれている。

関係者

首脳陣・スタッフ

※就任、退団などでの異動は球団の正式発表があるまで編集しないでください。

一軍 二軍三軍

現役選手

※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示exitがあるまで編集しないでください。
ドラフト名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。

支配下選手
投手 捕手 内野手 外野手
育成選手
投手 捕手 内野手 外野手

記事のある球団スタッフ

編成部

ライオンズアカデミー

OB

あ行 か行
さ行 た行
な行 は行
ま行 や行
ら行 わ行

戦跡

リーグ優勝21回、日本一13回(西鉄時代含む。どちらもパ・リーグ最多)。最後に日本一になったのは2008年で、この年はアジアチャンピオンにもなった。

西武ライオンズ時代

1979年は、阪神タイガースから田淵幸一ロッテオリオンズから山崎裕之野村克也というビッグネームを獲得して大きな話題を集めた。ドラフト会議では森繁和名し、ドラフト外松沼博久松沼雅之兄弟を獲得したが、田淵獲得での大流血(レギュラー竹之内雅史真弓明信若菜嘉晴放出)が尾を引き、開幕から12連敗(2引き分けを挟む)を喫するという最悪の出となった。前期(この時期は前期後期制)は最下位を独走、後期はやや持ち直して5位に上げたが、前期の低迷がいて総合順位では南海ホークスに僅差(1勝差)の最下位で終わった。

1980年-1981年

1980年も前期6位に低迷するが、スティーブ・オンティベロスを獲得した後期は貯5を作り4位(3位のロッテと貯は変わらず)に躍進、通年でも5割近くまで勝率を上げ4位となった。


1981年テリー・ウィットフィールドを獲得、さらにドラフト会議石毛宏典杉本正を獲得し、選手層は厚みを増した(ドラフト外でも秋山幸二を獲得)。前期は貯5を作り台風となるが(2位)、後期は最後に尽き、5位に終わった。総合順位はBクラスの4位ではあったが、西鉄時代の1967年以来14年ぶりとなる勝率5割シーズンを終えた。クラウンライター時代から4年間揮をとってきた根本陸夫は「育成の時代は終わった。あとは勝つ野球をやるだけだ」という名文句を残し、広岡達朗チームを託して監督を辞した(この後、フロント入りして辣腕を振るうこととなる)。

詳細

1982年-1994年

西武黄金時代を参照

1995年(67勝57敗6分、3位) 監督:東尾修

東尾修監督1年シーズン。元々新監督に予定されていたのは石毛宏典であったが、現役へのこだわりから福岡ダイエーホークスFA移籍してしまう。他にも、工藤公康辻発彦黄金時代を支えた選手が移籍し戦が低下したが、この年から鈴木健が台頭。また投手が頑り、3位に留まった。カリブの怪人ことオレステス・デストラーデも復帰したが、結果を残せず途中退団した。また、清原和博FA権を取得したが、行使せずに残留した。

ドラフト会議では、高木大成大友進らを名・獲得した。

1995年-1999年

1996年(62勝64敗4分、3位) 監督:東尾修

この年も3位に終わり、勝率5割を切った。オフ清原和博FA宣言して退団(巨人に移籍)するが、その一方で若手の台頭という明るい話題もあった。松井稼頭央遊撃手レギュラーに定着して50盗塁記録し、垣内哲也が28本塁打記録した。ルーキー高木大成伊東勤と正捕手の座を争い、大友進が後半戦からレギュラーに定着するなど新旧交代は確実に進んでいた。

ドラフト会議では、森慎二和田一浩らを名・獲得した。

1997年(76勝56敗3分、1位) 監督:東尾修

清原の移籍で得点低下が懸念されたシーズンであったが、それは杞憂に終わった。打を活かすために高木大成一塁手に転向させ、松井稼頭央大友進高木大という「脚でかき回す」1・2・3番を構成した。松井は62盗塁記録盗塁王)し、チーム盗塁数200も達成した。新4番打者の鈴木健打率4割と最高出塁率記録し、新外国人ドミンゴ・マルティネスが長打を発揮した。前年不調だった佐々木誠打順こそ6番に下がったものの三割を記録しており、最終的にこの3人と松井が打撃十傑にランクインするという快挙となった。

投手は長年西武リリーフを支え続けた鹿取義隆が衰え(オフ引退)、潮崎哲也先発転向でサンフレッチェ(鹿取・潮崎・杉山賢人)が崩壊するが、前年台頭した石井貴や新人の森慎二がそのを埋めた。先発では、西口文也大車輪の活躍で沢村賞を獲得した(MVPにも選出)。

3年ぶりにリーグ優勝を果たしたが、ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れた。

ドラフト会議では、土肥義弘らを名・獲得した。

1998年(70勝61敗4分、1位) 監督:東尾修

高卒4年小関竜也レギュラーに定着して新人王にくが、それを除くとスタメンの顔ぶれは昨年とあまり変わらなかった。投手森慎二が「2年目のジンクス」で不振に陥り、一時は西口文也リリーフに回すような状態であったが、前年移籍して才の開したデニー友利らで何とかそのを埋めた。

一時は独走状態であった日本ハムファイターズの急失速により、わずか貯9での逆転優勝を果たしたが、横浜ベイスターズとの日本シリーズでは2勝4敗で敗れ、2年連続で日本一になれなかった。この年のオフドミンゴ・マルティネスが「守れない」ことを理由に解雇された。

ドラフト会議では、松坂大輔を競合の上、1位名・獲得した(他には赤田将吾ら)。

1999年(75勝59敗1分、2位) 監督:東尾修

的な投高打低のシーズンとなった。マルティネスが抜けたを埋めるべき新外国人選手が外れに外れ、日本人選手も松井稼頭央を除いて軒並み成績を落としてしまった。打線は左打者に偏重し、翌年天敵となる前川勝彦近鉄)に初勝利を献上してしまう有様だった。投手高卒ルーキー松坂大輔先発ローテーションの一となり、16勝5敗、防御率2.60と活躍して新人王を受賞。坂に引っられるように西口文也石井貴豊田清も奮闘し、って二桁勝利記録した。抑え不在は相変わらずではあったが、前年日本ハムファイターズから移籍したものの結果を残せなかった西崎幸広を配置転換して何とかしのいだ。

しかし猛追も及ばず、福岡ダイエーホークス福岡移転後初のリーグ優勝を奪われた。

2000年~2007年

詳細
2000年(69勝61敗5分、2位) 監督:東尾修

弱体化した打線を強化するため、メジャーリーガートニーフェルナンデスレジー・ジェファーソンを獲得。フェルナンデスは高打率は残したものの長打がなく、ジェファーソンはベンチと対立して途中退団した。結局4番打者は最後まで固定出来ず、チーム打率本塁打数はリーグ最低に低迷し、松井稼頭央までが4番を打つ有様であった。投手では、2年間低迷した森慎二がようやく復活したのが明であった。

福岡ダイエーホークスと首位を争ったが、この年もダイエー優勝する。

ドラフト会議では、大沼幸二佐藤友亮帆足和幸中島裕之らを名・獲得した。

2001年(73勝67敗、3位) 監督:東尾修

外国人選手としてアレックス・カブレラスコット・マクレーンを獲得し、ついに長打不足が解消する。ツインバズーカと名付けられたこのコンビはそれぞれ49本と39本の本塁打記録するという大爆発を見せた。投手では二年許銘傑が終盤まで防御率1位キープ(最終的に2位)する活躍を見せた。リリーフではが再び不振に陥るが、東尾監督の説得でストッパーに転向した豊田清が脆さも見せたものの、単なる代役に留まらない活躍を見せた。

大阪近鉄バファローズ福岡ダイエーホークスと最後まで優勝を争ったが、9月24日近鉄戦(大阪ドーム)で松坂大輔中村紀洋サヨナラホームランを被弾する。そこから糸が切れたようになり、最終的に3位にまで落ちてしまった。オフに東尾監督は勇退。

ドラフト会議では、細川亨中村剛也栗山巧名・獲得した。

2002年(90勝49敗1分、1位) 監督:伊原春樹

伊原春樹監督一年シーズン。元々伊東勤監督就任を要請されていたが、固辞したためヘッドコーチ原が昇格することとなった。

カブレラが55本塁打を放ち、シーズン最多本塁打タイ記録に並び、ホームラン王MVPを獲得。また松井稼頭央スイッチヒッター史上初のトリプルスリーを達成する。そして、強打の捕手として期待されながらレギュラーに定着出来なかった和田一浩が5番左翼手としてついにブレイクした。それ以外にも、犬伏貝塚政秀、宮地克彦の「日替わり3番打者」が結果を残したり、前年途中に谷中真二とのトレードで加入した平尾博嗣ブレイクの兆しを見せた。投手では豊田清防御率0点台の圧倒的なピッチングで初の最優秀救援投手き、復調した森慎二セットアッパーとして活躍した。

投打の充実で4年ぶり14度リーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズでは巨人に4タテを食らい、1990年の意趣返しをされてしまった。

この年のオフ鈴木健ヤクルトへ、垣内哲也ロッテへ、デニーと富岡大記と中嶋聡横浜へそれぞれ移籍。横浜から前田和之と細見和史と石井義人ロッテから椎木を獲得した。

ドラフト会議では、後藤武敏長田秀一郎小野寺力上本達之らを名・獲得した。

2003年(77勝61敗2分、2位) 監督:伊原春樹

豊田清が二年連続の最優秀救援投手き、森慎二も好調を維持したものの徐々に俺達が頭を現し始め、結局二位に終わる。伊東勤が現役を引退し、翌年監督就任。オフ松井稼頭央FA宣言し、ニューヨーク・メッツに移籍する。

2004年(74勝58敗1分、2位通過、日本一) 監督:伊東勤

松井稼頭央が抜けたを、中島裕之が埋める。

この年からプレーオフ(後のクライマックスシリーズ)導入。レギュラーシーズン2位通過。第1ステージ終戦北海道日本ハムファイターズ戦では豊田が被弾するが、高木浩之が「下を向くな!」と一。その後和田一浩サヨナラ弾。第2ステージダイエー戦では石井貴を奇襲的に起用するなど驚くような采配で接戦を制し、2年ぶりの優勝日本シリーズ行きを決める。

中日との日本シリーズでも最終戦までもつれ込み、西武が12年ぶりの日本一く。第1戦・第7戦に先発を務めた石井貴MVPに選ばれた。

オフには大友進中日にトレードで移籍。

ドラフト会議では、涌井秀章片岡易之らを名・獲得した。

2005年(67勝69敗、3位) 監督:伊東勤

交流戦おかわり君こと中村剛也ブレイクし、サードレギュラーを掴む。石井義人も高打率を維持してセカンドレギュラー出場するが、遊撃手中島裕之も含めて内野の守備の低さは、松坂大輔から「球際に弱い」と苦言を呈せられるほどであった(→ファイヤーフォーメーション)。投手では、絶対的守護豊田清勤続疲労により防御率4点台前という最悪の結果に終わってしまう。森慎二大沼幸二も不調で、ついに勝率5割を切ってしまった。

順位こそかろうじて3位を死守したが、プレーオフでは千葉ロッテマリーンズに敗れた。

オフ森慎二小関竜也MLB挑戦を表明し、タンパベイ・デビルレイズに移籍、小関ミルウォーキー・ブルワーズマイナー契約を結ぶ。豊田清FA宣言読売ジャイアンツに移籍し、その人的補償として江藤智を獲得した。髙木大成引退

ドラフト会議では、炭谷銀仁朗らを名・獲得した。

2006年(80勝54敗2分、2位) 監督:伊東勤

片岡中島ら若手が頑ったものの、最終戦で敗れ、1ゲーム差の2位で終わる。2年の涌井が12勝を挙げ、新守護小野寺力も29セーブを挙げた。この年のオフ松坂大輔ポスティングシステムを使用し、ボストン・レッドソックスに入団。

ドラフト会議では希望岸孝之を獲得。

2007年(66勝76敗2分、5位) 監督:伊東勤

交流戦10連敗和田一浩がここぞという場面で併殺打を量産。高級アイスという「称」が生まれる(ハゲゲッツーハーゲンダッツ→高級アイス)。前年新守護となったはずの小野寺力乱調で抑え不在になりかけるが、前年加入するも期待を裏切ったアレックス・グラマンを苦の策でリリーフ転向させると予想外の適性を見せ、チームの窮地を救った。涌井が17勝を挙げ最多勝を獲得。新人も11勝を挙げたが、MLBに移籍した坂のを埋められず、26年ぶりのBクラスに転落。伊東監督が辞任し、和田中日に、カブレラオリックス・バファローズに移籍した。

オフにはFA宣言した石井一久を獲得(人的補償福地寿樹を失う)。カブレラに代わる大砲補として、クレイグ・ブラゼルヒラム・ボカチカを獲得。しかしシーズン前に不正スカウト問題が発覚したため、高校生ドラフト会議で獲得することはできなかった。

埼玉西武ライオンズ時代

詳細
2008年(76勝64敗4分、1位、日本一)「No Limit」 監督:渡辺久信

この年から球団名を『埼玉西武ライオンズ』となる。

これまで二軍監督を務めていた渡辺久信が一軍監督に昇格。大久保博元打撃コーチ導により打線が活性化し、過去二年間一桁本塁打に終わっていた中村剛也が46本塁打記録して本塁打王くなど攻撃爆発した(チーム本塁打数198本)。長打だけでなく、片岡易之の50盗塁を筆頭にチーム全体で107盗塁を決めるなど機動も発揮した。オナカスイタネやボッカチカにしてやんよが一時流行。リリーフではアレックス・グラマンが好調を維持し、チームとしては2003年豊田清以来の30セーブ記録した。8月14日には通算4000勝を達成。

マジック1で迎えた9月26日北海道日本ハムファイターズ戦では惜敗したものの、マジックチームオリックス・バファローズが敗れたため、4年ぶり21回優勝を果たした。

日本シリーズでは巨人と対戦。2勝3敗で迎えた第6戦では第4戦に先発した岸孝之を中2日でリリーフ登板させ勝利をもぎ取り、第7戦までもつれ込んだ。最終戦では片岡平尾博嗣の奮闘や、グラマンの好投で4年ぶりの日本一いた。

二遊間の守備が頼もしくなり、日本シリーズではチーム最小失策記録

アジアシリーズでも決勝戦で石井義人佐藤友亮が活躍し、サヨナラ勝ちで優勝した。※この年のアジアシリーズ韓国のSKワイバーン以外のチーム名がライオンズだった。

中村ホームラン王片岡盗塁王と、栗山と共に最多安打タイトルを獲得。ゴールデングラブ賞中島が受賞し、ベストナイン細川片岡中島中村栗山が選ばれた。しかし、崩壊するととことんまで落ち込む投手(いいときは抑えるので防御率自体は悪くない)の懸念が払拭されないまま、2009年を迎えてしまった。

高木浩之引退し、ブラゼル自由契約となる。

名場面の一つに挙げられているのが肉離れexit_nicovideo

2009年(70勝70敗4分、4位) 監督:渡辺久信

清水隆行土肥義弘ジョン・ワズディンを獲得したが、期待通りの数字を残さず一軍二軍を行ったり来たり。昨季の守護を務めたアレックス・グラマンが離脱したことで中継ぎの層の薄さが露呈し、サヨナラ負けのリーグワーストを作るなど終盤に試合をひっくり返されることが多くなった。阪神からトレード移籍してきた藤田太陽が頑り、シーズン中盤までは3位をキープしていたが、場以降の楽天の追い上げを振り切ることができず最終的に勝率5割の4位に終わった。

ちなみにこの年は涌井が最多勝沢村賞片岡盗塁王中島最多安打中村ホームラン王(2年連続)と打点王を獲得している。

オフにはボカチカ自由契約となる。

ドラフト会議では菊池雄星を競合の末、ドラフト1位で獲得。オフにはブライアン・シコースキーディー・ブラウンを獲得。

2010年代

詳細
2010年(78勝65敗1分、2位) 監督:渡辺久信

前年ドラフト会議で獲得した雄星菊池雄星)は左肩痛により一年間二軍暮らしとなる。

中継ぎ、抑えが安定し、中村など故障者が多く出たにも関わらず、前半戦を首位で折り返した。しかしシーズン終盤に失速し、最後の最後にソフトバンクに抜かれてしまい、優勝を逃し、ゲーム差なし・勝率わずか1厘差の2位に終わった。クライマックスシリーズ第一ステージ中継ぎ、抑えが崩壊し、ロッテに敗れた。10試合延長戦があったが、1勝8敗1分。延長戦の防御率は9.49、勝率セ・リーグ最下位の横浜を下回る.143で、パ・リーグワースト。延長戦での弱さが立った。

オフには細川FA宣言し、ソフトバンクに移籍。16年ぶりに西武に復帰していた工藤公康が戦外となった。

ドラフト会議では大石達也を競合の末、ドラフト1位で獲得。牧田和久2位秋山翔吾を3位、熊代聖人を6位で獲得する。

2011年(68勝67敗9分、3位)「最下位からの挑戦」 監督:渡辺久信

開幕後に昨季のセーブ王シコースキーが故障離脱して抑えがいなくなり、中継ぎも安定せず交流戦後、新人牧田和久が抑えにまわる。しかし7月3日7月以降だと1996年以来15年ぶりの最下位に転落。前半戦を借15で折り返した。後半戦に入り、9月を19勝5敗2分で乗り切り、最大15もあった借を大幅に減らし、オリックスクライマックスシリーズ出場を競うところにまで立て直し、最終戦西武が勝ち、オリックスが負けたことで3位に上がり、クライマックスシリーズに進出。そのゲーム差はわずか1毛差(0.001差)であった。クライマックスシリーズ1stステージ日本ハムを2勝0敗で下したが、ファイナルステージではソフトバンクに全敗した。

統一球ホームラン減する中、中村が自己最多タイの48本塁打ホームラン王打点王を獲得。牧田が22セーブをあげ、坂以来の新人王を受賞。秋山翔吾熊代聖人が台頭し、外野守備が頼もしくなった。

オフにはミンチェ帆足和幸FA宣言し、ミンチェオリックス帆足ソフトバンクに移籍した。後藤DeNAにトレード移籍、ホセ・フェルナンデス自由契約楽天に移籍した。G.G.佐藤石井義人が戦外となり、石井義人巨人に移籍。中島ポスティングMLBしたが、契約がまとまらず残留した。

ドラフト会議では十亀剣ドラフト1位で獲得。

2012年(72勝63敗9分、2位) 監督:渡辺久信

2012年スローガンは「出しきれ!」

しかし最初から出しきったのは俺達炎上で、先は先発投、完封しないと勝てないという悲惨な状況だった。開幕から抑えを任されたエンリケ・ゴンザレスも安定せず、涌井秀章も開幕から3連敗で二軍調整。江草仁貴とのトレードで広島から移籍してきた嶋重宣も不振に陥り、ホームラン55本を期待された中村剛也交流戦に入るまで1本しか打てず、接戦を尽く落とした。

セ・パ交流戦の頃から少しずつ安定し、13勝11敗2分と持ち直した。中村は遅れを取り戻すかの如くホームランを12本放ったが、終盤の阪神戦で故障離脱してしまう。

リーグ戦が再開し、外野争いが熾化する。6月MVP補にもなった大崎雄太朗星秀和が台頭し、離脱した秋山を埋める活躍を見せた。中継ぎ長田秀一郎ランディ・ウィリアムスストッパー涌井で安定するようになり、前半戦を借1で折り返した。

後半戦は引き分けを挟み5連勝と好スタートを切り、8月には首位に浮上したが、この時期からに故障者が相次ぐ。フルイニング出場を続けていた栗山巧に至っては左手死球を受け、レギュラーシーズン絶望に追い込まれてしまう。中島裕之と右足、中村スランプと左ひざの怪でスタメンに名を連ねない試合が増えていく。西口文也も故障が長引き、日曜日はお試し先発となってしまう。

そんな状況が長引いた末に日本ハムの追撃を振り切れず、4年ぶりのリーグ優勝を逃した。クライマックスシリーズ1stステージでは1勝1敗で迎えた第3戦でソフトバンクに敗れた。

中村は故障に苦しみつつも、2年連続のホームラン王を獲得。

平尾佐藤友亮大島裕行阿部真宏引退藤田太陽星野智樹が戦外となり、それぞれヤクルト楽天に移籍。トレードでは原拓也放出し、山崎浩司を獲得。外国人では前広島デニス・サファテ、復帰のシコースキーNPBで実績のある選手を補強した。FA宣言した中島は、オークランド・アスレチックスに移籍。

ドラフト会議では増田達至1位金子侑司を3位、高橋朋己を4位で獲得。

2013年(74勝66敗4分、2位) 監督:渡辺久信

4月は首位を独走していたが、5月から徐々に低迷し、セ・パ交流戦で負け越し。この間西日本では1勝しか挙げられず、オールスターファン投票ではも選出されなかった。

後半戦に入っても流れは変わらず、場は俺達炎上9月26日楽天戦(西武ドーム)で、楽天に初優勝胴上げを献上した。

最後の8試合で猛スパートをかけ、福岡ソフトバンクホークスに2連勝し3位に浮上すると、最後の千葉ロッテマリーンズ戦で勝利し、二年連続の2位をもぎ取った。しかしクライマックスシリーズでは1勝2敗でロッテに敗れ、4年連続の敗退となった。

4番に定着した浅村栄斗110打点打点王を獲得。中盤から1番に定着したエステバン・ヘルマン最高出塁率タイトルを獲得。

渡辺久信は就任後一度しか優勝できなかったことを理由にこの年をもって監督を辞任し、石井一久嶋重宣が現役を引退星秀和坂元弥太郎が戦外となり、成績を残せなかったホセ・オーティズライアン・スピルボーグスクリス・カーター自由契約となった。

さらに中継ぎで9勝を挙げたデニス・サファテヘルマン契約がまとまらず退団しそれぞれソフトバンクオリックスへ移籍。また片岡治大涌井秀章FA宣言し、片岡巨人、涌井はロッテに移籍する、動のストーブリーグとなった。

ドラフト会議では森友哉1位豊田拓矢を3位で獲得。

2014年(63勝74敗4分、5位) 監督:伊原春樹→田辺徳雄

詳細はプロ野球2014を参照

2015年(69勝69敗5分、4位) 監督:田辺徳雄

詳細はプロ野球2015を参照

2016年(64勝76敗5分、4位) 監督:田辺徳雄

詳細はプロ野球2016を参照

2017年(79勝61敗3分、2位) 監督:辻発彦

詳細はプロ野球2017を参照

2018年(88勝53敗2分、1位) 監督:辻発彦

詳細はプロ野球2018を参照

2019年(80勝62敗1分、1位) 監督:辻発彦

詳細はプロ野球2019を参照

2020年代

2020年(58勝58敗4分、3位) 監督:辻発彦

詳細はプロ野球2020を参照

2021年(55勝70敗15分、6位) 監督:辻発彦

詳細はプロ野球2021を参照

2022年(72勝68敗3分、3位) 監督:辻発彦

詳細はプロ野球2022を参照

2023年(65勝77敗1分、5位) 監督:松井稼頭央

詳細はプロ野球2023を参照

年度別球団成績









西鉄クリッパー
1950年 宮崎 5 120 51 67 2 .432
西鉄ライオンズ
1951年 三原脩 2 105 53 42 10 .558
1952年 3 120 67 52 1 .563
1953年 4 120 57 61 2 .483
1954年 1 140 90 47 3 .657
1955年 2 144 90 50 4 .643
1956年 1 154 96 51 7 .646
1957年 1 132 83 44 5 .648
1958年 1 130 78 47 5 .619
1959年 4 144 66 64 14 .508
1960年 川崎徳次 3 136 70 60 6 .538
1961年 3 140 81 56 3 .589
1962年 中西太 3 136 62 68 6 .477
1963年 1 150 86 60 4 .589
1964年 5 150 63 81 6 .438
1965年 3 140 72 64 4 .529
1966年 2 138 75 55 8 .577
1967年 2 140 66 64 10 .508
1968年 5 138 56 74 3 .431
1969年 中西太
鬼頭政一
5 130 51 75 4 .405
1970年 稲尾和久 6 130 43 78 9 .355
1971年 6 130 38 84 8 .311
1972年 6 130 47 80 3 .370
太平洋クラブライオンズ
1973年 稲尾和久 4 130 59 64 7 .480
1974年 4 130 59 64 7 .480
1975年 江藤愼一 3 130 58 62 10 .483
1976年 L・ドローチャー
鬼頭政一
6 130 44 76 10 .367
クラウンライターライオンズ
1977年 鬼頭政一 6 130 49 73 8 .402
1978年 根本陸夫 5 130 51 67 12 .432
西武ライオンズ
1979年 根本陸夫 6 130 45 73 12 .381
1980年 4 130 62 64 4 .492
1981年 4 130 61 61 8 .500
1982年 広岡達朗 1 130 68 58 4 .540
1983年 1 130 86 40 4 .683
1984年 3 130 62 61 7 .504
1985年 1 130 79 45 6 .637
1986年 森祇晶 1 130 68 49 13 .581
1987年 1 130 71 45 14 .612
1988年 1 130 73 51 6 .589
1989年 3 130 69 53 8 .566
1990年 1 130 81 45 4 .643
1991年 1 130 81 43 6 .653
1992年 1 130 80 47 3 .630
1993年 1 130 74 53 3 .583
1994年 1 130 76 52 2 .594
1995年 東尾修 3 130 67 57 6 .540
1996年 3 130 62 64 4 .492
1997年 1 135 76 56 3 .576
1998年 1 135 70 61 4 .534
1999年 2 135 75 59 1 .560
2000年 2 135 69 61 5 .531
2001年 3 140 73 67 0 .521
2002年 伊原春樹 1 140 90 49 1 .647
2003年 2 140 77 61 2 .558
2004年 伊東勤 1 133 74 58 1 .561
2005年 3 136 67 69 0 .493
2006年 2 136 80 54 2 .597
2007年 5 144 66 76 2 .465
埼玉西武ライオンズ
2008年 渡辺久信 1 144 76 64 4 .543
2009年 4 144 70 70 4 .500
2010年 2 144 78 65 1 .545
2011年 3 144 68 67 9 .504
2012年 2 144 72 63 9 .533
2013年 2 144 74 66 4 .529
2014年 伊原春樹
田辺徳雄
5 144 63 77 4 .450
2015年 田辺徳雄 4 143 69 69 5 .500
2016年 4 143 64 76 3 .457
2017年 辻発彦 2 143 79 61 3 .564
2018年 1 143 88 53 2 .624
2019年 1 143 80 62 1 .563
2020年 3 120 58 58 4 .500
2021年 6 143 55 70 18 .440
2022年 3 143 72 68 3 .514
2023年 松井稼頭央 5 143 65 77 1 .458
通算:72 5074 4528 391 .528

順位

シーズン最高成績(チーム)

シーズン最低成績(チーム)

シーズン個人最高成績(野手)

シーズン個人最高成績(投手)

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最終更新:2024/04/20(土) 12:00

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