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宗谷(船)

宗谷」または「そうや」の名を持つ船で著名なものは以下の5隻。

  1. 宗谷1938年(昭和13年)に工した日本海軍の特務艦、海上保安庁の砕氷巡視船。もと貨物船の「地領丸」。南極観測船として知られる。
  2. 宗谷:1905年(明治38年)に日本海軍によって鹵獲され、保有された防護巡洋艦。もとロシア帝国軍の「ヴァリャーク(Варяг)」。1916年(大正5年)にロシアに返還された。
  3. そうや:1978年昭和53年)に工した海上保安庁の砕氷巡視船。1の後を継いだ。
  4. そうや:1971年昭和46年)に工した海上自衛隊の機敷設艦。1996年に退役した。
  5. 宗谷丸1932年(昭和7年)に工した鉄道日本国有鉄道の砕氷貨客船。太平洋戦争終結までは稚泊連絡船、戦後青函連絡船として就航していた。

名前は全て宗谷峡、もしくは宗谷岬に由来する。

本稿では1を解説する。

同時期に活躍した砕氷船であり、どちらも復員船として働いていたこと、また、1の宗谷は一時期「宗谷丸」と名していたことがあるため、1と5が混同される場合があるが、1は元貨物船の雑用運送艦、後に海上保安庁灯台補給船・巡視船、5は貨客船で全く別の船である。5のほうが大きい

概要

宗谷日本初の南極観測船として知られる。一般の知名度としては、この役割としてのものが大きいだろう。

非常に困難な南極の観測任務を幾度も務め上げた「奇跡の船」として有名であるが、「奇跡」の由縁はそれだけではない。

この船の用途は上記のように第二次世界大戦前から始まっており、様々な転用を経て、1978年に、航行任務を退役するまで足掛け40年……戦火を潜り抜けつつ第一線で働き続けたという、船舶関係者からするとわけがわからないよ……」と口にするレベル異能生存体

ここで、「40年?」と首を傾げた方、ハイ、なかなかに鋭い方です。ごく一部を除き、一般的には使用年数が20年を越えた船舶は、「相当のベテランと呼ばれる世界宗谷は、戦時の荒波すら乗り切り、その長きに渡る活躍全てをひっくるめて奇跡の船」なのである。

その始まりは、砕氷貨物船として建造。しかし、日本海軍に買収され、太平洋戦争では特務艦として戦の南方域で測量・輸送任務をこなし、連合の攻撃もことごとくかわし続け、時には果敢に反撃し、十分に航行可な状態で終戦を迎えた。

戦後は、航行を保持していることから、復員輸送船として外地から引揚者を輸送。その後、海上保安庁に入り灯台補給船として活躍した。

そして、魔改造改造を施され南極観測船となり、有名な南極観測の任務に就き、6回もの南極観測を行った。

海上自衛隊の砕氷艦「ふじ」が引き継いだことで南極観測船としての任を終えた後も巡視船として北海道を守り続け、数多くの船や人々を救助した歴戦の船である。

1978年に退役したが、その活躍は1984年アニメ宗谷物語」としてアニメ化され、退役時には春日八郎の歌唱で「さよなら宗谷」という歌が作られたなど人気も高かった。

更に宗谷の幸運を物語るのは博物館船として現在東京臨海副都心の「船の科学館」にて保存されていることだろう。しかも現在も船籍を有しており、(その気になれば)航行も可である。

現在でも海上保安庁特殊救難隊の特殊訓練場として使用されている。

と、時代に合わせて貨物船、測量艦、運送艦、復員輸送船、灯台補給船、南極観測船、巡視船、博物館船と様々な役割をこなしてきた。さながら「のなんでも屋さん」というべき船。

その波乱に満ちた経歴と、様々な苦難を乗り切った強運振りから、「奇跡の船」「灯台」「サンタクロース」「北のの守り」「福音の使者」「不可能を可にする船」「帝国海軍最後の生き残り」など様々な二つ名を持つ。

そんな宗谷今日までの生涯を、もう少し詳しく、下記に記したい。

全盛期の宗谷伝説

全て誇ではなく、本当にあった出来事である

貨物船「ボロチャエベツ」

宗谷長崎県の造船所・南工業にて建造された。

1937年(昭和12年)12月7日起工、1938年(昭和13年)2月16日、同年6月10日工。

当時、ソビエト連邦はカムチャッカ半島沿で使用する、耐氷を有し、音測深儀を搭載した貨物船3隻を建造できる造船所を探しており、1936年9月18日南工業(当時は松尾造船所。直後9月27日称)が受注することになった。

そして1番船「ボルシェヴィキ(Большевики)」、2番船「ボロチャエベツ(Волочаевец)」、3番船「コムソモーレツ(Комсомолец)」の3隻が建造された。この2番船「ボロチャエベツ」が後に「宗谷」となる船である。

「ボルシェヴィキ」は4月、「コムソモーレツ」は5月工し、「ボロチャエベツ」は6月に3姉妹の内最後に工した。

しかし、船の性としては1938年2月14日、1番船「ボルシェヴィキ」がロイド船級協会の試運転で不合格となるなど不安視され、ソ連側は要を満たすように強くめた。

ソ連船として建造され、実際に進水式にてロシア語の命名され、港まで決まっていた3隻であったが、ソ連に引き渡されることはなかった。日中戦争化に伴う資材価格の高騰によりソ連側の要を飲めなくなり、日ソ紛争による対ソ感情の悪化により、日本海軍から引き渡しを延期せよとの要請があったことなどが理由とされる。

また、軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の代替として新砕氷艦(後に「恵山」と命名予定であったが建造されることはなかった)の建造を計画していた。そこで、この耐氷貨物船を買収し、砕氷艦に改造するという計画もあった。現在領丸、民領丸と思われる貨物船の砕氷艦への改造設計図が大和ミュージアムにて保管されている。

3姉妹は結局、日本に留まることになった。

貨物船「地領丸」

日本に留まることになった3隻は日本で貨物船として就航する事が考えられた。

しかし、「耐氷であり音測深儀を装備している3隻は重量があり不経済船とされていたこと」、「ソ連側の抗議があり、国際問題として持ち上がるであろうこと」が理由となって3隻の引き取り手はいなかった。

そこで南工業は兵庫県の老舗運会社、汽船と共同出資し、『南汽船』(『南商船』ともわれている)という新会社を設立。3隻は南汽船の所属船として就航することになった。

3隻は日本船となり、1番船「ボルシェヴィキ」が「領丸」、2番船「ボロチャエベツ」が「地領丸」、3番船「コムソモーレツ」が「民領丸」と名され、それぞれ工時に命名された。

3隻の船体は若草色に塗られ、煙突には南汽船の煙突マークが描かれていた。

地領丸はまず日清汽船のチャーター船として大連を基地として中国大陸で雑貨や食糧を運送した。

1939年昭和14年)には栗林汽船にチャーターされ函館を基地として千島カニ加工場への物資資材、工員の輸送にあたった。

そして大連、朝鮮半島への航路についた地領丸であったが、ここで軍が地領丸の買い上げを具体化する。砕氷艦としてではなく、音測深儀を利用した測量艦・運送艦としての買い上げであった。測量艦「」の老朽化により、音測深儀を装備している地領丸が注されたのだ。

測量を行い、正確な図を作成することは航の安全はもとより、戦略上にも重要な事である。もちろん、「大泊」の代替としての使用も考えられていた。ただ、姉妹船の領丸、民領丸が選ばれず、なぜ地領丸のみが選ばれたのかは不明である。

ともかく、1939年11月、地領丸は軍への買収が決まった。

奇跡の船」宗谷歴史はここから始まった。

特務艦「宗谷」

海軍籍に / 太平洋戦争開戦後 / 昭和18年から19年 / 終戦間際

軍艦へ・そして観艦式

軍に買収された地領丸は東京石川造船所にて特務艦への装を受けた。

8センチ単装高25ミリ連装機などの兵装を施し、測量艇の装備、測深儀室、製図室などが設置され、ボイラーは艦本(日本海軍艦政本部)式のものに、音測深儀が軍制式のものに換装された。

1940年(昭和15年)2月20日、地領丸は軍艦政本部から「宗谷」と命名された。「特務艦には、岬、湾港、半島などの名前を付ける」という当時の軍の艦名基準に則り、宗谷峡にちなんで付けられた名前であった。

1940年6月4日宗谷装が了し、宗谷横須賀鎮守府に所属することになった。

横須賀に回航の後、補給し、青森県の大へと向かった。宗谷軍艦船としての初めての仕事北海道樺太千島北方域の測量・輸送であった。

名前の由来となった宗谷峡を含め千島占守島北海道網走、南樺太・大泊、北樺太・オハなど各地を行ったり来たり一生懸命に働いた。

9月11日北方から横須賀に到着した宗谷を待っていたのは洋上気観測装置の装備であった。

それからちょうど1ヶが経過した10月11日横浜で『紀元二千六年特別観艦式』が開催された。

御召艦に戦艦比叡」、先導艦に重巡洋艦高雄」、供奉艦に重巡洋艦古鷹」「加古」、その他そうそうたる98隻の日本海軍艦艇が集まり、満艦飾を施して列をなした。

特務艦や潜水母艦が列をつくる番外の列には給糧艦「間宮」、工作艦「明石」、潜水母艦「」などとともに宗谷の姿もあった。見学者を乗せる拝観艦の一隻としての参加である。序列は番外列13隻中9番と末席ではあったが、間違いなく「宗谷」として初めての晴れ舞台であった。

観艦式奮冷めやらぬ11月宗谷南洋諸島への測量任務に就くことになり、一路サイパンと向かう。

12月、測量を終えた宗谷横須賀へと帰投。翌1941年(昭和16年)2月から3月まで再びサイパン付近の測量を行った。

その後、また横須賀へと帰投し、5月から11月までカロリンポナペサイパントラックの付近を測量した。まだ戦争前であり、宗谷は南洋の人々に暖かく迎え入れられた。

しかし、宗谷の測量はなぜ行われていたのか考えてみよう。

それは、来るべき戦争への準備であった。

太平洋戦争開戦・測量中心の運送艦

1941年(昭和16年)12月8日日本海軍機動部隊がハワイ珠湾を奇襲攻撃。さらに英領マラヤ(マレー半島)への上陸作戦フィリピンへの襲を開始。そして米国英国宣戦布告した。太平洋戦争の開戦であった。

宗谷は測量機材や糧食・石炭など物資を満載し、12月29日横須賀を出港した。第四艦隊の支援のために再び、トラックへと赴くのである。

ここでちょっと話は変わるが、宗谷はもともと北洋で行動することを前提に設計された船である。そのため、高い防寒性から艦内はさながら蒸し風呂のような状態だった

おまけ燃料は石炭焚き戦艦空母などの戦闘艦艇や航空機の燃料用に重油を節約するため、当時の軍補助艦艇は重油による従来の軍式ボイラーだけでなく石炭による蒸気機関も用いていた)だったので、南洋における航・任務では艦内が灼熱地と化していた海鷲の焼き鳥製造機」などと呼ばれていた頃の某空母べたら、果たしてどちらがマシだったのだろうか?

(この『南洋では内部が蒸し風呂状態になる』という欠点は、後の第一次南極観測時に宗谷南極観測船に改造された後も受け継がれることになった。第二次南極観測以降、調設備の善やクーラーの設置などでその都度マシになっていったが70年代クーラーは撤去された模様)

閑話休題。

1942年(昭和17年)1月9日宗谷トラック(トノア)に到着した。

1月16日、荷揚げ作業をしていた宗谷の艦で戦闘開始のラッパが鳴りいた。米軍航空機B-24襲である。宗谷が経験した初めての襲であった。

宗谷乗組の砲兵たちはすぐさま対戦の用意をしたが爆撃は地上に対するものであったため、宗谷をはじめとした艦船に被害はなかった。

17日。宗谷は正式に第四艦隊に編入され、第四測量隊として測量・輸送を行うことになった。

それから宗谷横須賀へ戻り、物資・保物品・測量班員を乗せ、2月24日にまたトラックへと戻った。

戻った宗谷は休みなく、1月23日に占領したラバウルへの物資輸送・測量を命ぜられる。占領したばかりのラバウルはまさに最前線であった。

宗谷2月28日トラック泊地を出港。ポナペ経由でラバウルへと向かった。

この時、宗谷は初めてを通過した。後に宗谷南極観測船となり、12回もを通過することになろうとはこの時はも思わなかっただろう。

3月8日宗谷はラバウルに到着し測量を開始した。

また、宗谷は測量任務の傍ら、陸戦隊の輸送も行っている。

3月22日宗谷は第八特別根拠地隊令官・金澤正夫中将はじめ陸戦隊隊員40名を乗せてマッサバ掃蕩作戦に参加。輸送のみならず測量艇を用いてを確保する活躍をみせた。

3月28日には第八特別根拠地隊陸上警備隊を乗せ、第三十駆逐隊駆逐艦睦月」「弥生」「卯月」とともにブーゲンビル方面攻略作戦に参加した。

睦月を始めとする睦月型駆逐艦は旧式ではあるが、最高速37ノットの俊足を誇っていた。対して宗谷巡航速度8ノット最高速も12ノット程度という鈍足(なお、当時の輸送艦や戦時徴用船の均巡航速度は12ノットである)で「始終8ノット」とあだ名されるほどであった。

しかし、この鈍足がこの先何度も宗谷を救うことになる。

3月30日宗谷第三十駆逐隊駆逐艦ショートランド泊地に到着。この東南には何度も日間で戦が繰り広げられるソロモン々が広がっている。

宗谷は陸戦隊を上陸させると測量にとりかかった。その時、双発の飛行艇が襲来。宗谷は高を2発発したが、この飛行艇は駆逐隊によって撃退された。

宗谷はその後も測量と陸戦隊の輸送を行い続けた。時には宗谷からも陸戦隊が編成された。

5月17日宗谷ビスマルク・デューク・オブヨークにいたが、ラバウルへの帰還命令を受けラバウルへと向かった。

バウルに着いた宗谷を待っていたのは、MI作戦(ミッドウェー攻略作戦)』への参加令であった

17日中にラバウルを出発し、サイパンへと向かった。宗谷に与えられたのはミッドウェーへ上陸する陸戦隊の輸送と占領後の測量の任務であった。

サイパンの港には続々と輸送船が集まってきた。否が応にも決戦予感された。

輸送船団はミッドウェーまで13ノットで9日間の航を見積もっていた。特設巡洋艦清澄丸」は巡航16ノット、特設運送艦「あるぜんちな丸(後に空母」として装)」「ぶらじる丸」は巡航18ノット快速の輸送船が多くいた。しかし、宗谷はそんなスピードは出せない。宗谷は「艦足遅シ、先ニ洋上ニ出ヅ」と旗旒信号を掲げ、輸送船団より2日サイパンを発った

6月4日軽巡洋艦神通」率いる第二水雷戦隊に護衛された輸送船団は敵飛行艇に発見されてしまった。後に単独行動をしていた宗谷陸上機に発見され、高を4発放っている(双方に被害はなかった)。

6月5日、『ミッドウェー海戦』が勃発。日本海軍はミッドウェー攻略のために投入した4隻の航空母艦赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」を全て喪失。機動部隊は壊滅し、大敗を喫した。

この時、ミッドウェー(ミッドウェーから約600里の位置)に待機していた宗谷は「機動部隊壊滅」の報せをいちく傍受し、翌6日午後にはウェーク島へと退避を開始した。

なお、艦隊は6日午後の時点で米軍の追撃を受けて重巡洋艦三隈」を撃沈されるなどの被害を出していたが、この時点でおそらく最もミッドウェーの近くにいたであろう宗谷はなぜか全く追撃を受けなかった

その後、宗谷は13日にはポナペに撤収。宗谷の『MI作戦』(『ミッドウェー海戦』)はこうして幕を閉じた。

宗谷はその後カビエン付近での測量任務に就いた。

8月7日、ラバウルにいた宗谷に出動命令が出た。米軍がガダルカナル・ツラギに上陸、占領したのである。

重巡洋艦鳥海」「古鷹」「加古」「青葉」「衣笠」、軽巡洋艦天龍」「夕張」、駆逐艦夕凪」が敵上陸船団に殴り込みをかけ、宗谷は敷設艦「津軽」、特設運送艦「明陽丸」らとともに陸戦隊・大発動艇を輸送し、ツラギ奪還をしツラギに上陸する事になった。『第一次ソロモン』である。

宗谷8月7日のうちに津軽と明陽丸、駆潜艇掃海艇とともにラバウルを出港した。

ところが翌8日、航空部隊の援護を受けられないとして帰投命令が下された。その途上、潜水艦S-38」の撃を受け、明陽丸が餌食になった。

鳥海ら殴りこみ艦隊は敵艦隊に夜戦を仕掛け、見事撃破。しかし、敵上陸船団に損を与えることができず、戦略的には失敗に終わった。宗谷日本側輸送船団も後退したため、陸戦隊を上陸させることができなかった。

宗谷8月14日に修理のため横須賀へ向かった。

9月宗谷軽巡洋艦夕張」と共にラバウルへと戻り(ただし、潮書房人社『日本海軍艦艇写真軽巡天龍球磨夕張』の夕張の行動年表(p.132)を見ると、夕張はこの頃一貫して南洋で行動している)、第四艦隊から第八艦隊に編入。そして、ソロモン北部の測量任務に就いた。『三次ソロモン』の下準備であった。

ソロモン戦地である。宗谷は日々米軍航空機爆撃・機掃射にされたが、何とか生き延びた。

同じ頃、米軍潜水艦も付近を潜行し、日々輸送船を狙っていた。

日々しさを増す米軍の攻撃によって数々の輸送船が餌食となった。しかし、宗谷は沈まなかった。

幸運艦・魚雷と空襲と宗谷

1943年(昭和18年)元旦宗谷はブカ付近の測量を行っていた。宗谷正月三が日も休まず測量を行った。

1月28日宗谷に試練が訪れる。

午前6時。宗谷はブカクイーンカロライン港のにて測量を行っていた。しかし6時55分ころ、監視兵が「魚雷だ!!」というをあげた。潜水艦宗谷の左舷後方より4発の魚雷を放ってきたのだ。

宗谷は鈍足をかっ飛ばして必死に回避し、3発をかわした。かわした魚雷が付近の小島に当たり、吹っ飛んだ。

しかし、4発を避けきれず、宗谷の右舷後方に直撃してしまった。

ゴツーンとものすごい音がして宗谷は大きく揺れた。宗谷もこれで一巻の終わりかと乗組員のもが思った。もともと鈍足の宗谷のことである。潜水艦に遭遇すれば撃沈必至と皆が覚悟していた。

しかし、宗谷は沈まなかった。なんと、魚雷不発だったのである。

宗谷艦長の久保田智は反撃を命じた。

「爆戦用意!!」のとともに宗谷潜水艦に突進した。そして機班が爆に向かって蹴り入れた

宗谷に爆投射機は搭載されていなかった。おまけに、宗谷の鈍足では爆で自分の船体を傷つける恐れがあり、爆には爆発するまでの時間を稼ぐために中用パラシュートが取り付けてあった

(ただし、この時は『爆自体装備していなかった』という言もある

宗谷は爆を投下すると必死にその場から離脱した。そして、近くにいた「第二十八号駆潜艇」が何発も爆を投射し、やがてい重油のようなものが浮き上がってきた。潜水艦の重油であれば撃沈は確実であった。

この時、宗谷に当たった魚雷は引き上げられ、宗谷の甲上で記念写真を撮られている宗谷の右舷後方は少し凹み機関室が少し漏したものの航行には全く問題なかった。久保田艦長は保品を開放して祝杯を上げた。

ただし、米軍側にはこの時撃沈されたという潜水艦の記録は残っていない。また、1月18日潜「グリーンリングGreenling SS-213」が『ブーゲンビルにて宗谷を撃破した』という記録が残っているが、グリーンリングはこの時沈没していない。日付も18日28で食い違っている。

どちらが正しいのかはともかく、宗谷魚雷にあたっても事だったのは確かである

宗谷はこの後ラバウルに戻り掃作業にあたっていたが、襲により測距儀を破損した。この頃からますます米軍の攻勢がしくなり、宗谷も損傷を受けることが多くなった。

ところが、ことごとく急所からは外れ、航行に問題が出るような損傷を受けることはなかった

5月28日宗谷潜水艦撃により行動不に陥った特設水上機母艦」の救助を命じられた。丸を護衛していた駆潜艇では丸を航できなかったのである。

ところが、宗谷は出発にもたついた。命令が出されて6時間経った午後10時にようやく宗谷は出発するが、丸は翌29日0時16分に再び撃を受けて沈没した宗谷がもう少しければ丸は助かったかもしれない。宗谷にとって後味の悪い結果となってしまった。

宗谷6月、修理のために横須賀に向かった。そして8月にラバウルに戻った。

宗谷は休むまもなくラバウル付近やブイン付近の測量を行った。測量だけではなく、輸送船団の揮も宗谷は任されるようになっていた。

1943年の末から1944年昭和19年1月まで宗谷ブラウンの測量を行っていた。

1944年1月宗谷は燃料と食料の補給のためにクェゼリンに向かおうとしていたが、宗谷前艦長であり、第二十四駆逐隊令となった久保田智が宗谷を訪れ、「クェゼリンは食料も物資も不足している」と助言。これを受けて宗谷トラックに向かうことになった。

その後、1月30日にクェゼリンにおいて『クェゼリンの戦い』が勃発し、日本軍は玉砕した宗谷はまたも命拾いをした。

宗谷が率いる第四測量隊はブラウンに残ることになった。第四測量隊のメンバーは徴用された千葉県銚子の漁師たちであった。戦が予想されるトラックには連れていけないとブラウンにとどまらせたのだ。

だが、測量隊のメンバー幸運艦である宗谷から降りることを嫌がった。

必ず迎えに来る」とフラグを立て約束し、宗谷トラックへと向かった。

1月18日宗谷トラック泊地に到着した。

物資を補給したものの、もはや南洋方面は米軍の進出が著しく、宗谷が測量するべき域もなくなってしまった。

宗谷2月1日連合艦隊に編入された。

2月14日宗谷にとってはにあたる「民領丸」がフィリピン・ルソンにて潜「フラッシャーFlasher SS-249」の撃を受けて撃沈した。民領丸は陸軍に徴用され、他の船を修理する工作船・輸送船として働いていた。

2月17日と翌18日、トラック泊地を悲劇が襲った。レイモンド・スプルーアンス(Raymond Spruance)中将率いる米軍58任務部隊がトラック泊地に波状襲を開始したのだ。『トラック』(『軍丁事件』)である。

この襲により軽巡洋艦阿賀野」「那珂」、練習巡洋艦香取」、駆逐艦舞風」「太刀」「」「文月」、特設巡洋艦赤城」、特設運送艦「清澄丸」「愛国」、特設給油艦「第三図南丸」など50隻近くの艦船が沈没した。

また、工作艦「明石」が大破、水上機母艦秋津洲」などが中破、駆逐艦時雨」などが小破するなど甚大な被害が出た。

この2日続いた襲により、トラックの施設はほとんどが壊滅した。

宗谷襲から身を守るために必死に反撃した。まるで夕立のように爆撃・機掃射を繰り返してくる敵機に対と高を撃ちまくった。この時、米軍機1機を撃墜している

ところが、回避行動中に座礁。宗谷は身動きがとれなくなってしまう。

(座礁したのが17米軍機を撃墜したのは18日だという。つまり、宗谷身動きがとれない状態で丸1日以上奮戦していたことになる)

副艦長を含む9名が戦死し、負傷者も多数出たために、航長は総員退艦を命じた。艦長の嘉重大佐はこの時負傷していたとわれてる。

宗谷は2日に渡る機掃射でだらけとなり、甲は乗組員たちの血で染まり、更には座礁して身動きがとれないとまさに満身創痍であった。乗組員たちはもはや宗谷の命運もこれまでと思った。

ところが、翌19日、乗組員たちが宗谷の様子を見にいってみると、なんと何事もなかったかのようにに浮かんでいるではないか満潮になり、自然に離礁したのであった。

宗谷の乗組員たちは喜び、カッターや測量艇で宗谷に戻った。

だが、喜んでばかりもいられなかった。この襲で多大な被害を出したのは前述のとおりだし、ブラウンに残してきた第四測量隊の人々は、同日19日に起きた米軍の上陸によって玉砕してしまったのであるやっぱりフラグだった。

また、(結果的に宗谷事だったとはいえ)艦を放棄したことと測量隊全滅責任から艦長は更迭され、およそ10ヶ後の12月16日拳銃自殺を遂げることになる。

宗谷だらけになっていたものの、機関部が爆撃の衝撃で少し壊れていたのみで航行にそれほど支障は出なかった宗谷は修理のために横須賀に戻ることになった。

機関部の不調と常に之字航法(潜水艦の攻撃を避けるためジグザグに航行すること)をとっていたため、宗谷横須賀に到着したのはおよそ2ヶ後の4月7日の事だった。

特攻輸送・沈みゆく船たちと沈まぬ宗谷

宗谷横須賀到着後、日本鋼管浅野ドックにてトラック襲で受けた損傷を入渠修理した。1944年昭和19年4月22日に出渠し、横須賀にて待機。その後、北方の船団護衛に就いた。

この時、宗谷姉妹船での「領丸」を護衛した。小樽からまで戦車第十一連隊の戦車兵士を輸送するためである。領丸は陸軍に徴用されていた。姉妹の久しぶりの再会であった。

小樽を出港した領丸は5月7日、大にて宗谷と合流。護衛として駆逐艦が付き、へとむかった。

なお、この時宗谷たちを護衛した駆逐艦は「雪風」という言があるが、この頃の雪風フィリピン方面で活動していたため、実際は大港としていた駆逐艦のいずれかと思われる。

(飛内進『大湊警備府沿革史』(p.730)に「5月8日 第7駆逐隊、野、陸軍船団を護衛し北千島に向け出撃」とあるので、実際に護衛を行ったのは峯駆逐艦」と第七駆逐隊綾波駆逐艦」、「」である可性が高い)

宗谷はいまだ流氷の残る北方域を領丸とともに進み、5月15日柏原に到着。姉妹はここで別れた。

この後、宗谷横須賀に戻り、測量艦から輸送艦への装を受ける。いよいよ太平洋戦争日本側の劣勢となり、測量よりも輸送のほうが重要となってきたのだ。測量なんかしているヒマすらないほど追い込まれているともいえるが

日本海軍はこれまでシーレンの防衛や補給線の重要性を疎かにしたため多くの徴用輸送船を連合側の潜水艦に撃沈されていた。すでにこの頃には輸送任務自体がとても危険なものとなり、「特攻輸送」とまで呼ばれる有り様であった。そのため、「幸運艦」である宗谷羽の矢が立ったのである。

しかし、宗谷機関部の不調に悩まされた。その後も入渠しては整備を受け、試運転を繰り返した。

宗谷は中々本調子にならず、翌年(1945年2月まで輸送任務に復帰できなかった。

輸送任務に復帰した宗谷は、室蘭への軍需品の輸送任務に就いた。宗谷は危険な輸送任務を必死にこなした。

1945年昭和20年5月18日領丸は小樽を出港し、占守島への輸送任務へついていた。

その後、5月28日筵で北海道への引揚兵員・米軍捕虜を乗せた領丸は僚船の「」「春日山丸」とともに輸送船団を組み、海防艦占守」、「112海防艦」、給糧艦「」に護衛され小樽へと戻る航に出た。

5月29日午後8時55分、樺太郎岬63kmの地点に差し掛かったところで輸送船団は潜「スターレットSterlet SS-392)」の襲撃を受け、領丸と丸が撃沈された。領丸はの新しい名前の由来となった宗谷峡までもうすぐというところで撃沈されてしまったのであった

一方、宗谷横須賀にいた。東京への大襲が始まり、いよいよ戦況はのっぴきならない状況になっていた。

6月24日宗谷は重工業機材を満州へ輸送する任務のため、海防艦四阪」、駆潜艇掃海艇に護衛されて「永観丸」「神津」とともに満州へと向かった。

6月26日、輸送船団は岩手県大釜崎にさしかかったところで潜「パーチ(Parche SS-384」に襲撃された。

パーチを発見した宗谷は、後続の永観丸らにこれを知らせようとした。しかし、その間もく、神津丸が撃を受け、船体がっ二つに折れて撃沈された。

続けざまに永観丸も撃沈。宗谷撃を受けた。

しかし、魚雷宗谷の船体の下をすり抜けた

すぐさま宗谷は四阪と第五十一号駆潜艇、第三十三掃海艇らとともに爆で反撃し、パーチに損傷を与えてこれを撃退した。その後、宗谷カッターを下ろし、生存者の救助にあたった。

8月2日宗谷横須賀軍港にて入渠し、修理を受けていた。すぐそばには戦艦長門」が浮き台として繋留されていた。

ところが米軍航空機が襲来し、横須賀軍港は襲にされた。なるほど敵機は多かった。湾内にいた長門や特設病院船「」も爆撃された。

宗谷も敵機に増槽(ガソリンタンク)を落とされ、気化したガソリンが艦内に充満した

いつもどおりであれば、缶の火に引火して某装甲空母のように爆発を起こしていただろう。しかし、宗谷は入渠修理中であったため缶に火が入れられておらず、事なきを得た。一方、長門は自らのその存在が敵機を引き寄せる形となり、を吹っ飛ばされて中破した。さながら宗谷や氷丸をったかのようであった。

8月3日横須賀からの撤退命令を受けた宗谷は標的艦「」に護衛され、宮城県港へと向かった。

港に到着した宗谷はここで大と別れ、8月6日、輸送任務のため単独で室蘭に向かった。これが宗谷にとって太平洋戦争中最後の任務となる

をはじめとした東北地方沿部や合は6日から翌7日にかけて濃霧が発生していた。

7日、電探で敵機動部隊の襲来を知った宗谷は、全速12ノットの鈍足を飛ばして濃霧に紛れながら八戸港に逃げ込んだ。

この時、濃霧がさらに濃くなり視界が全にゼロの状態になったという。宗谷の乗員は、この濃霧を「の衣」と呼んだ。もしが発生していなければ宗谷は敵機動部隊に発見され撃沈されていたかもしれない。

8月8日八戸を出港した宗谷室蘭に到着した。直前の津軽峡において、探信儀が米軍潜水艦の反応を捉えたため、一散に室蘭港に飛び込んだという。

その翌日、八戸や女襲を受け、女に残された大は英航空機爆撃を受け、大破着底した

宗谷終戦直前まで、何度も絶体絶命のピンチに追い込まれたにも関わらず、がかり的な幸運で難を逃れてきた

しかし、代わりに多くの艦船が被害を受け、沈んでいったことを忘れてはいけない

宗谷は生き延びたと同時に、多くの仲間たちの手によって生かされたのである

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8月15日、宗谷はほぼ傷の状態で室蘭にて終戦を迎えた

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復員輸送船「宗谷」

終戦後、宗谷横須賀に戻り、1945年昭和20年8月30日GHQに接収された。

宗谷の乗組員は一旦故郷に戻ることになったが、9月の中頃、また招集がかけられた。宗谷には日本が進出した外地から邦人たちの引揚げ輸送任務が与えられた。いわゆる復員船である。

宗谷の船艙には居室が、甲上には小屋と仮設便所が設けられた。

やがて、SCAJAP(日本商船管理局)番号「S-119」を与えられ、宗谷は正式に引揚げ輸送にあたることになった。

宗谷はまず、ミクロネシア・ヤップに向かった。そして上海台湾・基ベトナムサイゴンの引揚者を運んだ。

1946年3月の基からの航では引揚者の妊婦女の子を出産した。女の子宗谷機関室で産湯に浸かり、宗谷にちなんで「宗子(もとこ)」と名付けられた(名付け親は当時の宗谷艦長)。

次に宗谷が訪れた中国の葫からの引揚げは悲惨なものであった。

には満州からの引揚者たちが集まっていたが、ソ連軍の侵攻・中国の内戦・暴行・略奪を受け、皆憔悴しきっていた。

宗谷は何度か葫からの引揚げを行ったが、途中で尽きて死亡してしまう人もいた。そうした人たちは宗谷の甲からへと葬にされた。

宗谷はその後も樺太・大泊、ロシア・ナホトカ、中国・大連、朝鮮半島から引揚者を輸送した。

1948年11月までに宗谷は延べ19000人近くの邦人を日本に連れ戻した

引揚げ輸送の任務を終えた宗谷小樽に繋留された。商船帯の入った塗装を施して。

この頃、宗谷は「宗谷丸」という名前で呼ばれていたが、船名表記ではこれまで通り「宗谷」のままだった。

宗谷はこのまま商船に戻るかと思われた。しかし、宗谷はもともと商船構造であったにもかかわらず、軍艦船として酷使されていた。船体や機関部には痛みがあり、おまけ艦本式ボイラーに換装していたため、商船として復帰するには理があった。とかかれている本が多いがこれは宗谷物語を劇的に見せるための創作である。

日本の燈台史によると1948年12月から1949年7月までの間は-函館間の輸送業務に従事していたつまり商船として復帰していたのである。

灯台補給船「宗谷」

1948年(昭和23年)に発足した海上保安庁は、灯台補給船を探していた。

当時、灯台灯台守として海上保安庁灯台部の職員が家族とともに住み込みで灯台の明かりの世話をしていた。

灯台の明かりがなければ事に航はできない。そのため、灯台守の職務は非常に重要なものであった。

しかし、当時は道路もまともに整備されておらず、灯台のある岬や、には船で物資を補給するしかなかった。どこも地の果てのような場所ばかりで、灯台守は不便な生活を余儀なくされていた。

当時の海上保安庁は、太平洋戦争中、特設運送艦として軍に徴用されていた「第十八日正丸」を灯台補給船として使用していたが、1949年(昭和24年)、第十八日正丸のチャーター期限が切れ、船に返還しなければならなくなった。

当初は旧軍の砕氷艦「大泊」を灯台補給船として使用する予定であったが、大泊はすでに船齢28年をえる老朽船であった北方域で休みなく、長い間働いてきたために、機関部がボロボロになっていた。

結局、修理費がかさむとして、大泊は解体されることになった。

そこで、宗谷羽の矢が立った。

灯台補給船は日本各地の灯台に行かなければならない。その中には場は流氷に覆われる北のにある灯台も当然ながら含まれている。耐氷構造を持った宗谷にはぴったりの仕事だった。また、宗谷は大泊ほど機関部は傷んでいなかった。

1949年12月12日宗谷海上保安庁に移籍。石川重工業で灯台補給船への装を受けることになった。

装は翌1950年昭和25年4月1日了した。

宗谷灯台補給船としてく塗装され、灯台補給船を示す「LL-01」のナンバーが船首に書き込まれ、煙突には海上保安庁ファンネルマークであるコンパス羅針盤)が描かれた。

乗員は第十八日正丸の船員たちが引き続き乗り込むことになった。

こうして宗谷の新しいスタートした。 

宗谷速、灯台の燃料、暖房用の石炭、食料、雑貨品などの物資を満載して日本各地の灯台を回った。灯台守の家族たちは宗谷の補給を、子どもたちは宗谷が運んでくるおもちゃを心待ちにしていた。

いつしか宗谷は「灯台」、「サンタクロース」と呼ばれるようになった。

1953年昭和28年12月宗谷に大役が転がり込んできた。アメリカに統治されていた奄美の返還に際して、9億円の現が必要になり、宗谷がそれを輸送することになったのだ。

宗谷12月18日港にて命令を受け、鹿児島港に向かった。

鹿児島港で9億円と警備員と郵政局、電電社、警察日本銀行鹿児島銀行法務省などからの通貨交換業務要員を乗せると、奄美大島の名瀬港に向かった。

12月21日宗谷は名瀬港に到着。奄美大島の人々は宗谷日の丸の小旗を振った。

宗谷奄美日本復帰を見届けると、日本復帰祝賀式典に参加した安藤正純務大臣らを乗せ、鹿児島へと向かった。

年が明けて1954年昭和29年1月宗谷は再び名瀬に向かい、アメリカの軍票を回収すると、鹿児島に帰還した。

この時点で宗谷建造から15年以上が経過していた

普通、船の寿命20年ほどと言われている宗谷もいつか訪れる引退に向けて灯台補給船として、のんびりした毎日を過ごしていた。

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しかし、運命はゆっくりと動き始めていた

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南極観測船「宗谷」

南極観測船への改造 / 第1次観測 / 第2次観測 / 第3次観測 / 第4~6次観測

大改造・幸運のおんぼろ船は奇跡の船になるか

1955年昭和30年3月朝日新聞記者矢田喜美雄は、朝日新聞上で13回に渡り「北極南極」という記事を連載した。その取材で矢田は『地球観測年』を知った。

地球観測年IGYInternational Geophysical Year)』とは、地球における様々な現検証するため、1957年昭和32年7月1日から1958年昭和33年12月31日にかけて世界自然を観測しようという試みであった。

矢田南極観測を朝日新聞社を挙げて支援しようと信夫一郎朝日新聞専務半沢朔一郎「科学朝日」編集長らにこの話を持ちかけた。途方もい計画であった。

日本学術会議にももちろん、会議よりIGYの招請状が来ていた。

1954年昭和29年9月には後に第1次南極観測隊長となる地球物理学者の永田が、IGY特別委員会副委員長ロイドバークナー(Lloyd Berkner:IGYを提案した人物である)に日本IGYへの参加を持ちかけられていたが、当時、日本は敗戦直後であった。途方もい計画で多大な予算がかかる。日本が多額の資を拠出するのは難しいとして皆込みしていた。

矢田半沢日本学術会議の茅会長、中央気台台長・和達清夫ら学会や政府の要人を訪ね、南極観測への支援を打診した。茅は矢田らの熱意に後押しされ、南極観測を実行することに決めた。皆、南極への夢を捨てきれなかった。そこに朝日新聞支援は大きな後押しになった。

永田1955年9月8日ベルギーブリュッセルで開催された第2回IGY南極観測会議に参加した。白瀬矗(1861-1946:元陸軍中尉南極探検日本人としては最初に南極を探検した)が率いた南極探検隊の実績をり、日本南極観測参加の意思を伝えた。

しかし、イギリスオーストラリアらの反対があった。「日本はまだ社会に復帰する資格はない」との意見もあった。最終的に、アメリカソ連らの賛成もあり、かろうじて日本南極観測参加は承認された日本でも11月4日南極観測参加が正式に閣議決定された。

朝日新聞東京本社編集局長・広知男は一大キャンペーンを展開した。南極観測への資提供を社告で表するとともに募の呼びかけも行った。は全各地から約1億4500万円が集まった

日本南極行きは小さな波紋が少しづつ大きなうねりになるように沢山の人々を巻き込み、短期間に、しかし着実に進んでいった。

南極観測には南極の厚い流氷が立ちはだかる。また、南アフリカのケープタウンには暴圏があり、強いシケになることが予想された。この悪条件に耐えうる、砕氷船が必要であった。

会長7月海上保安庁次郎長官に協を仰いだ。居長官は戸惑ったものの、砕氷船の確保を約束した。

当初、砕氷船を新造する計画であったが、予算がかかるとして、立ち消えになった。

その次に、外の砕氷船のチャーターが考えられたが、これもチャーター料が高く付き案になった。

残るは日本に存在する砕氷船を南極観測船に改造する事が考えられた。

大阪汽船の客船で、沖縄航路に就航していた「」や、戦中まで北海道稚内樺太・大泊を結ぶ稚泊航路に就航していた国鉄鉄道連絡船「宗谷丸」などの砕氷船が補として選ばれた。

しかし、これも買い上げや補償などに資がかかるとして立ち消えとなった。

残るは海上保安庁の所有する耐氷船を、改造する方法であった。言わずもがな宗谷である

だが、宗谷はすでに建造から17年が経った老朽船と化していた。船体は錆びつき、甲はところどころが開いていた。このようなおんぼろ船を見れば、普通なら「こんなボロ船が南極に行くなんて」ともが思うことだろう。しかし、宗谷には運があった太平洋戦争中、戦禍をことごとくかわしてきた強運だ。

海上保安庁宗谷の強運に賭けることにした

日本が割り当てられた観測地点はプリンスラルドPrince Harald Coast)。でも厚い氷が立ちはだかる、難所で、ノルウェーが領有を宣言していた土地であった。

アメリカ海軍の報告書には「接不可能(inaccessible)」とあった

アメリカ海軍は1946年に南極観測計画『ハイジャンプ作戦』においてプリンスラルドへの接を試みたが、失敗していた。

1955年11月宗谷は正式に南極観測に使用されることになり、灯台補給船から巡視船籍に入った

海上保安庁灯台部土井智喜部長は惜しみつつも、南極観測に向かう宗谷エールを送った。

灯台補給船の業務は「」という船が引き継いだ。元大阪汽船の客船「」である。

南極観測船になることが決まった宗谷であるが、船体も小さく、鈍足であり、石炭焚きであり、あくまでも最小限の耐氷しか持っていなかった。

IGYまで残り1年。短期間で大規模な改造を行うことが必要だった。

1956年昭和31年3月12日、着工式が行われ、宗谷改造が始まった。

改造日本鋼管浅野ドックが行うことになった。奇しくもトラック襲で受けた損傷を修理したドックであった

引き渡し予定は10月7ヶの、まさに突貫工事だった

宗谷に次のような改造を受けた。

全く原を留めないほどであった金剛型戦艦もびっくりの魔改造ぶりである。

海上保安庁船舶技術部と浅野ドックだけの手には余り、元軍の技術将校であった船舶技術者牧野に詳細な図面の製作を依頼した。牧野戦艦大和」の設計にも携わった人物であった

浅野ドックは一丸となって、この突貫工事に当たった。宗谷船体に大きな歪みが生じ、漏れを起こすなど、工事は難航した。しかし、10月17日なんとか工式が行われ、宗谷事に改造を終えた。

船体はオレンジに塗られ、巡視船を示す「PL-107」のナンバーが船首に書き込まれていた。

宗谷には日本各地の企業から提供された観測機材、観測基地の材料、食糧などが満載された。南極ぞりをひくための樺太も乗せられた。

おんぼろ宗谷日本中の期待を受け、いよいよ、接不可能の地に出発する。

第1次観測・不可能を可能にした船

1956年昭和31年11月8日東京晴海埠頭には予備観測として南極に向かう宗谷を見送るため、約5千人の観衆が集まっていた。皆が南極観測隊に、そして宗谷に注していた。午前11時宗谷77名の乗組員、53名の観測隊員、22頭の樺太、1匹の、2羽のカナリア、貨物400トンを乗せ、観衆と乗組員や観測隊員の家族らを乗せた巡視船「むろと」「げんかい」「つがる」に見送られ、晴海埠頭を後にした。随伴船の東京大学練習船「」は10月28日に先立って出港していた。

しかし宗谷11月15日、いきなりフィリピン台風19号に遭遇してしまった。おまけに翌16日には台風20号に遭遇。二つの台風に挟まれての航になってしまった。揺れ止めであるビルジキールを撤去していたため、船体は非常に揺れた。

なんとか、暴圏を抜けて、11月23日シンガポールに気11月29日にはマラッカ峡を抜けて、12月1日を通過した。19日にケープタウンに到着。29日、丸とともにケープタウンを出港した。

12月31日宗谷はケープタウンの暴圏に突入した。宗谷だるまのように揺れた。3~40度まで傾斜し、危うく甲から樺太が落ちそうになった。やがて、新年が明け、1月に入るととうとう氷山が流れてくるようになった。南氷洋である。

1957年昭和32年1月16日宗谷はとうとう氷に突入した。事前セスナ機「さちかぜ」号により、氷状偵察を行い、プリンスオラフ側より突入することになった。宗谷はさちかぜが発見した流氷の中の大きな面(大利根と名付けられた)をし、氷山の合間を縫うように一生懸命に氷を割り続けた。時には流氷ダイナマイトにて発破した。

そんな苦労もあり、宗谷はとうとう1月24日、南緯69度、東経39度の定着氷に接した。船齢18年のおんぼろ船が偉業を成し遂げた間であった。もちろん、運もあった。年はこの付近は東であることが多いのだが、この年は南風が多く、宗谷の行動は較的容易であった。また、にも恵まれた。

到着後、すぐさま偵察としてぞり隊が派遣された。25日、観測基地はオングルに設置されることが決定され、物資の荷降ろしが始まった。観測隊や宗谷の乗組員をペンギンが迎えた。1月29日、観測隊はオングルに上陸し、「昭和基地」と命名され、このニュースはすぐさま日本報道された。新聞の号外が出され、日本中が歓喜に湧いた。

2月1日により物資輸送が始まった。プレハブ式の基地が建設され、線棟やアンテナが設置された。

しかし、2月11日が悪化。南極は季節がになりかけており、強が吹き、気温も低下した。宗谷の接地点では強で氷が緩み、一刻もく、離しなければならなかった。

2月15日宗谷西堀三郎隊長以下越隊員11名を残し、接地点を離し、日本に戻ることになった。この観測は翌年の本観測に先駆け、基地を設置、南極環境を偵察しようという予備観測であった。来年、また南極に戻ってくる。

宗谷が離して、翌日の16日。吹雪宗谷を襲った。宗谷の周りは結氷し、流氷の中に閉じ込められてしまった。宗谷は流され続けた。松本満次船長はこのまま観測隊員を降ろし、乗組員とともに流氷内で越することも覚悟していた。しかし、宗谷は一旦後退し、氷の上に乗り上げ、氷の上で船体を揺らし、もがきながら徐々に、徐々に、氷を割っていった(これをチャージングという)。

海上保安庁外務省を通じてアメリカソ連宗谷の救援を依頼した。2月28日宗谷はあと外洋まであと10kmほどの地点まで来ていた。そこにソ連の砕氷船「オビ(ОБь)」が救援にやってきた。オビ号は5時間かけ、宗谷のもとにやってきた。宗谷の左舷30mほど横で反転し、宗谷を外洋まで嚮導した。宗谷乗員たちはオビ号に感謝した。

オビ号は現在就役中の新しらせの全長138mよりも大きく140mもあった。宗谷は当時83.3m第三次以降は83.7m

4月25日宗谷は半年の航を終え、丸とともに東京に帰港した。おんぼろ船は、奇跡の船となった。

第2次観測・割れない氷と取り残された樺太犬

宗谷浅野船渠に回航され、補修工事とともに第1次観測で得たデータ・教訓を元に改造を受けた。

宗谷はこの時、次のような改造を受けた。

第1次観測の成功により、宗谷への期待は高まっていた。第2次観測はIGYの本観測である。絶対に成功させなければならない。皆、そう思っていた。

宗谷1957年昭和32年10月21日、再び南極に向かうため、東京・日の出桟から出港した。しかし、この年の南極は荒が続き、気条件に恵まれなかった。そのため、昭和号による氷状偵察ができなかった。12月26日宗谷は氷に突入した。氷は前年より厚く、チャージングでは氷を割れなかった。ダイナマイトによる氷の爆破、更には乗組員たちが竿を持って氷をどかそうとしたが、駄だった。

31日に猛吹雪宗谷を襲った。宗谷はまたしても流氷に閉じ込められ、1ヶもの間流され続けた。いつしか、プリンスラルドクック岬のまで流されていた。1958年昭和33年2月1日、氷が緩み、脱出を試みた。しかし、チャージングの際にスクリューを破損してしまった。1ヶもの漂流で食糧もも乏しくなっており、宗谷満身創痍であった。1958年2月6日宗谷はようやく氷から脱出した。

2月7日宗谷海上保安庁が救援を要請していた、アメリカ海軍ウィンド級砕氷艦「バートンアイランド(Burton Island AGB-1」と会合した。バートンアイランドとともに氷内に再突入したが、吹雪は収まらなかった。ここで観測隊は昭和号による越隊員の引揚げを決断した。2月10日が回復したことにより、昭和号が昭和基地に飛び、ピストン輸送を決行。越隊員と樺太7頭を収容。11名の越隊員はほっとした。しかし、この回復は僅かな間で、すぐに荒となってしまった。

この時、樺太15頭がまだ昭和基地に取り残されていた。観測隊は第2次越隊を送ることをまだ諦めていなかった。よもや樺太を基地に置き去りにするなどとは夢にも思っていなかった。宗谷は一旦氷を脱出し、の回復を待った。24日、再突入を試みたがはついに回復しなかった。バートンアイランドのヘンリーブラティガムHenry Brantingham)艦長の勧告もあり、松本船長は苦渋の末帰還を決定。樺太15頭は昭和基地に置き去りにされた。鎖に繋がれたままだった。

宗谷は第2次観測に失敗した。幸運の船が南極の厳しい自然環境敗北した間であった。

第3次観測・航空輸送とタロ・ジロの奇跡

1958年昭和30年4月28日宗谷スクリューが折れたまま満身創痍で約半年の航を終え、日本に帰還した。

しかし、宗谷を待っていたのは、樺太を置き去りにしたことへの厳しい非難のであった。民は、南極観測の失敗よりも樺太の置き去りを攻めた。南極観測への慎重論も出た。

海上保安庁は第2次観測の失敗の教訓を活かし、宗谷を定着氷に接させるのではなく、大ヘリコプターにて航空輸送をする方針へと転換した。宗谷は大ヘリコプターを搭載するためにさらなる改造を受けた。

シコルスキーS-58は1トン以上もの輸送を持っていた。これを用い、航空輸送を行うという計画である。

11月12日宗谷は日の出桟から3回めの南極観測へと出発した。

1959年昭和34年1月13日宗谷は厚い流氷と闘いながらやっとの思いで昭和基地の北・約163kmの地点までやってきた。ここからS-58による航空輸送を行った。第1回航空輸送でヘリコプター昭和基地に近づいた時であった。黒いもさもさした塊が2つうごめいているのが見つかった。操縦士は最初、クマかと思った。しかし、南極クマはいない。そう。それは前年に置き去りにした樺太の内、北海道稚内まれの「タロとジロ」の兄弟であった。タロとジロは南極の厳しい環境の中で生存していたのである。

ぞり隊の北村泰一を始め、観測隊員・乗組員は喜びに包まれた。もちろん、他の13頭の樺太死亡してしまったと思われる。しかし、2頭が生き残っていたことは観測隊員たちにとってはかけがえのい慰みになった。

宗谷事に観測資材と14名の越隊員を昭和基地に輸送した。ヘリコプターによる輸は見事、成功した。

タロとジロが生存していたことは日本中に報道された。これが映画南極物語」で有名になったタロとジロの生存である。もしかしたら、これも奇跡の船・宗谷が起こした奇跡の一端だった……のかもしれない。

宗谷4月13日事に日本に帰還した。

第4~6次観測・奇跡の船の南極往復

宗谷は第4次から第6次までの観測任務をこなした。第4次からは航空輸送に詳しい明田末一郎船長に交代した。

1959年昭和34年)から1960年昭和35年)の宗谷ヘリコプターによる第4次観測の輸送任務は第3次観測の3倍の輸送量に達し、大成功を収めた。事に日本へ時間する途中、宗谷はいまだアメリカに占領されていた沖縄に招かれ、寄港した。宗谷沖縄の人々に手厚く歓迎された。

第4次観測を大成功させた宗谷であったが、新砕氷航行の実験を行った船体はしく傷んでいた。その年、リベット1500本を打ち直す大修理が行われた。

宗谷1960年から61年(昭和36年)に行われた第5次観測も事成功させた。なお、タロとジロの2頭の樺太南極に留まっていたが、ジロは1960年7月9日に病死してしまった。タロは第5次観測の際、宗谷に乗り日本に帰している。タロは1970年昭和45年8月11日に老衰で死亡した。

この南極観測は第6次で終了する計画であった。その為、この時宗谷が運んだ南極隊員は最後の越隊員であった。それでなくとも、もともと小の船で搭載キャパシティも少ない宗谷での南極への物資輸送は限界に近づいていた。

宗谷1961年10月30日、第6次観測へと向かった。これは宗谷の最後の南極行きであった。この年で昭和基地は閉鎖される予定であった。

第6次観測の年は、宗谷にとって過去最悪の気条件であった。昭和基地より200kmまでしか接近できず、ヘリコプターによる輸送もあまりうまく行かなかった。それでも宗谷は越隊員の引揚げ、昭和基地の閉鎖を終え、事に1962年昭和37年4月17日、日の出桟に帰ってきた。

日本学術会議南極観測を恒久的な事業にするべきと勧告した。そのためには宗谷より大きな砕氷を持つ船が必要であった。1963年昭和38年)、1965年昭和40年)に南極観測事業が再開されることになり、、上輸送は海上自衛隊が行うことになった。海上自衛隊は新砕氷艦「ふじ」の建造を決定した。宗谷はお役御免となった。

宗谷は6回もの南極観測を成し遂げた。素晴らしい功績であった。しかし、船体はもはやガタが来ていた。もともと貨物船である。1962年当時、すでに建造から24年であった。普通の船であればとっくに引退し、解体されている。

しかし、宗谷はまだまだ人々に必要とされていた。

南極観測船時代のエピソード

巡視船「宗谷」

「北の海の守り神」

宗谷南極観測船として活躍したが、登録上は巡視船であった。当時、北海道海上保安庁第1管区では流氷の中での難事故への対応に苦慮していた。流氷を割るのには南極観測を6回も成し遂げた宗谷にはもってこいの仕事であった。

1962年8月1日工後、宗谷北海道派遣され、巡視船として北方域でのパトロールに就いた。9月14日には三宅島雄山の噴火により千葉県館山市に疎開していた三宅島小学生に送り届ける任務に就いた。南極へ行った宗谷を見て、子どもたちは喜んだ。

9月の末には東太平洋上で操業中のマグロ漁船第六進丸」「第六良丸」で重病患者発生の報告を受け、医師を乗せ、救助に向かった。宗谷船内で緊急手術が行われ、横浜に搬送した。これが宗谷の巡視船として初めての人命救助であった。

宗谷函館港とし、になると、オホーツク流氷を割りながらパトロールをした。南極の厚い流氷と戦っていた宗谷には北洋の流氷はたやすいものであった。1963年4月1日宗谷は正式に第1管区に配属された。

漁船や仲間の巡視船が流氷にはまれば、宗谷は一生懸命に氷を割り、助けた。1964年4月には巡視船「てんりゅう」が紋別にて流氷に閉じ込められた漁船の救援中、自らも流氷にはまってしまった。宗谷はてんりゅうのもとに駆けつけ、これを救助した。

1970年昭和45年3月16日合底漁船19隻が猛吹雪の中、択捉島・単冠湾に避難した。ホッとしたのも束の間、猛吹雪に押し流された流氷がものすごい速さで湾内を襲った。1隻は流氷に押し流され走錨して陸に打ち付けられ大破し、7隻が閉じ込められた。残り11隻はなんとか脱出した。閉じ込められた内、2隻はそのまま流氷に潰されて転覆。転覆した船の乗組員は行方不明になった。残り5隻の乗組員たち、84名は択捉島に上陸し、避難した。

宗谷はこの時、カムチャッカ方面をしていた。知らせを受け、転覆した船の乗組員、約30名の捜索にあたった。この時の流氷は湿気を含んでいて、非常に固かった。宗谷は氷に突進していった。氷は割れるものの、乗組員は見つからなかった。

ソ連側は避難者の引き渡しのため、巡視船の入域を許可した。の好転した22日、宗谷ソ連の警備艇から84名を収容し、流氷を割りながら釧路へと戻った。生存者たちは宗谷の姿を見た間、喜んだ。

宗谷は16年もの長い間にわたって北海道をパトロールし、守り続けた。巡視船になってから約1000名の人命救助を行い、漁師や船員たちからは「北のの守り」と呼ばれるようになっていた。1970年には南極観測船のオレンジ色から巡視船本来のい色に塗り替えられた。「灯台」と呼ばれた灯台補給船時代を彷彿とさせた。

しかし、同時に老朽化も酷くなっていた。漏れ、電線の腐蝕、パイプの破損、漏り……。船内には隙間が吹き込んだ。すでに建造から40年も経った船だった。普通の船の2倍は生きているのだ。そんな船が今まで一線級で活躍してきたのが不思議なくらいだ。

1977年昭和52年)、とうとう宗谷にも引退の噂がささやかれ始めた。そのにはとうとう代船の建造が決まった。宗谷はこのまま、スクラップになるものと思われた。

宗谷の最後の戦いとサヨナラ航海

1978年昭和53年2月末、北海道稚内港には流氷が流入していた。これ自体はしいことではなかった。しかし、3月に入るとそのまま流氷は結氷し、多くの船が港内に取り残された。漁船は出漁できず、漁業の町である稚内経済は打撃を受けた。タンカーや貨物船などの物資を運ぶ船も入港できない。流氷に強行突入したタンカーもあったが、あえなく失敗した

稚内利尻島礼文島を結ぶフェリーは欠航となった。代替として天塩港から離行きのフェリーが出港したが、3月8日利尻にまで流氷は進出し、3月9日に欠航に追い込まれた。困ったのは稚内市民だけではない。このままでは利尻礼文民たちにも物資は行き渡らない。

当時の稚内市長・辰雄宗谷を名しして救援を海上保安庁に要請した。当時、稚内では引退が決まった宗谷を保存しようという運動もあった。稚内には宗谷の名前の由来となった宗谷峡があり、南極に行った樺太・タロとジロの出身地でもある。その為、宗谷稚内でも人気があった。

宗谷3月9日択捉島にて航行不に陥った漁船「第三十八漁永丸」を航していた。しかし、連絡を受け、航を巡視船「いしかり」に任せ、港の函館へと帰投した。

しかし、1972年昭和47年3月にも宗谷稚内港の流氷破砕を行ったが、この時は失敗していた。乗組員たちには少し、不安があった。物資を補給し、函館を出港した宗谷は老体に打って稚内へと向かった。

3月10日には底船「五十三太平丸」が流氷脱出を試みたが、駄だった。稚内の氷はとても厚かった。

宗谷は鈍足13ノットを飛ばした。稚内ノシャップ岬西に到着したのは3月11日のことであった。しかし、猛吹雪で進めなかった。翌12日千歳より海上保安庁航空機稚内まで氷状調を行う予定であったが悪のため、取り止めになった。有安船長は単独での氷突入を命じた。

宗谷は1.5mの厚い氷に突進した。そして少しづ稚内港へと向かった。煙突からは火の粉が吹き上がった。1時間かけて稚内港・北防波付近まで辿り着いた。宗谷はなおも氷に向かって体当たりを続けた。後ろに下がり、突進、後ろに下がり、突進を繰り返し、30分かけてフェリーを脱出させた。

そして漁船31隻が閉じ込められている船だまりへと向かった。宗谷は何度も何度も突進を繰り返し、漁船たちを救助した。午前11時宗谷が進路嚮導し、「第一三二栄宝丸」を先頭に31隻の漁船が稚内港を脱出した。北海道漁業取締船「王丸」、巡視船「さろべつ」がそれに続いた。閉じ込められてから実に12日ぶりのことであった。

宗谷は船たちが脱出したのを見届けると、函館へと帰っていった。これが宗谷の最後の流氷の中での救助となった。

5月14日宗谷海上保安庁の観閲式に参加した。宗谷は建造から40年を迎えていたが、海上保安庁も設立か30年が経っていた。そのどを宗谷海上保安庁で過ごした。福永運輸大臣、村泰海上保安庁長官らが宗谷に乗り込んだ。

7月29日宗谷函館を出港した。解役が決まり「サヨナラ宗谷船内見学会」を行うことになったからだ。函館福井、舞、門広島高松など14の港を巡り、一般開された。そして函館に戻ると、9月23日稚内市に招かれ、稚内でも見学会が行われた。10月1日宗谷東京に到着した。

10月2日東京芝桟にて宗谷の解役式が挙行された。高橋寿夫海上保安庁長官を始め、歴代の海上保安庁長官や第1次南極観測隊隊長永田武、第1次南極隊長西堀三郎南極観測船としての最初の船長松本満次ら宗谷に関わった沢山の人々が参列した。貨物船、特務艦、復員輸送艦灯台補給船、南極観測船、巡視船……。宗谷は沢山の人々の期待を受け、沢山の船に助けてもらい、沢山の船を救い、沢山の人々の期待に応えた。

その年の紅白歌合戦では春日八郎引退する宗谷ねぎらい、「さよなら宗谷」という歌を歌った。

あまりにも多くのことを成し遂げた運命の船は、40年もの長い歳を過ごし、沢山の人々に見送られ、万の拍手の中、役を終えた。

博物館船「宗谷」

展示中の宗谷(2015年 船の科学館にて)

宗谷は解役後、スクラップになるものと思われた。しかし、特務艦時代の宗谷の乗組員たちの戦友会「軍艦宗谷会」や、「南極OB会」などの団体や、稚内市を始め11の地方公共団体、更に沢山の人々から保存への嘆願書が集まっていた。

海上保安庁はこれに応え、財団法人日本船舶振会長笹川良一の働きかけで日本海科学財団が運営する東京都お台場の「船の科学館」で保存されることになった。宗谷は翌1979年昭和54年5月1日より博物館船として船の科学館で一般開されている。また1980年代までは通信室はアマチュア無線室として使用さていた。

1978年11月に就役した、宗谷の名と任務を継いだ巡視船「そうや」は建造から30年以上たった今でも北のを守り続けている。

1984年には宗谷の活躍を描いたアニメ宗谷物語」が国際映画社にて制作され、テレビ東京系列で放送された。

2008年平成20年2月16日には誕生70年を祝う古希祭が行われた。

宗谷奇跡は、建造から70年も経ったにも関わらず、未だにお台場でその勇姿が見られることにより、続いている。南極観測の功績により、永久保存されることとなった。ただ船体はしく痛み、寄付も呼びかけられている。(船の科学館に問い合わせたところ、現在宗谷銀行振り込みでの募は募集していないとのことである、入場口では募集中)

みなさんも是非、この「奇跡の船」をそのに入れてみてはいかがだろうか。

2016年7月21日東京都が設置する「新客船ふ頭ターミナル」の工事に伴う隣接桟への移設のため、2016年9月1日2017年3月31日の間、一般開を休止することが決まった。

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