1927年、京都府京都市生まれ。本名・山内博(50歳のときに現在の名前に改名)。1949年から2002年まで約半世紀にわたって任天堂の代表取締役社長を務める。2005年までは取締役相談役に就き、最終的には取締役も辞して同社相談役となった。
独自の経営哲学とカリスマ性を兼ね備えたワンマン経営者として知られ、それはつまり悪く言えばそれは独裁的な経営であった。
本来会社においてそういった独善的な方針は部下達から毛嫌いされがちだが、宮本茂らが「社員はみんな社長の喜ぶ顔が見たいから頑張ってる」という言葉を残しているように、社員達からの信頼は厚かったという。
全員が全員そうではなかったであろうが、少なくともそういった人達が多かったことは間違いない。
率直な物言いや、あたかもその筋の人のようなコワモテな風貌から、ネット上では「組長」の愛称で呼ばれる。しかしそのお声は意外と高めなハスキーボイスである。
京都のいち花札メーカーであった任天堂を世界に名だたる企業にした立役者。また横井軍平や宮本茂、岩田聡などを見出してしかるべきポストにつけるなど、人物を見る確かな目を持っているといえる。
「遊び方にパテントはないわけです」「ゲーム機はソフトをプレイするために仕方なく買うもの」など、様々な名言を残している。
相談役となってからは、表舞台に名前が出ることすらほとんどなくなっていたが、2013年9月19日の午前、肺炎にて死去。85歳没。
父が愛人と駆け落ちして失踪したことから、早くから山内は任天堂の次期後継者として目されていた。一方、当の本人は「東京に出て遊びたい」という奔放な調子で上京、早稲田大学法学部に入学し、祖父からプレゼントされた渋谷の一軒家で暮らすようになる。
当時はまだ学生だというのに、友達らを巻き込んで毎日のように豪勢な暮らしをしていたと言われている。今でこそ組長というあだ名が付いているが、この頃の組長を一言で表すなら、金持ちのボンボンであった。
さて、東京で自由気ままな青春を満喫していた山内だったが、22歳の時、突如「社長(二代目、組長の祖父にあたる)が倒れたから京都に戻って来い」という報が入る。これは、社長の座を彼を引き継がせるための呼び戻しだった。山内は事の次第を聞くと、「自分を社長業に就かせたいのなら……」と、条件を付けた。
つまるところ「任天堂に今いる血族を全員解雇しろ」というそれは、見ての通りかなり強烈な申し出だった。しかし、この条件は飲まれ、親族達は経営面から完全に外された、ちなみに実際は要職から遠ざけられただけで、完全解雇ではなく、今でも血族の中には任天堂社内で働いている人もいる。
当時、経済のけの字も知らなかっただろう青年時代の山内は、いきなり豪快な手腕を見せつけると、家業を継ぐことを承諾。そのため通っていた大学は中退することになった。
こうして、山内は任天堂の社長として22歳の若さで就任した。もし父親が失踪してくれなければ今日の任天堂はなかったかもしれない。
経営面において、天賦の才を発揮した彼は、様々な人材を掘り起こしつつ、世界初のプラスチック製トランプを開発、これを日本中の家庭に普及させて会社を業界トップへとのし上げた。
その後経営規模拡大を狙って多角経営(ベビーカーや食品業からタクシー会社、ラブホテル経営にまで及んだ)に手を出すがことごとく失敗する。これに懲りて1970年代以降は本業に近い玩具の製造・販売に業務内容を限定。1980年には横井軍平の開発した「ゲーム&ウオッチ」が大ヒットを記録、さらにその利益を使って開発した「ファミリーコンピュータ」(1983年)の発売・大ヒットによって娯楽産業における任天堂の地位を確立した。
先見性に富んでおり、いろいろ時代を先取りしたアイデアを提案したり、業界の未来を予見するかのようなコメントをインタビューで残していたこともある。一方で上述のような失敗談もあるように、決して全てが成功したわけではなかった。
後述の投資の項目にもある通り、92年から2004年8月までMLB球団のシアトルマリナーズのオーナーを務めていた。経営難に陥っていた球団を、シアトルに拠点を構えるNOAの縁もあり地域貢献と恩返しの意味も込めてオーナーに名乗り上げた。球団の人事や経営にほとんど口を出さないオーナーだったが、唯一イチローの獲得だけは強く進言したそうである。
2002年に社長業を引退し、自らの血族にその座を譲る……かと思いきや、やっぱり違う決断をした。
山内は、HAL研究所から任天堂取締役へと呼び寄せていた岩田聡を次期社長に任命した。この直前に岩田を社長室へ呼び寄せてマンツーマンで経営哲学を3時間語り、その際に前述の失敗の教訓から「異業種には絶対手を出すな」と厳命した話はよく知られる。
また、社長時代の最後に残していったとされる「2画面のゲーム機」のアイディアは、言うまでも無く後にニンテンドーDSとなって、任天堂を再び業界トップに押し上げることになった。
その後継である3DSも、前々から山内が特に好み、こだわりつづけていた3D表現というテーマを本格的に昇華させたものだという。(バーチャルボーイはその発想の始祖である)。
宮本茂は、組長がしきりに『3Dはどうや?』とか『飛び出さへんのか?』と聞いていたことを明かしている。
囲碁が趣味で、アマ6段の段位を持っている。実力はそれ以上とも。
任天堂には「山内との対局でゲームCPUが勝たなければ囲碁ゲームを出せない」という暗黙のルールが存在する、という噂がある。ちなみに囲碁はゲームの性質上ほかのテーブルゲームと比較して思考ルーチンの組み立てが難しく、日本棋院が認定しているもっとも優秀なプログラムでもアマ初段。つまりこの噂が本当ならば、CPUにアマ6段の組長に勝てというのはちょっとした無茶振りである。
なお実際のところ今まで任天堂は囲碁ゲームをほとんど発売していない。2008年8月5日には任天堂初の囲碁ゲームとして「通信対局 囲碁道場2700問」がWiiウェアで配信開始されたが、これは基本的にオンライン対戦ソフトで、コンピューターとの対局は初心者用の練習対局のみである。
寄附を行っている時雨殿の件からも解るように、百人一首も嗜んでいたらしく、寄附以前のインタビューで「子供達が百人一首に興味を持って、遊ぶようになるようにしたい」といった希望を話していた事もあった。
自らのポケットマネーで各所への投資や寄附を行ってきたことで知られる。以下はその例。
掲示板
244 ななしのよっしん
2023/09/08(金) 22:18:15 ID: SIWrKDZywm
この人に未来が見えたら多角経営で失敗してなかったと思うんだけど
人を見る目と部下に慕われるカリスマ性は凄かったんだろうなと思う
245 削除しました
削除しました ID: 91Sve7vP/I
削除しました
246 ななしのよっしん
2024/02/04(日) 00:46:59 ID: e7WOdSUYkO
ゲームの仕組み(ローグライクとかSRPGとか)には詳しくなかったけど、面白いゲームを作れる人を見出す力はあったな
創造性を重視する一方で、経営に関してはかなり厳格で、カリスマ的な人だったけど、個人のカリスマ性とやらに頼る事の危険性も同時に理解していたと思う
世襲については、世襲でも経営自体はできたとは思う(組長のご子息もホテル経営はしているから経営能力自体はあると思う)けど、それよりも次世代を見極められる人というか、任天堂の将来を託せる人(岩田社長)を経営に選んだろうなと思う
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最終更新:2024/04/20(土) 01:00
最終更新:2024/04/20(土) 01:00
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