岡田武史 単語

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オカダタケシ

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岡田武史(おかだ たけし1956年8月25日 - )とは、日本の元サッカー選手サッカー解説者、元サッカー日本代表監督である。称は「ちゃん」など。

現在は、J3リーグに所属するFC今治オーナー兼代表取締役日本サッカー協会副会長

TVゲームFIFAシリーズ日本語版ではFIFA08からFIFA12まで解説を担当していた。

現役時代のポジションはDF(センターバック)。175cm70kg。

概要

岡田武史

大阪府大阪市出身。現役時代はジェフ千葉の前身、古河電工で活躍。日本代表にも選出された。

世間の注を大きく集めたのは、加茂周が成績低迷で更迭されて代理監督に上がった1997年10月。今もなおり継がれる『ジョホールバルの歓喜』を経て、正式に日本代表監督となった。1998FIFAワールドカップフランス大会で揮を取ったが予選敗退に終わり退任した。

北海道ファンから熱な歓迎を受け、コンサドーレ札幌監督に就任し、1999年から2001年まで監督を務めた。その後、2003年2006年横浜F・マリノス監督2007年12月から体調不良イビチャ・オシムに代わり、二度日本代表監督に就任した。

常々、海外チーム相手に勝つための研究を模索し続けており、多くの関係者から評価・支持されている。しかし、結果が出せていないのもあり、2010FIFAワールドカップが始まるまで、一般世間の評価は厳しかった。

2010年日本代表監督を退任した後は、経営者に転身。「オカダメソッド」を提唱し、FC今治オーナーとして自らの哲学チームに導入している。

経歴

現役時代

産婦人科医の父親を持ち、幼少の頃は南海ホークス現在福岡ソフトバンクホークス)の大ファンで、たびたび大阪球場へ足を運びホークス応援する野球少年だった。自らも「南海ホークス子供の会」に所属し日々野球に明け暮れていた。ちなみに、「ホークス子供の会」には後に阪神タイガースで活躍した岡田彰布も所属しており、同じチームプレーしていた。

中学に入ると、野球部の上下関係が厳しかったこと、友人サッカー部を見に行ったときにサッカーが面そうだったという理由でサッカーに転向。そのままサッカーに熱中するようになり、両に「ドイツに行ってプロになる」と宣言し困らせたこともある。

高校大阪府天王寺高校に進学し、サッカーを続ける。同校はそれまでサッカーでは実績の高校だったが、頭を現すようになる。3年生になると将を任され、普段は監督が不在のため日々の練習メニューまで考案していた。また、この年に高校生ながらユース代表に選出に抜1975年クウェートで開催されたアジアユース選手権にも出場している。

高校卒業後は1年間の浪人生活を経て、早稲田大学政治経済学部入学。このとき、体育推薦の話も受けてはいたが、あえて一般入試で合格している。当初はサッカー部に在籍せず稲穂キッカーズでプレーしていたが、日本サッカー協会からの説得もあってア式蹴球部に入部。1978年には大学選手権優勝き、ユニバー代表にも選ばれている。また、現在の妻と大学時代に知り合い、大学4年のときに学生結婚をしている。

大学卒業後の1980年古河電工に入社し、サッカー部に入部。頭のDFとして1985年には日本リーグJSL)優勝に貢献し、翌年には日本クラブチームとして初めてアジアクラブ選手権で優勝。当時監督だった清栄純はゾーンディフェンスを採用していたが、これを実現できたのも周りに的確なコーチングができる岡田がいたからだとっている。キャリアが晩年に差し掛かった1990年日本リーグ選抜の一員としてバイエルン・ミュンヘンと対戦。この試合に敗れたことで海外との埋めがたい差を痛感したことで現役引退を決意。導者として世界と戦える選手を育てることをすようになる。

日本代表としては、1980年6月1日ジャパンカップ エスパニョール戦でデビュー1982年11月25日韓国戦ではロングシュートを決め、代表初ゴール記録。その後はセンターバックレギュラーとして名を連ねるが、1984年ロサンゼルスオリンピック予選後は加藤久とのポジション争いに敗れて控えとなる。1986 FIFAワールドカップアジア地区予選もベンチを温めることがほとんどで、1試合に途中出場したのみとなった。その後は代表でプレーするモチベーションを失い、古河でのプレーに専念している。

日本代表24試合1得点

指導者としての経歴

古河電工・ジェフユナイテッド市原コーチ

現役引退の翌年である1991年から古河電工コーチを務め、導者としてのキャリアスタートさせる。1992年にはコーチ留学のためにドイツへと渡っている。

1993年Jリーグ開幕後にドイツから帰し、古河体となったジェフユナイテッド市原コーチを務める。このとき市原とはプロ契約を交わしており、正式にプロ導者となった。この年のドーハの悲劇のときは、NHK BS1スタジオ解説者として後に日本サッカー協会会長となる田嶋幸三と共に出演。ロスタイムに同点ゴールイラクに決められ、ワールドカップ優勝を逃したときはながらに悔しさを訴えた。この4年後に日本サッカーの悲願をえる男になるとはこの当時、本人も含めても思っていなかった。

1994年は現役時代の恩師である清市原監督に就任。その下でサテライトチームに携わることがメインとなる。

日本代表(第一次)

1995年日本代表監督加茂周が就任した際、日本代表コーチに就任。加茂とは面識がく、市原コーチにやりがいを感じていたが、清から推薦されたことで引き受けることを決意した。

1997年10月1998 FIFAワールドカップ アジア最終予選で日本が敗退の危機に立たされ監督加茂が解任となり、急きょ日本代表監督に就任。監督経験の岡田の抜に世論は不安視し、本人も直前に迫った敵地でのウズベキスタン戦のみという条件で承諾。帰後、挨拶に行った加茂から説得されたこともあり、引き続き監督続行を決断。ベテラン中山雅史北澤豪を呼び戻したテコ入れが功を奏したこともあってチームは息を吹き返し、アウェイ韓国戦とホームカザフスタン戦に連勝したことで第3代表決定戦までこぎつける。マレーシアのジョホールバルでのイラン戦では、エース三浦知良を途中で交代させる大ナタを振るい、最後は延長戦から投入した岡野雅行が決勝ゴールを決め、悲願のワールドカップ初出場をもたらす。後に「ジョホールバルの歓喜」をもたらした監督として歴史に名を残し、人生の大きな転機となった。ジョホールバルの歓喜の後は一躍時の人となっていた。

正式に日本代表監督となった1998年は、本番までの準備を進めると共に17歳市川18歳小野伸二を代表に招集。21歳の中田英寿チーム作りの中心に考えるようになる。そして、本大会直前のスイス合宿において、三浦知良北澤豪といったベテラン勢を落選させる決断を下す。特にこれまで日本サッカーエースであり顔であったキング三浦知良の落選は大きな衝撃となり、一部のファンからは家族までが脅迫を受けるほどの大バッシングを浴びる。後にカズ北澤を外した理由を

1998 FIFAワールドカップでは、「1勝1分1敗によるグループリーグ突破」という現実的な標を掲げ、守備的な戦いを選択。しかし、初出場の日本にとって世界の壁は厚く、アルゼンチンクロアチアジャマイカを相手に3戦全敗。奪ったゴール中山雅史の1点のみという結果に終わる。大会後、テクニカルレポートの作成を最後に日本代表監督を退任。その後は、WOWOWイタリアセリエAの中継を担当。番組の取材でユヴェントス監督だったマルチェロ・リッピとの対談が実現し、後の導者キャリアに大きなを受けることになる。

コンサドーレ札幌

1999年、前年にJ2リーグに降格となったコンサドーレ札幌監督に就任。自身のキャリアJリーグはおろか、クラブ監督になるのはこれが初めてとなった。「1年でのJ1復帰」を標に掲げ、メディアファンからの期待値や注度も非常に高かったが、シーズン後半戦に息切れしたチームは最後まで昇格争いに残れず、5位でシーズンを終える。シーズン終了後、札幌監督就任から続いた采配時のスーツ着用をやめてジャージ着用に変え、自身の発想も転換した以外にも、チームの戦術、選手の意識、さらにはフロントに至るまで大胆な革に着手。スカティングも自分で行う。

2年となった2000年、少ない予算のなかで若い人材をレンタルなどで獲得し、播戸二や山瀬功治といった若い人材を積極的に登用。さらに自らがスカティングしてブラジルから連れてきたエメルソンが想像をえるフィットを見せ、エースストライカーとしてゴールを量産。J2を戦うための戦術を確立して、それを実行することができる選手を各ポジションえたことで圧倒的優勝補と見られた2位浦和レッズに勝ち点差12をつける独走状態でJ2優勝、そしてJ1復帰を果たす。

初のJ1となった2001年は、退団したエメルソンの代役に大分トリニータからウィルを獲得。戦的に苦しい立場だったものの、高卒1年今野泰幸レギュラーとして定着させるなど現有戦の潜在を引き出すことで対抗。最終的に11位J1残留を成し遂げ、ウィル得点王、山瀬がJリーグ最優秀選手賞を受賞するなど、監督としての才を十分に発揮。しかし、シーズン終了後にサッカー界を見つめなおしたいといいう思いから辞任。

退任後は、解説者として活動し、2002 FIFAワールドカップNHK解説者を務めていた。

横浜F・マリノス

2年間の充電期間を経て、2003年横浜F・マリノス監督に就任。久保竜彦佐藤由紀、マルキーニョス、河合二といった自らがリクエストした戦の補強に成功。懸案材料となっていたボランチの一大卒2年那須を抜、右サイドバックにはコンバートする大胆な選手起用によってチーム1stステージ優勝2ndステージでは最終節で優勝を争っていたジュビロ磐田との直接対決勝利し、就任1年でのJ1全制覇を達成。自身の監督キャリアにとっても初のビッグタイトルとなった。

2年2004年1stステージは磐田に一時は勝ち点7差をつけられながらも第3節以降を10勝2分と類の勝負強さを発揮し、優勝。ちなみに前年の1stステージから3ステージ連続優勝は史上初の快挙となった。一方、2ndステージでは久保と安貞桓の負傷離脱がいて得点不足に苦しみ、6位に終わる。しかし浦和レッズと争ったサントリーチャンピオンシップでは2試合の通算得点が同点となり、延長戦を経て迎えたPK戦を制し、J1リーグ連覇を果たす。

2005年優勝補の一に挙げられていたが、AFCチャンピオンズリーグやA3チャンピオンズカップとの過密日程、また代表戦におけるの離脱により順位は低迷。6位という期待外れの成績に終わる。

復活を期して臨んだ2006年は開幕4連勝を飾ったものの、その後急チームコンディションが悪化。再浮上の切っ掛けが掴めないまま18節終了時点で自優勝が消滅し、19節の大宮戦終了後に辞意を表明。ちなみにこのときの辞任の意はフロントとの確執という見方もされている。

日本代表(第二次)

マリノス監督を退任後は日本サッカー協会の特任理事として活動していたが、2007年11月日本代表イビチャ・オシム監督が急性脳梗塞で緊急入院したことで代表監督継続することが困難になり、白羽の矢が立てられる形で12月7日に再び日本代表監督に就任する。

就任当初こそオシム前監督のやり方を踏襲していたが、2008年3月28日2010 FIFAワールドカップ アジア2次予選のバーレーン戦に敗れたことで「これからはのやり方でやる」とり、自分の色を出していくことを宣言する。ところが、これがメディアによってオシム氏を否定したと報道されてしまい、オシム前監督人気が高かったこともあって不当なバッシングを浴びることになる。

二次政権では、自らが誘ってコーチに就任した大木武に戦術を任せ、大木ヴァンフォーレ甲府清水エスパルスで採用していたムービング・フットボールを採用。長谷部誠遠藤保仁ボランチコンビをチームの中心に定着させ、若い内田篤人長友佑都サイドバックコンビを抜。さらに「接近・展開・連動」をテーマに掲げ、パスを多用して理詰めで崩すスタイルを落とし込もうとする。しかし、この難しい戦術を寄せ集めである代表に落とし込む作業に苦戦し、低調な試合が多くなってしまう。それでもW杯アジア最終予選では北京五輪代表組が合流したこともあって戦アップに成功し、2位で本大会出場権を獲得する。

だが、本大会出場後の善試合では低調な試合が続いてしまい、2010年東アジアサッカー選手権では4チーム中3位、4月7日セルビア戦では相手が二軍だったにも関わらず0-3で敗れ、内では岡田への批判が日増しに加熱する状況となっていた。4月26日サポーターから日本サッカー協会へおよそ1000人による解任の署名が提出され、5月24日韓国戦に0-2で敗れた後は犬飼基昭日本サッカー協会会長に対して「進退伺い」ともとれる発言をしたとされ、本番前のテストマッチで4連敗という最悪の状況で本大会を迎えることになる。インターネット調ではサポーターからの支持率がわずか16%という低さだった。

しかし、本番直前に開き直ってメンバーと戦術を大きく変えたことが岡田運命を大きく変えることになる。まず将を中澤佑二から長谷部に代え、絶対的エースだった中村俊輔レギュラーから外し、正GK楢崎正剛から川島永嗣に変更。そして「戦える選手」をベースレギュラーを見直し、本田圭佑を1トップに置き、中盤5人をフラットに並べた4-5-1の守備的な戦術を採用。結果、自開催以外のワールドカップでは初のベスト16進出を果たす。帰後、一転して英雄となっていた。

2010 FIFAワールドカップ本大会については下記の「世紀の手のひら返しの項目」を参照。

大会後、日本代表監督を退任。

JFA理事

2010年7月25日日本サッカー協会JFA)の役員選で、JFA理事に就任。環境問題を担当。

2010年8月にはWOWOWの専属サッカー解説者となることが発表され、以後同局のリーガ・エスパニョーラ中継の解説を担当。

2010年11月アジアサッカー連盟AFC)より、日本人では桑原1998年)、西野朗2008年)以来3人となるAFC最優秀監督賞を受賞。

2012年6月JFA理事を退任。

杭州緑城

2012年より、中国スーパーリーグ杭州足球楽部の監督に就任。当時、Jリーグクラブからも監督オファーはあったが、「また同じことをやってもつまらないな」という思いから新たなチャレンジに身を置くことにした。しかし、集団を重んじる岡田導方法と「個」を重んじる中国文化的な部分でのギャップが大きく、チームに自らの哲学を浸透させるのに苦戦。就任1年は11位に終わる。

就任2年2013年選手の負傷離脱もあってチームの成績はおもわしくなく、スーパーリーグ残留は果たせたものの12位に終わっている。シーズン終了後の11月7日クラブとの契約はあと1年残っていたものの、双方合意のもとで退任することが発表される。同時に当面は監督業をおこなわないことも明らかにしている。

監督としての成績

シーズン クラブ リーグ 順位 獲得タイトル
1997~1998 日本代表 - - ダイナティカップ1998
1999 コンサドーレ札幌 J2リーグ 5位
2000 コンサドーレ札幌 J2リーグ 1位 J2リーグ優勝
2001 コンサドーレ札幌 J1リーグ 11位
2003 横浜F・マリノス J1リーグ 1位 J1リーグ優勝
2004 横浜F・マリノス J1リーグ 1位 J1リーグ優勝
2005 横浜F・マリノス J1リーグ 9位
2006 横浜F・マリノス J1リーグ
20072010 日本代表 - -
2012 杭州 スーパーリーグ 11位
2013 杭州 スーパーリーグ 12位

シーズン途中で退任。

指導者としての個人タイトル

経営者としての経歴

2014年2月、デロイトトマツコサルティング、特任上級顧問に就任。同には内閣府『選択する未来』委員会の委員に就任し、教育問題に取り組んでいる。

2014年11月四国サッカーリーグFC今治運営会社に出資し、同チームオーナーに就任。導者ではなく敢えてオーナーとなること、それも地域リーグクラブを選んだ理由について、岡田は「日本サッカーはこのままでいいのか」という疑問に対する一つの答えとして「日本サッカーはこういうものだという『』(=一貫したスタイル)が必要だ」とっている。
そこでスペインの育成方法をモデルに「岡田メソッド」というトップチームから育成まで一貫したを作ることを標にし、全カテゴリー同じコンセプトボールを大切にするサッカーす。また、技術とコンビネーションを前面に出した攻撃的なポゼッションサッカーして、「プレーモデル」を整理して独自のトレーニングメゾットを開発する。

2016年には、代表兼務のCMO(チーフメソッドオフィサー)に就任。2月23日Jリーグ年構想クラブ認定される。

2016年3月日本サッカー協会JFA)の副会長に就任。

2018年3月認S級ライセンス更新を見送ったことで事実監督業から引退する。また、3月24日付けでJFA副会長を退任。4月12日には、JFAニア・アドバイザーに就任。

2019年6月13日、第13回日本サッカー殿堂入りが決定。

2019年11月FC今治JFLでの4位以内を確定させたことで2020年シーズンからのJリーグ入会及びJ3リーグ昇格が決定する。

2021年9月30日プロバスケットボールBリーグ催するジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグの理事に選任される。

2022年3月28日JFA副会長に再任。

2023年1月FC今治運営会社である株式会社今治. スポーツ子会社株式会社今治. ビレッジが資調達を行って整備した「民設民営」のサッカースタジアム「今治里山スタジアム」が完成

2024年4月より、自身が学園長を務めるFC今治高校 里山校が開校。

世紀の『手の平返し』

岡田武史

2010年イビチャ・オシムの臨時退任により急遽再び指揮官となった岡田監督だったが、ワールドカップ直前までの強化試合で4連敗し、開幕前から既に内は葬式ムード、「ベスト4をします」とか何ほざいてんの的な状態が続き、セルジオ越後などの評論家や、テレビネット新聞などのアンケートで、「予選リーグ3連敗による敗退」が濃厚とされていた。またこの期間には、ファンに「チャン不合格 決断セヨ サッカー協会」という横断幕を掲げられたり、辰巳出版から「0勝3敗」という批評本も出て、ネガティブな雰囲気は頂点に達していた。

しかし、2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会が始まり、現地時間6月14日サミュエル・エトーを擁する格上の「アフリカの獅子」カメルーンを相手に、本田圭佑の虎の子の1点を守り切り、1-0で勝利。続く2戦世界ランク4位(当時)のオランダ戦では、ヴェスレイ・スナイデルのミドルシュートによって1-0で敗北するも、戦前の予想を覆す大善戦を見せる。そして6月25日引き分けでもグループリーグ突破できたデンマーク戦では、本田遠藤保仁という左右両方のキッカーによるFKが決まり、3-1で勝利ワールドカップ決勝トーナメント進出を決定させた。

開催となった2002年大会を除くと、初の海外での勝利、決勝トーナメント進出となり、イタリアブラジル新聞で「退屈な大会で番狂わせが起きた」「日本サッカーは確かに進化していた」と評価を受け、日本国内でも手のを返したように絶賛のとなっている。

決勝トーナメント1回戦でパラグアイPK戦の末、惜しくも敗れてしまった。大会期間中の岡田監督の采配や交代選手の選択を疑問視する者もいるが、大半は「ちゃんありがとう」と暖かい拍手で彼の指揮官ぶりを称えている。

岡田JAPANの快進撃の要因となったのはやはり直前での戦術変更だった。フォーメーションはしばしば4-1-4-1と言われているが、実際は中盤に5枚をフラットに並べた4-5-1だと岡田自身が明言している。中澤佑二田中マルクス闘莉王CBコンビの手前に阿部を置くことで中央の守備を強化し、両サイドには攻守のアップダウンをひたすら続ける松井大輔大久保嘉人を置き、1トップ本田圭佑。戦えるメンバーベースにひたすらハードワークおこない、堅守速攻でチーム線をえたことが成功に繋がった。

パラグアイ戦後記者会見で代表監督を退く意向を表明した。

2010年11月アジアサッカー連盟AFC)より、日本人では3人となるAFC最優秀監督賞を受賞。

人物・エピソード

発言

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