川相昌弘 単語

43件

カワイマサヒロ

2.1千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

川相昌弘(かわい まさひろ、1964年9月27日-)は、岡山県生まれの元プロ野球選手バント職人)である。

称は「ジイ」「バント神様」。 犠打ギネス記録保持者

概要

高等学校時代は投手として活躍し、甲子園出場を2度果たす。その実スカウトのにとまる。

1982年ドラフト会議読売ジャイアンツから4位名を受け、翌年入団。入団直後に野手へ転向した。

プロ入り後

1985年6月13日ヤクルトスワローズ戦で阿井二郎投手からプロで初めての犠打送りバント)を決める。

1989年、本格的にスタメン定着し、自身初となる二桁犠打(32回)を達成。このころから、犠打の快感に覚める。シーズン終了後、守備の良さが評価されゴールデングラブ賞を初受賞。

1990年、通算100犠打達成。更に同シーズンで58犠打を決め、(当時の)シーズン最多犠打記録更新

1991年 バントは絶好調。66犠打記録し、自身の持つシーズン最多犠打記録更新。一方で打撃はさっぱりせず(打率.251)、やや不本意なシーズンでもあった。

1992年、通算200犠打達成。

1995年、通算300犠打達成。

1997年、通算400犠打達成。ゴールデングラブ賞を逃す。以降、ヤクルトの名遊撃手宮本慎也の台頭によりゴールデングラブ賞は受賞できず。

1998年、通算452犠打を達成し、プロ野球記録更新

1999年二岡智宏の台頭もあり出場機会が大幅に減る。犠打数もこの頃から顕著に減少。

2003年、通算512犠打を達成し、世界記録更新引退を表明し、巨人コーチ就任が内定するが、突如の原辰徳監督辞任劇により撤回。巨人を退団し、現役続行。

2004年中日ドラゴンズに入団。同球団の守備要員や代打バント)要員として3年間活躍した。

2006年引退表明。同年10月15日公式戦最後の犠打を決め、通算犠打記録を533とした。

引退後

そのまま2007年から中日の一軍内野守備・走塁コーチに就任し、選手たちの導に当たる。2010年中日二軍監督に就任。同年限りで中日を退団した。

2011年からは8年ぶりに巨人に復帰し、二軍監督へ就任。2016年からは再設された巨人3軍(第2の2軍監督に就任。2018年まで同職を務めたのち、巨人を退団。

2019年からは野球解説者評論家として活動している。

豆知識

応援歌

球団 レス No プレイヤー
巨人 応援歌のピコカキコ一覧#791 11116
11116

通算打撃成績

通算:23年 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1909 5528 4512 591 1199 186 22 43 322 47 533 19 418 45 570 92 .266 .333

NPB歴代最多記録

関連動画

関連商品

関連コミュニティ

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/25(木) 20:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/25(木) 20:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP