張翼 単語

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張翼とは、

  1. 三国志に登場する人物(?~264)
  2. 明王朝初期、朱元璋洪武帝)に仕えた将軍(?~1393)
  3. 香港映画俳優、代表作『儒侠』など(1945~)

ここでは1について説明。

概要

字は伯恭。犍為武陽県(四川省成都新津県)の人。前漢の三傑の一人、張良の末裔を称した。

劉備が入した時に登用され、順調に出世する。定軍山の戦いでは趙雲揮下で活躍し軍を破るのに貢献した。
諸葛亮の北伐時は南中方面を任されていたが、233年(建11年)地元の異民族の反乱が起きると中央に召喚される。しかし後任者の馬忠のために最後まで反乱鎮圧のための準備を整えたため馬忠は反乱を治めることができ、諸葛亮はこの話を聞いて張翼に感心した。

諸葛亮死後も官職を積み重ね、255年(延熙18年)鎮南大将軍として姜維の北伐に随従する。姜維の王経の軍を破ったが張翼はこれ以上の戦争継続に反対し、果たして姜維は狄に籠もった王経を破れず撤退することになった。姜維は内心張翼を疎んじていたが、北伐にはいつも随従させたため張翼も仕方なく従軍したという。

263年(炎元年)に鄧艾鍾会の軍が攻めてくると左将軍として閣に籠もり姜維らと抵抗するが、鄧艾の別働隊により政府は降、張翼もやむを得ず姜維と一緒に鍾会に降る。
翌264年、鍾会姜維クーデターを起こしにおいて自立を論むが失敗して横死し、張翼もこの時の混乱に巻き込まれ殺された。

家族

張翼の子孫 

張翼の子孫については、正史三国志の注釈に引かれた『志』によると、微(ちょうび)という子がいる。微は学問に励み、晋王朝に仕え、広太守までなっている。 

書』では微に対するさらに詳細な記述がある。なお、微は『書』では「徴(ちょうちょう)」という名でも記されている。 

恵帝司馬衷)時代の当時、特という人物が関中から流れてきた流民を率いて移民を行い、の地に移住したが、晋王朝に関中への帰還を命じられたため、反乱を起こした。この時期の晋王朝は、八王の乱による内乱がしくなっており、反乱に対しての対応は難しくなっていた。 

の永寧元年(301年)、広太守に任じられた微は、その八王の一人である河間王・司馬顒に命じられて、特を討伐することになった。特はの地で軍相手に連勝を重ねていた。 

太安元年(302年)8月特はやがて、徳陽を守る微まで攻め込んできた。微は高い土地にを構え、特と対峙する。微は特の営に隙があることを見抜き特を攻めて、山頂まで追い詰める。しかし、特と営を分けていた特の子の蕩(りとう)が特の救援に攻め込んでくる。蕩が細い山を上り、微の兵を十数人討ち取ると、蕩の軍は死戦した。微の軍は壊滅し、微は敗走する。微の再起を恐れた特によって、微の軍を追撃を受けて、微は敗走の末、山やを越えて追ってきた蕩によって、討ち取られてしまう。 

微の子である存も捕らえられたが、特はの喪を弔うように伝え、存は釈放された。微の戦死により、の益州刺史に任じられていた羅尚(羅憲のおい)は、強い防衛を失い、特に大敗することとなる。 

各メディアにおける張翼

三国志演義

元々劉璋に仕えており、劉備の入を雒劉璝らと食い止めていたが、張任が捕らえられると最後まで抵抗しようとした劉璝を殺して劉備に降した。その後は諸葛亮の南征や北伐で活躍、姜維とも特にわだかまりもなく行動している。

三国志大戦

Ver3.5では略歴の関係か「召喚」持ち。呼んだ兵が八つ裂き大車輪とか持っているから凄まじいネタっぷりを発揮している。

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