戦艦が簡単に沈むか!! 単語

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センカンガカンタンニシズムカ

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戦艦が簡単に沈むか!!とは、2012年開されたハリウッド映画バトルシップ」の台詞である。「でも今の駆逐艦はすごいぞ。最高だ。」「みんないつか死ぬ。だが今日じゃない」等と並ぶ本作の名台詞の一つ。

概要

太平洋合同演習、通称RIMPACの最中に突如、大気圏外から落下してきた複数の物体。それはエイリアン宇宙だった。バリアハワイを外界から隔絶、残された海上自衛隊護衛艦<みょうこう>、米海軍駆逐艦USS<サンプソン>、USSジョン・ポール・ジョーンズ>も撃沈され、万事休したかに思われたその時、主人公アレックス・ホッパー達のにとっておきの最終兵器が飛び込んで来る。


アイオワ級戦艦USSミズーリ>。かつて太平洋戦争時に建造され、今は観光名所の記念艦として余生を送っている巨大戦艦だ。

ホッパーらは<ミズーリ>を叩き起こし、地球を救うためにエイリアンへ舳先を向ける。

敵もさるもの、イージス駆逐艦をも沈させた兵装で猛攻を加えて来る。<ミズーリ>もついに被弾。

大丈夫!?

兵器の恐ろしさを知る駆逐艦乗員の問いに対し、<ミズーリ>と共に戦争を生き抜いてきた古老は揚迫らず、

「戦艦が簡単に沈むか!!」

と返したのであった。

戦艦不沈伝説

戦艦とは元々、巨による大火力と、一般的に想定される交戦距離で自身と同威に撃たれても耐えられる重装甲が最大の特徴だった。多少の被弾など意に介さず1トン弾を音速以上の撃速でぶちこんでくる。それが戦艦の強みであったのだ。

しかし、いくら戦艦といえど、イージス艦をいともたやすく撃沈せしめるエイリアン兵器を受けてなお戦闘の続行が可なのだろうか。


では史実の戦艦がいかに頑丈であったかを簡単に見てみよう。

<大和>が簡単に沈むか!

戦局も押し迫った1945年4月米軍の攻撃にされている沖縄を援護するため、<大和>は巡洋艦矢矧>、駆逐艦雪風>、<磯風>、<>などを率いて出撃。

しかし中で空母部隊に発見され、絶え間ない熾襲に見舞われることとなる。

航空支援がなく、制権を失った状況。
敵機は戦闘機でさえ全機が爆弾ロケットを装備してを耕してくる。一隻、また一隻と僚艦が沈んでいくなか、<大和>と乗員は決死の対戦闘を敢行した。同艦の攻撃にあたったパイロットのなかには「を攻撃しているかのようだった」と述懐する者や、何回も空母へ帰還、補給して再出撃した搭乗員もいるほどで、その頑健さたるや、結果的に日本の建艦技術の高さを知らしめる事となった。

大和>は結局、空母11隻、艦載機386機(367機説あり)もの波状攻撃で魚雷10本、中爆弾5発、数え切れない機ロケットの被弾を受け、世界最大と謳われた威容を九州坊ノに沈めた。

なお、魚雷1本であっても、並の戦艦であれば傾斜、転覆しかねない威がある。<大和>はデカいして航空攻撃に成す術なく沈んだ欠陥戦艦と人口に膾されているが、逆にいえばここまで被弾しなければ<大和>は沈まなかったということだ。

実戦という、これ以上ない技術アピールの場で、最強軍事国家たるアメリカ航空機による襲しかさせなかった大和は、思いも掛けない形見を遺す。終戦を迎えた日本に、敗戦国であるにも関わらず、造発注が各から相次いだのだ。造は裾野が広いため多くの雇用を創出できる。他ならぬ<大和>が日本の造技術の高さを立してくれたからこその評価だった。

また、ホテルニューオータ東京最上階に鎮座する展望レストランはフロアごと回転することで有名だが、この回転機構を設計したのはであろう、大和戦艦徴ともいえる46cm三連装の設計であった。日本を守るために生み出された2800トンものを回転させるオーバーテクノロジーは、21世紀の現代でもなお、形を変えて々を見守っている。

から沈没まで4年と8ヶという短い生涯の<大和>は、確かに戦場での戦果は皆無と言って良かったかもしれない。だが彼女と乗員達は、技術という形で、日本の復ながら、それでいて強固に支えてくれたのである。

<武蔵>が簡単に沈むか!

前進基地トラックも失い、太平洋戦争における初の大規模艦隊同士の決戦といえるマリアナ沖海戦敗した日本にとっては、もはや現状維持だけが出来得る事の精一杯という状況であった。1944年10月フィリピン米軍が進攻すると、日本海軍は形振り構わぬ特攻作戦を採用。連合艦隊の残存艦艇全てを以て、敵上陸団の泊地に殴り込みすることになった。

要するに、日本南方の間を分断されたなら、本は資枯渇で干上がる、南方派遣部隊は孤立してなぶり殺しにあう、という最悪の局面を迎えていたのである。

それだけはなんとしても阻止せんとして、<大和>、<武蔵>、<長門>、ほか多数の戦艦巡洋艦駆逐艦を擁する栗田艦隊はブルネイを出航。パラワンからシブヤンを通過し、サンベルナルジノ峡を抜けるという航路でレイテ湾に突入するために北上を開始した。

が、出撃々、パラワンにて潜水艦に遭遇、<摩耶>と<愛宕>が沈没、<高雄>が大破。重な水上である重巡洋艦3隻を一度に脱落させてしまう。のちに「パラワンの悲劇」とよばれた戦闘である。

潜水艦の洗礼だけでは同艦隊の試練は終わらなかった。敵空母の索敵機に発見されてしまったのである。

な対戦闘の火蓋が切られた間だった。お世辞にも対射撃が高いとは言えない日本側は苦戦に苦戦を強いられた。結果、<武蔵>は全6波、5時間にわたる苛襲に、航空支援のない状態でさらされることになる。魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発以上という、他の戦艦なら10回は沈んでいるであろう大被害に、不沈艦もついに尽きる

これが人類史上最大の戦、レイテ沖海戦の端緒であることを知るものは、この時は一人として居なかった。

武蔵>がより被弾に耐えたのは、被害が左右均等で、浸もまた左右で均等に進んだことがあげられるが、大和自慢の集中防御構造と、乗員たちの必死のダメコン作業の貢献もまた大なりであることは確かだろう。<武蔵>の散り様については「戦艦武蔵のさいご」(著・渡辺清。童心社)にくわしい。

から沈没まで3年11ヶの艦歴であった。

<榛名>が簡単に沈むか!

太平洋戦争中、日本が保有していた12隻の戦艦のうち、最も老齢だったのが金剛4姉妹であったが、最もめざましい活躍をしたのも、またこの金剛であった。最大の理由は、日本戦艦のなかで最も速い30ノットという高速を持っていたからである。当時すでに役の座を確立しつつあった空母に護衛として随伴できて、かつ、戦艦火力と装甲を併せ持つと言う事は大きな武器と言えた。

とくに<榛名>は、金剛のみならず、アメリカアイオワ級戦艦の登場まで、太平洋において最高速の30・5ノットの俊足を誇る高速戦艦だった。

ゆえに武勲めでたく、南雲機動部隊の直衛を皮切りに、南太平洋海戦インド洋、ミッドウェー海戦ともちまえの高速を活かして姉妹ともども縦横尽の活躍をしただけでなく、かのガダルカナル島飛行場撃でも長金剛>とともに大戦果を収めるに至る。

しかし、奮闘しく戦局は日増しにに不利となり、米軍は破の勢いでフィリピンに迫った。これを迎え撃つ日本海軍最後の大海戦、レイテ沖海戦の序盤で至宝武蔵>がし、スリガオ峡では<扶桑>、<山>率いる西村艦隊作戦的であったレイテ突入に駆逐艦時雨>以外戦という最悪のかたちで失敗、エンガノにて<瑞鶴>をはじめとした空母全滅する苦のなか、<榛名>は<金剛>とともに一大遭遇戦、いわゆるサマー戦を遂行した。この一連の戦いで日本海軍は壊滅といってよいほど艦艇を喪失する。

榛名>の栄の日々も終わりを告げようとしていた。金剛一生き残り、祖国に帰還できたものの、内地では燃料が底をつき、30ノットの高速を発揮する機会は二度とかった。<榛名>にできることは、ただ敵機を避けて、あっちの、こっちのへと江田島逃げまわるだけだった。趨勢が全に定まった1945年7月大空襲をうける。真珠湾の意趣返しのごとき猛攻に、動けぬ<榛名>は大破着底。着底とはすなわち海底底が接地することで、浅瀬だからこそしていないだけの、事実上の沈没状態である。だが<榛名>乗員らは「着底したんならこれ以上沈まねえ!」とかえって気炎をあげたという。

同年8月6日8時15分。広島方角から突如として閃光が奔り、次いでめがけ奔騰する巨大なからでも仰ぎ見ることができた。沈坐している<榛名>と乗員たちは、ただ見る事しか出来なかった。

終戦後、<榛名>は解体。その資材は戦後のために供された。在りし日は姉妹らとともに海原を駆けて敵を討ち、戦いが終わったあとはその身を祖国ささげたのである。

から解体了まで32年と5ヶ戦闘艦としては長く、また多難な生涯であった。

<伊勢>が簡単に沈むか!

よく扶桑は欠陥戦艦伊勢良されているから優秀と評されることがある。しかし、伊勢とて居住性の悪さと、低舷のための波性の悪さ(い話が波を被りまくって甲作業員さんが死ぬ)、副配置のまずさ、建造中に生起したユトランド戦の戦訓が反映できていない防御不足、23ノットという速の低さなど、様々な欠陥を抱えていた。そんなわけで伊勢もまた扶桑のように次々と近代装を受けることになる。

トランド戦の戦訓についても軽く触れておこう。これ以前の艦砲は敵に口を直接むけて撃つ直射だったのだが、大口径化が進み、射程が伸びたことで、放物線を描くように撃つ曲射に移行しつつあった。その曲射がまともにぶつかりあったのがユトランド戦である。放物線を描くということはから弾が落ちてくるということだ。つまり甲に着弾してしまうのである。いままでのように垂直面だけ防御を固めても意味がない。甲のような面も防御しなければならなくなる。ほかにも、戦艦といえども速度も重要だということが実された。これ以前の思想で設計された軍艦をプレ・ユトランド、この戦訓を取り入れたものをポスト・ユトランドという。新造時の伊勢はまぎれもなくプレ・ユトランドだったのだ。

で、最初の装から足掛け9年。昭和12年7月装後の英姿を浮かべた<伊勢>は、長門につぐ新鋭戦艦に生まれ変わっていた。25ノットの速は、一流とまでは言えないが、十分に一線をれるものであった。

昭和17年ミッドウェー海戦における歴史的大敗で大空母4隻を失ったことで、伊勢に大きな転機が訪れる。航空戦艦への改造である。5、6番を撤去して格納庫と作業甲をのせ、艦上爆撃機を艦載して、喪失した空母の補充を果たそうという算段だった。搭載機は後に瑞雲に変更され、<伊勢>は大装を了させたが、とんでもない誤算があった。瑞雲の生産が間に合わなかったのである。

結果、意味にを下しただけの状態でレイテ沖海戦に飛び込む事になってしまう。

だが、この囮作戦、世にいうエンガノ戦で、<伊勢>が神業を見せることになる。

ハルゼー提督隷下の執拗な襲によって、空母瑞鶴>、<瑞鳳>、<千歳>、<千代田>、巡洋艦多摩>、駆逐艦秋月>、<初月>が散していく中、<伊勢>はひたすら取りを切りつづけることで爆撃を回避。傷とまではいかないが事にこの難局を乗り切ったのである。その操艦たるや、<伊勢>の航跡が見事なまでに円になるほどであった。撃たれても耐えられる戦艦は数あれど、よける戦艦など伊勢くらいなものであろう。

姉妹艦<日向>と共にに帰還した<伊勢>に、新たな任務が与えられた。敵の制権下の南シナを突っ切ってシンガポールに行き、資を持って帰ってくる輸送作戦である。<伊勢>と<日向>は巡洋艦大淀>らと共に出撃。例によって潜水艦に見つかったり100機近い敵大編隊に襲われたりするが、その度に艦隊はスコール逃げ込み、後半は潜水艦が近寄れない浅瀬を選んで進んだりと地の利を活かして事帰還。今度は傷での遂であった。格納庫には燃料の詰まったドラム缶立し、他にも生ゴムスズタングステン、諸々の天然が輸送され、部を狂喜乱舞させた。

そんな<伊勢>にも運命の時が訪れる。燃料も尽き、に繋留され、1945年3月から連日続いた襲に敢闘するも、ついに7月28日、11発の直撃弾をうけて大破着底。2番は最大仰で敵機の跳梁するをにらんだまま停止した。それを見た乗員たちは「<伊勢>はまだ戦うつもりなのだ」と胸を打たれたという。

日本海軍の艦艇で最後の発をしたのは駆逐艦>とされているが、日本戦艦で最後に発したのは<伊勢>だった。彼女は故郷を護る為、最後の最後まで戦い抜いたのである。終戦後は解体されている。

から解体までおよそ29年。波乱万丈の艦歴であった。

<長門>が簡単に沈むか!

正41cmを8門という、かつてない大火力を有し、太平洋戦争が始まるまで日本海軍の最大艦だったのが長門である。攻撃、防御、ともに長門は本格的なポスト・ユトランド戦艦の一番艦で、戦艦の設計上、それまでとは一線を画す名艦と断言してよい。

特に防御は底した集中防御方式を採用しており、水中防御も二重の防御縦隔と、密区画の細分化により、前例のない強なものとなった。ものすごく簡単にいうと、ダンボールをいくつも並べたような構造と考えてほしい。横を開けられても、部屋が細かく区切られているので、そこをさっさと閉鎖してしまえばするのはその区画だけですむ、という寸法である。

姉妹艦<陸奥>とともに連合艦隊旗艦を交互に務め、かの関東大震災の折には救援物資を積んで最大速度東京急行したり、真珠湾攻撃の命も発したことのある、まさに日本徴として民に広くされた戦艦であったが、時代が航空兵に移ろいゆく中、<長門>はなかなか前線にでて直接戦火を交える機会に恵まれなかった。ようやく敵艦と見えたのはマリアナ沖海戦である。しかし、敵戦艦叩きのめすべく誕生した41cmは、今や飛行機に向けられるものとなっていた。サマー戦では護衛空母部隊に念願の対艦射撃を行うが、戦果は得られなかった。

内地で終戦を迎えた<長門>は、アメリカ原爆実験の標的艦として接収されることとなった。アメリカとしてはべつに嫌がらせというよりソ連に同艦をとられたくないという事情が大きかった。軍艦、とくに戦艦の建造技術が遅れに遅れていたソ連にとって、<長門>は喉から手が出るほど欲しい艦であった。新たな仮想敵であるソ連には渡したくないが、かといって自分らが持っていても仕方がない、なら他の老朽艦と一緒に原爆実験に使おう・・・こういった流れで<長門>はクロスロード作戦に参加させられることになったのである。

1946年7月1日に行われた第1実験では、核爆弾は高度158m、長門から方向に1・5kmの距離で炸裂。軽巡酒匂>、駆逐艦ラムソン>など5隻が沈没。しかし<長門>は表面が多少融解しただけで航行にさえ問題がない状態だった。

同25日に実施された第2実験では、水中での炸裂で、しかも1000mと離れていなかったが、先に述べた水中防御の強化が功奏し、<長門>は耐え抜いた。祖国を2度もした許されざる炎に対し、彼女はやはり2度耐えてみせたのである。それはまるで一の被爆である祖国核兵器への怒りを代弁しているかのようであった。同時に<長門>は、所詮は後進国要各から蔑まれていた日本の造技術の名誉と、日本海軍の誇りを示したのである。また、『長門沈マズ』の報を聞いた<長門>の元艦長夫人は「幾万もの英霊達が底を支えているのですよ」と述べたと言う。

しかし、第2実験から4日後の上に<長門>の艦はなかった。終戦から丸1年が経とうとしていた中にあって、本来の戦艦としては違う形とはいえ戦後を戦った<長門>は、自らに与えられた役を全うし、最期は己の死に様を衆す事を拒むかのように、人につくことなく半のうちに波間に沈んでいったのであった。

なお、クロスロード作戦で被爆しながらも沈没しなかった艦は存外に多く、戦艦ネヴァダ>、<ニューヨーク>、<ペンシルヴェニア>、空母インディペンデンス>、独重巡プリンツ・オイゲン>などが生き残っている。これは核兵器開発者や運用側に少なからずを与えた。装甲され密閉された艦に対しては核爆発では思うように被害を与えられないと言う事が明らかになったのだ。しかも一網打尽を防ぐために艦同士が数里の間隔をけていればもっと被害は局限される。

効果が少ない、というのは核兵器デモの数億倍の効果がある。冷戦期にはミサイルのみならず弾、魚雷地雷までも核兵器化されたが、クロスロード作戦の参加艦があっさり沈んでいれば、世界の核軍拡はより一層推進されていたことだろう。<長門>たちは、その身を犠牲にして、世界の核軍拡に一定の止めをかけたのである。

から沈没まで26年と8ヶ連合艦隊の栄枯盛衰を閲し、祖国平和に多大な寄与を果たした生涯であった。

<ビスマルク>が簡単に沈むか!

戦艦ビスマルク>は、ビスマルク戦艦ネームシップとして1940年8月に就役し、大西洋に君臨した、当時世界最大の超弩級戦艦だった。
その名は「祖国の統一はと血によってのみ成し遂げられる」との演説から鉄血宰相とよばれ、純な利益的で数々の戦争を起こし、全てに勝って論見通りに終戦に導き、ドイツ統一をなしとげた救英雄オットー・フォン・ビスマルクに由来する。

この戦艦の特徴は、なんといっても防御にある。装甲材にはニッケルクロムモリブデン鋼からなるヴォタンをもちい、その防御重量は、排水量50900トンのうち実に40パーセント
それでいて速高速戦艦の名に恥じない30・1ノット。攻撃も、工業立ドイツ学技術が投入された学式射撃管制装置に支えられた、当時の新鋭戦艦の標準たる38cmを連装で4基備えていた。

ただ、垂直面の防御は固いが、甲のような面の装甲はいささか難があった。いわゆるプレ・ユトランドの旧態依然とした設計が残っていたのである。なぜか?

ビスマルク戦艦の生い立ちを辿るにあたり、ヴェルサイユ体制を無視することはできない。

第一次大戦終結後に結ばれたヴェルサイユ条約は敗戦国ドイツにとって過酷極まるものだった。当時のドイツ国家予算20年ぶんにあたる1320億マルクの制裁海軍の大幅な縮小戦車、軍用機、潜水艦の保有禁止、とどめに排水量1万トン以上の艦艇の建造禁止などである。つまり戦艦が建造できなくなったのだ。ドイツ農業トラクターと偽って戦車をつくったり、どうみても爆撃機飛行機を「いやいやこれはただの連絡機です」と飛ばして航空機技術を発展、継承させたりとぐましい努をつづけたが、戦艦はどうにもならなかった。戦艦ボクシングでいうヘヴィー級なのに、フライ級までしか体重を増やしちゃダメと言われたようなものだからだ。

1万トン以下という制限のために、リベットを使わない電気溶接工法でぎりぎりまでダイエットしたポケット戦艦装甲艦を誕生させたが、やはり他戦艦と殴りあうなど理な相談であった。

ヒトラーが条約を破棄したことで戦艦建造が解禁されたものの、15年の空白は大きかった。戦艦の建艦技術が失われてしまっていたのである。よって新鋭戦艦の技術を取り入れることはできず、技術者たちは最後にドイツ戦艦を保有していた第一次大戦の前時代的な設計で建造するしかなかったのだ。

ともかくも<ビスマルク>はドイツ第三帝国の旗手として、1941年5月重巡プリンツ・オイゲン>とともにゴーテンハーフェンを抜錨した。同にとって待望久しい戦艦による通商破壊ライン演習作戦の発動である。

敵たる英国であるがゆえ、通商破壊で兵糧攻めすれば孤立し、やがては物資が枯渇してドイツに屈することだろう。

この巨艦の跳梁を英国が座して静観するはずもなかった。捜索にあたっていた英重巡サフォーク>が<ビスマルク>と<プリンツ・オイゲン>を発見。急報にアドミラル巡洋戦艦フッド>とキングジョージⅴ級戦艦プリンス・オブ・ウェールズ>が駆けつける。ここに、大西洋へ抜けようとする<ビスマルク>らと、それを阻止しようと立ちはだかる英艦隊とで戦が勃発した。「デンマーク峡の戦い」である。

巡洋戦艦フッド>は、1920年の就役時には世界最大の軍艦で、その大きさと、艦の美しさ、高速戦艦と名乗ってもよいほどの攻撃などから、英国民にも「強大なフッド」としまれ、英国海軍徴とまでいわれた誉れ高き艦だった。日本でいう<長門>のような存在といえよう。

撃開始から1分もしないうちに、その<フッド>のメインマストに<プリンツ・オイゲン>の弾が命中した。負けじと<ビスマルク>も3斉射めで<フッド>を夾叉。第5斉射めの射弾は、もののみごとに<フッド>に直撃。弾薬庫に誘爆した<フッド>は大爆発を起こし、っ二つに折れ、数mにもなんなんとする火柱をあげて、文字通り沈したのだった。

ヴェルサイユ条約の締結から21年。戦艦ビスマルク>は長らく英国民にされたマイティフッドをたった一発で撃沈し、そのに挑戦するかのような火柱と煙をもって、臥薪嘗胆ドイツ帝国復活狼煙をあげたのである。

続いて<プリンス・オブ・ウェールズ>にも<ビスマルク>の巨は矛先をむけ、学式射撃管制装置に裏づけされた正確な撃をくわえた。結果、<プリンス・オブ・ウェールズ>は部が破壊され、さらに3発くらって戦闘続行不能となり、一時撤退。だが黙ってやられる大英帝国海軍ではない。<プリンス・オブ・ウェールズ>は退却するさいの振り向きざま、弾3発を<ビスマルク>にお見舞いしていたのだ。<ビスマルク>はこれで浸し、2000トンものを飲むはめになる。

勝利をおさめた<ビスマルク>一行であるが、損傷を受けたまま作戦続行は難しい。ライン演習作戦は中止となり、2隻は帰還のためフランスを切った。

たしかに<フッド>撃沈は大戦果といえた。だが、これが英国海軍、ひいては英国逆鱗に触れることとなる。ヴェルサイユ条約のおかげであと50年はおとなしくしているだろうと見ていた敗戦国の、それも旧式な設計の戦艦に、世界海軍の祖を自負するロイヤル・ネイヴィが敗北させられたのである。烈火のごとく怒り狂ったイギリス海軍部は、現有戦すべてを<ビスマルク>の追撃に投入する決定を下したのだ。

戦艦巡洋艦駆逐艦も、ありとあらゆる戦をかき集めろ! あの大西洋の粗大ゴミを焼却処分してやる!」

「あのう、俺ら今、商の護衛してるんですけど・・・」

「そんなもんどうでもいい!」

かくして、大事な団護衛までほっぽりだして、<ビスマルク>ただ1隻のためだけに、大英帝国海軍一家総出で弔い合戦をくりひろげることになった。後年に「ビスマルク追撃戦」と呼称される戦いの幕開けである。

高速戦艦たる<ビスマルク>に艦隊では追いつけない。そこで最初の刺客、イラストリアス空母ヴィクトリアス>から間にもかかわらず発進したフェアリーソードフィッシュ撃機9機が急行する。ちなみにこのソードフィッシュという飛行機、まさかの複葉機である。太平洋では九七艦攻ダグラスTBDデヴァステーターといった全金属製の単葉撃機がしのぎを削っていた時代に、英国は古めかしい複葉機に最新のレーダーロケットなどを搭載して飛ばしていたのである。複葉機なので当時の撃機の均より時速100kmも遅いが、あまりに遅すぎて対空砲の見越し射撃を誤り、<ビスマルク>の対射撃ソードフィッシュの前を通り過ぎていくという事が多発した。おまけに機体に命中しても弾が貫通するだけで暖簾に腕押し。火がついても手袋けば消えるというおそるべき生存性までもっていた。

こんな撃機が投下した7本の魚雷のうち、1本が<ビスマルク>のカタパルト下に命中した。だが<ビスマルク>は大した打撃をうけなかった。重量の4割が装甲でできている同艦にとってたった1本の魚雷など問題ではなかったのだ。金剛>がこっちを見ている

ついで翌日の空母アーク・ロイヤル>から飛び立った15機のソードフィッシュが<ビスマルク>を捕捉。魚雷を投下し、2本が命中する。1本は左舷中央部で、この時も<ビスマルク>は大した損をださなかった。

しかしである。

もう1本の当たり所が非常にまずかった。よりにもよってにピンポイントで命中したのである。これによって<ビスマルク>はその場でクルクル回ることだけしかできなくなってしまう。時代遅れの複葉機は、翌日にはフランスに投錨できていたであろう<ビスマルク>のアキレス腱を狙いすまして射抜いたのだ。

続々と駆けつける英艦隊。を直そうにも酷寒のうえも最悪で外活動は不可能。英駆逐隊は<フッド>の復を果たそうと薄し魚雷叩き込んでくる。<シェフィールド>に4斉射めで命中弾をあたえ、小破せしめるなど、懸命に抵抗しながら故をめざす<ビスマルク>は満身創痍となっていた。の故障で操艦機を失い、自慢の高速も推進軸の回転で騙し騙し操するために7ノットしか出せず、艦自体も傾斜が続いている。

そんなおり、英艦隊にとっては待望の、<ビスマルク>にとって絶望間が訪れる。北東から戦艦キングジョージⅴ>、戦艦<ロドネー>がその巨体を現したのだ。<キングジョージⅴ>は<プリンス・オブ・ウェールズ>の長、<ロドネー>は16in(40・6cmを搭載するビッグセブンの一柱。これに重巡ノーフォーク>と<ドーセットシャー>も加わり、ほぼ身動きできない<ビスマルク>に一方的撃をくわえた。手も足も折れた人間を大勢で囲んで、動かなくなるまで、いや動かなくなっても金属バットで殴りつづけるがごときなぶり殺しが始まったのである。

もはや<ビスマルク>の命運は尽きていた。<ロドネー>は最接近時には2500mという、戦艦からすれば手を伸ばせば届く距離に詰め寄りながら何発も何発も<ビスマルク>に撃ちこみつづけた。<ロドネー>は駄押しに撃まで敢行。戦艦が発射した魚雷が敵艦に命中する人類史上初の快挙をなしとげる。

しかしまだ<ビスマルク>は浮いていた。戦闘全に喪失しても、艦というより燃える洋上廃墟となりながらも、まだ沈まず、それどころか3基ある機はいずれも事で、のろのろとであるが自航行まで可だった。

とはいえ沈没は時間の問題だ。も全門沈黙している。ここにいたって<ビスマルク>のリンデマン艦長は自沈という苦渋の決断を下した。稼動全ポンプで艦内に注し、キングトン弁を開放、冷却機用排水口爆薬がしかけられた。<ビスマルク>は艦尾から沈降、さらに左に傾斜していく。乗員が退避しおわったあと、リンデマン艦長は傾斜の強まる艦首へ歩を進め、艦首先端にたどりつくと、面に浮かぶ生存者へむけ別れの敬礼をおくった。<ビスマルク>が横倒しになってしたのはまさにそのときである。2大戦艦との戦闘が始まってから2時間が経っていた。

結局、<ビスマルク>の被弾は、<ヴィクトリアス>の撃隊から数えて推定魚雷中本数が8~13本。<ロドネー>の発射弾数は380発、副719発キングジョージⅴ>の発射弾数は339発、副660発重巡ノーフォーク>と<ドーセットシャー>の発射弾数は計781発。命中弾の合計は400~600ともいわれている。同艦の追撃にあたって投入された艦艇は47隻航空機100機以上。まさに英国海軍の総が<ビスマルク>ただ1隻の撃沈のためにつぎこまれたのである。しかも、これほどの戦を傾注してもなお、<ビスマルク>は自沈で最期を迎えており、英海軍はついぞその手で<フッド>のを沈めるには至らなかったのだった。

なお、ジェームズ・キャメロン監督の『海底戦艦ビスマルク』によれば、<ビスマルク>の装甲を貫できていた弾はたったの3発だけであったという。

から戦まで2年と3ヶという短い生涯の彼女は、名の由来であるオットー・フォン・ビスマルクと違って祖国勝利をもたらすことはできなかった。だが、ただ1隻だけで、世界に冠たるロイヤル・ネイヴィの心胆を寒からしめ、倉皇させたのは事実である。戦艦火を交えることすらわなかった戦艦が少なくないことを鑑みれば、彼女の艦歴は決して不幸なものではなく、むしろ第二次大戦を通してみても有数の武勲艦であるといってよいだろう。

<ウェストバージニア>が簡単に沈むか!

現地時間1941年12月7日、その日のハワイ快晴も少なく、日曜日ということもあって快適な一日が約束されていたはずであった。オアフの軍港たる真珠湾では星条旗がいましも掲揚され、戦艦の甲上では軍楽隊による定例の演奏さわやかの始まりを告げているところだった。

そこへ、異様に低を飛行する複数の航空機が航過していった。掲揚される星条旗敬礼していた地上の軍人たちは、グレゴリーボイントンのような跳ねっかえりか陸軍ジョージ・プレディみたいなお調子ものだろうとため息をつくか苦笑をもらした。しかし、航空機が胴体に懸していた爆弾を地上施設へむけ投下、爆炎がまきあがったことで、かれらの表情は一様に凍りつくことになる。

日本軍による真珠湾攻撃については、アメリカ事前に察知していたにもかかわらず、不戦を約にかかげたフランクリン・D・ローズヴェル大統領日本に第一撃を引かせる形で対日戦に参加したいがためにわざと知らぬふりをしていたという陰謀説、ただ単に日本外務省の手違いで宣戦布告が遅れてしまって結果的に奇襲になってしまっただけという説、日本の不穏な動きはつかんでいたが南方ならともかくまさか長ハワイに攻撃してくるとは思っていなかったという説など、現代でも諸説さまざまあるが、いずれにせよ現地で勤務していた将兵らにとっては、まさに霹靂寝耳に水の奇襲であったことには相違ない。

浅瀬である港湾に停泊している艦を攻撃するため、投下されてから水中へ射入するまでのあいだ中で姿勢が制御できる頭のおかしい航空魚雷え、搭乗員らにどこを攻撃しにいくか詳細は明かさないまま真珠湾に酷似した鹿児島県錦江湾殺人的な猛訓練をほどこし、線封鎖を底したうえで発見されにくい単冠からの北回りルートから接近するなど、おそるべき周到さと精度で作戦を進めた日本海軍に、ハワイ混乱のるつぼに叩き落された。シナ事変では大陸から敵機を消したという最強航空隊、第一航空戦隊をはじめとした精鋭搭乗員を載せた航空母艦赤城>、<加賀>、<蒼龍>、<飛龍>、<翔鶴>、<瑞鶴>から飛び立った艦載機真珠湾をの限りした。
例として、<蒼龍>に搭乗していた艦攻隊の金井昇は、爆撃競技会においてまさかの命中率100%をたたきだした怪物である。こんな化け物ぞろいの攻撃隊第1波183機、第2波167機もの猛攻に、フォード、ヒッカム飛行場は抵抗むなしく破壊され、撃隊の魚雷爆撃に在泊中の艦艇も攻撃をうけた。戦艦アリゾナ>、<オクラホマ>、標的艦<ユタ>が撃沈されたほか、多数の艦艇が損壊し、300機もの基地航空隊が発進するまえに残骸に変えられた。

コロラド級戦艦ウェストバージニア>も、当時真珠湾に停泊し、姉妹艦<メリーランド>、テネシー戦艦テネシー>、<カリフォルニア>、ペンシルベニア戦艦ペンシルベニア>らと共に戦艦ゆえに重要標とされ集中攻撃をくらう。回避行動などのぞむべくもなく、魚雷7本、爆弾2発をうけて大破、着底してしまう。

元々<ウェストバージニア>は1921年11月ワシントン軍縮会議にて艦とされるはずの艦であった。ようするにこの会議が開かれるまでに完成していない40・6cm搭載戦艦棄しようね、という話である。当時このサイズ艦砲としては最大で、つまり最強兵器であったので、そんなものいっぱいつくっても財政破綻するだけだよ、うちも作るのやめるからおたくもやめようよというのが趣旨であった。日本会議開催までにに日をつぐ突貫工事で長門戦艦2番艦<陸奥>を完成させようとし、会議1ヶまえの10月には工したとして軍艦旗をかかげてしまった。しかしどうみても未成であることは明らかである。日本完成艦であると頑としてゆずらず、熱の議論の結果、ついに英は<陸奥>の保有を認めたが、代償として英のネルソン級2隻の建造、は未成であった<コロラド>、<ウェストバージニア>の完成を認めさせることとなった。

つまり、<ウェストバージニア>は日本の強弁がなければこの世に生をうけることがなかったが、こんどはその日本の手によって撃沈されることになったのである。あまりに皮運命といえよう。

だが<ウェストバージニア>の命運は尽きていなかった。浅瀬であることが幸いし、引き上げて修理することが可だったのだ。

戦艦を新造するとなると、のように大きなのかたまりを作ってそこから削り出していかねばならず、非常にと時間がかかる。修理できるものならしたほうが安くてい。港を3万トン塊がふさいでいては邪魔だからどのみち引き上げてどかさなければならない。

もしこれが深度の深いであれば引き上げることもできなかったであろう。日刊駆逐艦、週刊軽空母刊正規空母とまでいわれ、空母量産のためにまずあらたに作るところから始めたさしもアメリカも、喪失した戦艦の補充のために一から戦艦を建造し戦化するのは時間と経済的負担が大きすぎる。
も、これはあまり有意義な仮定とはいえない。海原のどん中に戦艦があるときは、必ず複数の僚艦を伴い、四方八方に見りをたて、偵察機を飛ばして警しているはずだから、日本の機動部隊といえども容易に接近はできないだろう。
ウェストバージニア>たちは浅瀬の港だから沈められ、浅瀬だからこそ復活できたのだ。

ともあれ、修理ついでに大幅修をうけた<ウェストバージニア>は、およそ3年のときをかけ、1944年に戦列に復帰。リベンジの機会はすぐにおとずれた。同年10月25日深夜西村祥治中将ひきいる艦隊がフィリピン決戦レイテ湾に突入するべくスリガオ峡に進入。同艦隊は、欠陥がめだつために内地で士官の教室となっていた扶桑型戦艦扶桑>、<山>はじめ、航空巡洋艦最上>、駆逐艦時雨>、<満潮>、<山雲>、<朝雲>と、いずれも元いた部隊が壊滅した生き残りという、文字通りの寄せ集め艦隊だった。なりふり構わぬ進撃。日本背水の陣である。

峡というからには狭い。ジェス・B・オルデンドル少将揮下の戦艦戦隊は、戦艦6隻、重巡4隻、軽巡4隻、駆逐艦21隻、魚雷艇39隻という圧倒的戦で迎え撃った。戦艦6隻とはすなわち<ウェストバージニア>、<メリーランド>、<テネシー>、<カリフォルニア>、<ペンシルベニア>、<ミシシッピ>。そう、<ミシシッピ>以外は真珠湾で日本軍に大破着底させられ、修理され戦場に戻ってきた艦ばかりであった。

ウェストバージニア>は修理の際に最新のレーダー、Mk8Mod2(マーク8モッド2と発音。日本にいうと8号電探改二)を搭載されていた。この人類史上最大の戦、レイテ沖海戦の中盤となるスリガオ夜戦にてこれが価を発揮した。他の戦艦らが満足射撃できないなか、<ウェストバージニア>は陰をものともせず正確なレーダー射撃を実行できたのである。

味方の駆逐艦魚雷艇魚雷がスリガオ峡のを縦に横にと切り裂き、まず<山雲>を沈させたのを皮切りに、<満潮>と<朝雲>の艦首を食い破って落に追い込んだ。<扶桑>は体をまっぷたつにして火だるまになりながら沈没し、その姉妹艦<山>も4本の魚雷と熾撃に散した。せまりくる敵艦隊を魚雷で漸減したのち重巡戦艦の追い討ちでとどめをさすという、日本研究していた戦術がアメリカの手で炸裂した間だった。結果、西村艦隊は<時雨>を残して全滅する。

ウェストバージニア>のアクションリポート(戦闘詳報。何時何分にをこれこれこういう敵に何発撃ちましたよーというふうに、戦闘の様子を詳細を記録したもの)には、<山>に撃したときの状況が明に記されている。ご覧になりたい方はこちら(英語)exit

驚愕するべきはその命中精度であろう。本リポートによれば、距離2万メートルの<山>に対し、第1斉射で夾叉させ、しかも命中させているとある。その後の計13回にわたる斉射すべてで夾叉を確認し、命中弾4発、不確実なものも含めると13発以上も命中せしめたという。実際、同艦の射撃開始4分後に<山>から爆炎が観測されている。<ウェストバージニア>の射撃がいかに正確であったか、それで知れる。しかも<ウェストバージニア>のレーダーは、敵艦のみならず、弾着時の柱をも観測。混戦のなかにあって、柱の高さや太さから味方艦と自艦の弾着を見分けることさえ可にしていたという。

また、精密機械であるレーダー射撃衝撃に耐えられないという意見もあり、事実、<ビスマルク>は「デンマーク峡の戦い」における第1斉射でさっそくレーダーが使用不能になっているが、<ウェストバージニア>に搭載された2基のMk8はどちらも自艦の発による悪は見られなかった。

<山>は本艦の6斉射までですでに命運を定められている。初弾発からわずか4分弱のことである。1~6斉射までの<ウェストバージニア>の発射弾数は47発とある。うち命中弾は4発。この数字みにするなら、<ウェストバージニア>の<山>への命中率は8ということになる。世界でも屈の練度を誇った黄金期日本海軍ですら、間の実射訓練において9~15限界だった。なお戦時の命中率は時の1割から5割にまで落ちるのが通例である。つまり実戦での命中率は1もあればいいという世界だ。間で8という命中率は特筆に値しよう。

ともあれ、<ウェストバージニア>らは敵艦隊を打ち破り、仲間が多数上陸しているレイテを守った。扶桑とは日本の異称である。その名をいただく戦艦を撃沈せしめることで、<ウェストバージニア>たちは真珠湾での同胞らの念をらし、みごと辱を果たしたのであった。

終戦後、<ウェストバージニア>は、他の戦艦空母などの艦艇と同様、欧州太平洋々に兵された何十万という兵らを帰還させる一大事業、マジックカーペット作戦に復員の一として参加した。巨体ゆえに多くの寝台を提供できる<ウェストバージニア>は大勢の兵士祖国に帰還させた。

その後は予備役として後方に下がり、1959年3月1日に除籍、同年8月スクラップとして売却された。

から売却まで37年8ヶと長命だった彼女は、数奇な運命によって命拾いし、一度沈んでもり、すでに旧式化していたにも関わらず舞台で復を果たして自らの任務を全に遂行した。戦いが終わった後には、数えきれない同胞をする者たちの待つ祖国へ還し、平和になった故郷を見届けた後、全ての役を終えて舞台袖へと去っていった。

不撓不屈、祖国のために老打ち、務めを遂した彼女は、乗員らと共にまぎれもなく愛国者の一員として数えられることだろう。なお、彼女メインマストは艦名の由来となった州の学府、ウェストバージニア大学に贈呈されており、展示物としてでも見ることができるようになっている。

彼女はいまでも故郷で次代を担う若者たちを優しく見守っているのである。

〈ウォースパイト〉が簡単に沈むか!

第二次世界大戦は、急な発達をみせた航空機と、それを運用する洋上移動基地、すなわち空母戦の役として台頭し、それまで戦の基幹であった戦艦戦艦たり得た最後の戦争だった。重装甲、高速化、大火力化という相反する性を1隻に集約した結果、戦艦は建造費が天井知らずとなり、それでいて機魚雷潜水艦などに脆弱であるので、「来週の火曜日、何時何分にどこそこ戦艦どうしの艦隊決戦を行いたいと思いますので、みなさまお誘い合わせのうえお越しください」と相手と文通でもしていないかぎり、おいそれとは戦場に投入できなくなっていたのだ。

だが、彼女は違った。

二度の世界大戦を戦い、祖国勝利をもたらしつづけた銘艦。数多の戦場を駆け抜け、戦争を忌み嫌う名のとおり、戦いではついぞ沈まなかった不朽の戦艦

クイーンエリザベス戦艦2番艦HMSウォースパイト〉は、第一次大戦よりも前の191311月26日に進し、1915年3月8日に就役した。その名は「戦を軽蔑するもの」を意味する。新造時では、38・1cm42口径連装を4基、15・2cm45口径単装8基、10・2cm45口径単装高4基などを備えていたが、最大の特徴は機関のボイラーを重専焼にしたことだった(当時の軍艦は石炭が燃料だったり、石炭と重の混焼が流だった)。石炭よりはるかに燃焼効率にすぐれる重を燃料に採用したことで、重武装ながら25ノットという高速を獲得する。

彼女の艦歴は受難そのものだった。まず、就役と同時に本艦隊の第2戦艦戦隊に配属されたのだが、9月座礁事故を起こしている。修理したのち、1番艦〈クイーンエリザベス〉、3番艦〈バーラム〉、4番艦〈ヴァリアント〉、5番艦〈マレーヤ〉、すなわちおなじクイーンエリザベス戦艦のみで編成される第5戦艦戦隊に転属となるが、ここでは姉妹艦〈バーラム〉と衝突して大破

1916年5月31日には、人類史上最大規模の戦となるユトランド戦に出(おなじく大規模な戦といえば第二次大戦レイテ沖海戦が挙げられるが、あちらは「パラワンの悲劇」「シブヤンの戦い」「スリガオ夜戦」「エンガノ戦」「サマー戦」の総称で、1戦の規模は本戦が上回る)。敢闘のさなか、ドイツ海軍から15発の弾を浴び、姉妹艦〈ヴァリアント〉と突しそうになるも急旋回してこれを回避。しかし、被弾のなのか突如ここでが故障。回避行動のために切ったままが固定されてしまい、その場で回ることしかできなくなってしまう。

この「死の行進」により〈ウォースパイト〉は敵艦隊の眼前で2回も円を描いた。ドイツ海軍は大破させた英装甲巡洋艦〈ウォーリア〉にとどめを刺そうとしていたが、そこへ〈ウォースパイト〉がさながらを振り乱して走る女のようにグルグル回りはじめたものだから、彼らの注と関心、ひいては口の照準をも引き寄せることとなった。窮地に立たされていた〈ウォーリア〉の乗員たちはのことなど知るはずもなく、〈ウォースパイト〉が命がけで守ってくれたと勘違いし、信頼と感謝を寄せた。結果、〈ウォースパイト〉は大小あわせて29発を被弾し、からくも生還したものの、爾来、彼女は生涯にわたってこの呪い不具合に悩まされることになる。

トランド戦の損修理し、復帰した彼女だが、12月には〈ヴァリアント〉と衝突。今度はかわせなかった。さらに翌1917年6月駆逐艦とも衝突した。1918年にはボイラー室で火災が起きている

数々の苦難に見舞われながらも人類史上初の世界大戦をなんとか生きのびたウォースパイト〉は、来るべき次の戦いに備え近代修を受けた。航空機格納庫を設置し、機関を換装、修し、防御を強化され、艦も現代の軍艦のような外観のめられた。ほぼ別艦と言ってよいほど生まれ変わった〈ウォースパイト〉は地中海艦隊旗艦の座につくが、修後の試験航行でのまま固定されてしまうトラブルが発生。さらに機関部にも不調が見つかり、地中海への到着が予定より5ヶも遅れてしまう。

第二次世界大戦勃発後の1940年4月、すでに艦齢25歳の老朽艦となっていたが、ドイツ海軍ノルウェー侵攻にともない、〈ウォースパイト〉は僚艦らとともに一路ノルウェーへと展開。
同13日には、ドイツにとって北欧侵攻の重要な拠点であるナルヴィクを占領したドイツ軍を攻撃するため、〈ウォースパイト〉はトラバル駆逐艦〈ベドウィン〉、〈コサック〉、〈バンジャビ〉、〈エスキモー〉、K級駆逐艦キンバリー〉、H級駆逐艦ヒーロー〉、I級駆逐艦イカルス〉、F級駆逐艦フォレスター〉と〈フォックスハウンド〉の9隻の駆逐艦を率いてオフォト・フィヨルドに侵入した。
そこで燃料と弾薬の不足で足止めされていたドイツ駆逐艦8隻と遭遇し、交戦状態となる。〈ウォースパイト〉らの奮戦は、ドイツ駆逐艦隊のただでさえ心もとかった弾薬を払底させ、艦隊を追い詰め、全滅させた。イギリス駆逐艦にも損は出たものの、この「第二次ナルヴィク戦」は〈ウォースパイト〉たち英国海軍全な勝利に終わった。

氷河の戦いを制した〈ウォースパイト〉は本来の寝床である地中艦隊にもどり、7月7日団護衛のためエジプトアレクサンドリアを抜錨。9日に地中海艦隊とオーストラリア海軍からなる連合軍は、イタリア半島のつま先にあたるカラブリ半島から約50kmの合いで、おなじく団護衛に従事していたイタリア艦隊と遭遇、戦闘を開始した。「カラブリ戦」のが吹かれたのである。

ウォースパイト〉はイタリア戦艦ジュリオ・チェザーレ21000mという距離から撃、みごとに命中させた。これは移動する艦艇から移動標への撃としては世界でも有数の記録である。戦そのものは引き分けに終わったが、〈ウォースパイト〉の活躍もあり、以降はイタリア海軍はたとえ優勢であっても英海軍との戦闘を避けるようになり、実質的に英国地中海を支配下におくことができた。

1941年3月28日に生起したマタパン戦では、姉妹艦〈バーラム〉、〈ヴァリアント〉らとともに夜戦重巡3隻、駆逐艦2隻を撃沈破するなど大手柄をあげる。

しかし喜んだのもつかの間、5月22日の「クレタ島の戦い」ではドイツ軍襲の前に大破している

襲の痛手は思いのほか大きかったようで、その年のうちに〈ウォースパイト〉は大規模な修理のためにアレクサンドリアからインド洋経由で米国にむかい、8月ワシントン州のピュージェットサウンド海軍所に入院。ところが12月8日日本真珠湾を攻撃、宣戦布告したため、修理を切り上げ抜錨し、オーストラリアを通ってセイロンに到着。そこで東洋艦隊旗艦の任に就く。

セイロンといえば空母〈ハーミズ〉や重巡コーンウォール〉、〈ドーセットシャー〉などが日本の機動部隊に撃沈されたセイロン沖海戦が勃発した場所だが、〈ウォースパイト〉自身はいろいろ歯車が噛み合わず南雲機動部隊とは会敵していない。この後ミッドウェー海戦が起きたこともあって日本軍インド洋で攻勢をかけなくなったため、とくに損傷もなく穏にすごしている。ただし、1943年6月地中海へ帰還する途中、またしてもの故障を起こしている

7月、シシリア上陸を的としたハスキー作戦が企図されるが、地中海の雄たる〈ウォースパイト〉にはおがかからなかった。そこで、〈ウォースパイト〉艦長が地中海艦隊アンドリューカニンガム提督支援として参加させて欲しいと訴えると、

提督「そうは言っても、時の〈ウォースパイト〉は地中海では撃が最悪だったじゃないか」

艦長「じゃあ、戦時はどうでした?」

提督「絶対に失敗しなかったな」

ということで参加が決定。戦車水上艦というめずらしい一幕も発生するなか、〈ウォースパイト〉はドイツ軍の攻撃を巧みにかい潜り、例のごとくが故障して味方の駆逐艦にぶつかりそうになりながらも、枢軸国に熱々のデリバリーをプレゼントした。帰投後、カニンガム提督から、

作戦は成功した。オールド・レディスカートを上げれば走ることができる」

というブリティッシュジョークあふれる賛辞の信号が届く。このことから〈ウォースパイト〉はオールド・レディ称でしまれることとなった。

しかし9月16日ドイツ軍の思わぬ猛反撃に連合軍が劣勢に追い込まれたことから急遽、支援任務にもどり、サレルノ姉妹艦〈ヴァリアント〉と艦砲射撃を遂行中だった〈ウォースパイト〉は、かつてイタリア戦艦ローマ〉をたった1発での底へ永久追放した誘導爆弾フリッツXに被爆。3発投下されたうち2発が直撃する。さすがの〈ウォースパイト〉もただではすまず、1発は煙突のすぐ後ろに命中し、を貫通、機関区で炸裂する。もう1発は右舷側のバルジを貫爆発した。これにより第4ボイラー室は破壊され、隣接するボイラー室も浸。6基あるボイラー室のうち稼動できるのは1基のみとなり航行不能におちいる。

普通なら沈没するか自沈させる以外に選択肢のない絶望的な損だったが、幸運にも死者数は9名、負傷者数も14名と人的被害は少なく、〈ウォースパイト〉自体も沈む気配がなかったので、後退し、マルタで1ヶ近くも修理を受けた。だが、やはり被害が甚大に過ぎ、全壊した第4ボイラー室は修理を断念され、4基あったも稼動するのは2基だけの状態で帰還が決定された。
帰るついでに本行きの団と合流するが、そのときの〈ウォースパイト〉は、人間でいえば片腕を首から三角巾り、片足はなく、残った手足で松葉をついてえっちらおっちら歩いているというようなもので、〈ウォースパイト〉が団を護衛しているのか団が〈ウォースパイト〉を守っているのか分からないありさまだったという。

イギリスのロサイスでも修理されるが、けっきょく第3は復旧できず、速も21ノットまでしか回復できないまま戦列への復帰を余儀なくされた。D-DAYが迫っていたのである。

1944年6月6日、〈ウォースパイト〉の艦は東洋機動艦隊の一員としてノルマンディー上陸作戦に参加しているところを見ることができた。決死の抵抗を続けるドイツ軍から再びフリッツX鉄槌を第3に食らうも事なきを得て、支援を敢行、ソード海岸ゴールド海岸で味方の上陸を強に援護した。

ひと仕事終えた〈ウォースパイト〉は、齢が寿命を迎えたので交換のためロサイスに向かう途中、左舷後部がに触し、機関スクリューに損傷を受け、左舷のタービン2軸にいたっては全に停止してしまった。ロサイスでの修理も陸への艦砲射撃ができればいいという程度の必要最小限にとどめられ、4基あった推進軸は3基となり、速も15ノットにまで低下した。

8月にはくも戦線にもどり、フランスブレストやル・アーブル撃している。

同年11月1日、ゼーラント州ワルヘレンへの撃が、〈ウォースパイト〉のが火を噴いた最後の任務となった。

明けた1945年2月に予備役に編入。そのまま終戦を迎える。保存をめるも多かったが、たび重なる損傷のせいもあり、スクラップとして売却されることとなった。

だが、これまでしぶとく生き抜き勝利を重ねてきた〈ウォースパイト〉が黙ってスクラップになどされようはずもなかった。解体場所のファスレーンに航される途中に航索が切断されると、彼女はこれ幸いとばかりに漂流し、プロシア入り江で座礁するまで解体業者から「スカートを上げて」逃げ続けたのだ。発見された後はその場で3年もかけて解体作業が進められた。座礁にはじまり、座礁に終わったのである

から解体了までの37年のあいだ、絶えず戦場を駆け巡り、不沈艦としてイギリス中に慕われた〈ウォースパイト〉のかしい戦歴も、一の哀惜とともにようやく終止符が打たれたのであった。

ウォースパイト〉は終生、衝突やの不具合に悩まされ続けた。戦闘での被弾も数知れない。だが、どんな傷を負っても不死鳥のごとくよみがえり、「戦を忌み嫌うもの」でありながら必ず戦場に舞い戻り戦果を上げた。第一次世界大戦第二次世界大戦の両方に出撃し、ことごとく勝利を収め、かつ戦しなかった戦艦彼女をおいて他にない。まさに伝説戦艦であり、世界で最も偉大な武勲艦と言っても過言ではないだろう。

<ミズーリ>が簡単に沈むか!

現代の海軍には戦艦という艦種は存在しない。当然、新造もされていない。世界最大の戦艦大和>と<武蔵>の両艦は襲にその巨体を沈め、<ビスマルク>は英海軍の総攻撃に散し、不死鳥と名高い<ウォースパイト>も最後はスクラップとなった。

しかし、全ての戦艦がこの地球上から消え去ったわけではない。

アイオワ級戦艦は、アメリカが最後に建造した戦艦であり、同時に、世界最後の戦艦である。また、21世紀の今でもなおに英姿を浮かべている戦艦でもある。

大戦前夜

前年にヒトラードイツ首相に就任しナチスが政権を立、日独があいついで国際連盟を脱退し、満州国が非承認に門戸を閉ざすなど、時代が混迷の一途を辿っていた1934年アメリカ海軍日本海軍の動向に神経らせていた。

来年はロンドン海軍軍縮条約が失効となる年である。同条約が日本海軍に大きな痛手を与えていたのはアメリカも承知だった。日本からすれば、先のワシントン海軍軍縮条約で戦艦の数を減らされたので駆逐艦巡洋艦潜水艦といった補助艦艇にを入れていたのに、今度はロンドン海軍軍縮条約でそれらにも厳しい制限がかけられたのだから、戦わずして英に負けたも同然だったのである。(実際には同条約はアメリカの軍拡も制限していたので、条約がなければ日の戦差はさらに拡大し、日本は開戦に踏み切ることすらできなくなっていた可性が高いのだが)

条約の対抗策は「空母がたくさん作れないから、陸上基地から展開する大陸上攻撃機を発展させる」か、「軍艦の数が作れないのなら、その分1隻の性を強化すればいいじゃない」という一点義の二つだけ。

ワシントン海軍軍縮条約の折りには、駆逐艦には特に制限がかったのをいいことに、当時は近の警備がおもな任務で外洋に出るなどだれも考えていなかった駆逐艦に巡洋艦なみの攻撃力と航洋性を持たせるというナナメ上の発想(ボクシングでいえば、ライト級なのにマーク・ハントみたいなやつが出てきたようなもの)で裏をかいてきた日本である。おとなしく従っているはずがない。

また、ロンドン海軍軍縮条約失効と同時に第二次ロンドン海軍軍縮条約の会議が持たれることとなっていたが、もし日本がこれを蹴れば、日本際世論を敵に回すという代償とひきかえに合法的に条約無視戦艦を建造できることになる。日本には国際連盟脱退という“前科”もある。ドイツではヒトラー首相がついに総統となり、ナチス政権による独裁が始まり、全体主義が台頭していた1934年は、日面下で熾情報戦を繰り広げていた年でもあった。

日本日本で、条約失効と同時にもしも英が強な新戦艦を戦化した場合、現状では太刀打ちできないので、前例のない巨を積んだ巨大戦艦の設計を軍が艦政本部(日本軍艦の設計を取り仕切る部署)に命じていた。A140-F6戦艦と仮称されたその新戦艦は、存在そのものが極秘で、議会に予算を通す際も、架駆逐艦潜水艦の建造という名で計上したり、<比叡>や<蒼龍>の装費用を少々増ししてそこから頂戴したりと偽装工作を重ね、の旋回部分の図面が紛失したときには技師と製図工あわせて8名を泣く子も黙る特高がスパイ容疑で拷問、うち3名は職場復帰不能にまで追い詰められ、犯人少年は一族郎党、満州へ送られるなど、その防諜はきわめて厳重だった。

さて、軍縮条約の期間延長を図る第二次ロンドン海軍軍縮条約の交渉にあたり、現状維持を望む英日本お前らに都合のいいルールばっかりこっちにおしつけやがって!」(意訳)と、12月にまずワシントン海軍軍縮条約を破棄、続いてロンドン海軍軍縮条約も1936年1月15日に脱退した。イタリアも抜けたため、5ヶで調印するはずだった第二次ロンドン海軍軍縮条約は英の3ヶで締結することになった。

では、日本は条約無視戦艦を作れるのに、英は条約に縛られたままでいなければならないのか?

こんなこともあろうかと、同条約にはエスカレーター条項という内容も追加された。ここでいうエスカレーター条項とは「ロンドン海軍軍縮条約に批准した国家が第二次ロンドン海軍軍縮条約から脱退した場合、批准の制限を緩和する」もので、ものすごく噛み砕いていうと、

「相手から先に約束破ったんだから、こっちまで儀に守る必要ないよね!」

つまり、日本が脱退したことで、は、「戦艦口直径は14インチまで、排水量は35,000トンまで」という同条約の制限から、「16インチ、45,000トンまで」大にしてもよいことになったのだ。さらに保有隻数も拡大された。

の気がかりは日本が今どんな戦艦を作っているのかということである。条約を破棄した以上、長門なみの16インチ搭載艦をまたぞろ新造しているかもしれない。A140-F6というなにやらとてつもなく巨大な戦艦の建造に着手しているということまでは掴んだが、日本底した防諜により肝心の口直径がわからない。そこでアメリカ日本に、

「新戦艦を建造しているようだが、そのは16インチか否か答えられたい。返答なき場合は16インチ搭載艦を建造していると見なす」

ねたところ、日本無視。これをもってアメリカは、日本が16インチ搭載の戦艦を新造していると判断した。

なお、実際には16インチ(40・6cm)どころか18インチ、つまり46cmだった。のちにA140-F6大和と名づけられ世界最大の戦艦となるのだがアメリカは知る由もない。

とにもかくにも、当時のアメリカ海軍最大の仮想敵たる日本海軍が条約を無視して新戦艦をそろえようとしている事実は重大だった。対抗できる戦艦を配備しなければならない。

ただ強くて重装甲にするだけなら簡単だが、米海軍の頭痛の種は日本海軍が誇る金剛高速戦艦の存在だった。米海軍戦艦とは、まず空母機動部隊で制権を奪取したのち、敵航空機の心配をせずなおかつ味方航空機の援護を受けられる状況下で撃戦を行うものという位置づけだった。戦艦役で、空母巡洋艦駆逐艦はその舞台を整えるための引き立て役というわけだ。
もし、日本空母機動部隊金剛型戦艦が随伴していたら?
金剛型戦艦巡洋艦なみの俊足を持った戦艦だ。巡洋艦ではが立たないし、28ノット弱のノースカロライナ級では追いつけないし逃げられないかもしれない。

(※アイオワ級設計にあたって金剛型戦艦を意識したという話は後世の捏造という説もある。ただ単に空母に随伴できる戦艦追求したら高速戦艦になったというだけで、人間爆弾桜花ミサイルヒントになったなどという逸話と同じくデマの可性も十分考えられる)

問題はもう一つあった。火力と速、どっちを取るかという問題である。もしも日本が16インチどころか18インチ戦艦を建造していたら、こちらも18インチを搭載し対応防御を持った巨大戦艦の設計に踏み切らねばならないが、さすがにその巨体に高速性までめるのは理がある。

「二を追って一も得ないより、16インチ砲艦と18インチ砲艦、2種類の戦艦を設計したほうがいいんじゃないか」という結論に落ち着いた(そもそもこれを実現できる時点で泥の差があるのだが)。
というわけで、

この2つのプランが提案され、前者はモンタナ級として設計が検討された。
後者高速戦艦案で要された性は、16インチを搭載しているであろう新戦艦にも対抗しう火力と防御、条約戦艦最高傑作サウスダコタ高速戦艦える速

その解答こそが、アイオワ級戦艦だった。

アイオワ級戦艦

装甲を増やして防御を高めるとなると、モンタナ級ほどではないにしろ、どうしても重くなり、速も落ちる。けれども高速性もほしい。ではどうするか。

よりハイパワーエンジンを積めばいい。単純明快である。

前級にあたるサウスダコタ級と較してみよう。

全長 全幅 基準排水量 最大出 最大速
サウスダコタ 207m 32・97m 37,970t 130,000 27・8kt
アイオワ級 270m 32・96m 48,425t 212,000 32・5kt

サウスダコタ級の排水量が条約の35,000トンより大きいのは、ちょっとくらいオーバーするのは普通だったため。ちょっとと言ってもオーバーしたぶんだけで駆逐艦まる1隻ほどもあるが、気にしてはいけない)

アイオワ級は幅以外はのきなみ巨大化しているが、機関212,000、過負荷で254,000化け物エンジンを搭載することにより、32・5ノット、満載時でも金剛える31ノットの高速を叩き出す、世界最高速戦艦となった。これはガスタービンエンジン(つまりジェットエンジン)搭載の現代の軍艦にも匹敵する速である。

のMk.7も、口直径こそ16インチサウスダコタ戦艦搭載のMk.6と同じだが、口径は45口径から50口径へと長身化された。の口径とは、「身の長さが口直径の何倍あるか」をあらわす。45口径なら身が口の45倍で、50口径なら50倍だ。身が長いほど弾が筒内で加速される時間が長くなるため、おなじ直径の弾でも初速や射程で勝る。
アメリカ軍艦パナマ運河を通行できなければならない。よってパナマ運河の幅より太く設計できない。アイオワ級サウスダコタ級の全幅とほとんど変わっていないのも、サウスダコタ級がすでにパナマ運河を通行できる上限の幅……パナマックスぎりぎりであったことによる。全幅が変わらないということは、アイオワ級サウスダコタ級よりを大化させるのは難しいということであるわけで、16インチ口直径も艦がパナマックスにおさまる設計上の限界の大きさだった(日本はそれを知っていたから16インチえる46cm搭載戦艦を建造した)。16インチより大化できないがゆえ、長身化により火力の強化を図ったのである。

排水量を抑えるため、装甲は従来の45口径16インチであれば16,000m~28,000mの距離で撃たれても防御できるものの、自身のである50口径16インチの対応防御には至らなかった。

高速性獲得のため艦首を細く絞った結果、縦揺れがしく、長身化のため横揺れも大きいという欠陥を抱えていた(異常震動に悩まされたという話もあるが、デマである)。

さらに、4隻のアイオワ級戦艦USSアイオワ>、USSニュージャージー>、USSミズーリ>、USSウィスコンシン>が工した戦中はすでに大艦巨砲主義から航空兵へと時代が移り変わっており、設計当初に期待されていた戦艦どうしの艦隊決戦はなかなか発生しない状況となっていた。戦艦役で空母脇役の時代が、空母役で戦艦はその護衛という時代に変わっていたのである。

いざ太平洋へ

3番艦<ミズーリ>も、就役は1944年6月11日であり、初陣は翌45年2月16日空母レキシントン>を筆頭とした任務群による日本本土襲のための空母護衛であった。その後は空母部隊とともに硫黄島へ向かい、支援撃を行っている。瀬戸内海付近でも基地や飛行場への対地撃に従事。3月下旬には沖縄攻略のために支援撃を敢行した。

陥落寸前の沖縄の援護のため、日本海軍は稼動可な艦隊をかき集めて天一号作戦を決行。<大和>を旗艦に巡洋艦矢矧>と8隻の駆逐艦が豊後を抜けて南下、沖縄本島に舳先をむけた。<大和>ほか艦艇を沖縄の浅瀬に座礁させて台とし、弾が尽きたるのちは乗員が陸戦隊となって突撃するという、生還を期さない特攻作戦である。
アメリカ側も航空偵察や潜水艦からの報告で<大和>以下水上部隊が接近しつつあることを掴んでいた。レイモンド・スプルーアン大将はこれに艦隊決戦で応じようと企図する。
間を選べば、スリガオ夜戦などで実されたように、レーダーで上回る米海軍が優位に立てるだろう。
第54任務部隊の士気は高まった。ついに日本の艦隊と堂々撃ち合う念願の艦隊決戦が実現できる。部隊に合流していた<ミズーリ>の乗員らも意気軒昂だった。側の戦艦は<ミズーリ>と姉妹艦<ニュージャージー>、<ウィスコンシン>などあわせて6隻、巡洋艦は11隻、駆逐艦にいたっては30隻以上と数でも有利だった。負けるはずがない。
しかし、機動部隊を率いるマーク・ミッチャー中将は、航空攻撃の有用性を明する絶好の機会ととらえ、艦載機による襲を強硬に進言。けっきょくミッチャー中将の案が採用され、<大和>は途切れることのない襲についに命運つきた。<ミズーリ>は千載一遇となる戦艦との戦の機会を失した。

8月15日日本ポツダム宣言を受諾し、降。降文書の調印式会場には<ミズーリ>艦上が選ばれた。

戦争が終わり、<ミズーリ>のとなるはずだった<イリノイ>と<ケンタッキー>も建造中止となったが、彼女自身の艦歴にはまだ幕が下りなかった。1950年朝鮮戦争が勃発したのだ。日本を倒したことで、いままで日本が担ってきた共産主義南下防止の任はアメリカが負わなければならなくなっていた。アメリカは本戦争に介入し、韓国軍支援するため<ミズーリ>を派遣。<ミズーリ>は9月には戦後はじめてとなる撃をおこなっている。

朝鮮戦争後はモスボール(不活性化。またいつか使えるように保管しておくための措置)処理され予備役に編入され、長い眠りにつく。

長い眠りを経て

時代は東西冷戦のまっただなか、1981年初頭、ソ連海軍の軍備増強に危機感を抱いたアメリカは、475隻だった海軍の艦艇を600隻にまで増やす軍拡を決定。「600隻艦隊構想」の一環として、モスボール状態にあったアイオワ級4隻を現役復帰させた。30年近い眠りから覚めた<ミズーリ>には最新鋭の武装が搭載された。トマホーク巡航ミサイルに、ハープーン対艦ミサイル、敵の対艦ミサイルを迎撃するためのCIWS、それに電子機器などである。湾岸戦争では28発のトマホークを発射している。
さらには、朝鮮戦争以来となる発射で、<ミズーリ>は<ウィスコンシン>とともにイラク軍の台や地、部、燃料庫などを粉砕した。戦艦による艦砲射撃は上陸作戦を展開する海兵隊の心強い味方になったという。

1991年真珠湾攻撃からちょうど半世紀の節ハワイで開催される真珠湾攻撃50周年記念式典への参加が、戦艦USSミズーリ>の最後の任務となった。1998年には民間へ寄贈され、浮かぶ博物館として、真珠湾にて同じく記念艦となっている戦艦アリゾナ>のそばで開される運びとなった。太平洋戦争開戦と同時に沈められた<アリゾナ>と、終戦徴ともいえる<ミズーリ>が、今では共にパールハーバー平和を望み、観光客らを分け隔てなく迎えているのである。

カミカゼ・アタックを受けた<ミズーリ>

ところで、<大和>ら水上特攻参加艦が坊ノに沈んでから4日後の1945年4月11日のことである。午後2時43分、鹿児島県南諸喜界島で、1機の爆装零戦が<ミズーリ>の右舷艦尾に体当たりした。燃料に引火したものの、即座に消火被害は軽微だった。
わが命をも顧みない攻撃に<ミズーリ>のウィリアムキャラハン艦長は、回収された零戦搭乗員の遺体水葬を提案した。敵国の、しかもスーサイドアタックなど仕掛けてくる狂人にそのような必要はないと反対のもあったが、キャラハン艦長は、

「いかに敵でも、戦場で戦って死んだのだからノーサイドだ。死ねば敵ではない。彼は祖国のために命をげたのだ。同じ軍人として鄭重に葬ってやりたい。これは艦長の意向である」

と艦内放送で乗員に伝えた。キャラハン艦長は日本軍との戦闘で失っている。その艦長の決定である。それ以上だれも反対できようはずもなかった。

遺体日の丸を描いた星条旗に包まれ、翌12日、礼5発、総員敬礼をもって水葬されたという。

搭乗員の身元は長らく不明であったが、戦後、「戦艦ミズーリ記念協会」のボランティア記録を丹念に調したところ、特攻機は鹿児島県鹿屋基地から飛び立った第五建武部隊の1機で、操縦していたのは石野節雄二等飛行兵曹であることが判明した。岡山県出身の彼は当時まだ19歳だった。

今でも、<ミズーリ>の右舷艦尾には「カミカゼアタックサイト」、つまりカミカゼ攻撃を受けた場所として凹みが残されており、これはでも見ることができる。もしハワイ旅行で訪れて、<ミズーリ>に乗艦する機会に遇したら、ぜひともその歴史傷跡を確かめてほしい。

水葬から56年にあたる2001年4月12日特攻隊員らの遺族が<ミズーリ>艦上の慰霊祭に招待された。石野二飛曹の遺族は高齢のため出席できなかったが、共に鹿屋を出撃した隊長や戦友の遺族が代わりに出席し、キャラハン艦長の長男や元乗員らと対面した。半世紀という時をえて実現しただった。

ミズーリ>を含めたアイオワ級戦艦は、いずれも敵の猛攻を受けたことがない。よって、<大和>、<武蔵>、<長門>、<ビスマルク>などのように頑丈さを示す分かりやすいエピソードがないのは事実である。

しかし、戦闘のない記念艦になっているとはいえ、往年の姿をほぼ全に保ったままに浮かんでいる数少ない戦艦であることもたしかである。電は陸から引いているし、身の仰はとれるがの旋回はできないし、そもそもを操作するだけで500ページものマニュアルを熟読しておかなければならない代物だが、1944年1月29日の進以来いまだ沈みも解体もされずに現存しているという点では、まさに不沈艦の名にふさわしい。

ミズーリ>は数々の栄誉にられた銘艦でもある。あわせて17の勲章を受けており、17すべての略綬(勲章を簡略化したリボン)が艦に描かれている。その内容は上段の左から順に、

  1. Combat Action Ribbon(優れた戦闘を見せた)
  2. Navy Unit Commendation(優れた支援おこなった)
  3. Navy Meritorious Unit Commenndation(賞賛に値する武勲)
  4. Navy E Ribbon(効果のある戦闘おこなった)
  5. China Service Medal(中国での戦いへの栄誉)
  6. American Campaign Medal(第二次世界大戦における活躍への栄誉)
  7. Asiatic-Pacific Campaign Medal(アジア太平洋での戦いへの栄誉)
  8. World War Victory Medal(第二次世界大戦戦勝記念)
  9. Navy Occupation Service Medal(太平洋戦争朝鮮戦争の両方で活躍したことへの栄誉)
  10. National Defence Service Medal(防従軍記章)
  11. Korean Service Medal(朝鮮半島での活躍)
  12. Armed Forces Expeditionary Medal(海外遠征記章)
  13. Southwest Asia Service Medal(湾岸戦争での活躍への栄誉)
  14. Navy Sea Service Deployment Ribbon(上に特有の困難な任務をなしとげた)
  15. Korean Presidential Unit Citation(韓国殊勲部隊章)
  16. United Nations Korea Medal(朝鮮戦争において国連軍を支援した)
  17. Kuwait Liberation Medal(クウェート解放した栄誉)

ミズーリ>はアメリカを代表する武勲艦の一であると言えるだろう。エイリアンと正面切って戦えるのも納得である。

<大和>なんか作らずに飛行機作ってりゃよかったのにwww日本馬鹿じゃね?www

大和><長門>は艦隊決戦のために建造されたものの、その機会を得られなかった薄幸の戦艦として現代に伝わっている。日本のみならず、第一次大戦以降はどの戦艦も似たり寄ったりの冷遇にあった。

考えてもみてほしい。戦艦の運用が想定していた艦隊決戦とは、「ヤァヤァこそは・・・」と名乗りを挙げて始める合戦のようなものだった。これが現実で起きると、まともな戦局眼をもった指揮官が双方にいれば自分が有利か不利かくらいは即座に判断できる。不利と分かれば決戦になど応じるはずもない。とっとと逃げる。戦争スポーツと違って必ずどちらかが有利であったり不利であったりするからだ。よって戦艦どうしの艦隊決戦はなかなか起きなくなる。戦艦はすでに第一次大戦時から斜陽の兆しを見せていたと言えるかもしれない。特に<大和>は航空攻撃に敗れ去ったから、当項のような感想を抱く人も日本には多い。

ではなぜ日本をはじめ、当時の世界海軍はイケイケドンドンで新戦艦を配備し続けたのだろうか。

それは、戦艦最強の攻撃をもつ戦略兵器であることには疑いの余地がなかったからである。

艦隊決戦が起きないのは十分な戦があってお互いがお互いの反撃を恐れて手出しできないからだ。この戦とは戦艦が基幹となる。戦艦がなければ、相手は遠慮なく防衛線を食い破って本まで攻めてくるだろうし、無理難題な要を突き付けてきたりするだろう。抑止として戦艦必要不可欠だったのだ。
この意味で、二次大戦における戦艦本質戦術兵器ではなく戦略兵器であったと言える。

さて、ここまで読んで、現代にも戦艦と似たような兵器があることにお気づきになられただろうか。最強の攻撃をもち、その保有数が軍事、ひいてはのバロメーターであり、際的な発言を保障する兵器・・・。

そう、核兵器である。

今のところ、核兵器に代わる兵器は登場していない。当分の間、核兵器を陳腐化させ、時代遅れにせしめる兵器は現われないだろう。「いつかは登場するかもしれない。だが今日じゃない。」
2015年5月終戦70周年の節に行われた核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、全会一致が原則となっている最終文書の採択ができず、事実上なんの成果もあげられないまま閉幕した。原因を噛み砕いて言うと、核保有国がその特権を手放したがらないエゴイズムによるものという一尽きる核保有国にあらずんばにあらず。昔はそれが戦艦だったのだ。
(それでも空母等の割合をもっと増やすべきだったという意見もあるだろうが、それはどこまで行っても歴史俯瞰できる後世の人間による結果論に過ぎない)

何十年先か、何年先かは分からないが、核兵器にとって代わるもの、新しい概念が世に出たとき、々は未来人間達から笑われているだろう。「なぜ巨費を投じ環境汚染リスクまで犯して、核兵器なんて時代遅れなものに固執していたんだ?」と。そんなこと言われても当時の人間には他に選択肢などかったのである。

核兵器に代わる物を想像できる者だけが、当時の大艦巨砲主義を笑う資格を持つのである。

<陸奥>が簡単に沈むか!

あ?ああそうだな……いいだったよ

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参考文献

高知新聞平成17年11月22日

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