有村次左衛門とは幕末の薩摩藩士。桜田門外の変に関与した桜田十八士の一人である。
天保9年(1839年)12月28日、薩摩藩士・有村兼善の四男として生まれる。諱は兼清。兄に明治時代の官吏である有村俊斎(海江田信義)や、大老襲撃の同志となった有村雄助がいる。薬丸自顕流を学び、江戸では北辰一刀流を修めた。
安政の大獄に反発し、水戸藩士・金子孫二郎や高橋多一郎の井伊直弼暗殺計画に加わる。
薩摩藩内では精忠組と後に呼ばれる組織に属しており、大久保一蔵(利通)ら多数は脱藩を思い留まったが、次左衛門と兄の雄助が脱藩を強行。雄助は連絡役を務め、次左衛門は3月3日の襲撃に参加した。襲撃時、激闘で負傷しながら井伊の駕籠に刀を突き立て、駕籠から引きずり下ろして斬首。そのまま首を持ち去ったが、追ってきた彦根藩士・小河原秀之丞に後ろから斬りつけられ致命傷を負い、若年寄・遠藤胤統の屋敷近くで力尽き自刃。享年23。贈正5位。
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最終更新:2024/04/24(水) 11:00
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