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朝鮮戦争

朝鮮戦争とは、1950年朝鮮半島で起きた、韓国北朝鮮を当事とする戦争である。

概要

韓国では「韓国戦争」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれている。

1950年6月25日北朝鮮による軍事侵攻を契機に、1953年7月27日までの約3年間、朝鮮半島全土を戦火に巻き込み、朝鮮半島は荒した。

一方で敗戦後の日本が好気に沸き、復する大きな契機となった。

また、この頃では韓国では洋公主という従軍慰安婦が存在した。

戦記

前史

第二次世界大戦終結後、日本ポツダム宣言に従って朝鮮半島の統治権を放棄することになった。その後直ちに朝鮮準備委員会が発足し、9月には「朝鮮人民共和」として建宣言がなされたが、国連による信託統治を検討していた連合はこれを認めず、日本統治時代から界線だった北緯38度をに南をアメリカが、北をソ連が一時的に占領することになった。

南側の住民は信託統治に反発し、独立めてアメリカ軍に対しデモを行うなどして攻撃した。一方、北部を占領していたソ連は、金日成を中心とした抗日パルチザンを重用することで北部への影を強めていった。

ソ連アメリカの交渉は最終的に決裂し、アメリカは信託統治を断念し「もう南部だけでもいいから総選挙して独立すべし」とする李承晩らの手に権限を委ねることにした。これを受けてソ連も急ぎ建への準備を進め、その結果38度線をにし南部側では1948年8月15日李承晩率いる大韓民国(韓国)が成立、北部側では9月9日金日成が率いる朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立した。

開戦に至るまで

金日成は当初より侵略による統一を画策し、着々と準備を整えていったが、東側の盟スターリンは当初この動きを諫めていた。だが国民党に勝利した中国共産党毛沢東による順と大連の返還要請を受け、スターリンは代わりになる極東の根拠地を釜山といった良港を有する朝鮮半島めた。

1950年1月アメリカ務長官アチソンが「日本沖縄フィリピンアリューシャンへの軍事侵略に対し断固として反撃する」と演説。これに朝鮮半島が含まれていなかったことから金日成は自信を深めてしまい、2月には侵攻作戦の承諾をスターリンより得た。

スターリンがこういった場当たり的な対応を行っていたためにソ連軍は北朝鮮より撤退していたが、その際に金日成T-34/85戦車を始めとする十分な軍備を渡していた。またスターリン毛沢東は自内の朝鮮民族兵士を帰させ、それにより北朝鮮軍は実戦経験豊富な部隊を十分にえることができた。

一方、韓国軍はかつての日本軍将校を指揮官としていたが、末端兵士は実戦を経験しておらず、北朝鮮ゲリラの掃討に時間を割かれ訓練する時間も不足、人数も不足していた。更にアメリカは山岳地帯が多い朝鮮半島での戦車の運用を疑問視していたため韓国軍戦車の供与を受けておらず、対戦車装備も粗末なものだった。

ソウル陥落

1950年6月25日日曜日午前4時北朝鮮軍宣戦布告しで韓国撃を開始。ここに朝鮮戦争が勃発した。

事前に全ての準備を整えていた北朝鮮軍は直ちに侵攻を開始。同時にゲリラ部隊が工作船で後方に上陸し、韓国軍を速やかに分断した。韓国軍事前にこの動きを察知していたが、李承晩マッカーサーGHQが楽観視していたため、現場には情報が全く知らされていなかった。農繁期でもあり兵士は外出中のものが多く、また日曜日でもあり前日に盛りをしていた者も多かった。直ちに非常呼集が行われるも戦の逐次投入となる結果を招き、韓国軍の損が増大する結果となった。

北朝鮮軍T-34/85に対し、韓国軍が装備していた対戦車ロケットバズーカ」は威が不足しており、57mm対戦車では貫通できなかった。不利な状況で韓国軍は地形を利用しり強く戦ったが、最終的にソウル北方の議会府の防衛ライン北朝鮮戦車部隊に突破されてしまう。もはやソウルの陥落は時間の問題であり、開戦二日後の27日に李承晩ソウルを脱出した。

28日、韓国軍はここで致命的なミスを犯した。北朝鮮軍の進行を遅らせるため、ソウル内を流れる江に架かるを避難民ごと爆破し、多数の犠牲者を出した江人爆破事件を引き起こす。ソウル内で奮戦していた韓国軍部隊は取り残され総崩れなったほか、鉄道の破壊に失敗し戦車の渡河を許してしまう。

ソウルは陥落し、内に取り残された市民はその後北朝鮮軍虐殺された。

国連軍の苦戦

27日、国連安全保障理事会で北朝鮮への兵が決定される。ソ連は欠席していた。29日にはマッカーサー韓国を訪れる。マッカーサーアメリカに独断でB-29を出撃させ、更にアメリカ軍巡洋艦による艦砲射撃を行うも北朝鮮軍の勢いは止まらなかった。

7月3日、ついに江の防衛ラインが突破された。韓国軍は元より38度線付近に駐留していた部隊が一線級であり、後方部隊は装備も練度も二線級部隊であった。これ以降、一気に北朝鮮軍が南下する。

国連軍は韓国へ部隊を派遣したが、準備不足もであり北朝鮮軍に対し苦戦した。7月4日、先遣隊のスミス支隊は山で北朝鮮軍戦車と交戦するも、バズーカが役に立たず翌日には敗北。続けてアメリカ軍第24師団が交戦に入るも、軽戦車であるM24チャーフィーは中戦車T-34/85相手に劣勢を強いられる。指揮官であるディーン少将自らが新対戦車兵器スーパーバズーカ戦車を撃破するなど奮戦したが、北朝鮮軍が得意とする山岳機動により背後を急襲され、20日には交通の要所である大田を失陥してしまう。第24師団は壊滅し、ディーン少将はその後北朝鮮軍に捕らえられた。

結果、韓国軍国連軍は、釜山を中心とする狭い範囲にまで追いやられた。

釜山防衛戦

8月に入り韓国軍国連軍は後退。釜山の北と西を流れる河川東江を防御線とする防御戦闘を行った。あえて狭い範囲に戦を集中することで回を防げるほか、東江天然の要であり、さらに中から視認しやすい河川標とすることで効果的に航空支援を受けることができた。

ここへ北朝鮮軍が殺到、8月15日の解放記念日(日本アメリカに敗戦した日)までに朝鮮半島全に支配することを標とし猛攻を加えた。しかし補給線が伸びきっていたことに加え、制権と制権を全に国連軍に握られたことにより被が増大。飢餓状態に陥った北朝鮮軍は徴発を繰り返し、また韓国領内の住民を強制的に徴兵して戦に加え戦った。韓国軍も避難民学生までもかき集め兵員を補充、国連軍も釜山から続々と兵か上陸し熾な攻防が行われた。

結局、北朝鮮軍はこれ以上進軍することができずに兵の大半を消耗し、韓国の命は首の皮一枚で保たれた。だがあくまでも絶望的な状態を脱しただけのことであり、相変わらず狭い範囲に押し込められていることに変わりはなく、連合軍の厭戦感情と韓国軍の士気の低下が広がっていった。

クロマイト作戦

マッカーサーは開戦当初より揚陸による状況の打破を考えていたが、彼が最終的に上陸地点に選んだのはソウル西方にある仁(インチョン)であった。

は干満の差が非常にしく、遠浅の干潟地帯で、上陸するには巨大な防を乗り越えなければならないという常識的に考えれば揚陸に非常に不向きな場所だった。それに加えて機封鎖されやすい地形であり、おまけに潮の関係で作戦実行の日にちが簡単に推測できた。更に釜山方面に投入する兵を割かないといけないこともあり、アメリカ軍どの幹部が反対した。

これに対しマッカーサーは、「揚陸する条件が劣悪だが、逆に北朝鮮は仁から揚陸することを想定しておらず手薄である」「北朝鮮軍の補給路はソウルを経由しており、ソウル近郊の仁ならば速やかに補給線を断つことができる」とした。

北朝鮮軍がいないかどうかは、マッカーサーにとっても賭けであった。しかしになるとコメの収穫時期を迎えるため、このまま北朝鮮軍の占領を許すと食糧事情が一気に好転してしまうことから早急に状況を打開する手段がめられた。

こうしてコードネームクロマイト作戦が実行された。北朝鮮事前に仁へ上陸の動きがあることを察知していたが、数多くの陽動が行われたことでその情報を軽視してしまう。国連軍艦艇は日本を出撃、9月15日には国連軍はたいした抵抗もなく仁に多数の兵を揚陸することに成功した。

国連軍の反撃

に揚陸された戦車の中にはM26パーシングがおり、これは北朝鮮T-34/85では対抗が難しかった。ようやくまともな機甲戦が整い始めた国連軍とは裏に、補給が滞り北朝鮮軍の機甲戦は減少する一方だった。上陸部隊は9月28日までにソウルを奪還し、南にいる北朝鮮軍の補給路と退路を遮断した。

クロマイト作戦の成功を受け、翌16日釜山でもスレッジハンマー作戦が発動された。これまで防戦一方だった釜山の国連軍と韓国軍は反撃に転じ、21日には白善燁率いる韓国軍第1師団が包囲網を突破。ついに体限界を迎えた北朝鮮軍は崩壊した。

この時点での北朝鮮軍は半ば強制的に徴兵した韓国人であり、命令に背いたものは射殺することで軍規を保っていた。北朝鮮軍が潰走する中でこういった者たちは脱走。大きく勢を減じた北朝鮮軍は本土を北上したが、仁より南下してきた国連軍上陸部隊との挟撃に遭い撃滅されてしまう。

国連軍と韓国北上を続けた。こうして9月の終わりには戦線は38度線にまで回復。しかし、敗走した北朝鮮軍のうち、帰できなかった者たちは地元の共産主義者らと共にゲリラ戦を続け、後々まで韓国軍を悩ませることになる。

北進

10月1日李承晩国連軍との協定を一方的視。韓国軍が38度線を越え、北朝鮮内への侵攻を開始する。この日が韓国の建軍記念日となった。

韓国が独断で侵攻を開始したとはいえ、もはやアメリカを始めとする西側諸北朝鮮の存在を好ましく思ってはいなかった。10月7日には国連総会で北朝鮮を打倒する決議が採択され、既に進軍を命令されていた国連軍も同じ日に38度線を越えた。

北朝鮮軍韓国侵略に全を投入していたためを喪失しており、アメリカ本土からも到着し始めた国連軍をもはや押し留めることはできなかった。金日成は逃亡、20日には平壌が陥落し、国連軍と韓国軍は北進開始からわずかひ足らずで中である江付近にまで到達した。

中国義勇軍参戦

中国共産党毛沢東朝鮮戦争を憂慮していた。長引けば共内戦でようやく台湾へ追い出した蒋介石率いる国民党軍が韓国側で参戦する可性があり、そうなれば元の木弥である。毛沢東朝鮮戦争期決着を望み金日成への協を再三申し出たが、あくまで朝鮮民族の手による統一を望む金日成はその申し出を断った。

毛沢東は釜山で戦線が崩壊し、北朝鮮軍が38度以南より駆逐されると更に危機感を強めた。緩衝地帯である北朝鮮を失陥することは喉元にを突きつけられるようなものだからである。中国アメリカ側に国連軍が38度線を越えて侵攻すれば北朝鮮の側に立って参戦する(韓国軍のみならば容認する)と警告を発していたが、アメリカはこれをブラフであると軽視し北進を開始する。

中国ソ連支援めるも、アメリカと正面切って事を構えたくないスターリンは及びだった。ソ連抜きで世界最強アメリカに敵対することになると反対する共産党幹部らを毛沢東は説得し、表向きは金日成配下の志願兵ということにして万一の事態に備え、中国人民志願軍は10月19日を越え北朝鮮内へ進軍を開始した。

マッカーサーの誤算

10月25日韓国軍部隊が人民志願軍に遭遇する。中国人の大部隊が戦場に出現したことは直ちにマッカーサーへ伝えられたが、彼はこれを視し国連軍は北上を続けた。11月1日国連軍は予期しなかった人民志願軍に遭遇し敗北、一時後退するも人民志願軍はすぐに姿を消した。これを受けマッカーサーはここでも楽観視してしまい、人民志願軍の総数を実際の10分の1と過小評価してしまう。

11月24日国連軍と韓国軍の進軍が再度開始されるも、それは人民志願軍の巧妙なだった。装備で圧倒的に劣るが兵と戦略で優越した人民志願軍は、朝鮮半島北部の山岳地帯の地形をフル活用し待ち構えていた。25日、ぎりぎりまで敵の進軍を引き付けた人民志願軍は一斉攻撃を開始し、人海戦術っ先に韓国軍2軍団を撃破。そのまま国連軍の後方に回り込むことに成功し、国連軍は袋のになってしまう。29日には撤退命令が出されたが、既に前線は崩壊しており国連軍は犠牲を出しながら南へ敗走した。

緒戦の大敗で国連軍と韓国軍の士気はガタ落ちし、人民志願軍がかき鳴らす鑼やチャルメラを聞いただけで潰走するほどに軍紀が乱れた。これに人民志願軍は勢いづき、北朝鮮軍と共に12月5日には平壌を奪還。そのまま38度線を再度突破し、翌1951年1月4日にはソウルの奪還に成功した。

膠着へ

補給線が伸びきった人民志願軍の勢いは次第に落ち、戦線の南下は北緯37度付近で停止した。国連軍は人民志願軍の戦いを分析し、その強さは偽装を徹底し山岳を利用した回による奇襲攻撃と、「10本のを傷つけるよりも1本のを切り落とす方が効果的である」という毛沢東名言に示される包囲殲滅であることに気付いた。

これにより国連軍は、南北に伸びた朝鮮半島に対して東西間で部隊同士の連携を密にしゆっくり北上するよう戦術を変更。1月末ごろからじわじわと戦線を押し上げ、6月には戦線は38度線付近に到達する。

これ以降、戦争着状態に入った。国連軍側から見ると、人民志願軍と北朝鮮軍は強地を構築しており、国連軍はこれを容易には攻略することができず、また北朝鮮軍は失った兵をじわじわと回復していった。更にソ連による装備の支援もあり、上Mig-15が飛来するようになり以前のように一方的な制権を確保できる状況ではなくなっていた。

しかしそれは人民志願軍にとっても同じことであり、国連軍のようなや制権を持たない人民志願軍は、航空支援も得られず回もできず、もはや国連地へ人海戦術による正面攻撃しかできなかった。この単純な戦術は、ほんのわずかな成果と引き換えに損が凄まじく、割に合わない戦闘を極避けるようになっていく。

こうして、地を睨みあって行われる小競り合いが休戦まで続けられ、その時の戦線がそのまま現在軍事界線となった。

休戦

南北間で休戦協定の話し合いの場を持つようになり、交渉の末、1953年7月27日に休戦協定が締結され、現在もこの協定は有効な協定として継続されている。
なお、両間には講和条約は締結されていないため、際法上では「朝鮮戦争1953年の協定によって一時停止されただけで、戦争そのものはまだ続いている」とみなされている。
つまり、「その意思さえあれば、いつでも協定を破棄して戦争を再開できる」という事である。

その後

2010年11月23日北朝鮮韓国の延坪50弾を撃ちこみ、韓国が応戦した結果、韓国兵士2人と民間人2人が死亡兵士・住民20人が負傷する騒ぎになった。(韓国の応戦は80発)
また、6070屋がこの撃で炎上した。
北朝鮮弾によって、死傷者が出たのは朝鮮戦争以来始めてのことである。
詳しくは「延坪島事件」を参照のこと。

日本への影響

朝鮮戦争特需により、日本は好気となり敗戦後の復の大きな助けとなった。また国連軍として出動した駐日アメリカ軍の不在を補うべく、日本の再軍備が進められ自衛隊が発足した。

日本国連軍として朝鮮戦争に駆り出されたことはあまり知られていない。戦中、アメリカにより投下された機は戦後大きな問題となり、海上保安庁がこれの対処に当たったことで当時日本世界有数の掃実績を持っていた。これにを付けたGHQ令により海上保安庁の掃隊が朝鮮半島派遣され、機除去を行っている。触し沈没した掃海艇もあり殉職者も出たが、当時の情勢から戦死とすることもできずには事故死として処理された。
かしこうした日本人の犠牲に対し、李承晩は「今後朝鮮戦争日本が参加するとしたら、々は北朝鮮に向けている日本に向けて戦う」と感謝するどころか反日姿勢をむき出しにした演説を行った。

一方、日本共産党朝鮮戦争金日成による朝鮮半島解放戦争と位置づけ、北朝鮮支援するべく国連軍の後方基地がある日本国内で様々な破壊活動を行った。暴力革命し多数の負傷者を出した血のメーデー事件などがその一例である。結果民の支持を失い、1952年衆議院総選挙での共産党の議席全喪失に繋がった。

朝鮮戦争休戦60周年記念の式典

朝鮮戦争休戦60周年記念の式典において韓国政府は日本政府を招待しなかった。

第三次世界大戦への可能性

朝鮮半島中国人民解放軍の抵抗に苦戦したマッカーサー中国満州地区への空爆、そしてそれに乗じた台湾国民党政府の中国本土上陸作戦、さらには中国への原子爆弾の使用も検討していた。もちろんそれを行えば表面上は中立を守っていたソビエト連邦を刺ソビエト連邦宣戦布告、それによる第三次世界大戦も考えられた。(現にスターリン毛沢東中国本土へアメリカ軍が攻撃したらソ連中国側につき宣戦するという密約を結んでいる)

それに激怒したトルーマンマッカーサーを解任した事で中国本土への攻撃、さらには第三次世界大戦から世界は救われたのであった。

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