枢軸国単語

スウジクコク

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枢軸国(英:Axis Powers)とは、第二次世界大戦中に連合と戦ったの事である。

概要

ドイツを盟とした、第二次世界大戦営の一つ。日独の三が中心となり、ハンガリールーマニアブルガリアタイ王国、そのほか多数の傀儡政権が参加した。枢軸の由来は、1936年イタリア首相ムッソリーニが出した「ローマベルリンを結ぶ線は、協調と平和の意志を持つヨーロッパ々がその周りを回る事が出来る枢軸である」という明から。要するにローマベルリンの線を枢軸にヨーロッパが回るという意味である。

第二次世界大戦開戦劈頭はドイツと傀儡のスロバキアしかいない小さな営だったが、ポーランドデンマークノルウェーオランダルクセンブルクベルギーフランスユーゴスラビアギリシャを次々に粉砕。精強なドイツ軍おこぼれに預かろうとイタリアブルガリアハンガリールーマニアクロアチア独立国フィンランドなどが枢軸国に加わった。1941年12月8日真珠湾攻撃によって大日本帝國が、翌1942年1月にはタイ王国が枢軸国に加入。のちに自由インド仮政府ビルマ国中華民国南京国民政府も参加している。枢軸国vs連合戦争により欧州戦線、北アフリカ戦線東部戦線ビルマ戦線、中国戦線、太平洋戦線といった要戦線が世界中に構築され、地帯から砂漠に至るまであらゆる場所が戦場となった。イギリス自由フランスアメリカ中華民国オランダオーストラリアカナダ等からなる連合軍は1943年前半まで枢軸軍に大きく振り回され、少なくない損を出している。

しかし物量に勝る連合軍の反攻が始まると次第に劣勢となっていく。1938年の時点で枢軸国の人口は2億5890万人なのに対し、連合は(共産営のソ連を除いて)6億8970万人であり、植民地の広さも圧倒的に連合有利であった。このため長期戦になればなるほど差が顕著になってしまう。また欧州の枢軸国の燃料事情はかなり悪く、ルーマニアが保有するプロイェシュティ田に頼り切りという有り様だった。日本タラカンやバリクパパンといった東南アジア田地帯を確保していたが、本土や各基地に輸送するためのアメリカ軍潜水艦にやられ、十全に活かせていなかった。まず1943年9月日独伊三国軍事同盟の一イタリアが降し、枢軸側に留まったイタリア社会主義共和国連合側に寝返ったイタリアに分裂して内戦状態となる。更に1944年6月ソ連軍が大反攻作戦に転じて東部戦線が崩壊、戦況が挽回不能にまで陥ると東欧の枢軸国が次々に寝返り、極東方面においてもビルマ国が寝返った。そして1945年5月に枢軸の盟ドイツと、最後まで裏切らずに抵抗していたクロアチア独立国が降した事で、ヨーロッパから枢軸国が消滅。太平洋方面では大日本帝國自由インド仮政府タイ王国絶望的な抵抗を続けていたが、1945年8月日本が降タイ王国も降するとともに後ろを失った自由インド仮政府と南政府は崩壊し、極東方面の枢軸国も消滅。こうして第二次世界大戦は枢軸国の消滅という形で終結したのだった。

参戦こそしなかったが枢軸の立場を取った中立も存在し、スペインポルトガルヴィシーフランス等が該当する。先のスペイン内戦で独に助けられたスペインはその恩義から積極的に便宜を図り、基地の提供逃げ込んできたUボートFw200修理義勇軍の派遣等を実施。極東方面でもフィリピンスペイン会議(ファランジュ)に働きかけて日本軍フィリピン侵攻作戦や占領政策に協している。独政権のヴィシーフランスもまた物資や労働の供出といった様々な面で対独協を行った。同じファシスト政権であるポルトガル立った支援はしなかったものの、枢軸国が立させた傀儡政権の国家承認をしている。また強固に反対したにも関わらず連合植民地東ティモールを奪い取られた恨みから、のちに大日本帝國海軍が同に攻めてきた時は抵抗で明け渡した。

欧州戦線と太平洋戦線があまりに離れすぎていた事もあり、欧州方面と太平洋方面の枢軸国が協同軍事作戦を行ったケースい。ただ列強レベル海軍を持っていた日独は互いに艦艇を派遣し、インド洋を舞台通商破壊を実施して大戦果を挙げたり、封鎖突破による物資及び人員の交換を行うなど海軍に限れば協同軍事作戦を実現していた。日本側は神戸横浜、ペナンシンガポールを受け入れ港に定していたため横浜神戸の地にドイツの封鎖突破Uボートが訪れた事もあった。一応陸軍中東中央アジアドイツアフリカ軍団と合流する計画があったが、こちらは北アフリカ戦線の悪化で頓挫してしまっている。

結成までの経緯

日独伊の接近

始まりは第一次世界大戦後の1920年代初頭、世界大戦が終結した直後の混迷期にまで遡る。

イタリア総統ベニート・ムッソリーニは、対フランス戦略の一環で敗戦国となったドイツとの同盟を企図し、1923年より密かに武器の供給を始めてヴェルサイユ条約で大幅に弱体化したドイツ防軍を支援し始めた。ドイツ側としてもフランス復讐したいが武器がとても足りなかったため、イタリア武器供給はとてもありがたいものだった。この頃から既に独の協関係が始まっていたと言える。イタリアヴェルサイユ条約が切れる1935年フランスに対する決戦の年と定め、それまでにドイツを鍛え上げたかったが、1929年9月に発生した世界恐慌によって全てが混沌を極める事に。全世界へ不気の波が押し寄せ、多くの銀行倒産するなど経済はメチャクチャとなり、内は失業者で溢れかえった。

先の大戦で敗戦国になった、特にドイツ世界恐慌の余波をモロに受け、巨額の赤字を抱えて経済が破綻、実に3人に1人が失業者という一縷のい暗期と化した。そのドイツから賠償を取っていたイギリスフランスも一緒に経済が壊れた。戦勝だったが植民地の少ないイタリアもまた不況に耐えられず経済破綻。同じく戦勝日本中国大陸にこそ進出していたが、昭和恐慌と呼称される経済不況のあおりを受け、農不況が慢性化。世界中に植民地を持つ「持てるアメリカイギリスフランスブロック経済を構築し、他を排他的に扱う事で自経済を守り抜いた。しかし日独のように植民地に乏しい「持たざる」は大不況に立ち向かえるだけのかった。このため武で諸外を侵攻し、強引に原料や資材を手に入れようとした。これらの行為を行った日本ドイツイタリア社会の非難を浴びて国際連盟から離脱。孤立した三は次第に緊密な関係となっていき枢軸国の子が作られた。

また、1933年に政権を取った国家社会主義ドイツ労働者党(以下NSDAP)のアドルフ・ヒトラー首相は最初こそイタリアとの同盟を望んでムッソリーニとの良好な関係を築いていたが、オーストリアを併合したいドイツとそれに反対するイタリアとの間で意見が対立。1934年6月ヴェネツィアで会談を開くも友好的には進まず、妥協めるヒトラーの要請をムッソリーニは断固拒否。オーストリアを併合しようとドイツ7月25日首相ドルフースを暗殺した結果、オーストリア独立を尊重したいイタリアを怒らせ、速やかに航空隊と陸軍師団を境線沿いのブレンナー派遣。一時は独との間で戦争が起こるとさえ言われたが、1935年に行ったイタリアエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)をヒトラー一支持した事で何とか回復した。

1935年大島外交官がベルリンにてヨアヒム・フォン・リッペントロップ外相と会談。その時に大島側から対ソ連を見据えた日独同盟の締結を持ち掛けて交渉に入った。ドイツを規範としてきた日本陸軍や一部の国家主義者は概ね支持した一方、イギリスを規範とした日本海軍は全面的に反対、政府としてもイギリスとの関係悪化に繋がるとして反対を掲げた。ドイツでも意見が分かれ、NSDAP上層部は歓迎したが、中国と敵対する日本との同盟は外務省陸軍経済界が反対している。この日独同盟の話はイタリアにも届いた。日英は長期的な緊密関係にあり、同盟に加わる事でイギリスに圧をかけられ、地中海での優勢を獲得できるとして密かに関心を寄せていたのである。1936年、ガレアッツォ・チアーノ外相は駐イタリア日本大使に「対ソ連で日独が合意に至ったので、その同盟にイタリアを加えるのが自然だと思う」と加盟を提案したが、日本側の対応は否定的だった。というのもイタリアエチオピア侵攻の際、日本エチオピア側を応援しており、またイタリアと同盟を組めばイギリスとの関係悪化は免れないなど懸念材料が多くあったのだ。にも関わらずイタリア日本に対して友好的なアプローチを続けた。

1936年7月17日スペインにてフランシスコ・フラン総統率いる反乱軍()が共和政府に挙兵してスペイン内戦が勃発。反乱軍電撃作戦による短期決戦したが政府軍の反撃で失敗、窮地に立たされたフラン総統は独に救援をめ、快諾した両国から義勇軍が派遣された。第二次世界大戦の前戦とも呼ばれるスペイン内戦は新兵器実験兵士の訓練に最適であり、ここぞとばかりにドイツ軍は数々の兵器を投入してメキメキと練度を高めた。スペインではドイツイタリアの艦艇が一緒に行動し、ナポリ海軍基地をドイツ海軍に貸し出すなど協同で軍事作戦を展開、その甲斐あって11月1日に独軍事同盟締結に至る。ムッソリーニ総統ミラノでの演説ローマベルリンを結ぶ線は世界を回す枢軸だと強調した。続く11月25日日独防共協定反共義・対ソ連想定の盟約)が締結。これまでにないほどの強い結びつきを得た。

スペイン内戦が続く1937年8月13日第二次上海事変が勃発。これがきっかけで大日本帝國中華民国事実上の戦争状態に入り、中国大陸への侵攻を開始した事で社会から非難を浴びた。この際、イタリア日本をかばった事でようやく対感情が良好となり、不可侵条約や中立条約の締結を提案。11月6日日独防共協定イタリアも加入して三枢軸体制が成立した。

ドイツは第一次大戦で不当に奪われた領土を奪還するべく、民族義を掲げて周辺を併合し始めた。手始めに1938年3月12日ヒトラー総統の悲願だったオーストリアを併合(アンシュルスとも呼ばれる)。次にチェコスロバキアズデーテン地方を向け、一時は戦争に発展しかけた事からズデーテン危機と言われたが、総統の巧みな政治手腕と世界大戦の再来を恐れる英の弱姿勢により孤立援となったチェコスロバキア政府は膝を折り、10月10日ズデーテン地方ドイツに割譲された。1939年3月15日にはチェコスロバキアそのものを併合。3月22日リトアニアから西部の港湾都市メーメル返還の打診を受けて併合し、東部領土の大半を奪還する事に成功した。これらの併合はずくではなく、事前に行った投票の結果だったので、進出してきたドイツ軍は歓呼ので迎えられた。だが、ドイツは破綻確定の謀な経済政策を将来の戦争を前提に推し進め、一方で民には危機的財政を隠蔽した挙げ句に虚偽回復を演出・喧伝し人心を握。暴走を始めていく。

1939年4月1日スペイン内戦は独支援した勝利に終わり、重な戦闘データとともに軍が凱旋帰。政権をフラン総統が握った事でスペインは独に恩返しとして様々な便宜を図ってくれるようになった。急速に勢を拡大するドイツに倣い、イタリア4月7日アルバニア王国へ侵攻。全土を占領して傀儡政権を打ち立てた。5月22日、独鋼同盟を締結して枢軸同盟を正式なものにする。一方、イギリスフランス平和を維持するためチェコスロバキアを生け贄にしたり、ヒトラー総統な要を受け入れるという弱姿勢を続けており、内に存在する平和団体のもあって独の跳躍を押し留める事が出来ずを咥えて見ているだけだった。そしてこの過ちこそが二度世界大戦を招く事になってしまう。

第二次世界大戦前夜

1938年10月ヒトラー総統は隣ポーランドに対し、ヴェルサイユ条約で割譲したダンツィヒ(現グダニスク)の返還を要する。ダンツィヒドイツにとって本飛び地の東プロイセンを陸続きに繋げる上で必須な土地の上、同地の割譲は忌々しきヴェルサイユ条約の徴とも呼べるものだったため、是が非でも奪還しておきたかったのである。

1939年3月21日に二度の割譲要を行ったが、5月ポーランド外相が国会でこれを拒否する演説を実施。内陸国ポーランドにとってダンツィヒ一の港であり益の面でも返還には応じられなかった。交渉決裂。ここに至りドイツポーランド侵攻作戦を企図し、8月26日を攻撃予定日としていたが、ポーランド側も英と同盟を組む事でドイツに対抗。イギリスから睨まれたドイツはやむなく攻撃を延期、イギリスの態度が変わるまで待ち続けた。しかしいつまで経っても変わらなかったため遂に侵攻に踏み切った。

1939年9月1日ドイツポーランドに対して宣戦布告。先を切ったスツーカによる急降下爆撃を号として侵攻作戦が開始された。二週間前にポーランドと同盟を組んでいたイギリスフランス9月3日ドイツ宣戦布告、こうして人類史上最大の戦い、第二次世界大戦が幕を開ける。

電撃戦・破竹の快進撃

1939年

当時イタリアとは同盟関係にはあったが参戦しておらず、枢軸国はドイツとその下にあったスロバキアのみであった。

ドイツ軍世界最強陸軍近代兵器を保有しており、昔ながらの騎兵突撃が体のポーランド軍を容易に粉砕。中においてもドイツ空軍機は無敵を誇り、開戦から数日でドイツ空軍に制権を奪われ、至る所でスツーカ急降下爆撃を仕掛けてポーランド軍を痛めつけた。この時、ドイツ軍の機甲戦のうち80ポーランド侵攻に投じられており、もし英連合軍がその隙を突いてドイツを攻撃していれば戦争は短期間で終わっていた。しかし英は最大の好機を活かさず、傍観者し、チェコスロバキアのようにポーランドも見捨ててしまった。ドイツ事前ソ連と不可侵条約を結び、モトロフ・リッベントロップ協定を締結。密かに独ソでポーランドを仲良く半分こする事を決めていた。

9月17日、協定に呼応してソ連軍もまたポーランド東部への侵攻を開始。大に挟撃されたポーランドは死の淵に立たされ、勇戦むなしく9月27日首都ルシャワを失陥。政府ルーマニア亡命して降に至った。続く10月7日ポーランド全土はドイツ軍ソ連軍に占領されてしまった。ポーランドの降後、ドイツは敵対になった英と睨み合いとなるが、大きな戦いは生起しなかった。英連合軍は開戦後においても第一次世界大戦のような大戦争再来を恐れており、積極的な攻勢に出られなかったとされる。あまりにも戦闘が起きないので、いつしか「まやかし戦争」と呼ばれるようになった。

一方、北大西洋や北海といったでの戦いは熾だった。イギリスなので植民地から資を送るには輸送が必要なのだが、その輸送ドイツ海軍Uボートが襲撃し、片端から沈めていった。第一次世界大戦ではUボートによる通商破壊イギリスを締め上げる効果を発揮したため、今次大戦においても実践しようとした訳である。当初は連合軍も護衛に注しておらず被害が増大。加えてドイツ海軍駆逐艦17隻を使ってテムズに磁気機を敷設(西の壁作戦)。イギリス軍に掃の術はく、商67隻、駆逐艦3隻、補助巡洋艦6隻が撃沈された。余談だが11月21日ロンドンに向かっていた日本郵船の照丸がハーウィッチ港外で触して沈没。当時まだ日本は参戦しておらず、中立の扱いだった。抗議する日本政府に対し、独英は互いに責任を押し付けあった。ちなみに乗客と乗員は全員助かっており、鉄道ロンドンに送られた。

ヒトラー総統は英との和を望んでおり、ポーランド攻略後に和交渉を持ちかけたが、蹴られている。

イギリス海軍の一大拠点スカパ・フローに潜入したU-47が停泊中の英戦艦ロイヤルオークを撃沈したり、北海で独巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウが英特設巡洋艦ラワルピンディを撃沈するなど、兵差を覆してドイツ海軍は暴れまわったが、イギリス海軍も装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペー南米まで追い詰めて自沈させており、やり返している。

枢軸国ぞくぞく参戦

1940年

1940年2月16日中立ノルウェーの領を航行していた独補給艦アルトマルクが英駆逐艦コサックの襲撃を受け、輸送中の捕虜を奪還される事件が起きる(アルトマルク号事件)。これに激怒したヒトラー総統ノルウェーデンマークを保護下に置く事に決め、ヴェーゼル演習作戦5時間で練らせた。対するイギリススウェーデンから輸出されるドイツ行きの鉱石を遮断するためノルウェー進駐を企図し、本艦隊が出撃。ところが、僅かの差でドイツが先に動いた。

4月9日ドイツの陸海軍ノルウェーデンマーク電撃的侵攻を開始。デンマークは僅か6時間で降した。ノルウェー軍は(ドイツと同じ進駐的で近くにいた)イギリス軍に助め、連合軍の強な加勢を受けてドイツ軍を迎え撃つ。首都オスロはドイツに近かったため々に陥落し、王室はイギリス亡命。一方で北部の要港ナルヴィクでは一度占領に成功したドイツ軍を倒して奪還に成功、しい反撃でK級巡洋艦2隻、重巡洋艦ブリュッヒャー、駆逐艦10隻を撃沈するなどドイツ海軍を大いに苦しめた。

ノルウェー軍がまだ戦っている5月10日ドイツ軍は突如フランス本土への侵攻を開始。オランダベルギー、ルクセブルグを降させ、進軍路を確保すると側面からフランス軍に襲い掛かった。第一次世界大戦ダメージから立ち直っていないフランス軍は連戦連敗し、各地で壊走していった。フランス侵攻により英連合軍はノルウェーに構ってられなくなり、アルファベット作戦を発動して足に撤退。見捨てられる形となったノルウェー軍は6月9日に降した。更に6月10日、勝ちに乗りたいイタリアと傀儡アルバニアが枢軸国側に参戦し、英宣戦布告イタリア軍は南フランスに侵攻するとともに地中海に浮かぶ英領マルタ襲した。準備不足の中で強引に参戦したため逆にやられかけたのは内緒。追い詰められたイギリス軍はフランスを見捨てて本へ退却を開始、フランス政府中立アメリカに救援をめたが、応援メッセージが返ってくるだけで何もしてくれなかった。6月22日パリを占領されたフランスは独と休戦条約を結び、連合軍から脱落。残余の連合軍は北部の都市ダンケルクから脱出し、西ヨーロッパから全に追い出されてしまった。

フランスでは後継政権として反共ヴィシー・フランス立。アメリカソ連から国家承認を受けて正統なとなった。そんな中、フランス海軍の艦艇は本の降に伴って海外領土に脱出。地中海の入り口に位置しているメルセルビールには多くのフランス艦艇が身を寄せていたが、これを脅威と捉えたイギリス海軍が攻撃を敢行(メルセルケビール海戦)し、在泊艦艇に大打撃を与える。かつての仲間を向けるイギリス傲慢な振る舞いに激怒したヴィシー・フランスは断交を発表、英の関係に裂が入った。

開戦から1年も経たないうちにポーランドデンマークノルウェーオランダベルギールクセンブルクフランスを軍門に下らせたドイツ軍の精強さは全世界に知れ渡った。ドイツ軍の勢いに乗っかって自の利益や領土を増加させようとするが現れ始め、ドイツに急接近していく。

フランスの沿まで勢圏に収めたドイツ軍は、ブレストロリアンボルドーといった有な軍港を接収し、Uボートの基地として活用。わざわざドイツに帰投する必要がくなり、燃料の節約や戦果の拡充に大いに役立った。この頃はまだイギリス海軍も護衛に関心であり、「第一の黄金期」と称されるほどの大戦果をUボートにもたらした。ただフランスの軍港はイギリスの眼前に位置しているため、しい爆撃を受ける羽になり、トート機関Uボートを保護するためのブンカー建設に着手している。

ここでもヒトラー総統イギリスに和交渉を持ちかけ、「フランスからの撤兵」という勝利にするような破格の条件まで盛り込んでいたが、願い虚しくイギリスに蹴られ、戦争終結のチャンスは失われた。

7月10日よりイギリスへの襲を開始する(バトルオブブリテン)。ドーバーポートランドホーンチャーチなどに襲を加えたが、イギリス空軍ベルリン襲して反撃。ゆくゆくはイギリスに上陸する予定だったが、イギリス空軍抵抗を受けて多くの爆撃機が撃墜された。元気に反撃してくるイギリス軍に手を焼くヒトラー総統は、イタリアに北アフリカイギリス軍を攻撃して後方かく乱するよう要請。9月9日イタリアリビアから英領エジプトして進軍を開始。北アフリカ戦線が構築された。しかしイタリア軍は弱く、潤沢な物資を持つイギリス軍に腹筋ボコボコパンチ喰らって逆にリビアを奪われかけた。イタリア軍が期待通りの活躍をしなかったのと、イギリス軍の抵抗が強すぎたため10月12日イギリス本土上陸は期限延期となった。10月28日にはイタリア軍北アフリカ戦線放り出してギリシャへ侵攻。しかしここでもイタリア軍敗北し、アドリア海に突き落とされそうになる。仕方なくドイツ軍イタリア軍の援護に回り、12月20日にシチリへ進出。

少しさかのぼること9月27日日独伊三国軍事同盟が締結。日本が正式に同盟となった事で、ドイツ日本と敵対する中華民国を貸していたファルケンハウゼン軍事顧問団を撤収させた。11月20日にはハンガリーが参加し、続いてルーマニアスロバキアが参加。徐々に勢を拡大していく。同盟になったとはいえ日本はまだ第二次世界大戦に参戦していない中立であり、独に対する援助は限定的だった。ヨーロッパでは手に入りにくい希少資めて独から封鎖突破が送られ、日本側は神戸大阪を受け入れ港にして貨物の積載を手伝った。

1941年

1941年3月1日、日独軍事同盟にブルガリアが参加。ドイツの圧により3月26日ユーゴスラビアが参加したが、反枢軸のセルビア人が軍事クーデターを起こして政権が転覆。これに激怒したヒトラー総統ユーゴスラビア侵攻を命じ、4月6日ドイツハンガリールーマニアブルガリアギリシャユーゴスラビアへの攻撃を開始した。ユーゴスラビア軍は粉砕され、く間に降4月10日にザグレブで独の傀儡クロアチア独立国が誕生し、続いてモンテネグロセルビア政府立された。4月27日にはドイツ軍アテネへ入し、ギリシャも降。傀儡のギリシャ国立された。ギリシャ政府や王クレタ島へ逃亡。

5月20日地中海に浮かぶ英領クレタ島挺降下。イギリスオーストラリアニュージーランドギリシャからなる連合軍とドイツ軍が交戦した。イギリス地中海艦隊は優勢な艦隊を派遣したが、ドイツ空軍の猛攻により軽巡洋艦1隻と駆逐艦3隻を喪失。クレタ島連合軍も撃破され、脱出できなかった者は山中ゲリラをする羽になる。6月15日クロアチア独立国が日独軍事同盟に参加し、枢軸国に加わる。

6月22日、独ソの境線に集結したドイツ陸軍300万が突如として越境。不可侵条約を破ってソ連への侵攻を開始した(独ソ戦)。ドイツは最大の物資・燃料資輸入元であったはずのソ連に対して宣戦布告し、全世界を驚かせた。独ソ戦の勃発に伴って東欧の枢軸国も次々に宣戦布告し、第二次世界大戦最大の地上戦が幕を開けた。冬戦争ソ連によって不当に領土を奪われたフィンランドも参戦し、スカンジナビア半島からドイツ軍とともに侵攻を開始。フィンランドドイツと同盟を結んでおらず、「これは冬戦争継続であり、ナチスドイツとは関係」と発表したが、連合からは無慈悲の枢軸国判定を受けた。当時のソ連軍は独裁者スターリンによって実施された大粛清で、大幅に弱体化していた。加えて不可侵条約締結かつ燃料の生命線たる自ドイツが攻めるはずはないと油断していたため、精強なドイツ軍麗な電撃戦によって、ソ連軍は大敗北。開戦劈頭に数万の捕虜を出す結果となった。8月初旬にドイツ軍はスモレンスクを占領。9月レニングラード包囲網完成し、ドイツ軍ルーマニア軍によってキエフを占領。11月にはドン沿いのロストフを占領し、首都モスクワに迫った。しかし例年より冬将軍の到来によりドイツ軍の進軍が停止。更にモスクワからの反撃を受け、12月6日に撤退を強いられた。

時の大統領ルーズベルト欧州戦線に参戦しない事を約に掲げて当選したため、アメリカ中立の立場を取り続けていたが、その裏では露なまでにイギリスを援助。大西洋に海軍の艦艇を派遣し、Uボートを見つけるとイギリス海軍通報したり、攻撃を仕掛けるなど中立とは名ばかりの国際法違反を繰り返した。もしドイツ側が反撃してきたらそれを口実に参戦しようとしていた訳なのだが、対するドイツ側は冷静に対処。度重なる挑発にも関わらずヒトラー総統アメリカ艦艇への攻撃を禁じていた。それでも現場ではアメリカの蛮行に怒りを募らせており、9月4日U-652駆逐艦グリアに撃したグリア号事件が発生。この時は双方被害かったが、続く10月17日カーニー号事件ではU-568が駆逐艦カーニーを撃して大破させ、10月31日にU-552によってとうとうルーベンジェームズが撃沈された。ルーズベルト大統領速反独の材料にしてラジオ演説を行ったが、思いのほか民が冷静だったため開戦には至らなかった。この時点で独は既に宣戦布告戦争状態に入っており、開戦は時間の問題だった。ヒトラー総統もかなり頭に来ていたようで、後の対宣戦布告の理由にカーニー号事件を挙げている。

そして12月8日大日本帝國真珠湾攻撃を敢行。アメリカイギリスオーストラリアオランダ宣戦布告して大東亜戦争が始まった。これにより日本が枢軸国として、アメリカ連合として参戦し、名実ともに世界規模の大戦争となった。日本東南アジアの資地帯の確保・大東亜共栄圏を掲げ、開戦と同時にマレー半島フィリピンに上陸。現地植民地軍と交戦状態に入った。その日本軍事同盟を結んでいたドイツイタリア12月11日アメリカ宣戦布告し、ハンガリーブルガリアルーマニアクロアチア独立国も同様に宣戦布告した。

(日本)陸海軍ウェーク島グアムマキン、タラワ香港電撃的に占領。12月10日にはマレー沖海戦イギリス東洋艦隊の新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズレパルスを撃沈し、南方の制権を一気に奪取する。12月21日、日泰攻守同盟締結によりタイ王国が枢軸国として参戦。さらにアメリカ西海に9隻の潜水艦が出現し、市民が見ている中で堂々とタンカーを撃沈。5隻撃沈、5隻撃破の戦果を挙げて凱旋帰した。

1942年

1942年1月8日英軍がタイ内を攻撃し始めたため、1月25日タイ英に宣戦布告した。ドイツもまた対戦を開始し、パウケンシュラーク作戦を展開。同中旬にUボート5隻がアメリカ東海メキシコ湾に出現して大暴れ。17隻(13万4000トン)の連合軍商を沈めた。

海軍は破の快進撃を見せ、東南アジア連合軍を次々に撃破。まず1月2日フィリピン首都ニラを占領。1月23日にはラバウルカビエンを占領し、資地帯を防衛する門を獲得した。2月15日、東洋のジブラルタルと呼ばれたイギリス軍のシンガポール要塞を攻略し、約13万名の英印兵を捕虜にした。この大敗はウィストンチャーチル首相に「イギリス史上最悪の敗北」と言わしめた。3月9日オランダ軍の中枢であるジャワ島旗を揚げ、東南アジア連合軍はコレヒドール要塞とバター半島抵抗する軍を除いて駆逐された。資地帯を手中に収めた日本は奪還に現れるであろう英東洋艦隊を撃滅すべく、4月上旬にインド洋へ南雲機動部隊派遣セイロン沖海戦で英東洋艦隊を半壊させ、南アフリカへと後退。イギリス軍は戦争末期になるまで本格的な反攻に出られなくなった。この結果は北アフリカ戦線にも少なからずを与えたようである。決死の抵抗を続けていた軍も5月に降し、東南アジアインド洋は日本の勢下に収まった。

5月7日、ポートモレスビーの攻略帝國海軍と、それを阻止しようとするアメリカ海軍珊瑚にて突。人類史上初の空母空母戦が生起した。日本側は小空母祥鳳を失ったが、空母レキシントンを討ち取った。だが本命のポートモレスビー攻略は中止となり、快進撃を止められた。

連合国の反攻

1942年6月5日に生起したミッドウェー海戦により、帝國海軍は敵空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈したが、空母4隻と重巡1隻を失う。また体勢を立て直した連合軍の反攻は、日本の見立てよりかった。8月7日、飛行場を建設していたガダルカナル島アメリカ軍が大挙襲来。を巡って熾な争奪戦が始まった。第一次ソロモン海戦では日本側が勝、4隻の連合重巡を撃沈したが、第二次ソロモン海戦は痛み分け、第三次ソロモン海戦ではアメリカ軍の高級将校2名を戦死させるも戦艦比叡霧島を失う被害を受け、両軍とも多くの艦艇がの底に沈んだ。に劣る日本は増大する損を補填できず、潤沢な連合軍を相手に押されるようになる。9月伊25潜によるアメリカ本土爆撃が行われ、損は軽微だったが戦争アメリカ爆撃したケースとなった。

一方、欧州戦線もターニングポイントを迎えていた。10月23日エジプトエルアライメンでの戦闘で独軍が敗北。これを機に独軍の崩壊が始まり、北アフリカ戦線導権をイギリス軍に握られる。トドメとなったのが、11月8日英軍が行ったヴィシーフランスモロッコアルジェリア、オランへの侵攻であった。エジプト方面から迫るイギリス軍とアルジェリア方面から迫る連合軍に挟撃され、北アフリカの独軍は窮地に陥った。あっけなく降したヴィシーフランスを制裁するため、本の独軍は南フランスを占領し、全土を支配下に置いた。

独ソ戦ではドイツ軍がコーカサスの地に進撃し、スターリングラードの包囲を始めていた。だがソビエトの物量と土の広大さ・寒さ・そして地形や厳しいインフラ事情に苦戦。それでも包囲網完成させ、一時はソ連軍を撃破してスターリングラードを占領したが…。12月、後方地域に集結していたソ連の大軍が一気に反撃を開始し、ルーマニア軍やハンガリー軍を撃破。内にいるドイツ軍の退路を断ち、窮地に陥れた。かくして枢軸国の鮮やかなまでの快進撃は鳴りを潜め、失速していく。

1943年

1943年1月30日スターリングラードに取り残されたドイツ軍の将兵約30万がソ連軍に投降して独ソ戦の転換点を迎えた。太平洋戦線でも多くの駆逐艦兵士を失い、ガダルカナル島争奪戦に敗れた日本三度に渡る撤退作戦を決行。レンネル戦の勝利によりアメリカ艦隊の北上阻止した事で想定以下の損で撤退に成功し、2月7日了。防衛線をコロンバンガラまで下げた。この1943年から枢軸国側が押されるようになる。

スターリングラード攻防戦での敗退以来、独ソ両軍で消耗戦が始まる。この頃に至り、ソ連軍は大粛清ドイツからの不意打ち宣戦の衝撃から全に立ち直り、前線から離れた安全地帯であるウラル山脈へ疎開させていた工業が発揮され始め、加えてイランに進駐したイギリスアメリカから大量の武器弾薬の供給(レンリース)を受けたことで、歩兵はもちろん、戦車を中心とする機甲師団も充実していった。戦争初期には弱体であったソ連軍は文字通り覚醒し、質・量共に世界最強の戦へと化けていった。

5月13日チュニジアで最後の抵抗をしていた独軍が降し、北アフリカ戦線終結。眼前に敵が迫ったイタリアは本土防衛戦の準備を始めるが、民の間では厭戦気分が広がっていた。7月10日イタリア領シチリ連合軍が上陸。8月中旬までに守備隊を撃破し、シチリを足がかりにしてイタリア本土への攻撃準備を始めた。イタリアではクーデターが発生し、ムッソリーニ総統が政界追放及び逮捕される。後釜に座ったバドリオ政権が連合軍と休戦条約を結び、9月8日無条件。ついに枢軸国の一が脱落し、ナポリ近郊のサレルノに連合軍が上陸した。イタリアの降と同時にドイツ軍が動き出し、速に北中部を占領。要な工業地帯を手中に収めた。さらに閉されていたムッソリーニ総統コマンド部隊を送って救い出し、サロの町に首都を置いたイタリア社会主義共和国立。脱落したイタリアに代わって日独同盟に加わり、連合に下った南イタリア戦争する内戦状態になった。

太平洋戦線では日本支援によって、8月1日ビルマ国独立を宣言。即日英に宣戦布告した。10月21日、同じく日本支援スバス・チャンドラ・ボース率いる自由インド仮政府立。24日に英に宣戦布告し、インドしてビルマ国ラングーンに進駐した。11月中部太平洋連合軍が反攻に転じ、11月23日ギルバートマキンとタラワを失陥。伊175撃で護衛空母リスカム・ベイを撃沈するも、焼け石にだった。

1944年

1944年1月マーシャル諸島に来襲したアメリカ軍によりクェゼリン、ルオット、ヤルートを失陥。2月17日と18日に行われたトラック大空襲により南東方面の補給基地だったトラックが機を失い、3月30日パラオ大空襲でパラオも機を喪失。帝國海軍の拠点は東南アジアにまで後退した。その東南アジアにも潜水艦が侵入してきており、決して安全な場所ではなかった。

6月4日ローマ連合軍に奪取される。ここを足がかりに、ドイツ東部への爆撃を開始。6月6日にはフランス北方ノルマンディーに連合軍が上陸。後方地域だったフランスに第二線が構築され、本格的な大規模反攻作戦が始まった。6月22日ベラルーシ方面でソ連軍がバグラチオン作戦を開始。一気に攻勢へと転じた。中央軍集団が半壊し、東部戦線の崩壊が始まった。ついにドイツは東と西と南から同時に攻められる事になり、7月25日連合軍はノルマンディーを突破。パリへ向けて東進する。

太平洋戦線でも6月19日マリアナ沖海戦が生起。情報戦では制していたが、敵の圧倒的な戦を前に帝國海軍は虎の子の大空母3隻と400機以上の航空機、700名の搭乗員を失う大敗を喫し、7月7日絶対国防圏の要だったサイパンを失陥。アメリカ軍に本土襲の足がかりを明け渡した。本土に迫り来る連合軍を迎撃すべく、日本沖縄硫黄島の防御を固め始めた。

ソ連軍の矢面に立たされる事になった東欧では、降寝返りが相次いだ。8月23日ルーマニアクーデターが発生し、イオンアンネス首相が失脚。新政府連合に降し、枢軸国から脱落。ドイツ宣戦布告した。それから間もない26日、パリが奪還されドイツ傀儡のヴィシー政権が崩壊。フランス本土は連合側の自由フランスのものとなった。8月30日ドイツ軍ブルガリアから撤退。9月2日ブルガリア中立化したが、構う事ソ連軍が侵攻。共産主義者によるクーデターによって対独宣戦布告する。ソ連軍と寝返ったルーマニア軍に襲われるハンガリーソ連と休戦しようとしたがドイツ軍クーデター(パンツァーファウスト作戦)が入り、摂政ホルティを解任。独組織である矢十字党とその導者サーラシが新政権を立してドイツとの共闘を続けた。9月10日、追い詰められたフィンランドソ連と休戦。内のドイツ軍を追い出し始めた(ラップランド戦争)。ただドイツフィンランド軍の官はあらかじめ撤退の協議を行っており、戦うふりをしながらスムーズノルウェーへと退いていった。10月14日イギリス軍によってギリシャ国が降連合側となった。

ソ連軍の勢いは凄まじく、ついに東プロイセンに到達。同地のドイツ民はパニックに陥り、先に本へ脱出しようとした。ドイツ海軍カール・デーニッツ元帥は生き残っていた戦闘艦から漁まで動員し、難民を救出を試みた(ハンニバル作戦)。輸送民間人を運搬し、リュッツォウやアドミラル・ヒッパーといった戦闘艦が迫り来るソ連軍を撃して時間稼ぎに当たった。このハンニバル作戦終戦まで続けられた。

地球の反対側では10月20日アメリカ軍フィリピンレイテ湾スルアンに上陸。残存艦艇をかき集めてアメリカ軍に一大決戦を挑み、10月24日レイテ沖海戦が生起。護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦3隻を撃沈したが、航空機の援護が一切かったため戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦9隻、駆逐艦8隻、潜水艦6隻を喪失。これにより帝國海軍事実上壊滅し、散発的な抵抗しか出来なくなる。それでもフィリピンの防衛的とした輸送部隊をオルモック湾へと送り続けた(多号作戦)。何回か成功し、駆逐艦が敵駆逐艦クーパーを撃沈する戦果もあったが、どが失敗に終わり、多数の駆逐艦輸送艦を失って頓挫した。レイに上陸したアメリカ軍はじわじわと版図を広げ、日本軍の重要拠点であるマニラを狙って進軍を続けた。レイテの敗北により本土と南方の資地帯は遮断され、補給路は途絶えた。12月26日、ミンドロサンホセに築かれた物資集積所を帝國海軍の挺身隊が撃。駆逐艦1隻を失うも輸送艦4隻を沈めた(礼号作戦)。これが事実上最後の日本勝利だった。また12月から回天攻撃が開始され、伊47補給艦ミシシネワを撃沈している。

12月16日ドイツ軍アルンヌで反攻開始(バルジの戦い)。しかし24日に攻勢が停止し、翌25日より連合軍の反撃が始まる。同日中モスクワ立したハンガリー臨時政府が対独宣戦布告

敗戦

1945年は枢軸国にとって終末の年と言えた。アメリカイギリスの圧で、中立を保っていた々が一斉に日独への宣戦布告を始めた。その様相は全世界を敵に回しているかのようだった。

1月12日ソ連軍が更なる攻勢に転じてワルシャワとクラクフを奪取。2月13日ハンガリー首都ブタペストを占領し、ドイツ軍と対独協者のハンガリー人を追放。ハンガリーも脱落したが、矢十字党の残党がドイツ軍とともに西方へ脱出し、抵抗を続けた。4月4日ブラチスラヴァを占領された事によりスロバキアが降。同13日、ウィーン占領によりオーストリアも降した。そして4月16日、ついにドイツ首都ベルリンソ連軍に包囲される。4月27日、北イタリアスイスに程近いコモで逃亡中のムッソリーニが捕縛され、翌28日に処刑された。これによりイタリア社会共和国は崩壊。4月30日にはハンガリー西端で抗戦していた矢十字党も倒れた。猛攻の末、5月7日に枢軸の盟ドイツが降し、同日中クロアチア独立国も共産系パルチザンに降欧州の枢軸国は全に消滅する事となった。

欧州戦線は決着したが、太平洋戦線では日本タイが枢軸国として残っていた。しかし3月3日フィリピン首都ニラを、3月26日硫黄島を失陥。4月7日には連合艦隊徴と言うべき戦艦大和が撃沈された。残余の艦艇は燃料不足から動く事が出来ず、擬装用のネットってアメリカ軍から隠した。東南アジアに残された独潜水艦を接収し、大量の特攻機や回天搭載潜水艦を使ってアメリカ艦隊に抗していたが、6月22日沖縄が陥落。日本本土は毎日のように爆撃及び艦砲射撃を受け、都市部のどが焼け野原と化す。8月6日ロンボク峡でブルヘッドを撃沈した事が最後の戦果となった。

そして8月15日日本ポツダム宣言を受諾して降。後ろを失ったビルマ国自由インド仮政府蒙古聯合自治政府満州国は崩壊していった。9月2日戦艦ミズーリの艦上で調印式が行われ、ここに第二次世界大戦が終結。枢軸国は全に消滅する事になった。

ユダヤ人の扱い

ユダヤ人に対する迫虐殺と言えばドイツによるホロコーストが大変有名だが、枢軸国全てがドイツと足並みをえていた訳ではなく、彼らの扱いに差があった。

枢軸国の盟ドイツハンガリールーマニアクロアチア独立国ヴィシーフランスセルビア政府などは積極的にユダヤ人の排除を実施。ドイツは各地に強制収容所を作り、計画的に虐殺を実施。今や世界で最も有名な虐殺劇を繰り広げたとして今なおもり継がれている。ハンガリーでは戦争中期までは較的穏やかであったが、1944年10月ドイツ支援矢十字党が政権を握ると苛虐殺を開始。警察論、カトリック教の教まで加担しており8万人がアウシヴィッツ収容所に送られ、10~15万人が殺された。クロアチア独立国は「バルカンのアウシヴィッツ」と形容されるほど虐殺を行い、そのしさたるやドイツドン引きしたほど。を率いるウスタシャはユダヤ人以外にも反体制クロアチア人やセルビア人も殺していて、その数は計測不能と言われる。ドイツの支配下にあるヴィシーフランスもまたドイツに倣って迫政策を実施。内のユダヤ人外追放にした他、1943年治安部隊ミリス・フランセーズを結成してユダヤ人やパルチザンの摘発している。セルビア政府ではドイツと共同で5~8万のユダヤ人が殺された。

一方でユダヤ人の排除に消極的あるいは友好的に接したのはイタリアフィンランドアルバニア日本など。イタリア総統ムッソリーニユダヤ人に好印こそ抱いていなかったが、友人ユダヤ人がいた事で迫には消極的だった。ドイツから引き渡し要請を受けた際には沿ユダヤ人を内陸に引っ越しさせて避難させた。フィンランドも引き渡し要請を断固拒否している。アルバニアヨーロッパユダヤ人を受け入れたで、引き渡し要請に対しては公文書を偽造して彼らを守り抜いた。結果、戦前よりもユダヤ人人口が増えていたという。迫の原因であるキリスト教が大して浸透していない日本ではユダヤ人に対する恨はく、むしろ日露戦争ユダヤ人投資が戦時国債を買ってくれた事もあって友好的だった。このためユダヤ人側も日本を経由して中国アメリカ逃げる逃走ルートを使用しており、およそ2万4000名が脱出に成功。このうち半分近くが日本国内や満州に留まって定住した。

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