秋山幸二 単語

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アキヤマコウジ

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秋山幸二(あきやま こうじ1962年4月6日-)とは、熊本県出身の元プロ野球選手外野手三塁手)である。2009年から2014年まで福岡ソフトバンクホークス一軍監督を務めた。

概要

小学校から野球を始める。

熊本県立八代高等学校ではエースだったが、甲子園大会出場は3年に県大会決勝で敗れたためかった。

1980年ドラフト外西武ライオンズに入団する。同年のドラフト会議の注選手であったが、本人の進学意思が固く、各球団も名を回避した。進学校在学であった秋山は、自分にプロでやれる実があるとは思っていなかった。ところが、各球団の接触を受け次第にプロでやりたいと思うようになり、争奪戦の末西武ライオンズへの入団が決まった。この際決め手となったのは、西武ライオンズのみが秋山を野手として育てることを約束したからと本人はっている。

西武時代

当初の背番号は71。その後24→1。24は小川史選手から強奪譲り受ける

高卒1年にして、消化試合ながら3試合連続で先発出場を果たし、初安打も放った。

監督広岡達朗に交代した1982年からは2年間一軍昇格はなかったが、3度の米国野球留学で才を発揮、メジャーに引き抜かれそうになり帰。「メジャーに一番近い男」の称号を得る。

4年1984年、7番サードで開幕スタメンの座を掴んだが、怪もあって定着までには至らなかった。


1985年も7番サードで開幕を迎える。程なくして6番に昇格し、そのまま定着する。打率こそ.252に留まったものの、いきなりの40本塁打、93打点記録した。130試合全試合出場も果たす。

1985年から18年間連続でファン選出でオールスターゲーム出場している。

監督森祇晶に交代した1986年は5番サードで開幕を迎え、ひとほど過ぎた後で4番に昇格した。2年連続の40本塁打以上と初の100打点記録する。全試合出場も2年連続で果たした。


1986年日本シリーズ第8戦で「バック宙してホームイン」。これはライオンズナイターベンチリポーターのアイデアによるものだったという。


1987年からは4番打者の座を清原和博に譲り、最も印の強い3番秋山としての出場機会が多くなる。3年連続で40本塁打以上を記録し、43本でついに初の本塁打王いた。打点も3年連続で90打点以上を記録した他、盗塁も38記録した。

また、俊足と強肩を生かすため外野手センター)に転向する。それ以前にも外野手としての出場機会はあったが、森祇晶監督に「ショート石毛宏典の守備負担軽減(膝に故障を抱えていた)のためにサードけてくれ」と説得されたと本人はっている。

この件について、石毛氏は「秋山が自分で外野コンバートを直訴した」(監督談)としており、どちらにも気を使わせないための監督の方便だったのだろうと推察している。


1988年も安定した成績を残し、三割近い打率、40本近い本塁打、そして100打点記録した。


1989年、前年より本塁打数こそ減ったが、打率盗塁数を向上させて打率.301、31本塁打、31盗塁日本プロ野球史上5人パリーグ史上4人)のトリプルスリーを達成した。ちなみに、自身初の3割である。

1990年プロ野球初の「30本塁打以上(35本)、50盗塁以上(51盗塁)」達成した(ただし、打率は急下降して.256に留まった)。これが自身初の盗塁王となった。


1991年シリーズ4本塁打日本シリーズMVP獲得


1993年にも30本塁打を放ち、9年連続30本塁打以上(パリーグ記録)を記録するも、打率.247、9盗塁と他の数字は低迷(盗塁については、監督自粛を促されたせいだと2014年っている)。

ダイエー時代

監督との確執も噂された1993年オフ福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)との間で世紀の大トレードが成立する。ライオンズ秋山渡辺智男内山智之←→ホークス佐々木誠村田勝喜橋本武広佐々木村田はそれぞれホークス生え抜きの強打者・エースであり世間を驚かせた。仕掛け人ホークス根本陸夫監督は、秋山プロ入りした当時のライオンズ監督でもあった。
おこの際、ダイエーに移籍していた小川史選手からまたしても背番号1を強奪譲り受ける

ダイエー移籍後にグリーンモンスターと呼ばれた外野フェンスに対応しようとした結果、を痛め成績はやや低迷するも、優勝経験者として万年Bクラスダイエーナインを引っっていく。1999年にはの初代将に就任(1999年)。

1999年にはダイエーの初代将に就任したが、西武戦で松坂大輔から死球を受け骨折。しかし不屈の根性でスタメン復帰。ダイエーリーグ優勝日本一にも大きく貢献する。日本シリーズMVP獲得(二球団での獲得は史上初)


2000年8月18日千葉ロッテマリーンズ戦で通算2000本安打を達成。この年もダイエーリーグ優勝し、ON対決となった日本シリーズにも出場した。


2002年優勝絶望的となったため若手に出場の機会を譲る形で引退引退表明は8月)。西武ドーム福岡ドームの二ヶ所で引退試合が行われた。

引退後

解説者などを経て2005年福岡ソフトバンクホークス二軍監督に就任。2007年一軍総合コーチに昇格。

2008年8月14日だけ監督代行を務めたが敗戦。オフ福岡ソフトバンクホークス監督に就任。

2010年、7年ぶりのリーグ優勝に導くが、クライマックスシリーズ千葉ロッテマリーンズに敗れた。

2011年リーグ2連覇。クライマックスシリーズ西武を破り、8年ぶりに日本シリーズに出場。4勝3敗で日本一に導いた。

2013年は4位に低迷。初のBクラスとなった。

2014年1月17日佐々木主浩野茂英雄と共に殿堂入りを果たす。レギュラーシーズン終戦オリックス・バファローズ戦でサヨナラ勝ちし、3年ぶりの優勝をもぎ取った。クライマックスシリーズ前に2014年シーズン限りでの勇退を表明。クライマックスシリーズを勝ち上がり、阪神タイガースとの日本シリーズでは4勝1敗で日本一き、勇退を日本一で締めくくった。

2015年からは野球解説者を務める。

その他

根本陸夫の教えのを強く受けており、自身の著書で彼の事を長く割いたり、後輩大久保博元ジュースを奢ろうとした際、「生意気な事をするな!」と激怒している(根本氏がタニマチ案件を避けさせる為、先輩選手が後輩選手に奢るように導していた)。

滑舌が悪く、インタビュー時の発言が聞き取りにくいことで有名。
更にはどんでんの「どん語」と並ぶ、独特の「秋山」を使うため、多くの記者を泣かせている。

  1. あー、何だよ。くそ。おもしろくないな。つまらねえ。サンドバッグがほしい
  2.  『ムネがフワ~。ムネを取材して』と両手をバタバタさせる

さらにインタビュー時で、自軍の選手を〜君で呼んだ際は、『次やらかした二軍落ち』という意味で使われる事が多く、ファンからはその選手を『死亡フラグ』と扱った。

監督であるにも拘わらず、なぜか野手の練習やランニング、守備練習に積極的に参加する事があった。
現役時代の末期痛に苦しみ、引退理由もその悪化に伴うものだったはずだが、ランニングでは一部の選手を追い抜き、遠投では大半の選手に勝ち握力ではホークス内で3人しか秋山以上の数字を残せていないという、驚異のパフォーマンスの数々を見せた。
更には打撃練習に至っては、『統一球なのにヤフードームナゴヤドームで柵越え』『キャンプ時には場外弾を連発』などと、現役選手以上のパワーを見せつけている。

このため「『代打!』をやれよ」、「選手の自信をへし折って(特に松中信彦を)引退させようとしている」、「下位打線の連中より秋山の方が打てるだろ」・・・とどこまで本気かネタかわからない発言があちこちで飛び交っている。
おこの身体ホークス公式twitterエイプリルフールネタに3年連続で使われていた。

秋山「取り違え」事件

2003年11月21日福岡県築上椎田町(現:築上町)の椎田中学校体育館落成式の記念講演は、数学者秋山仁氏を招待して講演会が行われる予定であった。ところが、学校側と仲介した関係者が互いに「秋山さん」とだけ呼びながら打ち合わせをしていたため、間違えて秋山幸二氏に依頼をするというハプニングが起こってしまう。学校が仁氏のつもりで準備していた講演会の当日、幸二氏が訪れて手違いに気づいたという。
狽する学校側に、幸二氏は「私でよければ」と、講演の“代打”を快く引き受けた。「間違えられた秋山ですが」と切り出し、約1時間半、高校卒業後にプロ野球に行くか大学進学かで悩んだことや、プロ野球での体験談などをった。生徒との質疑や記念写真にも応じ、生徒たちは大喜びしたという。

この出来事から12年、築上町の合併10周年を記念してプロ野球福岡ソフトバンクホークス監督秋山幸二氏のトークショー4月5日午後2時から、町文化会館コマーレで開かれた。

応援歌

球団 レス No プレイヤー
西武 応援歌のピコカキコ一覧 #390 9681
9681

成績

通算打撃成績

通算:20年



































NPB 2189 9063 7997 1231 2157 377 41 437 1312 303 20 61 910 75 1712 191 .270 .347

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 備考
2009年 ソフトバンク 3位 144 74 65 5 .532 クライマックスシリーズ1stステージ敗退
2010年 1位 144 76 63 5 .547 クライマックスシリーズファイナルステージ敗退
2011年 1位 144 88 46 10 .657
2012年 3位 144 67 65 12 .508 クライマックスシリーズファイナルステージ敗退
2013年 4位 144 73 69 2 .514
2014年 1位 144 78 60 6 .565
NPB:6年 865 456 369 40 .553 Aクラス:5回、Bクラス:1回

タイトル・表彰・記録

タイトル
最多本塁打 1回 1987年
最多盗塁 1回 1990年
最多勝利打点 2回 1985年1987年 ※1988年
ベストナイン 8回 1986年-1993年外野手
ゴールデングラブ賞 11回 1987年-1996年1999年外野手
MVP 3回 1985年5月1990年9月1991年5月
オールスターゲームMVP 1回 1994年第1戦
日本シリーズMVP 2回 1991年1999年 ※2球団で獲得は史上
太郎 3回 1991年2011年2014年 ※選手と監督両方で獲得は史上2人
記録
トリプルスリー 1回 1989年
サイクルヒット 1回 1989年7月13日
オールスターゲーム出場 18回 1985年-2002年 ※18年連続は史上最長

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