OB | |
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稲葉光雄 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1948年10月2日 |
身長 体重 |
174cm 67kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1971年 |
引退 | 1984年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
地元の清水工高から日本軽金属に入社。控え投手だった1968年に広島東洋カープに6位指名を受けるがこれを断り残留。1970年の都市対抗野球では、安田猛(後にヤクルトに入団)らを擁した同地区の強豪である大昭和製紙の補強選手として優勝に貢献。この年ドラフト2位で中日ドラゴンズに指名されプロ入りする。
落差の大きいカーブを武器に2年目に20勝を挙げるがその後低迷し、わずか3勝に終わった1976年オフには4対3の超大型トレード(阪急・森本潔、戸田善紀、大石弥太郎、小松健二←→中日・島谷金二、稲葉光雄、大隅正人)の一員として阪急ブレーブスに移籍することとなった。
稲葉光雄は阪急で復活を遂げ、1977年シーズンは17勝6敗、勝率.739の好成績を残して初の最高勝率に輝き、チームの3連覇に貢献した。この年から3年連続通算4度の二桁勝利を記録するが、1984年に阪神タイガースに移籍し、一度も登板機会のないまま引退した。
現役時代は巨人キラーとして知られ、長嶋茂雄を.177、王貞治を.203と完璧に封じ込めた。ONの両者をここまで抑え、かつV9時代の巨人から勝ち星を稼いだ投手は少ない。もっともミスターは引退直前でかなり衰えている時期だったが。
引退後は古巣の中日でコーチに就任する。だが、1997年のシーズン終盤、星野仙一監督の発案で2軍の選手にナゴヤドームのコンコースを掃除させることが決まり、これに抵抗した稲葉コーチは辞表を叩きつけ、翌年から日本ハムファイターズのユニフォームを着ることとなった。2009年には再び中日に復帰し、投手コーチとして吉見一起や山内壮馬らの育成に携わった。
中日では名コーチとして知られ、選手の信頼も厚かった。稲葉の下で学びエースとなった吉見一起は稲葉に教わった練習法を「稲葉式」と呼び、「勝てる練習」と断言。「調子の悪い時に稲葉式をやると調子が戻る」とも語っている。
2012年8月11日、2軍の試合中に体調不良を訴え救急搬送。この時すでに脳内出血を発症しており、この日の夜に逝去した。
稲葉投手らを放出した超大型トレードは、未だに中日ファンの間で語りぐさとなっている。ファンの反発も大きく、トレードを主導した与那嶺要監督は前年より順位を上げたにも関わらず辞任に追い込まれた。
通算:13年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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NPB | 331 | 76 | 22 | 104 | 80 | 2 | - | .566 | 1655.2 | 589 | 837 | 704 | 633 | 3.44 | 1.27 |
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最終更新:2024/04/24(水) 21:00
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