第一回十字軍 単語

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ダイイッカイジュウジグン

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第一回十字軍とは、最初の十字軍運動である。

概要

ユダヤ教キリスト教イスラム教聖地であるエルサレムは11世紀当時はイスラム教国家が支配していた。このエルサレム巡礼イスラム教徒から奪還することをして、当時のローマ教皇の呼びかけによりキリスト教国家連合軍「十字軍」がイスラム教国家の支配地に侵攻した。最終的にこの第一回十字軍はエルサレムを陥落させ、占領に成功した。

全体の経緯

現在でも中東にあるエルサレム。ここは、ソロモン王殿が築かれたとされる場所でありユダヤ教徒の聖地である。また、イエス・キリストが活動し、処刑され、復活したとされる場所でもあるためキリスト教徒の聖地でもある。さらには、ムハンマドの元へ訪問する宗教的体験をしたとされる場所であるためイスラム教徒の聖地でもある。

これらの宗教信者でない人間にはよく分からないだろうが、とにかく「いろんな人にとってすげえで大事な場所」と理解しておけばOKだ。そんなエルサレムは7世紀にイスラム教に占領された。10世紀頃からは、今で言うエジプトあたりを本拠地にするファティーというイスラム教国家が支配していた。

さて、11世紀の東ヨーロッパ東ローマ帝国(ビザンツ帝国とも言う)と言うキリスト教国家があった。キリスト教と言ってもカトリックとは別宗の正教系だ。このは11世紀始め頃までにはブイブイ言わせ、周囲のを征して現在で言うイタリアあたりからトルコあたりまでを含む広大な領土を得た。また当時は首都コンスタンティノープルヨーロッパ随一の繁栄を誇っていた。だが軍事面ではパッとせず、戦争に負け続け、トルコあたりはイスラム教国家に奪われてしまう。

そのイスラム教国家セルジュークと言った。このも肩できってブイブイ言わせ、11世紀末にはファティーからエルサレムを占領した。キリスト教国家はこのことに対して、「なんかよくわからんがイスラム教徒がごたごたやってるな・・・聖地エルサレムが危なくね?巡礼できなくなるんじゃね?」と危機感を抱いたようだ。しかしセルジュークはその後、後継者争いの内乱を起こして弱体化した。

セルジューク混乱をみて領土を奪い返すチャンスだと思ったのか、東ローマ帝国皇帝1095年、宗えて、カトリック本山であるローマ教皇にお願いしてみた。「イスラム教セルジューク戦争するからたすけてくんね?宗は違うけど俺らって同じキリスト教徒じゃん」

するとこれには教皇がやたらやる気を出した。フランス会議を開いてフランス貴族を呼び集め、「イスラム教徒が聖地荒らしてるお・・・聖地キリスト教徒の命が危ないお・・・だから聖地取り戻すお!それに聖地は「ミルクはちみつが流れる地」っていってな、スゲーいい場所なのよ。取り戻せばお前らウハウハだぜ!」と言う内容の名演説をかまし、さらに他のヨーロッパの各でも同じような勧誘が広められた。

それを聞いたキリスト教徒の貴族たちは信仰心とか、得られる領地の損得勘定とかから「やってやんよ」と次々に呼応し、十字軍と呼ばれる連合軍をエルサレム派遣することになった。ここに第一回十字軍が成立した。軍人ばかりでなく、ほとばしる信仰心からついてきた民間巡礼者も多数含まれていた。

その後十字軍セルジューク勝利をおさめつづけて領土を占領していき、最終的には1099年にファティーの支配するエルサレムへと到達した(間の悪いことに、ファティー十字軍が来る直前の1098年にセルジュークからエルサレムを奪い返してしまっていた。ファティー涙目。)。幾多の戦いと流血の末、エルサレムは陥落し、エルサレムやその周囲の地域にキリスト教徒による国家が複数建設された。

なお、教皇に助けをめた東ローマ帝国十字軍セルジュークを追い返せて笑いが止まらん状態だった・・・かと言うと、そうでもなかった。十字軍の中にはエルサレムへの途中にあった東ローマ帝国の領土内で略奪をかました者達も居たのだ。また、セルジュークから十字軍が占領した領土がどちらのものになるかで、十字軍との対立・緊も生じた。

さらに東ローマ帝国の奉じる正教は、それまでのイスラム教徒支配下でもエルサレム内に教会職者を置いており、支配者に税を支払いながらもそれなりに勢を保っていたのだが、エルサレムに到達した十字軍は正教の者達を追放し、教会を自分達カトリックのものにしてしまった。

なお、歴史で何かとひどいにあうことの多いユダヤ人はこのキリスト教徒とイスラム教徒の争いで今回もとばっちりを食った。イスラム教徒支配者に税を払いつつもエルサレムに住んでいたユダヤ人は、異教徒に厳しい十字軍虐殺されてしまった。また、十字軍運動による異教徒への反感の盛り上がりのあおりを食らい、ヨーロッパでもユダヤ人虐殺が起こった。

十字軍側の視点から見た詳細

 

!  以下の文章は十字軍側から見たものです  !

!  人によっては不快感を感じます  !

 

教皇ウルヌス2世が東ローマ皇帝アレクシオス1世の『救援をめる書簡』を受け取ったことからはじまる。

な参加者は後に述べていく。

字の部分は当時の十字軍参加者(後述)の記録に基づく部分である。線で分かたれたより下の部分は、この記事の最初の執筆者による注釈や感想である。

予兆と胎動

の受より1100年がまもなくたとうとしていた頃、かつての不安定な気と周期的に繰り返される疫病の流行に悩まされ続けてきたヨーロッパ世界は今やの恩恵によって温暖な気と多くの人口を得るに至った。しかしながら神聖ローマの「所謂」皇帝ハインリヒやフランスフィリップによって信仰に揺らぎが生まれ、ヨーロッパは悪に満ちていた。幾多の同胞たちが、幾多の類が、互いの欲望を果たすためにを抜き、血が流された。善良なるキリスト教徒たちは救いをめ、自らのあるべき地への回帰を望んでいた。

だが、同じ時に更に苦しむ同胞達が東の地にて彼らに救援をめ、を上げていた。かつては栄を誇り、キリスト教徒に一定の安全を提供したセルジューク帝国マリク・シャーの死とともに同胞同士の戦いが生じ、細切れに分裂し、もはや安全は失われ、巡礼論、そこで暮らすキリスト教徒たちは悲しみにくれていたのだ。さらに、かつては小アジアバルカン半島全域を支配した東ローマ帝国弱体化し、小アジアセルジューク帝国によって奪われていた。

そんな折に東ローマ帝国にてアレクシオス・コムネノスが皇帝として即位する。彼は再びローマ帝国としての威厳を回復し、小アジアを含む全な形の「ローマ帝国」となるべくローマ教皇ウルヌス2世に書簡を送り、部隊の要請を行う。これを聞いたウルヌスはこれまで自らので見てきたヨーロッパの状況、そして書簡により知った東の同胞達の苦しみを知った上で、全ヨーロッパ職者にクレルモンに準備された日に集結し、会議を行うことを告げる。そしてそこで彼は沢山の教会として為すべき取り決めを作り上げ、さらに重大な発表を行う。

所謂「クレルモンの奇跡」、十字軍参加の呼びかけ、「観説」である。


十字軍の原因は研究者によって異なっている。そのためどれが正しいということは出来ないが、あえて言うならどれも正しい。

ハインリヒ4世1056~1106)神聖ローマ皇帝であるが、グレゴリウス7世、ウルヌス2世と様々な問題において対立(叙任権闘争など)。そのため、教皇側の立場をとる職者であるフーシェ(後述)は「所謂」という言葉を用いている。

フィリップ1世(1060~1108)フランス王国の王であるが、クレルモン会議で彼は破門とされており、十字軍には参加できなかった。ユーグ(後述)の

アレクシオス1世コムネノス(1048~1118:位1081~1118)東ローマ帝国皇帝ニケフォルス3世を退け、自ら即位。帝国の再を望み、活発に活動している。だが、戦争については、「外交手段、そして賠償などのすべての戦争回避の方法が失敗した時の策であり、最も愚かな行為」としている。プラチェンツィア会議に特使を派遣。『援軍』をめる。

の受」という表現は後述のフーシェの史料より引用。当時、年号というものはによってばらばらであり、例えば神聖ローマでは国王の治世●●年などの表記をしている。フーシェはこの十字軍をキリストの事績であると考えているのか、それを「の受より●●●●年」としている。ちなみにの受とはキリストの生誕のこと。キリスト教三位一体説において、とは「」、「イエス・キリスト」、「精霊」の3つのペルソナが一つの存在であるという訳の分らないことを言っている。そのため、イエスとはそれまで体を持たなかったが体を持って現れた存在と言うことになる。つまり、受

クレルモンの奇跡

の受より1095年の時が流れた時、ガリアの地のオーヴェルニュ、クレルモンにて教皇ウルヌス歴史に残る、偉大なる演説を行う。

 

「いとする兄弟たちよ、により全教会の最高位に立つことを許された私、ウルヌスたるあなた方になすべきことがあることを伝えます。あなた方がな祈りによって覚めている今、あなた方とに関する問題について、あなた方はあなた方が持つ実な信仰と強さを示さねばなりません。

急ぎ、あなたたちは東の地に住み、あなた方の救援をめるを何度も何度も叫んでいるあなた方の兄弟たちを助けねばならないのです。

あなた方が既に知っているように、ペルシアの種族であるトルコ人たちは、あなた方が『ゲオルギウスの腕』と呼ぶ地中海の小アジアの地にまでその邪悪な手を伸ばし、キリスト教徒の土地を占領し、既に7度の戦いに敗北したらの同胞を殺し、の王たる教会を壊し、荒らしまわっている。

もしもあなた方が立ち上がろうとせず、長い時間この問題を放っておけば、を信じる正しき者たちは更に支配され、を流し続けるであろう。

この危機に関して私は、いいえ、私ではなくイエス・キリストはすべての階級、騎士歩兵も、富める者も貧しきものも、老いも若きも、キリスト戦士たるあなた方全てに、あの邪悪なる異教徒を一刻もくキリストの土地から駆逐し、再びの栄に満ちた地へと戻すことを説きすすめます。

ここに出席するあなた方にはこの私の口から、そしてここにいない者には私が書簡を送りますが、これはキリストによる命なのです。

勇敢に東の地へと向かう途中の陸路や路、そして異教徒との戦いの中でこの世に縛られた命を落とすものがたとえいたとしても、そのものには罪の赦しと永遠の救済が与えられるでしょう。私はその権威をによって与えられ、そしてこのに参加するものにはそれを与えましょう。

堕落し、そして悪魔奴隷と化した者達が偉大なるの信仰を与えられキリストの名においてく者たちを征することがどうすれば出来ようか。

あなた方の同胞である人びとをあなた方が救わなかった時にがあなた方に背負わせる幾多の悪から逃れることがどうすれば出来ようか。

かつて、同胞であっても私闘に現をぬかし、の土地に荒していたものたちは今既にを抜き、異教徒との戦いへと身を投げ打ってなければならない。そしてかつては盗賊であったものは、今こそキリスト戦士となり、かつては兄弟血縁者と戦っていたものたちは今こそ野蛮人たちと戦いなさい。今までは僅かの貨の為に雇われていた人びとは今こそ永遠の酬いを勝ち取りなさい。かつて身も心も窶れ、つかれきっていたものたちは二重の名誉を得るために働きなさい。

この地で悲嘆にくれていたものは、かのと蜜の流れる地にて喜びと富を得るであろう。そして、この地での敵であったものは、かの地での友となるでしょう。

行く人をとめてはなりません。しかし、彼らがの費用を準備し、が終わりが来た時、あなた方はの導きとともに勇敢に進軍していきなさい。それでも尚、自らの貪欲と高慢にとらわれるものがあれば、そのものは破門とし、永遠の苦しみを与えよう。アーメン。」

これを聞いた善良な心を持ったキリスト教徒たちは口々に叫んだ。

はそれを欲したもうた!の御意思である!!」


 ウルヌス2世1040/1043~1099:位1088~1099)ローマ教皇。前代のグレゴリウス7世の革における右腕的存在であり、自身が即位した後もグレゴリウス革を継承。1095年には名実共にローマ教会の長となっていた。長身で姿勢が正しく、を蓄えた美男子で弁論に非常に長けていたそうで、まさに『カリスマ』を所有していた人物。研究者の中には十字軍のイニシアチブを彼に見出す者も多い。

 教皇の十字軍勧誘演説『観説』についての史料はいくつかあるものの、どれも少しずつ内容が違う。というのも、その原文の史料と言うのは見つかっておらず、たぶん、い。ウルヌスアドリブであったのではないだろうか。そのためここでは第一回十字軍の史料として名高いシャルトルのフーシェの記録を元に作成した。原文はラテン語なのだが、ラテン語が読めないので英訳版であるFulcher of Chartres Chronicle of the first Crusade , by Martha Evelyn McGinty, Oxford University Press: London 1941を使用した。また、この記事全体としてもこの史料を基にしている。

少なくともこの段階でなる的と俗なる的二つを見出すことが出来る。すなわち、と蜜の垂れる彼の地で地を得ること、など。また、教皇としてはこの十字軍運動ヨーロッパ内部の飽和状態のパワーを外に吐き出すことで安定させることが的であったと考えられている。 

最初の十字軍戦士とそれに続くものたち

によって祝福された演説が終えられた後、ピュイ教であり、この演説より約十年ほど前にイェルサレム巡礼を行っていた敬虔なるデマール・デ・モンテイルは教皇からこの巡礼者集団、すなわち十字軍兵士達の総司令官として、そして教皇の代理としての任を受けた。

一方、キリストウルヌスの口を通して人々に伝えた命はすぐさまヨーロッパ中に広がった。これによってこれまで類どうしでを向けていたものたちは『の休戦』という形でこれまでの戦いをやめ、ヨーロッパ平和に満ち、そして幾多の者達が準備を整え、自らの罪を告白し、清らかなのままの軍へと向かい、自らの体をにゆだねた。そして彼らはにこの事業に参加することを誓うと、教皇は巡礼者たちにマントの肩かカソックにを縫いこんだ美しい十字架を授けた。彼らのなんと誉れ高きことか!彼らのなんとけることか!


デマール・ド・モンテイル(生年不詳~1098貴族息子でル・ピュイ教。教皇から「代理」の任を受ける。非常に敬虔な人物であったそうで、十字軍全体の精的支柱となる。

の休戦はクレルモン会議における議題の一つであった。

このとき、教会財産を預かり、帰ってきたら変換するという形をとっていた。また、残される者の安全は教会が保障していたとされている。

出発とそれぞれの司令官

の受より1096年の3月ウルヌスによりこの奇跡の事業が提唱されたのち、他のものよりもいく準備を整えた者達がなるを開始した。他の人びとは、準備が出来次第、4月5月6月7月、そして更に8月9月、あるいは10月を開始した。このによって祝福された年は、世界平和され、大な穀物とワインが溢れた。

軍は取り決めにより、コンスタンティノープルにて一度集合することとなった。

巡礼者の官は次のような人びとである。フランスアンリ1世の息子フィリップ破門されたことによってその代理として参加することとなったヴェルマンドワのユーグ。彼は最初にを開始した人物であるが、ブルガリアドゥラッゾに上陸した際に市民によって襲われ、コンスタンティノープル皇帝の下へ連れて行かれしばらくの間拘束されることとなった。私が都に赴いた際、皇女アンナに聞いた話に寄れば、ユーグは予め皇帝に書簡を送っていたそうで、内容は「帝王の中の帝王たる私に相応しい対応を要する」と言うものだったそうで、アンナはそれをで笑っていた。どちらも聞いた話であり私ので見たものではないのでどちらが正しいのか私には分らない。

彼の後、ノルマ民族のロベール・ギスカールの子、ボエモン。彼はユーグの後を追う形でをはじめ、後にアンティオキボヘモンド1世となる。この不実な口が、ここでるべきでないことをる前に次へ行こうと思う。

次はロレーヌゴドフロワであった。彼は南部ラインからの分遣隊に導かれ、彼の兄弟ボードヴァン、そしてユースタンスなどとともに、多くの兵を連れて参加し、陸路でコンスタンティノープルした。

次にレーモンドが進んだ。彼はトゥールズ伯であり、スペインの地で相当な戦闘の経験を持っており、ゴート族とガスコーニュ人とともに、そしてアデマールを伴ってダルメシアを通ってコンスタンティノープルへと向かった。

10月。最後の部隊であるイングランドウィリアムの子、ノルマン人の伯ロベールが彼の兄弟でブロワの高潔な人物であり、後にイングランドの王となるブルゴーニュのエティンヌ、エティンヌとともになるへと向かった。


教皇が定したのは1096年の、とのこと。それぞれ準備が出来次第出発していった。

この時点では個々別々の状態で、全に一つの隊となったのはニカエアに到着してから。ちなみに本隊はレーモンドの軍。

隠者ピエールに率いられた者たち

教皇の命を受け、組織された軍として活動していた巡礼者達とは他に、アミアンの隠者ピエールによって率いられた軍もいた。ピエールは非常に敬虔な人物であり、熱愛していた。彼は粗末なを身にまとい、ロバにまたがって行く先々で説教を行ってその集団を肥大化させていった。彼ら組織されていない人々の中には、高潔なる騎士ウォルターもいた。彼らはひたすらにイェルサレムしていたものの、イェルサレムがどこにあるのかすら、知らなかった。彼らがブルガリアを通った際、彼らのうちの一人があるブルガリア人に尋ねた。「イェルサレムは、どちらの方向にあるんだろうか?」と。

彼らは行く先々で略奪をしながら食糧を集め、何とかコンスタンティノープルにたどり着いたが、皇帝は彼らが内部へと入ることによる都の混乱を恐れ、彼らをすぐさま小アジアへと送り出した。あぁ、なんと悲しいことだろうか!彼らはニコメディアとニカエアにて邪悪なるを持った異教徒達によって打ち倒されてしまったのだ。

隠者ピエールは何とかそこを脱し、都にて本隊と合流し、後にイェルサレムまでをすることとなった。


所謂民衆十字軍。民衆十字軍については多くの研究がなされており、これまでの『無知昧』な民衆による各地の略奪という考えは否定されつつあり、割と整然とした集団であったらしい。とはいえ、ブルガリアで「ここはエルサレムかね?」であるとか、そういったことを聞いているのは彼らにとって住んでいた町の門からイェルサレムまでののりの欠落があったと考えられる。だが一方で研究者には彼らこそ「十字軍」であるとするものもおり、彼らの素な信仰は民衆レベルにまでキリスト教信仰が浸透していたことの現れであると考えられる。

また、民衆の多くはニカエアで打ち滅ぼされたものの、生き残ったものたちは後に本隊と合流し、巡礼を果たしたものもいた。

帝都コンスタンティノープル

巡礼者は当初の取り決めどおりコンスタンティノープル集合することとなった。しかし、皇帝アレクシオスはたちが都の中へと入ると皇帝臣民にとって『よくないこと』が起こるのではないかと不安を抱き、々をそのに入れることを拒み、部隊のうちの導者幾人かが交替での内に入り、皇帝との接見と教会での祈りを行うよう々に伝えた。都はこので聞いていた以上の壮麗さで、通りの両側を見事な石柱が並び、教会を賛美する美しさで円の形をしたものであった。聞こえてくるのはなる言ギリシア語であり、そして臣民達は自らをローマ人であると言っていた。

さて、皇帝アレクシオスは々と接見をし、皇帝となって従の誓いを立て、幾らかのの費用と増援として将軍ティキオスを々に与えた。

これが終わると々は個々にゲオルギウスの腕と呼ばれる峡を渡り、アナトリア、あるいはロマニアと呼ばれる地に入っていった。


アナトリア、ロマニアとは現在の小アジアトルコのあたり)。アレクシオスは帝国が本来あるべき姿に戻るには小アジアがなんとしても必要と考えていた。というのも、帝国にはもともと、バルカン半島と小アジア両方あって初めて帝国と言う観念があったため。また、ゲオルギウスの腕というのは現在ボスフォラス・ダーダネルス両峡のこと。

キリスト教においてな言葉はギリシア語ヘブライ語ラテン語の三つであった。

都側からの史料としてはアレクシオスのアンナ記録が有名で、皇帝憂鬱や悩みなど、非常に深く書かれている。(一方十字軍については非常に「野蛮」な存在としている。)

異教徒との初めての戦い

々がロマニアに入ると、まずニカエアニコメディアへ向かった。それまで各隊ばらばらであった々は、ニカエアの地でついに一つの巡礼者集団を作り上げた。ニカエアへと近づくにつれ、いくつもの既に命を終えたフランク人の体が横たわっているのがに付いてきた。その中には騎士らしきものは論、女、子ども、老人の死体もあった。

そしてニカエア々はあの邪悪なる民族との戦いをはじめて行った。彼らはずる賢く行く先々で待ちせし、々を殺そうと試み、切り落としたキリスト教徒の頭部を投石器を使って々に投げてきたが、たちはいくつかの命と引き換えにニカエアでの戦闘勝利で終えた。々がそれまでの慣習どおり、を略奪しようとするとタティキオスが「この都市皇帝のものであり、フランク人には皇帝より報酬が与えられる。だがそれはこの都市を略奪することではない。幾らかの貨だ。らの皇帝陛下の代行である私が命じる」といった。フランク人は得られると思っていた領土と報酬を得ることが出来なかったので立たしく思ったものの、従関係を破ることは出来ず、その都市皇帝のものとなった。

今や々の軍は、そしてそこに続く人々は数多くの言を話す集団であった。がこれまでにフランス人、フランドル人、フリジア人、ガリア人、ブリタニア人、アロブロゲス人、ロタリンギア人、アレマン人、ババリア人、ノルマン人スコット人、アキタニア人、イタリア人、アプリア人、イベリア人、ダキア人、ギリシア人、アルメニア人がいる一つの集団を見たことがあろうか。古の時においてが怒り、言を別ったバベルでの出来事は、へと近づこうとするが故にそうなった。だが、々は今や一つの標、すなわち教会解放という御自ら御下しになった命によって一つの意識を共有するに至った。

しかしながら私がもし、ブリタニア人やドイツ人から話しかけられたとしても、私は返事を出来なかった。しかし、々は固い兄弟で結ばれ、心は一つであり続けた。のこの計らいを賛美する言葉は違えど、その心は一つであったのだ。


 シャルトルのフーシェは西ヨーロッパ十字軍の人びとをすべて含んでフランク人と呼んでいる。

イスラム教徒の基本的な戦術は待ちせと奇襲。

世界初の多国籍軍かと。

ボードヴァンとエデッサ

ニコメディアを後にした々はロマニアを敵の幾多の攻撃に耐えながら進んでいった。ロマニアヘラクレアの地に入った時、々に東の方向をしたの形をしたを御見せになった。それからまたしばらく進み、シリアアンティオキアまで3日ほどのところに々が進んだ時、先に述べたボードヴァンが本隊を離れて本来南に進むべきところを東に進むことを決めた。彼はまず既にタンクレットのものとなっていたタルススを強引に奪うと、少数の騎兵とともに一度本隊に戻ったがすぐにユーラテの方向へと向かって駒を進めた。ユーラテスの河畔のいくつかの攻略し、虐げられていたキリスト教徒を解放しながら進んだ。この働きを聞いたエデッサの領トロスが彼に使節を送り、「エデッサに赴き、二人が生き続ける限り息子のごとく、友情を交わしたい」との旨を伝えた。すなわち、『もしもトロスが死んだ時に隣にいたのがボードヴァンであるならば、彼はエデッサの領となる』ということであった。

エデッサに到着するとトロスとボードヴァンは一つの大きな布で出来た合羽のようなの中に入り、互いの胸をこすり合わせ、と子の誓いを立て、トロスの妻とも同じようにして誓いを立てた。

その15日後、既にられたことは現実となった。

ボードヴァントロスを守ることが出来なかったことをひどく悲しむとすぐさまトロスの子としての責務を果たすべくの中にいた異教徒を排除し、を守ることに努めた。


他の史料にはこのエデッサについての出来事を、ボードヴァンの策略としているものもある。ていうかがどう見てもそうだろ・・・ボードヴァンは地元ではうだつのあがらない後継者にすらなれない男。それが一つのの支配者となり、後にはイェルサレムの王にさえなる。たぶん最も出世した男だろう。

聖都アンティオキア

生涯のうちで最も苦痛となるべき時がどのような人にも必ずや一度は訪れるように、私はこのときのことを生涯、あるいは千年の王のうちにあったとしても、そしてこれまで多くの罪を犯してきたこの私にもの慈悲によって安寧の時が訪れるとしても、忘れることはいだろう。

が人のを得て々の前に姿を御見せになってより1097年10月の20日。々はの御導きによってシリア都、アンティオキアに到着した。この都はから何者かが裏切り、々に門を開けぬ限り落とすことが出来ないと思われるような頑強なで囲まれ、山のに作られたであった。更にこの都市を攻めるものにとって不幸なことにこの都市にはフェルヌスというが流れており、ここを通して都市には常に物資が送り込まれていた。長くこの都市は異教徒の手の内にあったものの、々が来ることを既に知っていた々にこの都市の中にある教会傷のままに保ち、守ってくださっていた。というのも、この都市教会は、あるいはこのアンティオキアという都市キリスト教徒にとってはとても重要なものだったからである。なぜなら、使徒テロはかつてより天国を受け取り、キリスト教会の長として任じられた後、この地で彼は教に任じられてここの堂にて座したからである。また、もしも仮に々がここを落とさずにイェルサレムへと赴いた場合、ここを拠点として々は敵に全く全に囲まれてしまうため、なんとしても落とさねばならないであった。

々はまず都市から1キロと半分ほどの距離幕をって取り、フランク軍諸侯はこの難攻不落の都市の御助けによって攻略するまで共に戦うことを硬く誓い合った。

まず々はにあった小を解体してを作った。がなくばこの都市に進むことも出来なかったからである。

一方これを見たアンティオキアのエミール、ヤギ・シヤンはもはやを捨てて脱することは出来ないと見てすぐさま彼の息子のシェムス・アド・ダラウをスルタン、すなわちペルシアの王の元へ、援軍をすように頼むため、使節として送った。

かの援軍が到着することを待つまでの間に敵は々に何回も攻撃を仕掛け、々も彼らを攻撃した。また、都市の中にいたキリスト教徒が彼らを裏切ることを畏れて、キリスト教徒の首を切り落とし、々へと投石器を使って放り投げてきたりもした。々はこの都市を包囲し続けるため、近隣の々を荒らして何とか食糧を得ていた。しかしながら次第にその様なところも荒らしつくし々は食糧不足に陥っていった。そのため、々のうちの何人かはこの包囲を投げ出してひそかに離脱することを考えた。また、食糧を探すために遠くへと向かったものも、常に敵の攻撃に怯えなければならず、そしてまた、実際殺されるものもいた。

がなかなか占領することが出来ず、々はその原因を々の堕落により神の怒りを買ってしまったからであると考えた。そして軍の中にいたふしだらな女達を軍から離れさせた。そしてそれまで軍の中にいた女達は軍の周りで生活するようになった。

さらに日は進み、それでも尚都市を攻め落とすことが出来ず、包囲を誓いに反して離れる者、食糧を探しに行くといったまま帰らずに逃げるか、あるいは殺されるものが続出した。その頃に、々は不思議きを見て、また、台地が大きく揺らぐのを感じた。さらに、には十字架が現れた。私は、未だにこのときの不思議な体験の意味を知ることが出来ないままでいる。

1098年、アンティオキアを攻略できないまま々は更なる飢餓に苦しんだ。

飢餓ゆえ、口に入るものは何でも口に入れた。不足で十分に火が通らず舌をちくりと刺す茹でたアザミも食べ、ロバ論、ねずみも食べた。また、飢えで狂いかけた者は動物の中の穀物までも食べ、また更に狂ったものは、とても私の口からは言うことができないようなものまでも食べた。飢餓に苦しみ、敵の刺客に苦しむ々の中には自ら敵の中へと飛び込み殉教するものまでもいた。また、名高い騎士であり、人びとから信頼されていたブロワ伯のエティンヌは故郷フランスへと路で帰っていった。このような幾多の難にされ、々の心はこれまで以上にめた。更にこの飢餓によって体ではなくが清められていったことを、私は今でも思う。このときほど、私のが純めたことはなかった。

これを見たらのは大いに御喜びになったのであろうか。ついにその手をらに差し伸べてくださった。

はある、あらかじめ決められていたアンティオキアの中に住むフィルーズと呼ばれる男の元に現れ言った。「眠れるものよ、起きなさい。あなたがアンティオキアの都市キリスト教徒の手に戻すように、私はあなたに命じます。」男はこの不思議に思い、黙っていた。しかしは再び彼の元に現れ言った。「フランク人のものへと戻しなさい。私はキリスト。あなたにこれを命じるものです。」彼は深く考え、このことを君でありエミール、ヤギ・シヤンに相談した。しかしヤギ・シヤンは「お前に従うのか?お前馬鹿なの?死ぬの?」と言って彼を帰らせた。彼は黙ることを決めた。しかし、三度は彼の元に現れた。「私が命じることをなぜは行わないのか。してはいけない。に命じる私は、万物の創造たるであり、精霊であり、イエス・キリストである」もはや彼は疑うこともなくなり、フランク人と密会することを決めた。彼はこれをボエモンにまず話して、その後この都市攻略についての密議をした。そして彼は信頼のとして彼の息子をボエモンへと差し出した。そして、エティンヌが逃亡した6月2日の翌日、すなわち6月3日がその日と決められた。

。20人のボエモンの部下が都市に潜入し、硬く閉ざされ、々を外に締め出し続けた門を開放した。待機していた兵がすぐさまへと侵入し、口々に叫んだ。「はこれを欲し給う!はこれを欲し給う!!」都市の内にいた異教徒はこのを聞いて大変恐れた。東のみ始めた頃、もはや々を受け入れるために開かれた門へと、そして都市へと向かって々は進軍した。の上にはボエモンのい軍旗が翻り、兵が鬨のを上げた。路上を兵たちが抜き身のを手に駆け抜け、異教徒を殺しまわった。これを見た異教徒は恐れ慄き、散り散りになって逃げ回り、そのうちの何人かが何とか岩の砦へと逃げ込んだ。

フランク軍の下級兵士に付いたものを先にと手当たり次第略奪して回った。しかしながら高潔なものは敵を追い、軍務を遂行し続けた。その後、アンティオキアのエミール、ヤギ・シヤンがアルメニア人に捕まり、首を切り落とされてフランク軍の下に送り届けられた。

アンティオキアの占領後、巡礼者の一人、ピエールバルテルミー使徒テロに奉献された教会の地中に眠る一本の「」を発見した。彼は使徒アンドレアスに啓示されて発見したこのがキリスト々の罪を贖うために磔にされた時にロンヌスがわきを刺した「」であると言った。アデマールは下賎な農民がこれを見つけたことからこれを疑ったものの、サン・ジル伯はこれを本物のであると考え、大切に保管した。伯はこのの前にげられた多くの供物を貧しい人びとの為に分配していった。

先にこの末を述ておこうと思う。このを見つけたピエールバルテルミー職者がなかなかそのであることを信じないため、自らその真実明するため、後に占領されたアルカスにて火審を行うように頼んだ。アルカスの平原が詰まれ、火が放たれた後、職者によって火に十字が切られ、彼はその中へと飛び込んでいった。火の中から出てきた彼の皮膚は焼き爛れ、体内に致命傷を負っていた。12日間の苦しみの果てに彼は死に、そのがもはやいことが明された。人々は大いに悲しんだものの、サン・ジルレーモンはそれでも信じ続け、を保管し続けた。その後がどうなったか、私は知らない。もしかしたら、どこかの地で眠り続けているのかもしれない。また、それが本当にでなかったのか、私には分らない。ただいえることは、私は再びこの口を巡礼へと向けねばならないということだ。

々がアンティオキアを占領し、都市の中の異教徒を排除していると既にった使節が大軍を引き連れて都市へと戻ってきた。その軍はスルタンによって召集され、カルブカが長となっていた。このように包囲されたのは、々がアンティオキアを占領したそのに、々の多くが都市にいた女達と姦淫をしたからであろう。らの罪に罰を与えたのだ。

敵の軍が何度も都市を攻撃したため、々の心は挫折し、逃亡を試みるものが何人も出た。しかし、それでも々をお見捨てになることなく々を励まし続けた。逃げようとした祭の下にキリストが現れ言った。「逃げず、戦いなさい。私はあなた方が私の教会で祈りをげたことを知っている。故に私はあなた方と共に戦いましょう。これを戻って、皆に伝えなさい」祭は直ちに戻り、そしてこのことを皆に伝えた。逃げようとした兵士の下に既に殉教していた彼のが現れて言った。「よ、どこへ逃げようと言うのだ。恐れずにとどまり、そして戦え。は戦いの際はお前達に付き添うだろう。そしてこので既に殉教した仲間もまた、お前達と戦うだろう。」

食糧が尽きた々は三日の断食の後、々を助けてくださることを祈った。そしてまず例の隠者ピエールを敵方へ派遣し、々のうちの代表者が戦い、そしてその結果によってこの都市の支配権を決めようという旨の意向を伝えた。しかし、圧倒的に数において勝る異教徒の軍はこの提案を受け入れなかった。

の受より1098年と6ヶ、9日の前日、軍議によって翌、異教徒との戦いに打って出ることが決められ、深い祈りが行われた。

1098年、6月9日有能トルコ人の兵、アミルリスという名の男は、フランク軍が軍旗を翻らせながら前進してくるのを見ると、すぐさま戦闘が近いことを悟り君カルブカに報告するために彼の元に急いだ。アミルリスがカルブカのテントにはいると彼はチェスじていた。アミルリスが「何チェスなんかやってるんだよ!!敵が来てんだぞ?!もっと熱くなれよ!!」と言うとカルブカはたいそう驚き、「あいつら馬鹿なのか?死ぬのか?本当に戦いに来てるのか?降じゃなくて?」といった。「まだ戦いに来てるのかどうかは分らない。ちょっと待て。今調べるから」といって、アミルリスフランク軍を見た。フランク軍は整列し、騎手は高々と軍旗を掲げていた。そしてその中にはアデマール教の旗もあることを見ると、「やっぱり戦いに来てるみたいだ。本気の顔してる。」といった。カルブカはまさか戦いになるとは思っていなかったので「やっぱりあの提案、受けようかな、って思うんだ。うん。使者を送ろう」だがアミルリスは言った「遅すぎですよ。」

ミルリスはカルブカのテントを出るとを駆って走りながら逃げるべきか戦うべきか考えた。だが、彼は戦うと決めた。「もがを引かねばならない。もが命をとして戦わねばならない」と。彼は仲間を鼓舞し、戦いの準備を始めた。

フランク軍がついに攻撃を開始し、トルコ兵全てをしく攻撃した。トルコ兵は慣習どおりちりぢりになって戦ったが、一部のものが逃げ出すとまた一人、また一人と逃げ始め、さらに矢と共に罰が彼らに降りかかり、彼らはの限り全で逃走した。フランク人は逃げる彼らを全で見逃さずに追い掛け回した。しかし、追いかけようにもフランク人のは極度の飢餓で弱っており、彼らを十分に倒すことは出来なかった。

その後フランク人は彼らが残していったもの、すなわち、らくだ、ロバ、矢を奪った。また、テントの中に入ったフランク人は、その中にいた女達をそのを突き立てて殺した。一方カルブカは逃走した。

戦利品を手にしたフランク人がアンティオキアのを讃えながら再び戻ってきた。このとき、すなわち10986月9日アンティオキアは再びかつての名と地位を取り戻したのである。


アンティオキアは既にったとおりの都市なのだが、第一回十字軍において最も長引き、そして最も最悪の包囲戦が行われた。飢餓に苦しんで人肉食を行ったものもいたと考えるのが普通である。

ちなみに、中盤で「不思議」というのが出てきているが、これは超新星爆発のことで間でも見えたとか。同時代の日本記録にも登場してしまった事。びっくりだね。

また、裏切った男フィルーズについては、イスラム側の史料には「キリスト教徒」と書かれ、キリスト側の史料には「イスラム教徒」と書かれる。自分達の同胞から裏切り者を出したくないのは当然のこと。

 死と、巡礼団の危機

アンティオキアで々が休息していた8月1日。これまで々を励まし、そして束ねてきた精的支柱であるピュイ教、アデマールはそのに永遠の安らぎを得ることとなった。

また、アンティオキ攻略の後、帝国将軍都に戻ることを決めた。彼が皇帝から命じられていたのは、あくまでロマニアの地の再征までであったからである。

このことからアンティオキアをが統べるかと言う問題が浮上し、ボエモンが「私の策略によってこの都市は落とされた。私のものだ」とし、軍の兄弟同士での争いも吝かではないとしたため、その他の諸侯はこの提案を受け入れてボエモンがこの地を得ることとなった。

これより巡礼団は次第に内部での裂を深めていってしまうことになる。つい先日までは共に戦っていたものたちが仲たがいをしてしまうとは、私自身、とても悲しいことであるがはこのことをどのように思ったのだろうか。私にはそれを知るすべがいのが、悲しい。


デマールの死因はチフスの感染。8月になると猛威を振るうので注意しましょう。

また、このアンティオキア占領の後、十字軍は中だるみを向かえ、自然消滅寸前までいく。諸侯も対立する。レーモンとボエモンは実際に戦闘までしている。

手紙

『尊敬すべき人にしてらの霊性の、教皇ウルヌス2世下に、ボエモン、サン・ジルレーモン、ロレーヌゴドフロワ、ノルマンディー伯ロベールフランドル泊ロベール、ブローニュ伯ユースタスは下に挨拶と、忠を誓いあげつつ、あなたが提案なされたの軍の行動お知らせいたします。々がいかにしてアンティオキアを攻略し、を侮辱し続けてきた邪悪なる異教徒を殺したかを。

々は1096年の出発より都を抜け、ロマニアでの異教徒との戦闘勝利で飾りながら進み、アンティオキアを包囲いたしました。この地で々は幾多の苦痛に耐えることを強いられ、また敵との戦いによって多くのものが殉教しました。ですが、その中でらのリストの名は高められていき、ついに10986月3日この都を陥落させ、さらにはテロ教会からまでも発見いたしました。ですが、々はこれまで包囲してきたトルコ人に、逆に包囲されてしまいます。々はその中で飢餓に苦しみましたが、の恩寵によって彼らも打ち破り、彼らの財産をことごとく略奪いたしました。その後、アンティオキアの内部の人びとをキリストの信仰へと変え、ついにアンティオキアは再びかつての栄を手に入れました。

ですがうれしいことには悲しいことが続くのが通例であるように、8月1日々の教、すなわちアデマールが死にました。ですので下、どうかこちらへ赴いていただきたいのです。この下の偉大なる演説によって始められました。そのが、下の名によって、そして下の統率によって終えられることが最も正しいことであると思われるからです。また、更に言えば々は異教に染まった邪悪な者たちは撃ち殺しましたが、しかしながら異端者共、すなわち、ギリシア人、アルメニア人、シリア人、ヤコブ信者を打ち倒すことは未だいません。ですので下、どうかこの地へ赴き、かつてテロが座した教座にお座りいただきたいのです。

これまであり、今あり、これからもある、永遠の統率者である下にかく命じられますことを。アーメン。』


エモンが中心となって書いたウルヌスへの手紙。援軍要なのかなんなのかは不明。中間報告と言ってもいい。

イェルサレムへの進軍

アンティオキアでの4ヶの休息の後、々は再びイェルサレムへの進軍を開始した。々はその途上にあるいくつかの都市攻略しつつ進んでいった。

一部のものはまずギベリンへ向かったが後にアルカスで本隊と合流した。そこを去り、トリポリへ向かい、さらにギベレットへ。ベイルートを通り、カナン息子シドンが建設したシドンを経由し、サレプタへと向かい、ギリシア神話アポロンの出身地ティールへ進んだ。そこからかつてはアッコンと呼ばれたプトレマイスから右手ハイファを望む地を後にしてドラを通り、キリスト誕生の時の王ヘロデの孫ヘロデスに食われたことで死んだカエサレアを進み、ラムレーを経由してついに々の的地、イェルサレムへと向かった。一方その途中、優秀な騎士100人ほどがキリスト誕生の地、ベツレヘムへと向かった。

私は、これまで聖書の中でしか知りえなかったキリストが歩き、教えた数々の地に脚を踏み入れようとしている。この感動はいつまでも忘れることが出来ないだろう。

そしての受より1100年から1年を引き、6月太陽によって暖められた、すなわち1099年7月々はイェルサレムを包囲するに至った。


散々苦しんだアンティオキア戦ののち、約3ヶイェルサレムまで進んでいる。この間にも諸侯は領土をめぐってしく争い、時には共闘した。

また、当時地図があるわけでも、ましてや「ここはアンティオキア」「めんそーれベツレヘム」などの看板があるわけがく、彼らは聖書を基にしてしている。後にはガイブックのようなものも作られたが、そこでも基本的に聖書を下に「ここがペテロ教座であるアンティオキア」などとしている。聖書、便利です。 

イェルサレム

このなる都市はまず、がその地を約束しなかった限りとても人が住むのに適しているとは言い難い。はなく、いている。だが人びとはそれゆえ多くのを保存し、の周辺にも貯池がいくつもある。都市で囲まれており、その西側には頑強な石造りの2対のダビデのが立っている。かつてのソロモン殿が建てられていたところには、かつての姿と較することは出来ないものの、それでも優美な姿の円形の殿が立っている。

墳墓の上には立な同じく円形の堂が立てられている。その屋根は先端がぽっかりと開き、太陽によって照らされるように職人によって素晴らしいつくりが為されていた。また、その中心には一見すると教会の外見を損なうような自然石がすえられている。

その自然石については、いくつかの謂れがある。これからることがこの書を読んだり、あるいは聞いたりする人が混乱しないようにあえて先に述べておくが、私の無知ゆえにどちらが正しいとは明確に記さない。

この自然石ゆえに殿は外見を損ねているように思われるが、この自然石には所謂、櫃、すなわちアークが収められているという。ユダの王ヨシュア櫃をここにおくように決め、そして「決してこの場所かららは運ぶことは出来ない」といったからである。これはヨシュアがその後に起こるバビロン捕囚を預言していたためであった。しかし、エレミヤによる書によればエレミヤはこの櫃をアラビアの何処かに隠したことと矛盾している。エレミヤは「多くの民が共に為すときまで、櫃を探してはならない」と述べている。ヨシュア王とエレミヤは同時代に生きたが、王の人生はエレミヤのそれよりも先に終えた故、櫃はここにはいのかもしれない。また、その不敬によってを怒らせたダビデ王の時代にこの自然石の場所に天使が現れ、人びとを打ち据えた。ダビデはそれを大いに畏れ、「罪を犯したのは私です。たちが何をしたというのですか」とに赦しをめ、はその偉大なる慈悲によってダビデを許し、そしてダビデと契約の書たる篇が紡がれた。

イエス・キリストはこの地で罪を贖ってくださったのだ。すべての人びとの罪をその一身に背負い、苦しみの果てに昇天なされ、そして3日の後、すなわち金曜の処刑より三日後の日曜復活なされた。々はなんとしてもこの地を異教徒の悪しき手より奪い返さねばならぬ。


ソロモン殿とは今の「岩のドーム」のこと。

櫃には笏と石版が収められているという。石版はモーセ神様からシナイ山でもらったやつ。旧約聖書を読むとここの意味が理解できると思います。また、聖書内での矛盾は「よくあること」なので突っ込んだら負け

墳墓教会現在も存続しており、ついこの間乱闘事件が発生した。いやはや。

金曜の処刑より三日後、というと月曜のように感じるものの、当時は金曜も1日として含むため、日曜が三日後となる。

この記事の基にしているフーシェの記録には深い感動が感じられ、これまで知識としてしか知らなかった地に自ら立っていることの喜びが各所に見られる。彼らは、その当時の旅人でありながら、旧約、そして新約の世界していた、とも言える。

巡礼の終焉

1099年7月13日イエス・キリスト十字架の上で人の罪を贖った週日である金曜日、それまでの幾らかの戦闘とその失敗の後、総攻撃が開始された。

その場で作った投石器や攻めの、破鎚などの機械を使い、を破るべくしい攻撃を行った。

そしての受より1099年と7月の15日、イェルサレム都市へと々の軍が進入し、「よ、を助けたまえ!」であるとか、「はこれを欲し給う!」と叫びながら中を走り回って逃げる敵兵達を次々と殺していった。中にはから身を投げるものもいた。ダビデのに立てこもるものもいたが、彼らもまた殺された。先に述べたソロモン殿逃げ込んだ者達もいたが、ついに殿が開けられ、フランク人たちが中へと入り込むと次々に首を切り落とし、殺しまわった。もしもこのときに、殺す側としてあなたがいたとしたら、あなたは溢れかえる血によって足首までく染められていたことだろう。兵が抜き身のを手に走り回り、容赦なく、命乞いをするものも殺された。老いも若きももはや関係なく、女性子どもとて兵は一人容赦しなかった。

人びとの頭はまるで腐った果実が揺さぶられて落ちるかのように、に吹かれた樫の機からドングリが落ちるかのように地に落ちた。

女も子どもも、老いも若きも関係なく、そして容赦なく殺されるというおぞましいが広がっていた。ある兵が敵のを切るとそのの中から貨が出てきたので、他の兵もそれに習って敵のを切り開いて貨を探し、さらに数日後にの山から貨を探すために死体を山のように、否、まさに山に積み、燃やした。さらにタンクレッド殿に入るとそこにある金銀宝石を占有した。しかし彼は後にこの殿を更に壮麗に修復し、奪ったもの以上の財産なる場所に戻した。

あぁ、どれほどこのときを切望したことだろうか!この事績の前に立つことのできるような誉れ高き事績が他にあろうか!すべてのカトリック信仰を持つものにとっての望み、そしての切望はついに果たされた!アブラハム契約を為した地、契約の地、約束の地、そしてキリストが生まれ、死に、復活した地、この世界の最もな地、イェルサレムはついに正しき達の手に戻された。

 

なる処女マリア精霊によって授けられた全てを統べるお方を生んでより1099年

7月は15回のを見たその日、イェルサレムキリスト教徒の手によって奪還された


イェルサレムを陥落させた十字軍ユダヤ教徒、イスラム教徒はキリスト教徒までも殺したとされている。

夢の終わり

私がここまで極見たままの、あるいは聞いたままの事を書きってきたこの物語ももはや達せられ、これをる口の周りにはかつてをした時にはかった皺も増えた。を見据えたも衰え、かつての手綱を握り、今は筆を握る皺の増えた手は震える。もはやこの罪深い人生も終わりに近づきつつある。かつて、そこで行われた凄惨な出来事を知らぬままに私は聖地奪還を喜んだ。今思えば、それは余りにも血に濡れたであったし、余りにも野蛮な行為だったのかもしれない。だが、それであったとしてもこの事績は幾多の困難を乗り越えて果たされた。と、人の手によって。これは揺るぎの事実であり、そしてそれは誉れ高い事なのだと私は信じたい。

私はこの物語の最後に、この物語の人びとについて、知りうる限り書いておこうと思う。

なるお方、イエス・キリストの名は今もあり、これからもあり続け、り継がれ、そして人びとから尊敬され続けている。

の発案者である教皇ウルヌス2世猊下はその存命のうちにはイェルサレムの復帰を知ることなく1099年7月29日昇天なされた。

私のよき友であり軍全体の支柱たるアデマールは既にったようにアンティオキアにて昇天してしまった。

イェルサレムは「墳墓の守護者」としてゴドフロワが手中に収めたが、彼も翌年には死んだ。後にエデッサ伯ボードヴァンが後継者として迎えられボードヴァン1世として即位したが、彼は1118年、死んだ。

帝国皇帝アレクシオスはボードヴァンと同じく1118年に死んだ。

アンティオキア陥落の前日にフランスに帰ったエティンヌ1101年にイェルサレムに再び戻ってきた。そして失った名誉を取り戻して異教徒との戦いの中で殉教した。

アンティオキアの支配者となったボエモンは1111年、アプリアで死んだ。

かつてレコンキスタの中で異教徒と戦い、軍の諸侯達の中のリーダーとなったサン・ジルレーモンイェルサレムの安定のため周辺諸を征していく最中、1105年にトリポリで死んだ。

例の隠者、民衆達を率いた男ピエールは故郷フランスに帰ったと聞く。

そして、何よりもその熱な信仰を持ち、軍の中心を為した名も知れぬ人びとは、今尚、その信仰を保ち続けている。願わくば彼らの信仰が祝福に満ちたものであらんことを。

もはや私も死を迎えつつある。

罪深き私にも、の慈悲が与えられ安寧の眠りが与えられることを祈りつつ、このイェルサレム墳墓教会を見上げる地にて筆をおく。アーメン


最後にどうしてもいっておきたいことがあります。十字軍とは、侵略でした。侵略であり、虐殺であり、略奪でした。ですが、そのことから十字軍に参加した人びとや、キリスト教信仰が誤りであるということは出来ないと思います。彼らの信仰は々から見れば過ちだったのかもしれませんが、彼らにとってそれは正しいことでした。この記事の基となっているフーシェ自身も、虐殺や略奪については極めて批判的であったということが読み取れます。彼らの行動が正しいかどうかと言うことはおいて、彼らの信仰については認めてあげてほしい、とは思っています。

それでも尚、批判するならば、あるいはそこから何か、自分の研究を見つけるのであれば、それは素晴らしいことだと思います。ですが、その際は必ず勉強をしてください。キリスト教とは何か、信仰とは何か、と言うことを勉強して、そして批判してほしい、新しい研究への礎となる批判をしてほしい、とは思っています。最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。

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