銅鏡 単語

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ドウキョウ

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銅鏡(bronze mirror)とは、で出来たの総称である。

概要

現代では反応を利用して硝子の裏面に鍍を施したものが一般的に利用されているが、この技術は19世紀以降のものであり、錫アマルガム法によるものも14世紀以降である。
古代ではまだそれらの技術は未発見であったと考えられており、各地から出土するや錫、水銀などが直に利用されている。

材料としては古代で広く持ちいられており、エジプトでは紀元前30世紀前後に造られたと推定されている銅鏡が発見されている。またインダス文明域では紀元前29-25世紀に円形の銅鏡が製造されていたとされる。また欧州では前4-3世紀のエトルリア製と見られるものや、イングランドでは器時代のものと見られる銅鏡がリザード半島(The Lizard)で発見されている。

日本国内からも多くの銅鏡が出土しており、弥生時代から古墳時代の遺跡で多くの銅鏡が発掘されている。出土するは、大陸からの輸入品である舶載鏡はくさいきょう産の仿製鏡ほうせいきょうに分類される。特に東アジア各地で出土した銅鏡には魔鏡(透)と呼ばれる特殊な性質があることで知られている。これは面にを当てて反射させた時、その反射の照射面にの裏側に彫り込まれた文様が薄らと浮び上がるというもので、この性質から銅鏡をオーパーツの一種と考える説もあるが、中国では前漢代からこの魔鏡が製造されており(透鑑の名で知られる)、既に知られていた技法である可性が高い。

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中国で発掘された銅鏡

中国における銅鏡の歴史は紀元前20世紀に遡るといわれ、殷代には葉脈文と呼ばれるタイプとして祭に用いられていたとされる。最古のものでは新石器時代末期から器時代初期に掛けて繁栄した文化のものと推定される、同様の青銅鏡が出土している。この青銅鏡には内向きの中を斜線で埋めた三角形が円周に沿って二重に書き込まれており、後代のものよりはシンプルデザインが採られている。こうした期限を古く持つ遺物が発見されているものの、戦国時代以前の銅鏡は僅か20余りが知られているのみとなっている。

戦国時代に入ると中国で銅鏡は一層ポピュラーなものとなっていき、デザインもより精巧なものを向するようになっている。代にはTLV鏡(TLV mirror)と称されるタイプの銅鏡が導入され、量産された。の裏側にアルファベットのT、L、Vとよく似たシンボルが多く刻印されている事からこの名が付いたもので、推定年代はほぼ前漢後漢の時代と一致している。
また、これらTLV鏡には鈎シンボルの他に、その間を埋めるように唐文様に似たパターン伝説上の生物などをったと思われる彫刻が施されている。これらの図画は古代中国宇宙観を表したものであるとする説や、古代中国ボードゲームである六博の盤(局と呼ばれる)として造られたものであるといった説が立てられている。

銅鏡に刻まれた銘文

前漢以降の銅鏡には漢文による銘が刻印されたものが多くあり、通例円周に沿って刻まれている。この円周は圏と呼ばれ、二重にる場合はそれぞれ内圏、外圏と呼び分けている。

古代文字資料館』で開されている代のものとされる小銅鏡には次のような銘文が刻まれている。

銅鏡1、銅鏡2
「見日之下大明」

銅鏡
内圏
「姚皎燿美、得並執不衰、精照折君」
外圏「内清質以昭明、夫日、心願忠、然雍塞

銅鏡4
「湅冶明、之為因宜文章、延年益去不、楽未央

いずれも銅鏡が日に照らされて放つを誇り、称える内容が含まれていることから、これらの銅鏡が当時の人々に生活用品としてではなく祭器・宝具の類として重用されていたことが伺える。上に挙げた銘文が刻まれた4つの銅鏡はいずれも記銘文が体であり、そのサイズ故かTLVや文様などの各種シンボルパターンは息を潜めているが、中央に鋳られた半球体はTLV鏡と共通している。
これら小銅鏡は日本国内や朝鮮半島でも数多く発見されており、舶載鏡か仿製鏡かを巡って議論が交わされてきている。

種類

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日本で発掘された銅鏡

日本で発掘された銅鏡は独自の分類が為されている。鐸と並ぶ重な考古学的資料として扱われており、宝または重要文化財に定を受けているものも多い。

種類

日本で発見された銅鏡の種類には次のようなものがある。

年号が付された銅鏡を特に紀年銘と呼ぶ。

◆銅鏡の他にも、製のである較的少数ながら出土しており、金銀錯嵌珠などの名で知られる。この卑弥呼壱与が所持していたとする説や、記紀に登場する八咫のであると見做す説も存在する

※『曹操集訳注』には、「皇帝をあしらった皇后皇太子をあしらった、以下の人たちは、金銀を用いないを持った」という記述が見られる†。またが発見された大分県日田市ダンワラ古墳からは帯鉤と呼ばれる帯に装着する具も出土しており、これらを当時と共に卑弥呼が所有していたとの説が流れている。また史書に記述はいが、元々曹操の所有物であった卑弥呼が何らかの形で譲り受けたという仮説もある。
†『曹操注』安徽毫県「曹操集」注小組「御物有尺二寸金銀一枚皇后雑物用純錯七寸四枚、皇太子雑純錯七寸四枚、人至九寸四十枚」

舶載鏡と仿製鏡

倭人伝』には次の記述がある。

直又特賜地句文錦三匹細班罽五五十金八五尺二口銅鏡真珠丹各五十

また特にには地句文錦三匹、細班罽五五十匹、金八両、五尺二口、銅鏡枚、真珠丹各五十斤を与える。

これは初二年(238)六月に倭の女王から派遣された使者に、同年十二月、詔書が倭の女王に報いた旨を書いたものとされており、から倭に下賜された品の中に銅鏡枚が含まれていた事が読取れる。詔書の終わりには「故鄭重賜好物也」と記されており、「好物」と書かれていることから銅鏡を含む下賜品が特に上質の逸品を選りすぐったものであったとも受け取れる(これらの品が倭側の要によるものだった事を示唆しているという説もあるが、「好物」が好みの品を意味するのは後世の内での用法である)。

中国からの製品の輸入は古代では盛んに行われていたものと考えられており、こうした記述からも日本各地で出土された銅鏡の内少なからぬ割合のものが舶載鏡であると推定されている。だがこれらの銅鏡がいかなる大きさであったか、どのような種類のものであったか、等の詳細については他の下賜品同様詳述されていないため、内でこれまでに出土した遺物の内に倭人伝に記されたが含まれているかは依然定かではない。そうした事もあり、内で出土したの内どれが舶載鏡でどれが仿製鏡かを巡ってはかねてからの争点になっており、これらを判別する明確な分類法が存在している訳ではない。
特に前漢以降の銅鏡は篆体文による銘が施されているなど、仮にこれらが仿製であった場合、同時代の日本国内でも漢字が用いられていた事になり、漢字の伝来を巡る従来の定説を覆す議論にも発展しうる。論銘文をシンボルまたは文様の一種と看做し、見様見真似で刻んでいた可性や、銅鏡の製造に関わった一部の技術者のみが漢字を扱えていた可性もあるため、それらが仿製である事が即ち当時の日本国内で漢字が盛んに用いられていた事を確する訳ではない。

また考古学的定説として、舶載鏡はより精巧に造られている一方、仿製鏡はこれを模倣したためクオリティの面でやや劣るという学説が流となっている。これに対して三角縁神獣鏡など日本国内で多数発見されているにも関わらず大陸側ではど出土していないタイプの銅鏡の存在から、日本国内でも精巧な銅鏡が製造されていたとする説を唱える研究もいる。この部分については特鋳説(それらの銅鏡を中国側が倭への下賜の為特別に誂えたものだとする考え)などが出されているが、論争は未だ決着を見ていない。

※定説では日本への漢字の伝来は4世紀後半〜5世紀とされている。

三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡は日本古墳特有の遺物である(近年一枚のみ大陸での発掘報告あり)。そのため上述の「卑弥呼の銅鏡」にもされてきており、出土地域も畿内が中心であることから邪馬台国畿内説の支持者にも自説を裏付ける物としてげられることが多い。一方で枚という記述に反し三角縁神獣鏡の出土数はあまりに膨大(これまでに約540点が内で出土)であることからこれを倭人伝の記述とは関係とする説が九州説側の支持者から発表されている。
しかし倭ないし邪馬台国を始めとする中国の交易は初三年のそれに限られておらず、倭人伝でも240年前後に同様の銅鏡下賜が為されていた事が次の記述から伺える。(正始元年 太守遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭 拝仮倭王 并詔 賜帛錦罽采物 倭王因使上表 答謝詔恩)
のように複数回に国家間交渉により多数の三角縁神獣鏡が大陸からされた可性は史書の記述から十分に想定される。

※これらは全て別物ではなく、同笵(同じ鋳から製造した)を多く含んでいる。

また内で発掘された三角縁神獣鏡には漢字が記されているものがあり、以下のような銘が篆体で刻まれている。

吾作明竟【君】大好 浮由【官】下 ■四【高】 用同 至東【宜】

■作明竟煉三剛 出徐州師出陽 彫文刻鏤皆作文章 配徳君子清旦明
右虎転生有名 師子辟邪集会並 王游■聞■ ■■子孫

陳氏作甚大工 荊周■用同 君宜高官至東 保子宜孫

陳氏作竟甚大好 上有越守(及)虎 身有文章口銜巨 古有聖人
渇飲玉食棗

■始元年 陳是作 自有経述 本自州師 地命出 寿如石 保子■■

初三年 陳是作 自有経述 本是師 地命出 吏人銘之位至三 人銘之保子宜孫 寿如

これらの銘文には「陳氏」「陳」といった当時の中国にも存在していた氏姓や、初・陽といった当時の中国で用いられていた年号・地名が記されており、三角縁神獣鏡が仿製であったとしてもこれらの銘文は日本国内の支配者や職工が考え出したものではなく、舶載鏡に記されていた銘文をそのまま模倣した可性が濃厚である。

邪馬台国畿内説を取る側にとり、三角縁神獣鏡をその物とするにはそれらがである事を明する必要が出てくる。これについては長年の争点となっている。初三年や■始元年(■が正であれば正始元年となり初三年の翌年に当たる)といった年号はこれが製造年であれば正しく倭人伝の年代に当たるため、三角縁神獣鏡がである事を支持する1つの手掛かりになる。また近年の畿内説学者からは次のような発見があったと報告されている。

(上略)──ところで、先生は畿内説に関する決定的な発見をされたとか。

 福永 はい。三角縁神獣鏡が、でつくられを発見しました。実は、三角縁神獣鏡は中国では1枚も出土していないことから、それまでは、日本で独自につくられたのではないか、とかと対立したの工人の手によるものだという説があったのです。

──どのようにして発見されたのですか?

福永 20年ほど前に、三角縁神獣鏡のまん中にあるひもを通す(鈕孔:ちゅうこう)の形が、中国の銅鏡の中ではしい長方形をしていることに気付いたんです。それからは、各地で出土したばかり観察して歩きました。3年くらいかけて千数枚は見たでしょうか。
その結果、三角縁神獣鏡の長方形鈕孔が、の中でも皇帝直属の工房の工人に特有な技術であると突き止めたんです。

──り強さの勝利!大発見だったのですね。

福永 こういうささいなところから大きなことを発見することが、まさに考古学醍醐味といえます!

一方、邪馬台国九州説を支持する側は次のようなにより三角縁神獣鏡が卑弥呼であるという説を退けている。

は、後漢の官営工房で作られてものである。これは後漢の権威を継いだ存在であることを示すためであった。したがって後漢の官営工房製作された後漢であり卑弥呼が貰った後漢であったはずである。前期古墳の副葬の状況を見ても、後漢内に置かれ最も重要なとして扱われている。これに対して三角縁神獣鏡は外に置かれている弥生時代後期以来、最も権威あるであったのは後漢であり三角縁神獣鏡は卑弥呼ではない。

古事記など日本古代文献に上位支配者(天皇など)が、属した族にを配ったという記述はい。反対に属した族が天皇げ、属の意を示したという場面は描かれている三角縁神獣鏡は外から何十枚と副葬された状態で発見されることが多いが、これは属した首長から古墳の被葬者である王にげられたものと解釈できる。このことから考えて、三角縁神獣鏡は当時、地域の首長クラスの支配者が持つことができたであり、卑弥呼とは考えられない。

九州地方の3世紀後半の文化所産は貧弱になると言われてきたが、吉野ヶ里遺跡の発見でその定説は覆された。吉野ヶ里遺跡のような物見櫓や北内殿、倉庫群などを備えた大規模な環濠集落が3世紀後半の北部九州に存在することが確かめられた。

このように三角縁神獣鏡の生産地、製造年代を巡っては邪馬台国論争との関わりから盛んに議論が行われてきている。

方格規矩四神鏡

古墳時代前期の方墳からは方格規矩四神鏡と呼ばれるが出土しており、これは先述のTLV鏡の一種で、TLVのシンボルに加えて中国伝説上の生物である四神を配したものである。出土地は京都府大田南にある五号墳で、三九字からなる銘文が刻まれている。
この内で発掘された紀年銘の中では最古のものと推定されており、紀年も倭人伝に記されている初三年の四年前と近く、同じく紀年銘である赤烏元年(鳥居古墳出土、現在山梨県一宮浅間神社所蔵)と並んで三時代の中国との交流によりされた器であるとの説が有である。一方発見員数は僅かであり、卑弥呼に贈られた100枚のの内の一面であればその大半が毀失または未出土という事になる。

銘文は次のようなものが刻まれている。

尚方作竟大好上有山人不知老渇飲玉飢食棗浮游下放四石為

尚方作竟□□□人不知渇〓汎食□□□□□□□□□寿敞

有善……左右虎至四……朱爵(玄武順陰陽……

桼言之紀従始、長保二親和孫子、辟去不古市、寿如石西王今以往楽

ここでは初○年や陳氏といった文言は現れず、四や西王といった中国伝説上の存在や仙思想にわる事物に因んだ記銘文となっている。

画文帯神獣鏡

画文帯神獣鏡は方格規矩鏡よりも後代に製造されたと考えられており、大陸では3世紀に製作されたと考えられている。日本では5世紀後半の古墳から出土することがある。日本国内では約150面、中国では約80面出土している。画文帯神獣鏡の特徴は体の縁がらになっている事で(縁式)、三角縁神獣鏡の名の由来にもなっている三角縁式とは明確に異なっている。

大阪府和泉市にある和泉黄金古墳から出土した画文帯神獣鏡は半時計回りに「初三年、陳是作詺、詺之保子宜孫」と記銘されている。やはりこれも初三年、作者は陳なる人物となっており、倭人伝に記される詔書の年が刻まれている。

多鈕細文鏡

多鈕細文の裏面に紐を通す鈕(ちゅう)が2、3個付いている銅鏡で、直線および円曲線による細密な幾何学紋様が施されている。このタイプ朝鮮半島を中心にして各地に広まったと考えられており、日本国内でも弥生時代中期頃のものと推定される遺跡から発掘されてきている。

  • 多鈕細文な特徴は以下の通りである。
    • 鈕(紐を通す孔)が複数設けられている
    • である
    • 漢字による銘文は刻まれていない
    • 非常に細密な幾何学紋様が隙間なく施されている

多鈕細文内よりも朝鮮半島からの出土が多数を占めているが、内の物には重弧文と呼ばれる同心半円を連ねた独自の文様が刻まれており、内でも製造が行われていたと推測されている。

銅鏡の製造年代および製造地を巡る様々な仮説

三角縁神獣鏡が邪馬台国に下賜された「卑弥呼」であるか否かを巡って提出された説がである。

伝世鏡説

伝世説は、銅鏡、特に三角縁神獣鏡が製作されてから墳墓に副葬されるまで数世代にって継続的に使用されたと考える仮説である。分与されてから数代の首長が伝世して用いていたとする事で、代の紀年銘のある神獣鏡古墳前期の前方後円墳に副葬されていることなどを説明付けており、邪馬台国畿内説を唱える学者から提唱されている。

伝世説を考える際に当たってまず生じる疑問としては、「なぜ幾世代にもって用いられたのか」という点である。これについては提唱者から次のような想定が為されている。

や玉の伝世が、首長の地位の徴にもなりえたのは、伝世が使用の継続を意味したからであろう。伝世の器物の使用とは、それをもってまつることの継続であった」

「伝世の宝を献上して従をあらわし、保身をねがう首長のあった」

舶載鏡として渡来した銅鏡が各地の族に分与され、そこで重宝されたとすればこれを何世代にもって使用し続けるという事は全く考えられないことではなく、また銅鏡の耐用性からいっても不可能ではないが、何世代にも掛けて使用したものを特定の代で副葬品として用いると言った事は、どのような理由によってそれが行われるのかといった説明が困難である。

同笵鏡説

同笵とは「鋳が同じ」を意味しており、同じ鋳から製作されたと見られる同士を同笵と呼んでいる。特に三角縁神獣鏡について、これと同が各地で出土していることから、大和政権が全を及ぼす際に、古墳の被葬者が各地の族に神獣鏡を配布したのではという仮説が立てられた。

伝世説と同笵説は同じ人物によって提唱されており、同じ鋳から造られたを全に配る→配られた先で幾世にもって使用→ある代で副葬品として埋られる というのが二説を合わせた時の基本的な流れになる。

同笵説は銅鏡のみならず鐸についても同様の論説が行われており、複数の遺跡に跨って同じ鋳から成されたと見られる器が出土している例が挙げられてきている。一方こうした鋳の使い回しは石製鋳であれば可だが土製鋳では鋳造の度に鋳を破壊するため同笵器が存在し得ず、また鋳自体も出土することはないという。

特鋳説

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e国宝exit … 内で発掘された銅鏡が閲覧可

デジタル邪馬台国exit … 邪馬台国九州説に基づき銅鏡など含め解説している。

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