「霍弋」(カク・ヨク ? ~ ?)とは、三国時代の蜀漢の武将であり、蜀漢滅亡の際に主君劉禅が礼遇される事を確認するまで降伏しなかった気骨の士である。
字(あざな)は「紹先」。
荊州南郡枝江県の出身で、父は働き盛りでの死を劉備がたいへん悲しんだ事で知られる蜀漢の隠れた名将「霍峻」。
劉禅の謁者として仕え、諸葛亮からその才能を認められて諸葛亮の養子の諸葛喬と共に各地を見聞して回った。
諸葛亮の死後に黄門侍郎となり、皇太子の劉璿(劉セン)を補佐し、劉璿(劉セン)が政に興味を示さず騎射にかまけていた際に諌めている。
その後は、永昌郡太守として南方の異民族を討伐したり、建寧太守に就任した後に安南将軍に任命され益州南部の軍の統括を担当した。
劉禅が、成都に進撃してきた鄧艾(トウ艾)に降伏すると、速やかに降伏すべきだと言われながらも三日間喪に服し、
今、交通は断絶して主君の安否が分からないので、重大な決定や身の振り方を決めてはいけない。
もし陛下が魏と和睦していれば、周辺を鎮めてから降伏すれば良い。
もし陛下が辱めを受けるようであれば、死を覚悟の上で抵抗するつもりだ。
と答え、劉禅が洛陽に移送され、先祖代々の土地である幽州の安楽公に封じられた事を知ってから南方の六つの郡をとりまとめて魏に降伏した。
霍弋の冷静沈着な対応は、司馬昭も感心した程のしっかりしたものだった為、以降は司馬昭の信任をうけて南蛮の平定に尽力し、交州の三郡を平定して列侯に封じられた。
建寧の太守として登場し、蜀滅亡の際に正史と同じ展開で魏に降るあいかわらずの冷静沈着な人物となっている。
※その他「霍弋」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照
▼新生劉禅軍で親子揃って軍事に内政に活躍する架空戦記「春秋戦国三国志」
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志 | - | - | - | - | - | ||||
三國志II | - | - | - | ||||||
三國志III | - | - | - | - | - | - | |||
三國志IV | 69 | 71 | 65 | 52 | 65 | ||||
三國志V | 70 | 63 | 47 | 65 | |||||
三國志VI | 67 | 60 | 67 | 49 | 63 | ||||
三國志VII | 76 | 64 | 74 | 65 | |||||
三國志VIII | 68 | 62 | 70 | 72 | |||||
三國志IX | 73 | 70 | 72 | 73 | |||||
三國志X | 71 | 67 | 70 | 71 | 74 | ||||
三國志11 | 73 | 69 | 69 | 74 | 74 |
関連人物 |
|||
掲示板
11 ななしのよっしん
2015/08/13(木) 19:28:59 ID: DU1+T81Tt9
>>9
鄧艾が蜀に留まって呉征伐をやろうとしたことも考えると、蜀の供給能力はかなり高かったのかもしれない
戦争している国だからこそ生産効率上げるための投資はしっかり行っていたのだと思う
第二次大戦中に日本が朝鮮や台湾への投資を増やして重工業を発展させたことと似たようなものか
蜀と魏の戦いは基本蜀軍が魏領に侵攻して、蜀領が荒らされたわけではないから、供給能力が落ちることもなかったんじゃないかな
ただ蜀郡など北の方は李厳伝などから大規模な開発が行われたことが分かるが、馬忠以降の歴代の統治者が上手く統治して南方民から慕われたという記述はあっても、それが公共事業による需要と供給の拡大に伴う生活水準の向上だったかどうかは分からない
12 ななしのよっしん
2015/12/02(水) 09:44:38 ID: YwLmkuIbw4
諸葛喬に加えて羅憲傅僉辺りの蜀漢若手将校による中華探訪記、みたいなお話を妄想した事はあった
13 ななしのよっしん
2021/10/22(金) 07:10:27 ID: zz4gGlmlHX
今さらだけどゲームでの能力値低いよなあ
演義補正だけで出陣もしてない劉諶と大して能力変わらないって何だよ
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/25(木) 15:00
最終更新:2024/04/25(木) 15:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。