カルロス・ハスコック(1942年5月20日 - 1999年2月23日)とは、アメリカ合衆国の軍人・狙撃手である。
シルバースター、パープルハート章を受章。最終階級は1等軍曹。
概要
本名、カルロス・ノーマン・ハスコックII世(Carlos Norman Hathcock II)。
ベトナム戦争の中で海兵隊の狙撃兵として戦闘に参加していた。ベトナム戦争で活躍した米海兵隊の狙撃兵の中でも、最もその名を知られている。
愛用の迷彩用帽子に白い羽を留めていたことから『ホワイト・フェザー(White Feather)』の異名で知られる。
狙撃手としてはシモ・ヘイヘと双璧を成す名手。
さまざまな逸話が残っており、それぞれが伝説として語り継がれている。また、事実は小説より奇なりを地で行くようなことをやっているため、小説・映画・漫画などの元ネタにされる機会が多い。
生涯
1959年10月、アーカンソー州リトルロックにて生を享ける。幼い頃から海兵隊に入隊する事を夢見ており、17歳にして入隊を果たした。
入隊後は狙撃手の適性を開花させ、各地の基地で厳しい訓練を重ねてその能力を高めていった。
狙撃訓練課題のコースでは250ポイント中248ポイントという、とんでもない記録を叩き出した。尚この記録は50年近く経った現在においても破られていない。
1965年のライフル射撃競技大会では、23歳にして全米の選りすぐりの名手が集った中で優勝。この時点で世界的に見ても彼に射撃で勝てる者はいなかっただろう。
そして同年、彼は戦争が泥沼化したベトナムへむかう。
ベトナムで教官への道に
ベトナム配属後、諸所の理由により後方部隊にいたが、新設される射撃部隊の教官要員として選抜される。しかも指揮官の意向である「戦場での経験こそすべてだ!」により、教官要員全員がいきなり最前線に放り込まれる事というハードモードだった。
放り込まれたその場所は、地形がひどく、地の利を持ったベトコンからの狙撃が絶えない場所であった。しかし放り込まれたカルロス達はその裏をつき、射撃ポイントと考えられる場所を一つずつ潰し、ベトナム共和国軍を指導支援。なおかつ空軍パイロットを撃墜、捕虜にしては拷問をかけていたイカレおフランス野郎フランス人指導将校を狙撃するなどしたところ、1日あたり30人ほど狙撃されていたのが、週に1人程度まで激減していた。
この時期に教官チームが策定した狙撃兵教育プログラムにおいて用いられた概念が、現在もアメリカ海兵隊の狙撃手の代名詞として残る『One shot, One kill(一撃必殺)』である。
象徴である白い羽はベトコンを恐怖のどん底に叩き落とし、『ドゥ・キック・ロン・チャン(白い羽の狙撃手)』と呼ばれ恐れられた。
白い羽はチキン(臆病者)を意味し、嘲りの意味を込めて用いられる。カルロスは「射撃手に求められるのは臆病なまでの慎重さだ」と語っており、皮肉を込めて己のトレードマークとした。なおカルロスのこの持論は漫画『ゴルゴ13』の設定にも用いられている。
またカルロスにあやかって自分も白い羽を身に着けたり、戦闘後に敵兵の死体の傍らに羽を置く海兵隊員もいたという。
3日間に渡る匍匐前進
極秘指令により、さるベトコンの将軍を狙撃することになった時、たった一度だけその白い羽を外したと言われている。
作戦が行われたのは敵地のど真ん中。
ベトコンによる厳重な警戒網が敷かれたジャングルの中を、カルロスは匍匐前進して進んだ。その時の飲食物は小さな水筒に入った水のみ、排泄物はすべてズボンの中に垂れ流しだった。
この状態でカルロスは3日間を掛けて1km以上の距離(1時間かけて1m進めない事もあった)を移動して敵地に接近、そしてターゲットを狙撃することに成功したのである。
任務が終わり帰投した時には服はズタズタ、体中が擦過傷と虫刺されによって全身が水ぶくれを起こしていた。ただしあくまでも極秘任務だった為、これに対する褒賞はなかったという。ひどい。
懸賞首に、しかし
その凄まじい戦果と脅威から、ベトコンから3万ドル(現代の価値に換算して1億2000万円)というトンでもない額の懸賞金をかけられる事になる。
しかしカルロスを止められる者は現れず、結果として確認戦果で93人のベトコンを射殺した。
しかしこれはあくまで確認戦果であり、ジャングルであったため確認できなかったものを含めると300人以上を狙撃しているとされる。
Cat and Mouse
手を焼いていたベトコンはカルロスを仕留めるために、12人の狙撃手を送り込んできた。その中に『コブラ』という通称の狙撃手がいた。それは紛れもなくヤツ……ではない
コブラはカルロスを仕留めるために茂みの中に身を潜め、カルロスをおびき出す為の囮作戦から彼が帰投するのを待ち伏せていた。
やがてカルロスの姿を確認し、予定通り銃を構え、スコープを覗き込むコブラ……しかし、カルロスは何を思ったか銃を構えだし、あろうことかコブラを狙い撃ちにしたのだ。
この時、カルロスは450mはなれた狙撃手の存在に気づいたのである。きっかけは些細な事だった。密林の中でスコープが光を反射したのである。
それに気づいたカルロスはすぐさま射撃姿勢に移行、反射光を目掛けて一発の弾丸を放つ。放たれた弾丸はスコープを貫通、覗き込んでいたコブラの眼球を貫いた。
コブラの死亡確認を行った観測手はカルロスを褒めちぎったが、カルロスは冷静に
と言った。
後にこの死闘は「Cat and Mouse」と呼ばれるようになり、人口に膾炙している。
この逸話はディスカバリーチャンネルの『怪しい伝説』で検証され、一度は不可能とされた。しかし再検証の声があり、その結果「非常に困難で不可能に近いが可能ではある」とされた。
エレファント・バレーの戦い
ここまで来ると最早マンガのキャラとしか思えないカルロスの逸話の中でも、群を抜いて出鱈目な実話が『エレファント・バレーの戦い』である。
友軍が通称『象の谷』と呼ばれる地域に取り残され、敵軍の1個中隊(約200人)に包囲されつつあるという絶望的な状況を、観測手と共に5日間食い止めた。
指揮官と通信兵を最優先して狙撃して指揮系統を混乱させ、最終的には援護に来た空軍に支援爆撃を依頼、友軍と共に撤退に成功。空軍に連絡を取った時点で敵軍の作戦遂行能力は喪失、組織的な行動さえままならなかったという。まさにオーバーキルである。
その他の伝説
- スコープを装着したM2機関銃を使用して距離2300mでの狙撃に成功。
補足すると、M2は重機とは言えど長距離弾道性が良かったので、朝鮮戦争での山岳戦で据付の長距離狙撃銃として使用された記録が残っている。また、後のフォークランド紛争でアルゼンチン軍が長距離狙撃銃として効果的に使用し、高価で数の少なかった対戦車ミサイルでしか対抗せざるを得なかった英国軍を苦しめ、対物ライフル開発のきっかけになったりしている。なお、この記録は2002年のアフガニスタンにおけるマクミランTAC-50長距離狙撃ライフルによる2430mの狙撃が成功するまで、35年間破られることはなかった。 - 車両で移動中に対戦車地雷を踏み、車両は爆発炎上、カルロスも重症を負ったが、炎上した車内に取り残された同僚を救助しようとした。数名を車内から引きずりだし命を救うが本人は意識不明となってしまう。早急に本国に運ばれ、13箇所の皮膚移植に耐え地獄の淵から生還。しかしその代償は大きく、一線を退く事になる。
- 教官在任中に民間人を狙撃する事を提案した訓練生を、即刻本国に叩き返した。
退役と晩年
その後は教官職に就き後進の育成に力を注いでいたが、多発性硬化症の発症により、1979年に海兵隊を退役。退役後の年金支給額の勤続年数に55日足らず、50%の年金しか得られなかった。長年の貢献にも関わらず、海兵隊から追放されたように感じて落ち込んだ時期もあったという。
しかし悪化してゆく病状を妻の協力によって隠しながら、軍や警察などへ射撃に関するアドバイスを行ったり、退役軍人のパーティーに出席したりと余生を楽しんでいた。
晩年にはシャークフィッシングに楽しみを見出し、自分の名を継いだ息子(海兵隊員)を始めとした家族に看取られながら56歳で亡くなった。
彼が残した功績は『狙撃』という特異な任務の礎となっており、その重要性が世に広まるきっかけを作ったともいえる。今日の狙撃手があるのも、彼の功績と努力があったからと言われている。
カルロスが残した有名な言葉に
私は射撃が好きだし、狩猟を愛している。しかし、殺しを楽しんだ事はどんな相手だろうと一度も無い。それは私の仕事だった。もし私が敵を仕留めなければ、彼らは私の後ろにいる沢山の子供たち―我々が海兵隊の格好をさせていた―を殺していただろう。私に選択の余地は無かった。
がある。
彼は殺戮を好むただのノータリンではなく、与えられた任務を遂行する一兵士であった。しかし彼が戦いの中で遂行した任務は、完璧であった。残した物は大きかった。
題材となった作品
- 映画「山猫は眠らない」 - 主人公のモデルがカルロスとされている。
- 映画「プライベート・ライアン」 - 狙撃手同士の戦闘のモデルにしたと監督が発言。
- 小説「スワガー・サーガ」シリーズ - 主人公のボブ・リー・スワガーのモデル。
- 漫画「ルパン三世」 - 『Cat and Mouse』を題材としたエピソードがある。
- 漫画「ゴルゴ13」 - ゴルゴの設定、戦闘描写においてカルロスの影響を受けている。
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関連項目
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