ジュピターアイランド(Jupiter Island)は、1979年生まれのイギリスの元競走馬・種牡馬。
1986年の第6回ジャパンカップを制し、イギリス調教馬として初のジャパンカップ優勝馬となった。
主な勝ち鞍
1983年:セントサイモンステークス(G3)
1985年:ジョンポーターステークス(G3)、ハードウィックステークス(G2)、コンセイユ・ド・パリ賞(G2)
1986年:セントサイモンステークス(G3)、ジャパンカップ(GI)
概要
前半生(~4歳秋)
父St. Paddy(セントパディ)、母Mrs. Moss(ミセスモス)、母父Reform(リフォーム)という血統。馬名は誕生した際に生産者が滞在していたフロリダ州の地名に由来する。1歳時のセリでイギリスのクライヴ・ブリテン調教師に1万ギニーで購入され、そのままブリテン師の管理馬となった。
デビュー戦は6ハロン戦を使われて14着に敗れ、その後も段々と距離を伸ばしながら使われたが、結局勝ち上がったのは3歳7月の12ハロン戦でのことだった。その後は重賞戦線に進まず、重賞がない裏街道であるハンデ競走路線に進んだ。ここでは4歳9月までに14戦して、この路線の大レースであるイボアハンデキャップを含む6勝を挙げたが、流石に140ポンド(約70kg)弱の斤量を背負わされるようになると、ブリテン師も手応えを掴んだのか重賞路線へ進むこととなった。
そこで早速10月のセントサイモンS(G3)に出走。2番人気に支持されると、直線では末脚鋭く差し切って快勝を決め、重賞初勝利を挙げた。
足踏み(5歳)
重賞制覇で躍進を期待されたジュピターアイランドだったが、5歳始動戦のジョン・ポーターS(G3)はいきなり4着という幸先の悪いスタート。ジョッキークラブS(G2)でもアタマ差の2着に敗れ、続けて出走した非重賞レースこそ勝ったものの、ハードウィックS(G2)でも2着、フランスに遠征したモーリス・ド・ニュイユ賞(G2)では4着に敗れてしまった。
その後イギリスに戻って出走したキングジョージVI世&クイーンエリザベスSでは前年の英ダービー馬Teenosoの6着に敗れ、再びフランス遠征したドーヴィル大賞(G2)も3着に敗れた。更にイギリスに戻って出走したカンバーランドロッジS(G3)、セントサイモンSで連敗し、結局この年は重賞未勝利に終わってしまった。
だがジュピターアイランドは、この翌年から強さを増すことになるのだった。
晩成の大器(6~7歳)・後半生
6歳を迎え、前年と同じジョン・ポーターSから始動したジュピターアイランドは、ここをクビ差で勝利。その後のジョッキークラブSは3着に落としたものの、1番人気に支持されたハードウィックSでは人気に応えて重賞2勝目を挙げた。しかしプリンセスオブウェールズS(G2)では勝ったPetoskiから7馬身半も差を付けられた4着に敗れ、ドーヴィル大賞でもレース中の怪我の影響で5着に敗れた。なおジョン・ポーターS優勝と前後して、種牡馬入り後のことを考えた生産者のタヴィストック侯爵(後の第14代ベッドフォード公爵)が15万ポンドで本馬を買い戻している。
閑話休題、軽傷で済んだジュピターアイランドは凱旋門賞へ駒を進めたのだが、流石にここでは格が違いすぎ、Rainbow Questの8着に敗退。しかしフランスに滞在して出走したコンセイユ・ド・パリ賞(G2)では3馬身差で快勝した。続けてアメリカに遠征し、ワシントンDCインターナショナル(GI・12ハロン)に出走したが、ダートGI2勝でこれが初芝のVanlandinghamに敗れ3着となった。
当初は6歳限りで引退する予定だったがこれを撤回し、ジュピターアイランドは現役を続行。手始めに再びアメリカに遠征し、サン・フアン・カピストラーノ招待ハンデキャップ(GI・14ハロン)に出走したが、レース前に脚を負傷したのが影響して3着に敗れた。ここで無理をしたことが仇となり、次走は10月のセントサイモンSまでズレ込んだが、2着馬に1馬身半差を付けて勝利した。
そしてブリテン師は、引退レースとして第6回ジャパンカップを選択。毎日王冠・天皇賞(秋)をともにレコードで制したサクラユタカオー、先に日本入りして富士Sを勝っていたオセアニアのアワウェイバリースター、牡馬相手に愛2000ギニーを勝ったトリプティクらが人気に推される中、ジュピターアイランドは8番人気(海外勢の中では4番人気)となった。
後方からレースをしていたジュピターアイランドは、3コーナーから4コーナーにかけて馬群を縫うように上昇。一気に他馬を抜き去り、3番手で直線を向くと、先行抜け出しを図ったイギリス調教の3歳馬*アレミロードに並びかけて叩き合いとなった。そのまま400mほどにわたって叩き合いが展開され、最後の最後でようやく頭一つ分抜け出して勝利を飾った。勝ち時計2分25秒0は第1回でメアジードーツが叩き出して日本競馬界に衝撃を与えたレコードを0.3秒更新する時計であり、イギリス調教馬がジャパンカップを制したのも史上初。7歳馬(当時の日本表記では8歳馬)がJRAのGIを制したのも史上初のことだった。
このレースで有終の美を飾る形で引退し、種牡馬入りしたジュピターアイランドだったが、種牡馬としては不振に終わり、1997年に心臓の不調のため種牡馬を引退した後、翌1998年に19歳で死亡した。
血統表
St. Paddy 1957 鹿毛 |
Aureole 1950 栗毛 |
Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Angelola | Donatello | ||
Feola | |||
Edie Kelly 1950 黒鹿毛 |
Bois Roussel | Vatout | |
Plucky Liege | |||
Caerlissa | Caerleon | ||
Sister Sarah | |||
Mrs. Moss 1969 栗毛 FNo.14-b |
Reform 1964 鹿毛 |
Pall Mall | Palestine |
Malapert | |||
Country House | Vieux Manoir | ||
Miss Coventry | |||
Golden Plate 1964 栗毛 |
Whistler | Panorama | |
Farthing Damages | |||
Good as Gold | *ニンバス | ||
Gamble in Gold | |||
競走馬の4代血統表 |
- 父St. Paddyはエプソムダービーやセントレジャーを優勝し、3歳時には英国年度代表馬も受賞した一流馬。
- 母Mrs. Mossは重賞未勝利だが、繁殖牝馬としてはジュピターアイランドの他にも重賞馬を複数輩出している。
- 母父ReformはセントジェームズパレスSなどの勝ち馬で、現役時代は14戦11勝2着2回という安定感を誇った。トウケイニセイの母父として名前だけは見たことがある人もいるのではないだろうか。
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関連項目
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