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ドゥカティワークス
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ドゥカティワークスとは、ドゥカティレース活動を行うためにメーカー直営で運営するチームである。

本稿では、MotoGPの最大排気量クラスに参戦するドゥカティワークスについて記述する。

ライダー

アンドレア・ドヴィツィオーゾ (個別記事あり)

ホルヘ・ロレンソ (個別記事あり)

ドゥカティワークス上層部の変遷

ドウカティ社長CEO)     トルキオexit(2007ドメニカーリexit2013

ドウカティコルセ社長CEO)  ドメニカーリexit(1999

監督General Manager   プレツィオージexitゴブマイヤーexit2013ダリーニャexit2014

事業監督Project Director)   チコニャーニexitチャバッティexit2013

チーム監督Team Manager   スッポexitグワレスキーexit2010タルドッツィexit2014

MotoGPの国際中継カメラに良く映り込む現在のスタッフ

ルイージダリーニャ(Luigi Dall’Igna)が正式な名前である。ジジルイージ称。

イタリア北部のヴェネト州ヴィチェンツァ県ティエーネ出身。

1966年生まれ。1992年アプリリアに入社した。もともとはエンジン設計の技術者だった。

1997年から2001年まで原田哲也と一緒に仕事をしていた。

2006年2007年ホルヘ・ロレンソ250ccクラスチャンピオン獲得に貢献した。

2009年スーパーバイクに移り、中野真矢やマックス・ビアッジと一緒に働いている。

2010年2012年マックス・ビアッジスーパーバイクチャンピオン獲得に貢献。

2013年末に、アプリリアからドゥカティへ引き抜かれドゥカティワークス総監督に就任。

2016年シーズン初頭、ホルヘ・ロレンソヤマハからドゥカティに引き抜くことに成功。
ホルヘは「またジジダリーニャと仕事をしたかった」と述べていた。


チームのまとめ役であり、人を使うのがとても上手い。
原田哲也は、「ジジダリーニャが怒ったことを見たことがない」と発言している。

2017年終戦バレンシアレース後には、ライバルであるレプソルホンダの人たちと抱擁し、
健闘を称え合っていた。かなりしいで、ジジダリーニャの人柄を感じさせる。

ライダーコースに出て走っているときは、ライダー用のイス(体に優しいなもの)に
ちゃっかり座り、くるんくるんと半回転しながら、表情を変えず落ち着いてモニターを見ている。

twitterexitインスタグラムexitアカウントがある。

1957年生まれ。
1981年スウェーデンの航空機・軍需品メーカーであるSAABexitの広報部に就職した。
1990年日本自動車メーカーであるマツダに引き抜かれる。
1997年に輸出部門責任者としてドゥカティに引き抜かれる。

1999年からはドゥカティSBKプロジェクトリーダーとなる。
トロイ・ベイリスジェームズ・トスランド、ニール・ホジソンのチャンピオン獲得に貢献。

2007年よりSBKを運営するインフロントというイタリア企業に引き抜かれ、
インフロントオーナーであるフラミニ兄弟と共にスーパーバイク運営に当たった。
インフロントMotoGP運営するドルナの商売敵であり、チャバッティドルナと舌戦を繰り広げた。

2012年末にスーパーバイク運営権がドルナの手に渡り、インフロントドルナに降した。
チャバッティドルナ従するを選ばず、ドゥカティに戻るを選んだ。
2013年からドゥカティワークスの事業監督となる。

かなり異色の経歴で、もともとは営業ビジネスマンであり、技術にもの凄く詳しいわけではない。

ダンディで格好いいのでドルナ際中継カメラに良く映る。

2016年オランダGPではレース中断の最中にホンダ中本修平HRC社長となにやら会話をしていた。
ワークスチームボス同士がレース中に会話するのは極めてしいである。

このときは豪雨の中でレースが行われ、各ライダーマシンにテールランプがともっていたが、
ヴァレンティーノ・ロッシマシンだけテールランプがっていなかった。
「ロッシにペナルティを課すべきだ」と一緒にドルナへ申し出ようか、と相談していたのである。

イタリア北部・エミリア=ロマーニャラヴェンナで1959年1月30日に生まれる。

1984年1985年MotoGP250ccクラスで数戦ずつスポット参戦している。
その後はイタリア内のスーパーバイクレースを続け、7回チャンピオンになっている。
1988年にワールドスーパーバイクが発足、その記念すべき1シーズン目第1戦目で勝利した。exit
このシーズンは最多の5勝を挙げるが後半失速、惜しくもランキング3位に終わる。
1991年スーパーバイク欧州選手権(750ccクラス)でチャンピオン1992年をもって引退

そのあとはドゥカティレース部門であるドゥカティコルセに就職、レース監督として
かしい成功を収める。カール・フォガティトロイ・コーサー、トロイ・ベイリス
ジェームズ・トスランド、ニール・ホジソンは彼とともにチャンピオンを獲得した。
彼の監督時代はドゥカティ黄金時代である。

2009年シーズン末に突如BMWワークスに引き抜かれる。
2010年シーズン途中に、同じラヴェンナ出身のマルコメランドリを口説き落とし、
BMWワークスに引き抜こうとしていた。しかし2010年シーズン末にBMW解雇された。

2013年シーズン末にドゥカティMotoGPチームに舞い戻る。

ビシッと髪型を決め、いつも腕組みしてモニターを見上げている。
情熱的な人で、ホルヘ・ロレンソの形相で叱していたこともある。
レースを勝ったときの喜びようはいかにもといった感じのイタリアンな感じ。

アンドレア・ドヴィツィオーゾチーフメカ。 TwitterexitInstagramexitアカウントあり。

トリノ工業大学(Politecnico di Torino)exit出身、2008年末からドゥカティコルセMotoGP部門就職。
2012年スーパーバイク部門に行き、20132014年はドヴィチームメカニック
2015年はプラマックに移動。2016年からドヴィのチーフメカになる。結構な若手である。

2017年からホルヘ・ロレンソチーフメカレプソルホンダの「かつて在籍したスタッフ」に詳細あり。

たまにドゥカティワークスピットに現れる人たち

説明不要のハリウッド大物俳優で、バイクレース大好き。浮浪者みたいな格好でやってくる。
ヤマハホンダのところにも訪れるが、ドゥカティワークスに出する確率が一番高いようだ。

2015年鈴鹿8耐にやってきてデモ・ランを行い、チェッカーフラッグを振っていた。exit
ケーシー・ストーナーが出ると聞いて居ても立ってもいられなくなったようである。
このときくまモンと2ショット写真を撮っている。exit

2007年ドゥカティで最大排気量クラスチャンピオンく。

2010年シーズン末にドゥカティを離れてレプソルホンダへ移籍した。
ドゥカティ最上層部(にガブリエレ・デル・トルキ社長)には不信感があったが、
ヴィットリアーノ・グワレスキやフィリッポ・プレツィオージとの仲は最後まで良好だった。

2012年シーズン末にロッシがドゥカティを離れると表明したときに
ドゥカティのみんなが可哀想だ、文句ばっかり言って出ていくなんて」と非難していた。

2015年鈴鹿8耐でホンダマシンに乗るも大転倒を喫し骨折2ヶ所の重傷を負う。
転倒の原因はマシントラブルだった。

2015年シーズン末にドゥカティテストライダー契約を結び、ドゥカティに復帰した。
本人は「鈴鹿8耐の転倒が原因ではない」とコメントしているが、ここは察してあげるべきだろう。

テストを少々、代役参戦はなし、という状況であり、イメージキャラクターとして雇われている。
ドゥカティチャンピオンをもたらした伝説ライダーとしてイメージは非常に良い。

ドゥカティテストライダーとして開発の中心を担う。

2011年バレンシアGPでmoto2クラス勝利2013年からドゥカティテストライダーとなった。

シーズン終盤でスポット参戦してシングルフィニッシュ、という偉業をたびたび成し遂げている。exit
シーズン終盤はレギュラー参戦ライダーレース勘や体調がピークに達しているときであり、
そういった速いレギュラー参戦ライダーに混じって互以上の戦いをする姿は驚異的である。

2017年シーズン末にヤマハワークスが引き抜きを試みたがドゥカティ残留を選んだ。

ボローニャ大学機械工学を学び、1991年ドゥカティ入社。(ドゥカティの本社はボローニャにある)
1999年からドゥカティレース部門であるドゥカティコルセの社長
ドゥカティコルセはドゥカティレース部門で、ドゥカティの全従業員の1割がここの職員である)
2013年4月からドゥカティ本社の社長も兼任している。

インテリだが上品な喋りで嫌みが全くなく、とても感じの良い人物。


F1フェラーリ監督ステファノ・ドメニカーリ(Stefano Domenicali)exitという人がいる。
この人も優秀な人で、日本語版Wikipediaexitがある。
ただ、クラウディオステファノの間には血縁関係がなく、他人同士である。

かつて在籍していたスタッフ

ドゥカティ社長(CEO)

1996年ドゥカティアメリカの投資企業テキサス・パシフィック・グループに買収されたが、
2006年イタリアの投資企業インヴェストインドゥストリアル(Investindustrial)が買収した。
この投資企業オーナーがボノーミ一族であった。
アンドレア・ボノー社長カルロ・ボノーミ、マニュエラ・ボノーミ、といった面々だったが、
彼らはものづくりにはまるで興味も関心もなかった。

アンドレア・ボノー社長が経営者として引っってきたのがガブリエレ・デル・トルキオである。
この人はSperry New Holland社、Fai Komat'su社、Ferretti Yacht社(クルーザーメーカー)と
会社を渡り歩いてきた人で、経営者としては腕が良いが、ものづくりの現場に立つ人ではなかった。

このトルキ社長、かなり軽い人で、空気もまるで読めないお調子者だった。

2010年1月の決起集会Wrooomで、「今年はロッシを獲るぞ!」と宣言。
その場にいたケーシー・ストーナーを怒らせ、フィリッポ・プレツィオージをも呆れさせている。

2010年8月には正式発表する前に雑誌のインタビューで「ロッシと契約した」と喋ってしまう。

2012年シーズン末に、ドゥカティを離れるロッシに対してドゥカティマシンの部品を贈呈、
「これをたまに見せびらかしてドゥカティとのを示してくれ」と言わんばかりの態度だったが、
ドゥカティでの悪夢体験を過ごして疲労しきっていたロッシは冷たい反応だった。

2013年4月ドゥカティ社長を辞任して退職、経営難っ最中のアリタリア航空社長に就任した。

彼の後任にはドゥカティ生え抜き技術者であるクリスチャン・ガバッリーニ名された。
2012年4月ドゥカティを買収したアウディフォルクスワーゲンは典的な製造業企業であり、
ものづくりの現場を知っている人物を登用したのである。

総監督(General Manager)

デスモセディチ(Desmosedici ドゥカティMotoGPマシン略称D16。セディチは16の意味)
の産みのであり、ドゥカティの技術徴的存在である。

1968年生まれ。2012年は44歳でかなり若かった。また、車椅子ピットを移動していた。

イタリアテレビ局にも登場し、インテリだがとても感じの良い人として評判だった。
下品な表現を一切使わず、ジョークユーモアを交えて楽しく喋り、り口と表情は穏やかで、
内容は濃密にして聞き応え満点、視聴者を常に魅了していた。

2010年の頃からヴァレンティーノ・ロッシヤマハ古沢監督と仲が良かった。

2012年シーズン末にロッシがドゥカティ離脱。それに合わせてドゥカティワークス総監督更迭され
開発部門への転属を命じられる。
2013年2月ドゥカティを退職した。

ドイツバイエルン州出身。1959年生まれ。

2012年シーズンまでスーパーバイクBMWワークス監督だった。

ドゥカティ2012年4月アウディつまりフォルクスワーゲンドイツ企業)に買収された。
ドイツ語ができてバイクレースに詳しい人」として白羽の矢が立ったのがゴブマイヤーで、
2012年シーズン末にフォルクスワーゲンに引き抜かれ、ドゥカティワークス総監督に就任した。

ジジダリーニャをアプリリアから引き抜き、総監督の座を譲って、わずか1年で退任。

その後はフォルクスワーゲンF1部門責任者に栄転して、現在もその職に留まっている。

調整に長けた人物であるらしい。

事業監督(Project Director)

Twitterのアカウントがありexitヴァレンティーノ・ロッシとリプを飛ばしあっていたことがある。

20112012のロッシ絶不調時代には申し訳なさそうにインタビューに出ていた。

2012年4月ドゥカティアウディに買収され、人事刷新をめられる。

2012年シーズン末に解任され、ドゥカティサテライトチームであるプラマックの運営に回る。

その後はレース世界から退いたが、ドゥカティの営業部門で仕事をしているようである。
イタリア最大級のテーマパークであるミラランディアMirabilandia)の中に
ドゥカティワールド』を開設しモータースポーツ疑似体験を楽しんでもらう・・・
といった記事に名前が出てくる。

チーム監督(Team Manager)

ドゥカティ監督2009年まで務めた。レプソルホンダの「かつて在籍していたスタッフ」に詳細あり。

ケーシー・ストーナーの良き理解者であり、2009年にケーシー病気で戦線離脱したとき
ドゥカティ上層部のなかで一ケーシーを見舞っている。

ケーシーと共に「2008年のラグナセカのパッシングexitルール違反だ」「ロッシは贔屓されている」と
批判し続け、ヴァレンティーノ・ロッシに対しての舌戦の先頭に立っていた。
この批判それなりに正当性があり、なおかつスッポは自身満々の顔つきで喋りも達者、
大学卒のインテリでしかもドゥカティ監督というもが一置く経歴の持ち、というわけで、
さすがのロッシも簡単に勝てない相手であった。このためロッシにとっては天敵である。

称はVITTOであった。1971年イタリア北部パルマ生まれ。ヴァレンティーノ・ロッシの8歳年上。

1994年はカジバワークスイタリア選手権125ccクラスをロッシと共に戦っている。

19992000年ヤマハマシンスーパーバイク世界選手権に参戦した。
2000年チームメイト芳賀紀行だった。

2001年ドゥカティに移りスーパースポーツに参戦、この年限りで現役引退
ドゥカティテストライダーに就任し、2009年までMotoGPマシン開発した。

2010年リヴィオ・スッポの後任としてドゥカティワークス監督に就任した。
監督になってからもテストライダーを続けている。2010年2月のセパンテスト名前が出ている。

2013年初頭に入ってきたベルンハルト・ゴブマイヤーやパオロ・チャバッティと折り合いが悪く、
居心地の悪さを感じ、2013年末にドゥカティを離れる。

2014年Sky Racing Team by VR46という、ヴァレンティーノ・ロッシオーナーを務める
moto3チーム監督になった。

このチームKTMを使用していて、このシーズンホンダよりもマシンが低かった。
このためホンダ乗り換えることを検討、ホンダ監督を務めているリヴィオ・スッポに接触した。
これがヴァレンティーノ・ロッシ逆鱗に触れ、2014年9月というシーズンっ最中に解雇された。

チーフメカニック

もともとはドゥカティの社員だった。
2008年はテクニカルコーディネーターという役職だった。exit

20112012年カレルアブラハムチーフメカmoto2で1勝しただけのカレルだったが、
2011年ルーキーイヤーは何度もポイント獲得、周囲を感心させた。それを支えたのがププリンである。

2013年から2015年までドゥカティワークスにてアンドレア・ドヴィツィオーゾチーフメカ

2017年はプラマックでスコットレディングのチーフメカ

2013年から2014年までプラマックにてアンドレア・イアンノーネチーフメカ

2015年から2016年までドゥカティワークスにてアンドレア・イアンノーネチーフメカ

2017年スズキワークスにてアンドレア・イアンノーネチーフメカ

2014年にドゥカティワークスにてカル・クラッチローチーフメカ

ヤマハワークスの「かつて在籍していたスタッフ」に詳細あり。

20112012年にドゥカティワークスでヴァレンティーノ・ロッシチーフメカ

2010年シーズン末に30人ほどのスタッフを引き連れてチームごと移籍してきたロッシとバージェス。

バージェスは「80マシンを直してみせる」とした。

ところがロッシチームが直面したのはドゥカティマシンの複雑さだった。
タイヤ交換すら簡単にいかない。部品が小さくマシンが複雑で組み立てが難解であった。
メカニック達は皆動揺したという。

ホンダはとんでもなく組み立てが簡単でした。2003年ヤマハはそれより劣っていたのですが、
々の良により組み立てが簡単になりました。ドゥカティでもやれるはずです」と言ったが、
結局2年経っても変わらなかった。

バージェスはことあるごとに「日本メーカーべてドゥカティ開発が遅い」と愚痴を言った。
あるいは「日本メーカーべてマシン完成度が低い」ともこぼした。
そういう愚痴をこぼすばかりで、まるで成績が上向かなかった。

ドゥカティスタにとっては「日本メーカーべると・・・」と言われることほど嫌なことはない。

怒り狂ったドゥカティスタにロッシ共々「日本メーカーの豊富な支援ければ何もできない輩」
というレッテルを貼られ、ヤマハワークスへ出戻りするはめになったのだった。

ドゥカティワークスの社風

を会社のイメージカラーにしている。
この点はフェラーリと共通していて、ときおり「ドゥカティは2輪のフェラーリ」などと宣伝される。


ジェレミー・バージェスの項で述べたように、開発速度日本メーカーべて少し遅い。

これは何故かというと、ドゥカティ本社がわずか1,558人だけの小規模企業だからである。
営業や経理や人事や生産技術や研究開発といった全部門合わせて1,558人、これは少ない。
(2012年はさらに少なく、1,197人だった)exit

このため、レース部品を自社で製造しておらず、ことごとく外注に出している。
仮にフレームを作るとすると、金属を切削加工するのにA社へ外注に出し、
A社から戻ってきたものを今度はB社へ溶接に出す、こんな具合に外注頼みの体制になっている。

ドゥカティコルセは設計だけやって、部品の製造は外注、これで時間を食ってしまうのである。
このことはヴィットリアーノ・グワレス監督っている。

かつてプロトンKRを率いていた頃のケニー・ロバーツ・シニア
日本メーカー電話一本入れるだけで部品を飛行機で届けてくれる。至れり尽くせりだ。
今の々はそんな環境は望めない」とっていて、日本メーカー開発速度の高さを褒めていた。
ジェレミー・バージェスも同じようなことをっていて、ドゥカティ開発の遅さを愚痴っていた。


ジジダリーニャ加入以前は、かなり技術者寄りの社だった。

ライダー希望を受け付けてくれない、技術者が勝手にバイクを作る、こういう傾向があった。

ワシらの作る素晴らしいバイクに黙って乗らんかい!」という社であったようである。

ヴァレンティーノ・ロッシは「日本メーカー技術者マシンの欠点を伝えたら彼らはを傾けた。
しかしドゥカティ技術者マシンの欠点を伝えると怒り出すんだ」とったことがあり、
なかなか厄介な職場環境だったようである。

2008年に加入したマルコメランドリはドゥカティマシンを全く乗りこなせなかった。
ケーシー・ストーナーはこんなバイクをどうやって乗っているんだ、信じられない・・・」
然としながらコメントしている。
マルコドゥカティ技術者に「マシンの乗り方が分からない、もっと善してくれ」と言ったら
なんと精科医を送りつけられたことがある。

マルコメランドリがドゥカティコルセに精科医を紹介された話はかなり有名で、
これこそがドゥカティの社を見事に表していると言えるだろう。

2014年ジジダリーニャが総監督に就任してからは、そうした社もすこしまったようだ。
ジジダリーニャはライダーの気持ちをみ取るのが上手い人で、技術者ライダーの意見を
上手く調整するのが得意な人である。

ジジダリーニャはアプリリアで21年間勤めてきた人でドゥカティ生え抜きではなく、
ライダーの意見をあまり聞かない」というドゥカティの社とはちょっと違う人である。

同じイタリア企業だが、アプリリアドゥカティは社が大きく異なるのだろう。

ドゥカティのバイクの特徴

とにかくエンジン強く、直線の加速が速い。まさに直線番長マシンである。

あのケーシー・ストーナーが「エンジン開発はこれ以上必要ない」といったほどパワフルである。

ケーシー・ストーナーという人は、とにかく「エンジン強い方が良い」という人で、
2010年シーズン末にレプソルホンダへ加入したときの第一が「エンジンsweetだね」であった。
ダニ・ペドロサアンドレア・ドヴィツィオーゾが「このエンジンは強すぎて扱いづらい」と
渋い顔で言っているのに、ケーシーだけが「エンジンが優しい、甘い」と言うのである。

2013年からレプソルホンダテストライダーになったケーシー・ストーナー
ツインリンクもてぎテストをこなすたびに彼の口から出る言葉は
エンジンはもう少しパワフルであった方が良い」であった。
このケーシーの発言をに受けて作った2015年エンジンはあまりにも強すぎて、
マルク・マルケスですらマシン操作に手を焼き、2015年シーズン序盤の絶不調につながった。

このケーシー・ストーナーが「エンジン開発は必要ない」というのだから、
ドゥカティエンジンの強さが想像できるだろう。


旋回性2003年の初参戦から今に至るまで今ひとつであり、コーナーリング速度が遅い。
曲がらないバイクであり、タイヤをスライドさせながら理矢理曲げる必要がある。

コーナーリング速度が高いヤマハから乗り換えホルヘ・ロレンソが「コーナーリング速度が遅い」
と何度もコメントしている。


直線が速いので、直線の長いサーキットで強い。2017年アンドレア・ドヴィツィオーゾが勝った
サーキットはどれも直線区間が長いものである。

直線が短くてコーナーが多いサーキットだと劣勢になる。

伝統的に、ロサイル・インターナショナルサーキットで強い。このサーキットも直線が長い。
コース幅が広いのでコーナーミスしてもなんとか誤魔化しが効く、というのも大きい。

伝統的に、ヘレスサーキットの成績が悪い。このサーキットは直線が短く、コーナーが多い。
コース幅が狭くて1つのコーナーミスすると次のコーナーに大きくしてしまうので
全てのコーナーを綺麗に旋回する必要があるが、ドゥカティマシンはそれが苦手なのである。


2015年シーズン開幕戦から空力デバイスを付け始め、どんどん増えて巨大化していった。exit
なかなか効果的であるのでヤマハワークススズキワークスにもデバイスが流行っていった。
ただ、レプソルホンダは一貫してデバイスを付けたがらない傾向がある。

このデバイスの長所の1つとして、コーナーリングでの安定性が挙げられる。
フロントタイヤが上から下に押しつけられるのでコーナーリングが安定する。

もう1つの長所は、フロントタイヤが上から下に押しつけられてウィリーしなくなり、
立ち上がり加速しやすくなる点である。
デバイスがない場合はエンジンの電子制御でフロントタイヤウィリーを防止するのだが、
それだとエンジンの出を抑えるので直線が伸びない。
デバイスがあれば、フロントタイヤが上から下に抑えられてウィリーしなくなるので、
ウィリー対策はそれで十分になる。エンジンの電子制御を最小限にすることができ、
エンジンの出一杯高めることができる。

欠点は、なんといってもライダー体力を消耗させてしまう点である。
マシンがずっしり重く感じられ、ライダーの腕が疲れ果ててしまう。
デバイス巨大化させた2016年のドゥカティワークスのライダー2人はって腕上がりに苦しんだ。

V型エンジン

ドゥカティバイクは典的なVエンジンバイクである。


ここでVエンジンと直列エンジンの違いを簡単に説明してみよう。

MotoGP公式サイトにV型と直列の違いを紹介した動画がある。exit
Vと直列は形からして大きく異なり、幅や長さや部品点数に違いがあると説明されている。


MotoGP最大排気量クラスに参戦している6メーカーのうち、
VエンジンマシンホンダドゥカティアプリリアKTM
直列エンジンマシンヤマハスズキ

VエンジンドゥカティはLエンジンと呼んでいるが同じ意味)を積んだマシンは、
エンジンパワーがあって直線速いが、コーナーリング速度は今ひとつになる。
アクセルをドーンと開けてブレーキをガツンと掛けるしいライディングに合う。

直列エンジン(英訳するとInline)を積んだマシンは、
エンジンパワーが今ひとつで直線遅いが、コーナーリング速度は速い。
ブレーキアクセルも控えめだがコーナーを綺麗に旋回する技巧のライディングに合う。


以上のことを覚えておけば、とりあえずなんとかなる。
色々なライダーコメントを読むとき、上記のことを思い出してみよう。

例えばアレイシ・エスパルガロアプリリアに乗ったとき、「今までスズキに乗っていたときよりも
しく攻めることができるようになりました。アプリリアは自分のライディングに合っています」
コメントしており、直列とVの違いを実感している模様である。

ホルヘ・ロレンソは「ドゥカティヤマハよりもコーナーリング速度が遅いです。
ドゥカティではしくブレーキングして思いっきコーナーに突っ込まなければなりません。
ヤマハではこんな攻めるライディングはしてきませんでした」とコメントしており、
これまた直列とVの違いを実感している模様である。


一般的に、「VからVへ、あるいは直列から直列へ、このマシン乗り換えは上手くいくことが多い」
「Vから直列へ、直列からVへ、このマシン乗り換えは失敗することが多い」と言われる。

前者の好例はケーシー・ストーナードゥカティホンダ)、
マーヴェリック・ヴィニャーレススズキヤマハ)、ニッキーヘイデンホンダドゥカティ)。

後者の好例はヴァレンティーノ・ロッシヤマハドゥカティ 絶不調に陥り悪夢の2年間を過ごす)
ホルヘ・ロレンソヤマハドゥカティ 2017年は12年ぶりに優勝なし)
アンドレア・イアンノーネドゥカティスズキ 前半戦は死んだ魚のような目になる)


今のMotoGP最大排気量クラスシリンダー数4気筒エンジン流なので、
Vエンジンを「V4(ぶいよん)」、直列エンジンを「直4(ちょくよん)」と呼ぶことが多い。

電子制御が上手い

2017年の時点でドゥカティワークスが最も上手に電子制御ソフトを使っていると言われる。

ドゥカティワークスからスズキワークスに移籍したアンドレア・イアンノーネ
スズキの電子制御はイマイチだ」とコメント

それに対してダヴィデ・ブリビオ監督
「ドゥカティワークスの電子制御が上手くてスズキワークスの電子制御が下手なのは事実だ、
アンドレアがそう感じるのは当然だ」と発言している。

ドゥカティワークスの電子制御が上手というのはパドックの共通認識であるらしい。


2016年から電子制御ソフトの統一化が始まったが、この統一ソフト20142015年
オープンクラスで使われていたソフトが発展したものである。

さらにいえば、20142015年オープンクラスで使われていたソフトは、
2013年以前にマニエッティ・マレリ社がドゥカティワークスに向けて提供していたソフトが元である。

2014年の開幕前にホンダヤマハサテライトチームオープンクラスソフトを解析したら
Ducati Motorholding」と書かれたファイルがすぐに見つかった)

2016年から使われている統一ソフトの原ドゥカティマニエッティ・マレリ社が共同で作ったもので
ドゥカティが上手に使うのも当然なのである。

車体の変遷

ドゥカティマシン体構造は変遷している。

ちなみにドゥカティマシン2003年製をGP32009年製をGP9と呼ぶ。GPの下に西暦1桁を付ける。
2010年製はGP10、2017年製はGP17と呼ぶ。GPの下に西暦2桁を付ける。

ドゥカティMotoGP最大排気量クラス初参戦は2003年なので、GP3が初出のマシンである。

鋼管トレリスフレーム

GP3からGP8までに採用された。鋼のパイプで格子状になったフレーム。exit

ドゥカティのほとんどがこの鋼管トレリスフレームでできている。
ドゥカティは「MotoGPの技術をでも生かしている!凄いでしょう!」
と宣伝するのが好きな企業なので、鋼管トレリスフレームでの参戦は至上命題であった。

GP7を駆ったケーシー・ストーナーが見事にチャンピオンを獲得。

GP8のころは恐ろしく曲がりにくいバイクだったらしく、これに乗ったマルコメランドリが
「どうやって乗れば良いんだ・・・」と茫然としていた。
ケーシー・ストーナーは彼特有のスロットルコトロールを駆使して首位争いをするが、
マルコメランドリは絶不調に陥り最下位付近に低迷する。
ドゥカティい2台が他のバイクを挟んでいたので「ドゥカティサンドイッチ」と呼ばれた。

鋼管トレリスフレームチャンピオンを獲ったドゥカティは、次なるステップに進もうとした。


※鋼管トレリスフレームは「クロモリパイプフレーム」とも呼ばれる。クロモリは鋼の一種で、
クロムモリブデン鋼のこと。鋼にクロムモリブデンを混ぜた合である。パイプは管の意味。

※鋼管トレリスフレームは「フレーム」と表現されることもある。これはだいたい合ってる
iron)と鋼(steel)はほんのちょっとだけ違う。炭素が混じっているのが鋼である。

※余談ながら、KTMはこの鋼管トレリスフレームで最大排気量クラスに挑戦し続けている。

モノコック

GP9からGP11まで採用された体。フレームらしいフレームを持たない。

簡単に言うと「エンジンを中心にしてそこから各部品をボルトでつなげていく体」となる。

長所としてはフレームがないので軽量化ができることが挙げられる。
モノコックのパニガーレドゥカティを代表するスポーツ)もこのころ製造され、例によって得意の
MotoGPの技術をでも生かしている!凄いでしょう!」という宣伝文句と共に売られていった。
ドゥカティコルセ社長クラウディオ・ドメニカーリexitはモノコックを強く推していた。

モノコック構造でなおかつカーボン炭素素材)を使うのが特徴だった。
カーボンフレーム」等と言われるが、これはつまりGP9~GP11のモノコック時代の体のこと。
フレームらしいフレームを持たないので「カーボンフレーム」と呼ぶのはふさわしくないような
気がするが、細かいことを気にしてはいけない。
カーボンフレーム ドゥカティ MotoGPexit」で検索すると記事が多くヒットする。

欠点は、ジェレミー・バージェスの項で述べたように、機械が複雑で難解であり、
部品点数もやたらと多く、組み立てるのに時間が掛かる点であった。

エンジンメンテナンスしようと思ったとする。
フレームのあるバイクなら、フレームからエンジンを取り出すだけで済む。
ところがモノコックのバイクは、体をバラバラ分解しないとエンジンメンテナンスできない。

体を分解してエンジンメンテナンスした後に、体を組み上げるのだが、
フレームという拠り所がないので、組み立てるたびにエンジンの位置が変わる。
エンジンの位置を正確に決めることが難しく、セッティングを非常に出しにくい体であった。
ケーシー・ストーナーは「自分のマシンレースのたびに乗り心地が変わりました。
そんなバイクを何とか走らせていたのです」と述懐している。

そして曲がらない。とにかくコーナーリングしにくい。全な直線番長マシンだった。


とはいえ、ケーシー・ストーナーはGP9で4勝、GP10でシーズン後半に3勝。
ニッキーヘイデンはGP10で3位を1回、4位を5回、5位を2回獲得。
勝てないバイクではなかった。

ところがヴァレンティーノ・ロッシには全く合わなかった。2010年11月バレンシアテスト
GP11に乗った間「これはダメだ、このバイクは上手く走らせられない」と直感したという。

ヴァレンティーノ・ロッシは何度も「コーナーアンダーステアになり、解消できない」と
発言していた。アンダーステアとはコーナーを曲がりきれず外に膨らむ現のこと。
要するに「バイクが曲がらないから困った」と言っていたわけである。

アルミツインスパーフレーム

GP12から現在まで採用されている体。アルミ素材のガッチリしたフレーム。exit日本語Wikipediaあり。exit

アルミのボックスフレーム」と呼ばれることもある。

アルミは鋼の35の軽さであり、に匹敵する硬さを持つ。軽くて強い素材である。
そして何より切削加工しやすく、特急でさまざまなフレームを作って試すことができる。
ホンダヤマハスズキアルミのツインスパフレームを採用しており、
レースの経験が長い3社がレースをするには最も合理的と判断しているフレームなのである。

2011年ヴァレンティーノ・ロッシジェレミー・バージェスがモノコックの体の乗りにくさに
音を上げ、「アルミインスパフレームじゃないと勝てない!作れ!」と要した。
これにフィリッポ・プレツィオージexitが賛成し、クラウディオ・ドメニカーリexitの反対を押し切り開発した

やっぱり合理的であるらしく、現在もドゥカティワークスはアルミインスパフレームで戦っている。



欠点としては・・・ドゥカティ支持者の愛国心を損なうことである。

ドゥカティスタ(ドゥカティ支持者)は愛国的で、日本メーカーを毛嫌いしている。
「3メーカーが足並みえてアルミインスパフレームを採用するなんて・・・金太郎みたいだ!
なんてオリジナリティのない連中だろう・・・つまらんらだ!」と、こんな感じである。
アルミインスパフレーム日本フレームと呼び、小馬鹿にしていた。

そんな彼らはドゥカティワークスがアルミインスパフレームへ変更したのを見て発狂したのだった。
日本メーカーにすり寄っている!」「イタリアの誇りを失った!」

ドゥカティワークスがアルミインスパフレームに変えて半年ほど経った2012年7月
フィリッポ・プレツィオージexitが元ヤマハ古沢政生さんと密談して技術的なアドバイスをしてもらったと
ニュースが流れると今度は
「あの天才プレツィオージが日本フルサワに頭を下げ、教えを請うた!」
とこんな感じに騒ぐのである。

ドゥカティスタからの受けは、悪かったのであった。

スポンサー

世界最大の米国タバコ企業フィリップモリスPhilip Morris)で一番人気タバコ銘柄。
Marlboroパッケージなので、を基調とするマシンを擁するメーカーに優しい。
四輪ではフェラーリ、二輪ではドゥカティ支援している。どちらもメーカーである。

1983年から2002年までヤマハワークスメインスポンサーだった。

2003年ドゥカティMotoGP参戦開始から現在まで支援を続けている。
タバコ広告規制され「Marlboro」を表示できなくなったにも関わらず契約を続けている。

「Marlboro」を表示できないので赤と白のバーコードみたいなカラーリングにしたことがある。exit
しかしながらこのカラーリングも「タバコパッケージを連想するからダメ」と規制された。

アウディドイツバイエルン州インゴルシュタットの自動車企業会社がフォルクスワーゲンで、
こちらはドイツニーダーザクセン州ヴォルフスブルクに本社がある自動車企業である。

2012年4月ドゥカティを買収した。

2017年4月ドゥカティをどこかへ売却しようと検討したと報じられている。

ドイツ自動車企業メルセデスベンツ

2012年4月アウディドゥカティを買収した直後、速さスポンサー契約を打ち切った。

シェルアドバンスバイクエンジンオイルブランドで、
世界最大級の石油企業ロイヤルダッチシェル企業が製造販売している。

ロイヤルダッチシェルは、イギリスロンドン殻加工販売から始めて運業で財を成したシェルと、
オランダ王室の許可を得てオランダインドネシア石油精製業を始めたロイヤルダッチが
1907年に業務提携を始めて2005年に合併した企業である。

ロイヤルダッチシェルは黄色いホタテ貝がトレードマーク。exit
殻加工の商売から成り上がったので、初心を忘れないように殻を社章にしている。

マレーシアGPの看板スポンサーを務めることが多い。

イタリア携帯電話事業者 Telecom Italia Mobile (テレコム・イタリア・モービレ ) 。

イタリアGPの看板スポンサーを務めることが多い。

アリーチェと読む。イタリア電話会社であるTelecom Italia(テレコム・イタリア)が
欧州で展開するADSLプロバイダブランド名。

イタリア保険会社。MotoGPレース看板スポンサーを務めたこともある。

イタリアの大手電会社。かつては営、現在政府が3割のを保有。日本語Wikipediaあり。exit

香港に拠点を置くコンテナ製造会社。様々なタイプコンテナを製造し、中国をはじめ、
ヨーロッパオセアニア、北などに毎年2万5000以上のコンテナを出荷している。

ドゥカティワークスの拠点

ドゥカティ本社はイタリア北部のボローニャのボルゴ・パニガーレexitという地区にある。

ボローニャの連中に頑ってもらう」とか
「ボルゴ・パニガーレのみんなの働きに期待している」などとライダーコメントすることも多い。

ドゥカティを代表するパニガーレという市販車バイクexitは本社工場の地名を与えられたわけで、
まさしくドゥカティ徴するようなバイクになっている。


ここで余談ながらボローニャについて簡単に記しておきたい。

ボローニャにはヨーロッパ最古の歴史を持つボローニャ大学exitがあり、巨大な大学キャンパスがある。
インテリの集積地となっており、政治的にはリベラル寄りである。

経済的に繁栄しているイタリア北部のどん中で、高速道路が四方から集まり、交通の便がよい。

ボローニャがイタリア首都になってもおかしくないのだが、やはりイタリア民は
ローマ帝国の栄」が忘れられないようで、南の外れのローマイタリア首都になっている。

かつて行われていた1月の恒例イベント Wrooom

毎年1月マドンナ・ディ・カンピリオexitで行われていた、フェラーリドゥカティ合同決起集会。

Wrooomは「ウルゥゥゥ~ン」と読みエンジン音がうなりを上げている様を示す。

マドンナ・ディ・カンピリオはイタリア北部のアルプス山脈沿いの雪山リゾート地である。exit

氷の上でカートレースをしたり、スパイクタイヤを履いたドゥカティで氷の上を走ったりする。
あとはスキーをしたり、スノーモービルで走ったりと、遊んで楽しむ。
Youtubeにも動画がたくさん上がっている。exit

取材にやってきた150人以上の記者達を4日間ワイン食事で歓待する。これはすべて無料である。
これによりフェラーリドゥカティへの苛批判を和らげる狙いがあった。

ドルナ会長カルメロエスペレータやイタリア大統領も招かれていた。

ドゥカティ加入前のヴァレンティーノ・ロッシマドンナ・ディ・カンピリオexitに滞在していて
「あいつらは休みだっていうのにご苦労なことだ」と思っていたらしい。

23年間続いてきたが、2013年1月の開催を最後に打ち切られた。
スポンサーフィリップモリスが出費を渋るようになった。

ロッシファンとドゥカティスタの抗争

世界中に勢を伸ばすヴァレンティーノ・ロッシファン
当然、本イタリアではロッシ応援一色かと思いきや、実はそうではない。

ロッシファンとドゥカティスタ(ドゥカティファン)は2003年ドゥカティMotoGP参戦開始から
仲が非常に悪く、ネット上でしい抗争を繰り広げてきた。
ドゥカティスタにとってロッシは憎むべき日本メーカーに乗りドゥカティから勝利を奪い取る宿敵で、
まさしく不倶戴天の敵だったのである。

そのため2010年シーズン末にロッシがドゥカティ入りを決めたときもドゥカティスタはあまり喜ばず、
微妙な反応だった。

ロッシがドゥカティで絶不調に陥ったとき、ロッシファンとドゥカティスタの抗争は再燃した。
ロッシファンは「ドゥカティバイクのせいでロッシの戦績に傷が付いた!」と発狂し、
ドゥカティスタは「ロッシじゃダメだ!ケーシー・ストーナーを呼び戻せ!」と荒れに荒れる。

ロッシがドゥカティを離れた現在ドゥカティスタのロッシファンに対する反感は根深い。


ロッシファンは俗に言う「ニワカ」で、ロッシのやかさに惹かれてやってきた人たちである。

一方ドゥカティスタは正のドゥカティ乗りで、わざわざ壊れやすいドゥカティに乗っては
「やっぱりイタリア製は最高だ!」と言うような連中で、かなりのこだわりがある人たちである。

ニワカ」と「こだわり」が抗争するのは世界中で見られるが、イタリアでも同様なのであった。

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