レプソルホンダ単語

レプソルホンダ
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レプソルホンダexitとは、MotoGPの最大排気量クラスに参戦するホンダワークスの通称である。

ホンダの2輪レース部門子会社であるHRC(ホンダ・レーシング)exitが直接運営を行っている。 1995年から現在までレプソル(スペインの石油企業)メインスポンサーを務めている
 

ライダー

名前 出身地 身長・体重 誕生日
93 マルク・マルケス スペイン サルベラexit 169cm65kg 1993年2月17日
99 ホルヘ・ロレンソ スペイン パルマ・デ・マヨルカexit 171cm65kg 1987年5月4日

現在のスタッフ

クルーチーフ

マルク・マルケスクルーチーフを生やしていつもマルク・マルケスと話し込んでいる人。

ニコニコ大百科単語記事サンティ・エルナンデスは、彼のみならずマルク・マルケスチームスタッフ紹介記事になっており、部下ひとりひとりについての記述をまとめてある。宇治野孝一、松原明、カルロルッツィの記述もそちらに収録した
 

ホルヘ・ロレンソクルーチーフスペイン出身ラモン・オーリン英語に読む日本語記事も多い。
  

その他のスタッフ

交換パーツの管理担当で、マルク・マルケスダニ・ペドロサからはシバと呼ばれる。

2017年アラゴンGPで表彰台に登壇したexitマルク・マルケスダニ・ペドロサの両方からスパークリングワインぶっかけられていて、トロフィーを盾にして防いでいるexit


2017年シーズンマルク・マルケスが転倒回数27回で転倒ランキング堂々の2位に入った。ちなみに同年のランキング2位アンドレア・ドヴィツィオーゾは転倒回数6回である。

「予選で攻めまくって転倒しておけば、マシン限界がよく分かる」との信念のもと、マルク・マルケスは予選で攻めまくり、転びまくった。カタルーニャGPは週末の3日間で5回転び、「1レースで5回転んだワークスライダー記憶にない」と識者に言われる始末だった。

しかしながら、こうした転倒が功を奏したのか、決勝ではきっちりマシン限界把握し、決勝18回中15回完走マシントラブル1回、転倒2回で済ませた。

「予選で攻めて転倒して、決勝で完走する」という荒技を支えたのが、シバサキさんである。 転倒するたびにマシンを組み直す。転倒するたびにマシンの部品が損傷するので、それを全に把握し、日本に向けて発注する。シバサキさんは夕食抜きで懸命に作業をしたことが多々あったと、マルク・マルケスこの記事exitっている。

スズキ公式サイトによると、1台のマシンを組むのにメカニック4人と電子制御スタッフ1人必要で、部品バラバラの状態から組み上げると6時間以上かかるとのことexit。最大排気量クラスマシンに使われる部品の多さがうかがえる。

マルク・マルケス2017年チャンピオン獲得を支えた陰の功労者と言えるだろう。
 

電子制御のスタッフ
 

電子制御のスタッフ

ホンダ2015年シーズンまで自社製の電子制御ソフトウェアを使っていた。2016年から、最大排気量クラスドルナ提供する電子制御ソフトウェアワンメイクになったのだが、その電子制御ソフトウェアマニエッティ・マレリドゥカティが作り上げた電子制御ソフトウェアが基礎となっていて、ホンダ技術者たちにとって理解するのがなかなか難しかった。

しょうがないので、ドゥカティマニエッティ・マレリを渡り歩いた電子制御スタッフを引き抜こうということになり、白羽の矢が立ったのがフィリッポ・トシだった。彼のおかげでホンダの電子制御技術が向上したと、ライディンスポーツ2018年2月号でマニュエル・ペチーノexitという名物記者が書いている。また、この記事exitでもフィリッポ・トシの功績が書かれている。


彼の経歴を紹介するSNSこちらexitイタリアエリオ・ヴィットリーニ工業高校exit卒業してイタリアミラノ工科大学exitに進学、学士修士を取得した。アメリカ合衆国オハイオ州立大学exitに留学して、「Center for Automotive Research(自動車研究センター)exit」というところで研究した。2007年10月ドゥカティに入社して、電子制御の分野でを発揮する。2014年10月にはドゥカティと電子制御の分野で深い協関係にあるマニエッティ・マレリexit転職した。2017年1月HRC(二輪レース専門のホンダ子会社)に就職し、現在に至る。
 

首脳陣

桒は桑の異体字である。桒は常用漢字から外れていて、桑は常用漢字である。このため、桑田という表記を使う日本語記事も多く見かける。


レース運営室長で、ライダーメカニックとの契約を結ぶHRCの代表者。中上貴晶がMotoGPクラスに参入するときが決まったときもexitカル・クラッチローがHRC契約を決めたときもexit、桒田室長HRCを代表して記念撮に映っていた。

レース中のMotoGP技術者というと、どのメーカーの人も笑顔を消してモニター見つめているものだが、
この人は柔和な表情を崩さないタイプの方である。

もともとはエンジンを電子制御する装置のエンジニアだった。ホンダF1に参戦していたときエンジンの電子制御を担当していた。


一番初めの就職先は、どうやら無限exitだったらしい。無限という会社はホンダの創業者・本田宗一郎の長男である本田博俊が設立した企業で、ホンダパーツ改造するのが得意分野であり、ホンダと関係が深い。1990年代エンジン開発してF1チームに供給していた。

2000年からホンダF1復帰するのに合わせて、無限F1エンジン製造から撤退した。桒田さんの動きも全くそれに同調しており、2000年をもって無限を退職して、2000年からホンダに入社し、ホンダF1チームに参加している。

2008年末に、ホンダF1から撤退した。2009年の桒田さんはホンダ部門に所属していた。

2010年に、F1時代の上に当たる中本修平HRC副社長に呼ばれてMotoGP世界に身を投ずる。

HRCの履歴紹介ページはこちらexit。  開発スタッフ時代のインタビュー記事はこちらexit

日本語メディアの記事に登場することが多い。記事1exit記事2exit記事3exit
 

2018年4月HRC開発室長に着任した。

HRCの履歴紹介ページがあるexit国分信一・前開発室室長exitはシャーシが専門分野だったが、若林室長エンジンが専門分野である。

レースに帯同している。このツィートの1枚目の画像exitで、右端に映っている。

日本語メディアの記事に登場している。記事1exit
 

テクニカルディレクターで、レプソルホンダを全面的に見る。技術的に困ったことがあればとりあえずこの人に相談する・・・という立場である。

アメリカ大学に行っていたこともあり、英語が上手である。このため欧の人とも臆せず交流できる。

2017年の最大排気量クラスは最終戦までチャンピオン争いがもつれ込んでいた。ホンダマルク・マルケスと、ドゥカティアンドレア・ドヴィツィオーゾ一騎打ちしていたのだが、決勝でドヴィが転倒してしまい、勝負が付いた。レース後にドゥカティジジ・ダッリーニャホンダ関係者と健闘をたたえ合っていたが、そのときに抱擁していたのが横山さんである。この動画exitにその様子が映っている。

それをきっかけに仲良くなったのか、2018年シーズンレース後にジジ・ダッリーニャ横山さんが談笑する様子がちょくちょく映像に映し出されていた。MotoGPは非常に閉鎖的でメーカー間の交流など絶に等しいので、こういうシーンしい。

ケーシー・ストーナーから「横山さんはとても情熱的で、いつもの発言を興味深く尋ねきた。横山さんは意見をとても強く言うことができ、明確なリーダーシップを発揮する人だった」とこの記事exitで評されている。


HRCの履歴紹介ページはこちらexit

1974年頃生まれで、1996年ホンダに入社した。

入社した後、アメリカメリーランド大学exitに留学した。メリーランド大学この場所exitにあり、首都ワシントンから近く、政府機関と連携した研究が盛んな名門大学である。留学の期間は2年間で、そこで英語漬けになったため、英語がとても上手い。

後はホンダの生産部門にいたが、2004年HRCに入った。この年はダニ・ペドロサ250ccクラスに移ってきており、ペドロサ担当のエンジニアとなった。HRCの施設で、ダニ・ペドロサチームと連絡を取りながらシャーシの設計をしたり部品の開発をしたりしていた。

2007年からはしばしばレースの現場におもむくようになった。ダニ・ペドロサピットを行ったり来たりするようになった。

2010年からは恒常的にレースに帯同することになった。担当はやっぱりダニ・ペドロサである。2012年までダニ・ペドロサ専属であったが、2013年からはレプソルホンダ全体を監修する立場に昇進した。

技術者としての専門分野はシャーシである。中本修平HRC副社長国分信一室長exitもシャーシ設計を専門とする技術者だったので、2009年から2016年までの中本時代はシャーシ系技術者が3つの要職を占めていたということになる。

ずいぶんと長い間レース部門に在籍している。「走行用のバイクの設計方法など忘れてしまった。そういう部門に転属させられたら、良い仕事ができるかわからない」とっている。

※この項の情報・・・記事1exit記事2exit記事3exit
 

チーム監督ダニ・ペドロサの恩師として有名。
 

たまにレプソルホンダピットに現れる人たち

1994年から1998年までレプソルホンダで5年連続の最大排気量クラスチャンピオンを獲得した。
 

ご存じ熊本県マスコットキャラクターニコニコ大百科にも記事あり(→ くまモンニコニコ大百科の記事あり

2015年フランスGPでレプソルホンダにやってきた。 画像1exit画像2exit画像3exit画像4exit画像5exit画像6exit

熊本にはホンダの巨大な工場がありexitホンダ2輪製造の中核となっている。ホンダ世界中に工場進出しているが、熊本製作所がその2輪製造技術のお手本となっていて、製造技術を学習しにやってくる外国人が多い。ホンダにとって熊本は特別な存在になっている。

熊本製作所は従業員も多く雇っていて現地の雇用情勢に貢献している。熊本にとってもホンダは特別な存在というわけで、くまモンホンダ応援をすることが多い。

ホンダ子会社が経営する鈴鹿サーキットにもよく出する。検索1exit検索2exit

ツインリンクもてぎにもよく出する。検索1exit検索2exit

鈴鹿8耐にも当然のようにやってきて、バイクを乗り回す。 検索1exit動画1exit

くまモンが熊本製作所を訪れたこともあるexit
 

HRC社長野村社長エンジン技術者で、RC30、RC45、RC211Vのエンジンを設計してきた。特にRC211VのV5気筒エンジン傑作と評判だった。

HRC社長東京都港区青山埼玉県朝霞市会議漬けの日々を送る立場であり、なかなか現場に出ることができない。ツインリンクもてぎ日本GPには必ず顔を出すが、そのときはホンダ社長ドルナカメラに映り、HRC社長はなかなかカメラに映らない。2017年のバレンシアGPでやっとカメラに映ったexit
 

ホンダ社長

ツインリンクもてぎで行われるMotoGPでは必ずと言っていいほどホンダ社長がやってきて、いかにも技術者らしい真剣な顔でモニターを見る様子が際中継カメラに捉えられる。

スズキヤマハは技術出身の人が社長になることもあれば経理出身の人が社長になることもある。ところがホンダは「社長になるのは技術出身者のみ」という不文があり、歴代社長全員が元・技術者である。

八郷社長も技術出身。一番最初はブレーキ設計部門だったという。ただ、モータースポーツ部門とは縁がなかったらしい。モータースポーツ部門とは縁がなかった人が社長昇格するのはしい。

2016年日本GPでマルク・マルケスが目前でチャンピオン獲得し、表彰式に出席していたexit

2018年日本GPにおいてもマルク・マルケス前でチャンピオンを獲得して表式に出席していたのだが、このときはそそくさと表彰台の裏へ退出しているexit
 

かつてのスタッフ

クルーチーフ

フィレンツェexit出身のイタリア人。2019年は同じホンダ営のチームLCRexitに移籍し、中上貴晶クルーチーフになっている。
 

イタリア人。2019年プラマックレーシングexitフランチェスコ・バニャイアクルーチーフを務めている。
  

ニュージーランド人。MarcVDSの記事に記述がある。2019年スーパーバイク世界選手権のショーン・ミュア・レーシングexitマーカス・ライターベルガーexitクルーチーフを務めている。
 

オーストリアバート・イシュルexit出身。2019年KTMワークスチーム監督を務めている。
 

フランス人。2019年MarcVDSに所属して、シャヴィ・ヴィエルヘexitクルーチーフになっている。
 

オーストラリアアデレードexit出身。2019年引退している。
 

首脳

シャーシ設計を専門とするエンジニアMotoGPクラスのみならずMoto3クラスにも顔を出す。

1986年HRCへ入社し、1996年から2001年までNSR500のプロジェクトリーダーを務めた。1996年から2001年までのNSR500は最大排気量クラスを席巻し続け、6年連続でチャンピオンを輩出している。

2009年から中本修平HRC副社長の時代になったが、その時代でも重職を務め続けていた。20102012年テクニカルディレクター2013年から開発部門のリーダーとなっている。

2010年に、履歴紹介ページが作られているexit

2018年3月までHRC開発室室だった。2018年4月開発室長を退任したが、2018年シーズンレースに帯同して、後任の若林室長へ業務の引き継ぎをしていた。2018年11月の全員集合写真に映っているexit

2019年シーズンは、MotoGPの現場から離れたようである。

日本語メディアの記事に登場することが多い。記事1exit記事2exit記事3exit記事4exit記事5exit
 

イタリアトリノexit出身。2010年から2017年までHRCに所属し、2013年から2017年までチーム監督を務めた。
 

2008年12月1日から2016年末までHRC社長の座にあり、MotoGPの活動の総責任者だった。
 

レプソルホンダのマシンの特徴

正式名称

2019年現在ホンダマシンの正式名称はRC213Vという。


2002年4ストロークエンジン時代が始まり、4スト990ccという排気量になったが、そのときの名称はRC211Vだった。RCというのはホンダ4ストエンジンマシンで使われていた歴史ある名称で、211は「21世紀で1番」という意味。VというのはVictory勝利)という意味と、VエンジンのVという意味と、5という意味がある。Vはローマ数字のⅤ(5)と同じ。このときはV5気筒エンジンだったので、5という数字に特別な意味があった。

2007年から4スト800ccという排気量になったので、それに合わせてRC212Vという名になった。この時代はV4気筒になった。

2012年から4スト1000ccという排気量になったので、それに合わせてRC213Vという名になった。引き続きV4気筒である。
 

エンジンに強みがある

ダニ・ペドロサが「ホンダのフィロソフィ哲学)はストレートで一番速いマシンを造るということだ。その後、コーナーリングについて良していくんだ」(ライディンスポーツ2015年4月号)と、ホンダエンジン優先の社っていたことがある。

実際に、エンジンが遅いとレースにならないので、そうしたエンジン優先義は間違ってはいない。ただ、2009年頃にはエンジン優先を通り越してエンジン偏重になりつつあったようである。そこに現れたのが中本修平HRC副社長で「エンジンパワーは良いから、シャーシの良を優先しよう。ブレーキングの安定性が、エンジンパワーよりもはるかに重要だ」となった。

2016年から2018年は、エンジンを電子制御するソフトが統一化されて低レベルの機になったため、エンジンパワーを控えめにして、ポンコツの電子制御ソフトでも十分に制御できるようにした。このため、「エンジンパワーホンダ」というのはを潜め、ドゥカティの後を拝することになっていた。しかしながら2019年になるとホンダエンジンパワーが強くなってきた。


とにかくホンダエンジンに強みがある。強さだけではなく、耐久性にも定評がある2017年イギリスGPでマルク・マルケスのマシンのエンジンから白煙が上がって故障したのだがexit、これがなんと、4ストロークエンジン時代になった2002年以降でわずか2回エンジン故障だったのである。2007年スペインGPでニッキーヘイデンエンジンが故障して動かなくなったのが1回2017年イギリスGPで煙を上げて手に壊れたのが2回。16年間でエンジン故障がわずか2回、というのがホンダエンジン作りの上手さを明している。

エンジンの年間使用基数を決める会合においてホンダ技術者が(中本修平HRC副社長だろうか?)「なんなら、年間1基で戦うというレギレーションでも良いですよ」と自信満々に言ったことがあるらしい。

ホンダエンジン作りの様子を紹介する記事はこちらexitである。
 

伝統的にコーナーリング速度は遅め

ホンダマシンは伝統的に、直線が速くてコーナーリング速度がやや遅い。中本修平HRC副社長の時代にコーナーリング速度を高める追究を重ねてだいぶコーナーリング速度も上がってきたが、それでもコーナーリング速度ヤマハべてやや遅いというのが定説となっている。

この動画exitの中のオレンジマシンの軌跡を通るのがホンダマシンである、とイメージしておけば、だいたい合ってるといえるだろう。

ホンダマシンはVエンジンを搭載している。Vエンジンマシンには、直線が速くてコーナーリング速度が遅いという特徴が広く見られる。Vエンジンについては、エンジン(MotoGP)の記事にも記述がある。

2019年現在ホンダ営はホルヘ・ロレンソ中上貴晶が在籍している。彼ら2人とも、コーナーリング速度速さ定評がある。今後はホンダマシンコーナーリング速度が上がっていくかもしれない。
 

乗りこなすのが難しい

カル・クラッチローヤマハドゥカティホンダと渡り歩いたが、「ホンダがもっとも乗りにくく
体力を消耗する、ヤマハは乗りやすくて体力を使わない、ドゥカティはその中間だ」とっている。

この記事exitでは「ヤマハを乗りこなすことが最も簡単だ。ホンダを乗りこなすことにべると、ヤマハに乗るというのはタバコをふかすぐらいに簡単だ」「ホンダが最も難しく、ヤマハが最も簡単で、ドゥカティはその中間だ」という意味のことをっている。

それから2年経ったこの記事exitでもカル・クラッチローの評価は変わっておらず、「ホンダは最も難しいバイクだ」とっている。

実際に、ホンダからドゥカティ乗り換えライダーはみんな一様に「なんて素晴らしいマシンだ」「乗りやすい」と感の言葉を漏らしている。2017年11月ジャック・ミラーティト・ラバト、両者とも同じ感想である。
 

マシンが小さく、コンパクトである。それゆえ機敏に動くことができる

マシンが小さく、コンパクトに設計されている。

ホルヘ・ロレンソ2018年11月バレンシアテストホンダマシンに乗り、2019年1月にそのマシン感想を言った。「ホンダは小さく、コンパクトで、低い。僕の体のサイズ(171cm65kg)に適しているexit

ヴァレンティーノ・ロッシは、2001年8月鈴鹿8耐直後に、ホンダ4ストエンジンマシンの試作機に乗ったのだが、そのときの感想彼の自叙伝exit_nicoichiba72ページに載っている。「もの凄く違和感を感じたことを覚えている。とても小さいマシンで、(中略)じつにこぢんまりとしていて、おもちゃのようだった。(中略)跨がってみると、実際以上に小さく感じた」


小さなマシンなので、機敏に動くことができる。切り返し(片側に傾いたバイクを、反対に傾けること)も簡単にできて、方向転換が容易であり、小さなコーナーが連続するところを器用に乗り切ることができる。

2018年8月9日オーストリアGP木曜記者会見で「あなたの考える理想のサーキットは?」というお題が出された。ヴァレンティーノ・ロッシこんな具合に真面目に答えていたがexitホルヘ・ロレンソはちょっとお茶な答えを出しており、こういう答えだったexit。「2018年に乗っているドゥカティは直線ばかりのコースが得意で、2019年に乗るホンダは小回りを要されるコースで強い」と言っているのである。ちなみにその記者会見動画こちらexitで、3分25あたりでホルヘのシーンが映っている。

2016年6月カタルーニャGPは、、急遽コースレイアウトが変更されることになった。F1レイアウトが採用され、10コーナーは小さいコーナーになり、最終区間にRACCケインが追加された。このレイアウトexitから、このレイアウトexitに変更されたのである。これを見たホルヘ・ロレンソは「ホンダに有利なレイアウトになったexit」と言い、マルク・マルケスも「このレイアウトは我々ホンダに恩恵をもたらしているexit」と言っている。

2017年6月カタルーニャGPの最初は、RACCケイン2016年のときよりもさらにキツいカーブになった。そのときもホルヘ・ロレンソマルク・マルケスの両方が「このシケインはホンダに有利exit」と述べている。
 

スライドさせやすい

ホンダマシンはスライドさせながら曲がっていくことに強みがある体であるらしく、パワースライドしながら曲がっていくコーナーが多いサーキットでの成績が良い。ザクセンリンクモーターランド・アラゴンがこの典である。

ホンダマシンアクセルを開けながら曲がっていく点に強みがある。ザクセンリンクアクセルを開けながら曲がるサーキットが多いので、好成績なのだろう」(2016年ドイツGPの日テレG+で青山博一が発言)

ザクセンリンクマシンを傾かせる時間が長く、グリップを失いやすい。ホンダマシンを使う々はマシンが滑ることに慣れており、マシンが滑ったときもコントロールしやすい。それゆえ、ザクセンリンクでの成績が良いのだろう」(2015年のこの記事exitダニ・ペドロサが発言)

ちなみに、タイヤをあまりグリップさせずに適度にスライドさせながらコーナーを曲がっていくことをスライド走行タイヤをがっちりグリップさせてスライドさせずに正確なラインをなぞっていく走行をグリップ走行という。

ホンダマシンスライド走行に向いたマシン、と言うことができる。

ちなみに、ヤマハマシングリップ走行が得意である。
  

ホンダの社風

出戻りに厳しい

ホンダから出ていったライダーに対して基本的に冷たいことで有名である。

2009年9月青山博一は「ホンダから出ていくと普通は絶対に戻れないんですよ。少なくとも日本人ライダーはそうでした。ですからホンダが受け入れてくれて感謝しています」と発言している。青山博一はホンダ出身だが2005年シーズン末にKTMワークスへ引き抜かれていったライダーである。


外国人ライダーに対してもだいたい同じである。特に、ホンダが残留をめていたのにそれを振り払って出ていったライダーに冷たい。

その典例はマックス・ビアッジで、彼は250cc最終年の1997年ホンダ500ccの1年1998年ホンダに乗り、ホンダの次世代のエースとして期待されていたライダーだった。ところがマックス1998年の暮れにヤマハワークスへ移籍していった。

4ストローク990cc時代になってホンダの強さに圧倒され、マックスホンダへの復帰を決意した。このときホンダ営はマックスサテライトチームシートを与えた。2003年2004年、2年間のサテライト暮らしを経てから、マックス晴れてレプソルホンダに昇格したのである。

ヴァレンティーノ・ロッシに対しても同様で、彼は2003年ホンダ喧嘩別れした。ホンダは残留をめていたがロッシは自著などでホンダを皮りつつ出ていったのだ。2003年チェコGPでは囚人コスプレをして、「ホンダからのプレッシャーに束縛される囚人なのさ」というパフォーマンスをしていた。

ロッシは2012年ドゥカティワークスからの脱出を画策、色んなメーカーをかけていた。レプソルホンダにも接触していたが、返ってきた答えは「レプソルホンダのワークスシートは余っていない。サテライトチームならシートがあるので、ワークスマシンを貸与してあげるexit」で、何度交渉してもこの条件だったのでロッシは落胆したのであった。(※サテライトチームは資が乏しく人員が少なく、電子制御の腕前も劣り、競争が弱い。いくらワークスマシンを貸与されていても、速く走るのはなかなか難しい)

こういう傾向になるのは2つほど理由がある。

ホンダは若手ライダーの囲い込みと育成に熱心であり、そういう若手にチャンスを与えたい。後進の若手が山ほどいる状況なので出戻りのベテランシートを与えることはしたくてもできない。こういう理由がまず1つある。マックス・ビアッジが出戻りを試みたときはニッキーヘイデンという21歳の若者がいた。ヴァレンティーノ・ロッシが出戻りを試みたときにはマルク・マルケスという19歳の若者がいた。どちらもホンダくからをかけていた期待の新だった。

もう1つの理由は、やはり威厳を保つと言うところだろう。あまりそうは見えないがホンダという企業は2輪の分野で巨人といっていい存在である。2輪の分野でまさしく世界一企業であるので、多少は威厳というものを考えることになる。従って、引き留めたのに出て行かれたライダーに対してはホイホイワークスシートを与えず、1年から2年のサテライト暮らしの試練を課すのである。サテライト雑巾掛けの日々を送ったらちょっと優しくなり「しょうがないから昇格させるか」となる。


ホンダが引き留めようとせず自で移籍先を見つけて出ていったライダーに対しては、較的に優しい態度になり、ワークスシートを用意しての出戻りを許すことがある。

ホンダサテライトポンスレシングに所属していたアレックス・バロスは、2002年9月の時点でホンダから見切りを付けられていた。ホンダは、バロスを戦構想から外したうえで、2003年の参戦体制をすべて決めてしまった。ところが2002年10月4日4ストローク990ccマシンを初めて投入されたバロス一気に覚醒、4戦2勝・2位1回・3位1回の好成績を収める。ホンダ上層部も後悔したが後の祭りで、一度決めたチーム体制を変更することが不可能だった。ゆえにバロスはTech3ヤマハサテライト)と契約した。バロス契約通りに2003年をTech3で走り、2004年にレプソルホンダに引き抜かれた。

2011年にレプソルホンダ所属だったアンドレア・ドヴィツィオーゾに対してはホンダが引き留めず、ドヴィはTech3ヤマハサテライト)と契約した。2016年シーズン序盤にダニ・ペドロサヤマハ移籍の可性を感じ取ったホンダは、秘密裏にアンドレア・ドヴィツィオーゾと接触、レプソルホンダのワークスシートを用意していた。この記事exitで、ドヴィがそのようにっている。


この本exit_nicoichibaの196ページジェレミー・バージェスという名物クルーチーフが次のようにっている。ちなみに、バージェスは21年連続でHRCに勤務した人であり、ホンダの社を知り尽くしている。「ホンダは厳しい企業です。一度背を向けた者は復帰できません。よしんばバレンティーノが戻ることを許されたとしても -それだって長い時間がかかるでしょうが- 私に対しては永遠にを開くことはありえません。つまり、ホンダからヤマハへの移籍は、バレンティーノ以上に私にとって大きな博打なのだ、ということですよ」
  

予算が多く、人員が多く、開発速度が高い

予算が多くて人員も多く、士気も高く、新しい部品を作ってくる開発速度が非常に高い。

2018年6月イタリアGPでドゥカティワークスに所属するホルヘ・ロレンソが快勝した。そのとき、「自分にぴったりのガソリンタンクが届いたので、一気に調子が良くなったexit」とっていた。その後もホルヘは快進撃を続け、ガソリンタンクの重要性を満下に知らしめた。

2018年11月バレンシアGPのとき、レプソルホンダのピットに入ったホルヘ・ロレンソに対して、ホンダは怒濤の勢いでガソリンタンク製作し、ホルヘ好みのものを作っていた。この記事exitでもその様子が映っている。どうも、バレンシアピットの中で材料ペタペタ貼るなどしてタンク形状を変えていたらしい。その努が実り、ホルヘはすぐに好みのタンクを手に入れることができた。この記事exitで、ホンダの対応速さを賞賛している。


開発速度が高いのだが、ときおりそれが欠点になることもある。あまりにも士気が高すぎて、「このアイディアを試そう、あの部品をマシンに付けてみよう」という感じで新規部品を大量に送りつけてきて、それにライダーが付き合わされ、ライダーが疲れて混乱してしまうのである。

2014年振り返りのG+座談会で、辻本聡さんが次のようにっていた。「ミック・ドゥーハンがいる間は『マシンに余計なことをするな!』とミックが言っていたので、ホンダ開発アイディアを試せなかった。ミックが引退すると、試せなかったアイディア洪水のようにアレックスクリヴィーレや岡田忠之のところに持ち込んでくるようになり、岡田クルーチーフピットの中で腕組みして考え込むようになってしまった」

2010年シーズンまで、ホンダは毎年新しい開発メンバーにして、毎年新しいバイクを作る傾向があった。「前年のマシン進化版」を作ろうとせず、全く違う感じの体を持ってくる。おかげでサテライトチームもレプソルホンダも、毎年開幕あたりではすったもんだの大騒動になっていて、シーズンの序盤戦を混乱しながら戦っていた。 ダニ・ペドロサマルコメランドリが口をえて「私たちホンダシーズン前半を開発にあてていて、レース駄にしていた」とコメントしている。

このことがまったのが2011年2月のセパンテストで、このときやっと「2010年進化版のシャーシ」というものを作ってきた。また、「2010年版のシャーシ」も持ち込んでいた。この2011年2月のセパンテストこそがレプソルホンダの社が変わった日と言えるだろう。
 

ライダーごとに異なるシャーシを用意できる

予算規模が大きいので、様々なシャーシを作る余裕がある。ワークスライダーごとに異なるシャーシを用意することができる。

2016年などは、マルク・マルケスダニ・ペドロサカル・クラッチローの3人がそれぞれ異なるシャーシを使っていたほどである。この記事exitにそう書かれている。

ホンダ営がライダーごとに異なるシャーシを使っている、という記事は他にも見つかるので紹介しておきたい。

「ホルヘ・ロレンソが望むのなら、ホルヘ専用のシャーシを作るつもりだ」(横山健男テクニカルマネージャー)exit

「自分はダニ・ペドロサと異なるシャーシを使っていた。マルク・マルケスとダニ・ペドロサが異なるシャーシを使っていたことも知っている」(ケーシー・ストーナー)exit


ただし、エンジン(MotoGP)の記事にも紹介されているように、4ストロークエンジンマシンというものは、エンジンマシン走行に及ぼすが非常に大きく、シャーシがマシン走行に及ぼすはあまり大きくないのである。4ストマシンでは、エンジンが走行の8割を決め、シャーシは残りの2割しかい。レプソルホンダがライダーごとに異なるシャーシを使ったとしても、肝心のエンジンは同じなので、結局はそれほどマシンの差が大きくならない、と言える。
 

その他の特徴

あまりスペシャルカラーにしない。最後にスペシャルカラーレースに臨んだのは2011年ラゴンGPであろうと思われる。この大会はこんなカラーリングになっていたexitこのページexitによると、レプソルMotoGP参戦40周年を記念したカラーリングだったとのこと。また、レース前にはレプソルホンダの最大排気量クラス通算勝利数が99に達していて、このカラーリングで勝てば通算100勝も同時に祝うことができるところだった。期待通りにケーシー・ストーナー1位ダニ・ペドロサ2位になってくれた。

ライダーサーキット走行しているときは、スタッフのほとんどが椅子に座って観戦する。この動画exitや、この動画exitで、スタッフが座っている様子がよく分かる。「休むべきときには、しっかり休もう」という社がある。

ピットの中でマシンを移動させやすくするため、バイクリアタイヤキャスター付き台車に乗せて、それで移動させている。この連続写真に、キャスターが4つついた銀色の台車が映っているexitメカニックの負担軽減のため導入したのだろう。2016年サンマリノGP予選の時に宮城さんが「前戦イギリスGPから導入された」と解説していた。これはスズキワークス真似しており、2017年日本GP・FP42018年マレーシアGP予選Q1のときに同様のものが映っていた。
 

スポンサー

スペイン石油企業。2輪レースに理解があり、CEV(スペイン5ヶ所、ポルトガル1ヶ所、フランス1ヶ所で行う若手育成選手権)exitメインスポンサーを務める。

青田買いが得意で、マルク・マルケス期から支援していた。

Movistarexitヤマハに支払っているべると、レプソルホンダに支払っているは少なめである。しかし、その分、ホンダレプソルは永年契約に近い強固な関係になっているのだそうだ。

レプソルスペインにおいてガソリン販売のシェアが高く、「ガソリンスタンドならレプソル」という状況になっている。レプソルガソリンスタンドに行くと、レプソルホンダのポスターが貼られていて、ホンダの宣伝をしてくれている。そういうわけで、レプソルと手を組むということは宣伝効果も高い。
 

レプソルの企業カラーはオレンジexitであるので、レプソルホンダのカラーリングもそれに沿っている。この記事exitで、1995年から2019年までのカラーリングを確認できる。1995~2002年オレンジ紺色20032012年オレンジ20132019年オレンジ白色になっている。

レプソルのもう1つの企業カラーは紺色exitである(文字紺色)。ゆえにチームシャツも紺色を使うことが多い。(2016年exit2017年exit2018年exit
 

レプソルホンダのピットの裏にはホスピタリティ食堂)があり、そこにはレプソルに雇われた3人のシェフが働いていて、晩の3食を作っている。3人のシェフのうち1人は料理学校博士号を取得した達人である。レプソルホンダの作業員、ライダー、そしてゲストライダー族とか映画スター)が食事する。

野菜果物パスタパン、なんでも食材がっている。糖不耐症の人向けのメニューあり、菜食主義者向けのメニューあり、ホンダ日本人スタッフ向けの日本食あり。非常に素晴らしい環境が整っている。※この記事exitが資料
 

ご存じ世界最大のエナジードリンク企業ニコニコ大百科にも記事がある(→Red Bull)。レッドブルとは英語で「」という意味。

オーストリアザルツブルグ近郊のフシュル・アム・ゼーexitというの畔のド田舎に本社がある。正確な住所はここでexitの南にある。

モータースポーツに理解があり、F1MotoGPなどに多額の資をつぎ込んでくれる。さらには飛行機レースであるレッドブルエアレースexit催している。こんな風に飛び回る競技exit

MotoGP2007年からルーキーズカップexitを開催していて、これの看板スポンサーレッドブル2016年佐々木2017年一輝チャンピオンいた。

同じオーストリアKTMに優しく、KTMワークスにもレース資金を出しているexit

 
日本の一部のネットユーザーの中に、レッドブルのことを「べこ」と呼ぶ人がいる。「べこ」とは福島県会津地方おもちゃであり、日本語版Wikipediaexitもある。「べこ」というのは東北地方方言で「」という意味。

2018年8月F1レッドブル支援を受けるトロロッソイタリア語で「」という意味)が、マシンの愛称をAkabekoにしていたexit。同年10月会津若松市市長が、トロロッソのドライバーに赤べこを贈っていたexit
 

スペイン北西部の大西洋に面したガリシア州exitヒホス・デ・リヴェラexitという企業がある。その企業によって1906年から作られているビールEstrella Galiciaexitで、和訳すると「ガリシア州の」となる。そのためラベルには六芒マークが入っている。

Estrella Galicia0.0exitノンアルコールビールブランド



2012年から名門チームTeam Monlau」のメインスポンサー

2013年からレプソルホンダスポンサーになり、レーシングスーツの右鎖骨にプリントされるようになったexit

2015年から名門チームMarcVDS」のメインスポンサーを兼ねるようになった。

Estrella Galicia支援を受けるライダーたちがチームの垣根を越えてイベントをこなすこともある。画像1exit画像2exit画像3exit
 

イタリアジーンズブランド日本向け公式サイトはこちらexit

2016年以前のレプソルホンダの持ちグリッドガールは、いつもジーンズを履いていた。画像検索するとその様子がわかるexitこの画像exitこの画像exitでは、ジーンズジャケットを着ている。それは、GASがスポンサーに付いていたからである。

ケーシー・ストーナードリアーナさんもジーンズを履いてケーシーのピットに詰めかけていたexit
 

スペイン西部ガリシア州ナロンexitに本部を置くブランド1991年ブランドが立ち上がった。

2017年からGASと入れ替わる形でレプソルホンダのスポンサーになった。2016年11月バレンシアテストまではレーシングスーツの首にGASの名前があったのだがexit2017年2月の撮影ではレーシングスーツの左腕にPULL&BEARの文字が入っているexit。また、2017年1月の画像では、チームシャツにPULL&BEARの文字が入ったexit

2016年までのレプソルホンダの持ちはGASのジーンズ一本だったが、2017年からは、ジーンズに限らず色んな格好をするようになった。この画像exitではいフリフリのスカートを履いているし、オーストリアGPでは民族衣装のディアンドルを着るようになったexit


会社はインディテックスexitという会社で、ガリシア州アリテイショexitに本部を置いている。

インディテックスは巨大な会社で、他にはザラ(ZARA)exitベルシュカ(Bershka)exitオイショ(OYSHO)exitマッシモ・ドゥッティ(Massimo Dutti)exitストラディバリウス(stradivarius)exitザラホーム(ZARA HOME)exit下に収めている。世界への出店数は6600店舗。日本銀座渋谷にも店を出している。

インディテックスの創業者がアマンシオ・オルテガexitという人で、スペイン長者番付1位資産総額はビル・ゲイツを抜いたこともあるという、わけの分からないレベルお金持ちである。

日本語版Wikipediaexitによると14歳の頃にガリシア州ア・コルーニャexitにやってきて働き始めたらしい。だから彼の会社はガリシア州に本社を置く企業が多い。
 

日本国兵庫県神戸市スポーツ用品メーカーレプソルホンダのスタッフは全員アシックスの靴を履いているexit

半導体、電機器、電モジュール、電設備用機器、電装製品を製造する日本メーカー漢字で堂々と「新電元」とレーシングスーツの右腕にプリントしている。exit

ユタカ技研。ホンダ下のブレーキ関連技術企業静岡県浜松市中央区豊町exitに本社がある。社名の由来は本社の地名。

ホンダの最大排気量クラスマシンリアブレーキは、ユタカ技研が作っている。

2017年日本GPで、Moto2クラス中上貴晶ピットユタカ技研の社員が来ていた。

インドネシア語で「1つの心」の意味。英訳して「One HEART」とも表示される。

PTアストラホンダモーターというインドネシア企業スローガン。同社はホンダインドネシアにおける二輪車生産販売のための合弁会社で、年間生産台数は420万台。

ホンダインドネシア進出のため提携しているアストラ・インターナショナルexitは同有数の複合企業である。

インドネシアの人口は2億6千万人で、巨大な市場である。ホンダにとってインドネシアは生産拠点としても市場としても重要といえる。2015年シーズンのレプソルホンダは、インドネシアのバリ島で決起式を行っているexit

セパン・インターナショナルサーキットこの場所exitで、インドネシア首都ジャカルタこの場所exit。両者の距離1160kmしか離れておらず、東京沖縄距離よりも短い。2月のセパンテストを終えたレプソルホンダのライダーが、インドネシアイベントをこなす事がとても多い。

インドネシアMotoGP人気は沸騰しており、PTアストラホンダのカラワン工場exitを訪れたダニマルク2000人以上の従業員に大歓迎されて、を丸くしている。動画1exit
 

ヨーロッパや日本の拠点

ヨーロッパの拠点

2014年シーズンまで、レプソルホンダのヨーロッパにおける拠点はベルギーのアールストexitに置かれていた。

2014年12月に、スペイン・バルセロナ郊外のモンテッサ・ホンダexitに拠点が移った。この記事exit報道されている。

モンテッサホンダについて簡単に紹介すると、スペインの大手バイクメーカーだったモンテッサ1981年ホンダが買収して設立した企業で、ホンダの資と技術が入っている企業である。同社はトライアルバイク障害物をよじ登る競技のバイク)の製造で有名で、トライアルレースに使われる製品はコタ4RTexitという。コタ4RTはシャーシがモンテッサホンダ製、エンジンホンダ製である。

このため、ホンダ契約するライダーバルセロナ周辺に住むことが多くなった。ジャック・ミラー2017年までHRC契約ライダーで、中上貴晶2018年以降HRC契約ライダーだが、彼らはバルセロナ近くに住んでいる。

バルセロナというとCAR・サンクガという巨大なトレーニングセンターがある。ホンダライダーがここに通うことが多い。
 

日本の拠点

ホンダの二輪レース部門の企業HRC株式会社ホンダ・レーシング)で、その本社は埼玉県(あさか)の、この場所exitにある。ここで、MotoGPスーパーバイク世界選手権や鈴鹿8耐向けのレースバイクを作っている。

ここを訪れたルーチョ・チェッキネロexitが「すごい施設だ。100人以上の技術者が働いている」と驚嘆していた。

この記事exitは、1999年の様子が映っている。少人数に絞っているので機密漏洩の防止も簡単であること、ホンダ下の部品企業が加工した部品を組み立てるだけででは加工をしないこと、が書かれている。

HRCは、近隣住民の皆様との友好を深めるため、年に1度施設を開放し、「バイク祭り」を開いている。これは毎年11月頃に行われるのだが、バイク雑誌にも宣伝されないし、ホンダ公式サイトにも紹介されない。地元住民の子連れを楽しませるための、ささやかお祭りになっている。

そのお祭りには、最新鋭の最大排気量クラスマシンや、ミック・ドゥーハンが最大排気量クラスチャンピオンを獲得したときのNSR500がなんとも造作に出てくるのだという。


ホンダの本社は東京都港区南青山2丁目1−1にあるexit。地上16階地下4階の自社ビルが建っていて、1階はHondaウェルカムプラザ青山という。日本GPの前にはそこにホンダ契約ライダーを集めてイベントをする。「Hondaウエルカムプラザ青山で日本GPのイベントexit」という記事を見ることが多い。


ホンダ青山ビルを建設したのは1985年で、創業者の本田宗一郎が健在だった。ビルの設計にもいくつか注文を出していて、「大地震の時にガラス割れ歩行者を傷つけてはいけない。ガラスりのビルはもってのほかであり、の前にバルコニーを設けろ」と言った。このため、同ビルバルコニーが付いていて、学校営住宅のように見える。

また本田宗一郎は「あのビルは人通りの多い交差点の近くに建つ。交差点事故が起こりにくくなるよう、見通しを良くするべきだ。土地代が高くてもったいないかもしれないが、ビル道路から離して位置させて、しかもを丸くしろ。そうすれば見通しが良くなる」と示した。このため、同ビルは角が丸まった形状になっているexit
 

HRCやホンダの企業色

赤・青・白のトリコロール

ホンダの二輪レース部門の企業HRC株式会社ホンダ・レーシング)で、赤・青・白のトリコロール(三色という意味のフランス語)を企業色としているexit

鈴鹿8耐に出てくるHRCマシンは、が基調となっている。画像検索するとよく分かるexit

2018年ステファン・ブラドルexitHRCに所属してヨーロッパテストチームに参加していて、最大排気量クラスレースにもしばしばスポット参戦していた。そのときのマシンカラーリングは、が基調のHRCトリコロールだった。画像1exit画像2exit画像3exit画像4exit

ホンダ2015年に、MotoGP最大排気量クラスマシンを2,190万円で販していた。そのときの番がRC213V‐Sで、画像検索するとやはり赤・青・白のトリコロールのカラーリングが目に入るexit
 

真っ白な作業服

ホンダ工場における作業真っ白である。HRCの施設やホンダ工場を訪れるMotoGPライダーが、真っ白な作業に身を包むことが多い。(画像1exit画像2exit画像3exit

これは、ホンダの創業者本田宗一郎の教えによるものである。「良い仕事をするには、綺麗でなくてはならない。真っ白な作業にすると、いつも綺麗にしようという気持ちが自然に沸き起こる。だから真っ白な作業がよい」との考えを示し、それが受け継がれている。

ホンダ公式Twitterのこのツイートexitの「先輩」とは、本田宗一郎のことをしている。
 

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