丹羽長重(にわ・ながしげ 1571~1637)とは、安土桃山時代、江戸時代の武将である。
織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と移り変わった三英傑の天下で、波乱万丈という言葉がぴったりな人生を送った苦労人。また、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されたが後に復活した数少ない生存者の一人。丹羽氏重という名前が非常に似ている武将もいる。ややこしや。
幼少期
1571年、織田四天王の1人、丹羽長秀の長男として生まれる。弟に丹羽長正、藤堂高吉(のち藤堂高虎に養子入り)など。母は織田信広(信長の兄)の娘。
偉大な父に育てられた長重は
1580年に縁あって織田信長の5女を娶る。ちなみに家系図的に見ると、長重の母と嫁はいとこ同士である。どういうことなの・・・。
1582年、本能寺の変がおこり、義父信長が明智光秀に討たれる。父長秀は明智光秀の娘婿・津田信澄を誅殺している。その後、長秀は中国大返しで引き返してきた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に協力し、山崎の戦いで光秀を破った。
1583年、秀吉と織田家重臣柴田勝家によって勃発した賤ヶ岳の戦いでも長秀は秀吉に協力、この戦いでは長重も父に従って戦いに参加している。(このとき長重は13歳)戦いの後、丹羽氏は近江、若狭、越前、加賀123万石の大大名に躍進する。
父の死→転落(1回目)
1584年の小牧長久手の戦いでも長重は病気の父の名代として参陣した。
しかしその約一年後の
1585年5月、父長秀が病死してしまう(自殺とも)。長重は家督を継げたものの、ここから人生の一回目の転落が始まる。
当時秀吉と敵対していた越中の佐々成政を攻めた際、「家臣の中に成政に内応した者がいる」とお猿さんに難癖をつけられる。戦後、領地をほとんどボッシュートされる。123万石→15万石
さらに追い打ちをかけるように家臣もボッシュートされる。このときボッシュートされた家臣は
・長束正家(豊臣政権の五奉行)
・溝口秀勝(後の越後新発田藩主、顔芸)
・村上頼勝(後の越後村上藩主)
・青木一重(後の摂津麻田藩主、七手組の一人)
・戸田勝成(関ヶ原で戦死)
などのちに大名として名を残した人物が多かった。
さらに、1587年の九州征伐でも「家臣の振る舞いが乱暴だ」とお猿さんに難癖つけられ、領地をボッシュートされる。15万石→4万石
このように全盛期の約30分の1にまで領地を減らされる。長重涙目。粛清されなかっただけまだマシとか言うな。
復活(1回目)
しかし長重は諦めなかった。
1590年、豊臣政権内で存在が危険視されていた後北条氏に対する小田原征伐が開始される。
長重は、この戦に従軍、功を上げる。その後12万に加増の上、加賀小松に移封される。4万石→12万石
1598年に秀吉、1599年に五大老の一人前田利家が相次いで死ぬと徳川家康から利家の子前田利長の監視役を任される。
長重とこの利長は、領地が隣り合っている環境、領地の石高の差、織田信長の娘婿という似た立場からお互いをライバル視していた。
ところが、利長は一転して家康に味方し行動し始めた。さらに利長は上杉景勝への攻撃を家康から任された。
これを見た長重は
「監視を任されたのにどういうことなの・・・」と不満を持ち始めた。
ちょうどその頃、大谷吉継から西軍に付くように説得が来た。周辺の大名たちが続々と西軍についたため、長重はこれに乗じて西軍に付いた。そして…
1600年、長重は西軍、利長は東軍として関ヶ原の戦いへと突入していく。
転落(2回目)
1600年7月26日、前田利長は長重の小松城を攻めた。
しかし、小松城の守備は固く、なかなか落城しなかった。
利長は、長重と同じく西軍についていた山口宗永、修弘親子の守る大聖寺城を攻め落とした。
大聖寺城が落ちたことで、長重の小松城は窮地に陥った。
しかしここで、大谷吉継が虚報を流したこと、また利長の弟利政が西軍に近しい行動をとっていたことなどによって、前田軍は金沢に引き返し始めた。
長重はその引き返す隙をついて追撃したという。利長は追撃を受けながらも辛くも本拠地金沢に帰ることが出来たという。この北陸の関ヶ原ともいえる一連の戦いを浅井畷の戦いという。知名度が無いとか言ってはいけない。
しかし、西軍は関ヶ原での本戦で敗退。長重も西軍についたため、徳川家康によってやはり改易され領地をボッシュートされてしまう。12万石→0万石
復活(2回目)
改易されて3年、山城国鳥羽で閑居していた丹羽長重のもとに徳川秀忠から一つの知らせが来た。
なんと、常陸国古渡1万石の大名に取り立てるという知らせだった(もともと秀忠と長重は懇意の仲だった)。ここから、丹羽長重の復活劇が再び始まった。0万石→1万石
家康が江戸幕府を開いた後、豊臣家と幕府の関係が冷却化、1614年大坂冬の陣が勃発する。長重もこの戦いに参陣。鴫野の戦いで戦功をあげている。さらにその約半年後の大坂夏の陣では、木村重成の軍と対峙、叔父の丹羽秀重を失いながらもこれを打ち破っている。
これらの功から、1617年には、立花宗茂らとともに秀忠の御伽衆として抜擢され、1619年には常陸国江戸崎2万石に加増された。1万石→2万石
1622年には、立花宗茂が柳川に復帰した後の陸奥国棚倉藩5万石を任された。2万石→5万石
最終的に、長重は陸奥白河藩10万石にまで栄転、5万石→10万石
1637年に丹羽長重は65歳で亡くなった。三人の天下人やいろいろな人々に影響されながらのまさに「波乱の人生」であった。
人物
・父の陰に隠れやすい人物である。秀忠と仲が良かったのももしかしたら偉大な父の存在があったからかも・・・
・苦労人。・・・父に似たのか?
・地味。・・・ただでさえ織田家中で地味である父長秀よりも地味。
・堅実で実直な性格だった。
・前述の通り、関ヶ原の戦いで西軍について改易されたが復活した数少ない人物である(他には立花宗茂、新庄直頼など、バカ息子と定評のある織田信雄もここに入る)。秀忠との関係があったとはいえ、10万石以上になって復活したのは長重と宗茂だけ。
・織田四天王の家系で大名として江戸時代を生き残ったのは丹羽長秀の家系のみ、長重はその藩政の基礎を築いた。
・何気に築城技術に定評がある。しかしゲームでは評価してもらえなかったりする。
・前田利長とは仲が悪かったが、人質として預かった利長の弟の利常に梨を切ったり優しくした。(利常は梨を食べるたびにこの話をしたという)。
・人望がかなりあったのか、白河移封の際、旧臣が戻ってきまくって財政が傾いた。さらに改易された蒲生家の家臣も雇っていた。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 67 | 戦闘 | 65 | 智謀 | 43 | 政治 | 54 | 野望 | 43 | ||||
天翔記 | 戦才 | 130(B) | 智才 | 86(C) | 政才 | 118(B) | 魅力 | 67 | 野望 | 42 | ||||
将星録 | 戦闘 | 61 | 智謀 | 43 | 政治 | 57 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 49 | 戦闘 | 39 | 智謀 | 30 | 政治 | 50 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 48 | 智謀 | 25 | 政治 | 37 | 野望 | 63 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 47 | 知略 | 32 | 政治 | 39 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 45 | 知略 | 32 | 政治 | 38 | 教養 | 37 | ||||||
革新 | 統率 | 65 | 武勇 | 51 | 知略 | 36 | 政治 | 43 | ||||||
天道 | 統率 | 65 | 武勇 | 51 | 知略 | 36 | 政治 | 43 | ||||||
創造 | 統率 | 62 | 武勇 | 55 | 知略 | 42 | 政治 | 49 |
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関連項目
- 丹羽長秀(父)
- 丹羽長正(弟)
- 藤堂高吉(弟)
- 織田信長(主君、そして舅)
- 羽柴秀吉(主君)
- 徳川家康(主君)
- 足利義稙(同じように人生の浮き沈みが激しい人)
- 立花宗茂(似たような境遇の人、柳川藩主)
- 新庄直頼(似たような境遇の人、麻生藩主)
- 戦国時代の人物一覧
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