「北条氏政」(ほうじょう・うじまさ 1538 ~ 1590)とは、戦国時代の関東の覇者「後北条氏」の四代目である。
彼以前の3人(北条早雲・北条氏綱・北条氏康)は弄りにくく、次の5代目・北条氏直は空気すぎてつまらない為か、後北条氏のネタ方面を360度あらゆる方向から担当している、生まれる時代を間違えた男。
お前は泣いていい
「北条記」においては、
四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、どうやら無事であった。
と言う歴代当主中、最低の評価が下されており、唯一「君」で呼ばれていない。
しかし実際は、
- 深謀遠慮にして、公式チートな上杉謙信・武田信玄・佐竹義重と凌ぎを削り、後北条氏の版図を最大にした。
- 織田信長旗下の大将・滝川一益を関東から追い出している。
- 「小田原衆所領役帳」をまとめて家臣を管理し、年貢を軽くする等、関東一円を治政によって豊かにした。
- 織田信長と婚姻関係を築き、織田信長の分国として関東を統括する勢力として生き残る想定だった。
- 親兄弟であっても血みどろの抗争があたりまえの戦国時代にあって兄弟仲が非常に良い。
- 正妻の黄梅院との仲の良さとその別れに泣ける。
- 味噌汁の2度かけもやっていないし、刈り取ったばかりの麦を昼飯にしよう等とも言っていない!
といった名将と呼ばれるだけの実績の持ち主である。
じゃあなんでこんな風に書かれてるのよ?というと
- 氏政の代で後北条氏が滅んだ。(相手は豊臣秀吉軍20万)
- 小田原評定をまとめられなかった。
- 父・北条氏康の後見がなくなったとたんにダメさが露呈したように見える。(実際はタイミング良く織田信長・豊臣秀吉が台頭してきたせい)
- 味噌汁をご飯にかける加減が解らない。
- 刈り取った麦がすぐ食べられるものだと思っていた。
といったわけである。
だが大半の人間にはそんな事わかるわけもなく、氏政の業績についてはある事ない事誇張されており、暗愚・凡愚・老害な扱いをされる事が多い。
捏造はいけないとおもいます
北条氏政の逸話として有名な、食事の際に飯に味噌汁を二度かけたことから、父・北条氏康が
毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか。
(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない)
と嘆いたとされる話は、「北条記」等の所謂「軍記物」に出てくる後世の創作であり、これらは、揃いも揃って完璧超人な北条早雲・北条氏綱・北条氏康と、病死しなければ豊臣秀吉によって後北条氏を再興してもらったはずだと言われる北条氏直に対して、唯一「家を滅ぼした」と言う傷をもつ北条氏政をスケープゴートにし、滅亡した側の鬱憤を晴らしているようなものと言える。そもそも味噌汁と政治になんの関係があるというのか。
同様に、農民が刈り取っていた麦を、
あの取れたての麦で昼飯にしよう
といって刈り取ったらすぐ食べられるものだと思っていたと言う暗愚っぷりを表す逸話も、その内容に問題点が指摘されている後世の著作「甲陽軍鑑」に記載されているものであり、「甲陽軍鑑」が武田家を主人公にした創作作品である事から、やはり改変しにくい北条氏康に対して、脛に傷持つ北条氏政を、武田家に相手になるような奴ではなかったとする捏造を行っていると考えられる。
ま、こういう貧乏くじばかり引く人って実際いるよね。
相模の獅子の後継者
曽祖父・北条早雲が基礎を築き、祖父・北条氏綱が飛躍させ、父・氏康が関東の覇者の位置を確立させた北条家の次男に生まれる。
兄が夭折した為、嫡男そして後継者として扱われるようになると、16歳の時に、甲斐の武田信玄や駿河の今川義元と北条氏康との間で甲相駿三国同盟が成立し、武田信玄の娘で当時12歳の黄梅院と結婚することとなった。
政略結婚ではあったが、北条氏政と黄梅院の仲は良く、後の北条氏直ら子どもたちにも恵まれて幸せな家庭を築いていった。
後北条家を継ぐ
父・北条氏康が45歳の時に隠居し、まだ20代前半の北条氏政が後北条氏の家督を譲り受けた。
「御本城様」と呼ばれた北条氏康の後見を受けながらではあったが、後北条氏の代替わり時に発生するイベント「検地して基本台帳をつくりなおす」作業を行って、納税の状況や家臣の担当割振の整理を行って「小田原衆所領役帳」にまとめる等、父の民政家の面を引き継いだ腕を振るった。
また越後の軍神・長尾景虎が、父が川越夜戦でフルボッコにした山内上杉氏・上杉憲政から関東管領職を譲られて名を上杉政虎と改め、管領として関東を平定すると言う戦争の理由を見出す事が自発的に出来るようになったため、後北条氏を関東を牛耳る悪役と位置づけ、里見氏や佐竹氏を巻き込んで関東の解放を目指して進撃してきたことから、第二次国府台合戦にて雌雄を決する事になった。
父・北条氏康と共に迎え撃った北条氏政は、里見義堯・里見義弘親子の奮戦により敗走したものの、里見氏の油断と、ソナエイエローこと北条綱成の挟撃策により、里見氏の軍勢を総崩れに追い込み、岩付城のドッグブリーダー太田資正を攻撃し、佐野昌綱・北条高広・簗田晴助らを内通させることで、軍神を越後に撤退させて勝利を掴み取った。
妻との別れ
甲相駿三国同盟を結んでいた駿河の今川義元が織田信長の奇襲により田楽狭間で討ち取られ、今川義元の後を継いだ今川氏真だったが、国衆による今川への大規模な叛乱(3年間)があった。永禄6年を機に甲斐の武田信玄は今川氏との関係を改めて考えるようなったとされる。永禄8年、今川氏から娘をもらっていた武田義信(武田信玄の嫡男)が謀反の疑いにより廃嫡となった(二年後に東光寺で病死)。主に外交方針の相違があったと言われており、義信は織田と武田の同盟に反対していたとされる。信玄が織田信長や徳川家康と同盟した事や、氏真が北条氏康と共に永禄10年に甲斐に対して塩止め(塩の禁輸政策)を行った事や義信の件を機に上杉謙信との同盟を考え始め、氏真と謙信で内密に交渉を行う(この時、氏真が北条や武田との協議事項や機密事項を上杉側に漏洩する重大な同盟違反をしている)など、甲斐と駿河の関係が緊迫する状態が続き、永禄11年に信玄は今川と上杉の交渉に関する情報を得ていたとされる。信玄は「今川と上杉が通じ、示しあわせて武田を滅亡させようとしている」と北条氏に理解を求める書状を送っている。足利義昭と織田信長の仲介によって徳川と武田で同盟を結んだ後、永禄11年に信玄が駿河に侵攻した。
今川氏真の嫁・早川殿が北条氏康の娘だったこともあり、援助を求められた北条氏政は援軍を送ったものの、今川氏真は、武田の軍勢に居城をおとされて、朝比奈泰朝が守る掛川城へと逃げ延びる事となり、父・北条氏康は武田信玄との同盟を破棄することに決めた。
北条氏政は愛妻・黄梅院と共に仲睦まじく北条家で過ごしていた。しかし黄梅院が永禄12年に小田原城で27歳という若さで亡くなった(病死と言われている)。北条氏政と信玄の双方が彼女の墓を立てて弔っている。
※近年の論文、史料の再検証と供養記録の検証、氏政・氏直の研究により黄梅院は離縁も送り返されても無い事が明らかになっており、北条家で亡くなった事と判明している。(1970年代に史料誤読があった事が原因と指摘されている)
越相同盟締結
甲相駿三国同盟の崩壊により、甲斐の虎・武田信玄と言う強大な敵が出現した為、北条氏政は、今川氏真と共に越後の軍神・上杉謙信に援助を求め、頼まれたら断らない軍神の援護により、武田信玄を駿河から甲斐へ撤退させることに成功した。
その後、嫡子・北条氏直を今川氏真の養子にし、上杉謙信の元に弟(後の上杉景虎)を人質として送る等して越相同盟を結んだところに、武田信玄が逆襲とばかりに小田原城へ攻めてきた為、長期戦に持ち込んで一度は撤退させたものの、北条氏政が軍を率いた三増峠の戦いでは、武田信玄に一敗地にまみれた。
武田信玄が伊豆方面へと進軍してくると、伊豆衆とともにこれに対抗して頑強に抵抗して撤退させ、北関東に武田信玄が進軍してくると、上杉謙信と連動して撤退させ、徳川家康との戦いが激化したこともあり、武田信玄の侵攻は収まった。
妻そして父の死
愛妻・黄梅院は27歳の若さで亡くなり、父・北条氏康も53歳で病死し、
越相同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように。
との父の遺言に従った北条氏政は、弟・上杉景虎を切り捨てるかたちで越相同盟を破棄し、武田信玄との間に甲相同盟を復活させた。
※武田側より庇護していた今川氏真を捕縛する必要を迫られたが、早川殿の機転・・・というかごり押しで小田原を脱出した今川氏真は、徳川家康を頼った。
同盟を一方的に破棄されたものの、結局は悪役と言うことで納得したのか、上杉謙信の関東出兵が復活し、上野への攻めてくると、対陣した北条氏政は、結城晴朝を味方につけることで有利な状況をつくり、佐竹義重の軍勢に勝利して、上杉謙信を撤兵させた。
その後、武田信玄が没して武田勝頼が、武田信勝が独り立ちするまでの間と言う期限付きで武田家当主の代役を務めることとなると、武田勝頼は北条氏政の妹を娶って、甲相同盟を強化した。
後北条氏最大の版図を築く
武田信玄に続いて越後の軍神・上杉謙信が倒れると、軍神の養子となっていた長尾政景の子・上杉景勝と、北条氏政の弟・上杉景虎の間で後継者争いとなる「御館の乱」が勃発した。
当初は、上杉景虎が優勢だったものの、上杉景勝が押してくるようになり、上杉景虎は兄・北条氏政に救援を依頼し、それに応えた北条氏政は、武田勝頼に援軍を依頼した。
しかし武田勝頼は、すでに上杉景勝より多量の金品をもらいうけて同盟を結んでいた為、援軍を送らず、北条氏政は、妹を嫁がせている事などわすれたかの如く怒って甲相同盟を破棄し、兄弟の中でも武勇の誉れの高い北条氏照と北条氏邦の二人を、上杉景虎の援軍に向かわせるも間に合わず、上杉景虎は自害して果てた。
越後の上杉景勝と甲斐の武田勝頼が結んだ事から、北条氏政は、徳川家康との関係を強くする為に使者を送り、父と同じように、19歳の嫡男・北条氏直に家督を譲って後見役となった。
織田信長が武田勝頼を滅ぼし、重臣のタッキーこと滝川一益を管領に任命して関東に送りこんでくると、北条氏政は、滝川一益と戦いながらも、織田家の外部勢力として関東を分国化する方策を示して織田信長の元で生き残らんとした。しかし、交渉がはかどらずにいたところ、織田信長が本能寺の変で死んでしまう。この織田家の混乱に乗じて勢力拡大を優先して、真田昌幸らを引きこんで滝川一益を攻略し、総崩れとなった滝川一益は関東から撤退し、永年上杉謙信らと争った地・上野地方を手に入れた。
北条氏政は、織田信長の突然の死により混沌な状況となった信濃を手に入れようと、弟の北条氏照と北条氏邦に信濃攻略を命じた諏訪地方に進出したが、甲斐へと乱入した徳川家康と対決した。前線は当主の北条氏直と軍事に精通する弟の北条氏照・北条氏邦に任せて、北条氏政は小田原城より補給と募兵に尽力した。
長期戦となった徳川家康との戦いは、上田の真田昌幸が徳川方についた事をきっかけに沈静化し、徳川家康の娘・督姫を、北条氏直の嫁に向かい入れて和睦と同盟を結んだ。
※この時に、せっかく入手した信濃の領土を徳川家康に渡すと共に、真田昌幸が沼田を渡すことを拒否して上杉氏に走り、領土問題を抱えてしまったことが、滅亡への伏線となった。
傀儡としていた古河公方・足利義氏が死ぬと、その権力を掌握して関東における第一位の身分を手に入れた北条氏政は、利根川と常陸川の流通を掌握して、関東の国人や豪族に、後北条氏に従うか否かの選択を強い、那須氏と組んで下野の南半分をゲットする等、信濃をとられた腹いせとばかりに勢力拡大に尽力し、それまでの、
にプラスして
を支配下に置き、後北条氏では最大の版図を築いた。
小田原征伐
豊臣秀吉が時の権力者となると、北条氏政と北条氏直に上洛するように求められたが、成り上がりの秀吉に対して北条氏政が、弟・北条氏照や北条氏邦と共に空気読めない強硬姿勢をとりはじめ、空気を読める北条氏直や北条氏規との間で意見がまとまらなかった。その間にも関東で小競り合いを続けていた為、いつ自分に火の粉が降ってくるかと考えた同盟者である徳川家康より、
との絶縁状ともとれる起請文が送られた。
さすがに北条氏政も、徳川家康まで敵に回すのはまずいと思ったのか、まずは弟の北条氏規を上洛させ、沼田の真田領を名実ともに北条領に帰属させてくれるなら北条氏政が上洛するとして、北条氏規が交渉している間に、小田原では臨戦態勢を整えた。
そんな一触即発な中で、弟の家臣だった北条一の低い能力値に定評のある猪俣邦憲が、真田昌幸の名胡桃城を、城主の鈴木重則の家臣を買収して誘き出したところを狙って攻略する事件が発生した。
※猪俣邦憲の件は、後北条氏との間で領土問題を抱えていた真田昌幸が、後北条氏を滅ぼす為に、秀吉に喧嘩を売る事になるように仕組んだと言う説がある。
事ここにいたり、豊臣秀吉は小田原征伐を決定して宣戦布告し、対する北条氏政は、重臣・松田憲秀の献策をうけて(←フラグです)、武田信玄や上杉謙信も攻略できなかった広大な北条領の100ヶ所に及ぶ城全てを籠城させて長期戦に持ち込み、豊臣軍が撤退するところを追撃する、という作戦をとった。
一般にこの戦いにおいて、豊臣秀吉は豊富な財力と動員力を活かし、20万を超える大軍勢にきちんと補給をいきわたらせていた、と信じられている。しかし実際にはそうではなく、時間の経過とともに豊臣軍からは脱走者が増えていった。氏政の作戦は間違ったものではなく、それなりに勝算のあるものだったのである。
しかし、小田原城の目の前に石垣山一夜城を築かれると、鉢形城を守備していた弟・北条氏邦が開場して前田利家に降り、韮山城を守備していた北条氏規も開城した。さらに豊臣秀吉から氏政のもとに、籠城を進言した松田憲秀らが秀吉側に通じている書状を送りつけられる。
この時点で、小田原城と忍城が籠城戦を続けていたが、当主の北条氏直は自らの切腹と引き換えに籠城している者たちの助命を乞い、降伏した。
※この逸話により「小田原評定」とは、延々議論を重ねても結論が出ない悪い例として使われる言葉となったが、本来は後北条氏が定期的に行っていた評定の事である。
※北条氏直ではなく、北条氏政が最初に切腹を申し出るべきではとも思われるが、この頃の当主は北条氏直で、隠居の身の北条氏政が、武家の最期の仕事である総責任を負っての切腹を、当主をさしおいて申し出るのは、当主をないがしろにする行為にもなる。
北条氏政の最期
当初、徳川家康の尽力によって北条氏直は助命されるかにみえたが、小田原征伐の責任をとるという名目で、
という処分を下された。そして北条氏政も切腹を命じられた。
最期の日、弟・北条氏照と共に、沐浴して辞世の句を詠んだ北条氏政は、助命され後北条氏を残すことになる弟・北条氏規の介錯をうけ、北条氏照と共に医師・田村安栖の宿所で切腹した。享年53歳。
こうして、治世であれば名君の評価を欲しいままにしたであろう仁政家は、身を滅ぼしたのだった。
「雨雲の おほへる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空より来り 空に帰れば」
高野山に追放された北条氏直は、豊臣秀吉より大名として復活させる話が出た頃に病死した為、戦国大名の後北条氏は完全に滅亡し、北条氏規らの家系のみが残った。
北条氏政は今、北条早雲・北条氏綱・北条氏康・北条氏直と共に早雲寺に眠っている。
※その他「北条氏政」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
戦国大戦
『北条五色の力、結集させよ!』
声:梶裕貴
Ver1.2で追加された北条家のスーパーレアとして登場。色は黄色。
イラストレーターは、織田信勝などイケメン武将に定評のある黒葉.K先生(弟の上杉景虎も担当)。
信長の野望やBASARAとまったく違う、覇気にあふれた超イケメン武将である。
コスト2・槍足軽・武力6・統率7・防柵・魅力持ち。やはりコスト2・武力6はやはり足を引っ張る。というか盾槍もくれ。
計略「五色の采配」は、北条家の味方の武力が上がる大名采配。範囲内に北条家の武将が5部隊(以上でも以下でもなく五色でもなく)いるときは、さらに統率力が上がる。
統率+を生かした計略コンボを生かすと良いかもしれない。
中でもR北条氏康のコンボである牙城五色は範囲外に押し出せないなどデスコンの一つとして数えられている。
北条家に使いやすい大型采配がこれしかなかったことが幸いして(というか北条家はカード数が少ない)、Verを下るごとに効果時間が削られ、全盛期は三国志大戦で言う「劉備の大徳(範囲が超でかい円形)」と見紛うばかりの範囲も今はかなり狭くされてしまっている。更に統率上昇値まで削られた。氏政は泣いていい。
その後範囲と統率上昇値は戻され、2.2現在は先祖の北条早雲のお供として採用される事もある。
余談だが戦国大戦での五色備の総コストは10であり、氏政も含めると12(登録出来るのは通常9コストまで)。よって五色備全部入れての五色という事はできない。というかそれだと6部隊になるし。
Ver2.1では壮年期の氏政が登場している。青年期のイケメンっぷりは見る影もなく、白目を剥いたマッチョになっている。どうしてこうなった。
騎馬隊であり武力と統率のバランスが良く、更に柵も持っている。総合スペック的には優秀である。
計略「孤塁の采配」は北条家の味方の武力を上げ、更に騎馬隊であれば突撃した時の敵の吹き飛びが大きくなる。ふっ飛ばし効果の方はそれほど大きくないが、それよりも士気6で武力+5という一般的な大名采配に求められるものを満たしているのが大きい。効果時間も長め。
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最強戦法「獅子天雷閃迅槍・絶牙」
・・・「槍衾之二」です。と言うか・・・この盆暗顔を描いたのは誰だ!
※能力値もひどいことに・・・体験版だからだと言ってよコーエーさん!
革新 | 統率 | 75 | 武勇 | 51 | 知略 | 69 | 政治 | 83 |
天道 | 統率 | 47 | 武勇 | 51 | 知略 | 23 | 政治 | 45 |
製品版発売後、この凡愚な氏政はチュートリアル限定であることが明らかに。能力値もむしろ革新よりUPしてました。
※同じコーエー作品であるGREEの100万人の戦国無双では、いとしのカミさんに似たのか、お茶漬け片手に、爪も牙もなさそうなボーっとした男の子として登場。このまま本編に出して良いのか!?コーエーさん!?
▼いきなり柊かがみに求婚し、幾多の激闘(笑)を越えて泉家に仕えることになった「らきすた☆立志伝」
▼愛妻の梅(黄梅院)の尻に敷かれ、あずささんに翻弄される「アイマス立志伝」
老成剛毅
第一作目「戦国BASARA」からNPCとして登場し、英雄外伝より操作可能になった。
先祖の威光にすがり、各勢力間で翻弄される情けない老将として登場する。・・・没年から考えてもありえない設定である・・・なぜこうなった。
しかし3と宴では豊臣に敗北した事がきっかけか民衆思いかつ部下思いな性格が垣間見えるようになり、頼りなさそうなのは相変わらずではあるものの名君らしさを感じさせる性格に変化した。
そのせいか、味方から体を労わってもらうような台詞が増えたような・・・
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 56 | 政治 | 74 | 魅力 | 93 | 野望 | 78 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 45 | 政治 | 64 | 魅力 | 79 | 野望 | 55 | 教養 | 71 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 84 | 戦闘 | 66 | 智謀 | 51 | 政治 | 74 | 野望 | 76 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 138(B) | 智才 | 108(C) | 政才 | 152(A) | 魅力 | 85 | 野望 | 76 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 64 | 智謀 | 54 | 政治 | 72 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 52 | 智謀 | 53 | 政治 | 63 | ||||||||
嵐世紀 | 采配 | 60 | 智謀 | 46 | 政治 | 55 | 野望 | 77 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 57 | 知略 | 45 | 政治 | 54 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 63 | 知略 | 55 | 政治 | 63 | 教養 | 64 | ||||||||
革新 | 統率 | 75 | 武勇 | 51 | 知略 | 69 | 政治 | 83 | ||||||||
天道 | 統率 | 82 | 武勇 | 63 | 知略 | 78 | 政治 | 89 | ||||||||
創造 | 統率 | 79 | 武勇 | 62 | 知略 | 77 | 政治 | 86 | ||||||||
大志 | 統率 | 79 | 武勇 | 61 | 知略 | 79 | 内政 | 80 | 外政 | 84 |
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関連項目
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