- プロ野球選手一覧 > 広岡達朗
広岡達朗(ひろおか たつろう、1932年2月9日-)とは、広島県呉市出身の元プロ野球選手(遊撃手)・監督である。
概要
OB | |
---|---|
広岡達朗 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県呉市 |
生年月日 | 1932年2月9日 |
身長 体重 |
180cm 70kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 遊撃手 |
プロ入り | 1954年 |
引退 | 1966年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
6人兄弟の末っ子として生まれ、父は日本海軍で少佐を務めていた。終戦後、クラブ活動を選択する際に父とキャッチボールをしているところを年上の野球部員に見られ、勧誘されたのがきっかけで本格的に野球を始める。
呉一中学(在学中に呉三津田高に校名変更)に進学。サードのレギュラーとして活躍し、3年夏には甲子園大会まで後1勝のところで敗れ全国大会出場には手が届かなかった。
卒業後は早稲田大学に進学。1年秋からショートのレギュラーに定着。攻守に渡り早大の中心選手として活躍し、六大学野球のスター選手として名を馳せる。
様々なプロ野球チームの間で争奪戦となったが、「どうせなら一番強いチームでレギュラーを奪いたい」と1954年読売ジャイアンツに入団。
巨人時代
1954年からショートのレギュラーに定着。打率.314、15本塁打、67打点をマークし、新人王とベストナインに選出された。
大型ショートとして結果を残したが、2年目以降は二桁本塁打を放つ年は多かったものの打率2割前半と打撃面では苦しんだ。その一方で広い守備範囲と堅実な守備で阪神の吉田義男とともにセ・リーグ代表するをショートと呼ばれた。
1964年には長嶋茂雄の敢行したホームスチールに激高し、川上哲治監督との間に確執が生じ放出案も出たが、広岡が「巨人の広岡で死にたい」と正力オーナーに自ら辞表を提出し、熱意に押される形で一転残留。
1965年は黒江透修、土井正三ら新戦力との競争で出場機会が減少。
1966年はレギュラーとして開幕を迎えしばらく先発出場を続けたが、最終的にわずか11試合の出場に留まり現役引退を決意。
引退後
現役を引退した後はアメリカ合衆国のメジャーリーグベースボールを視察。巨人がキャンプに来ていることもあったが、広岡を招き入れることを断っていた。しかし森祇晶だけは広岡のホテルを度々訪ねたことから森に感謝している。その後はスポーツニッポンの野球解説者を務めた。
コーチ時代
1970年に根本陸夫監督の誘いを受ける形で広島東洋カープの守備コーチに就任。
若手の山本浩二、衣笠祥雄・三村敏之・水谷実雄らを厳しく育て上げた。また、苑田聡彦を内野手にコンバートすることを根本から指示され、広岡自身は「全く内野のセンスがない」と固辞したものの根本の強い要望で指導することとなり、実際になかなか物にならなかったものの、2年目に急成長しスーパーサブとして活躍。この成功でこれまでの考えを改め「指導者が熱意を持って指導し、選手も学ぶ情熱さえあれば必ず変わる」と自信を持つようになった。
広島でのコーチの後、1974年にヤクルトスワローズの守備コーチに就任。1976年にヘッドコーチに昇格し、この年のシーズン途中から監督に就任。
練習メニュー以外に選手のプライベートや食生活まで徹底的に管理する「管理野球」で弱小と呼ばれたヤクルトを変えていく。1977年には球団創設以来初の2位とチームを躍進させると、1978年には初のリーグ制覇・日本一を達成させた。
1979年には一転してチームは低迷、更にコーチ人事を巡ってフロントと対立したことでシーズン途中で退団した。
退団後、再び解説者として活動した後、広島時代の監督であった根本の誘いもあり西武ライオンズの監督に就任。
西武監督時代
初年度の1982年からいきなり球団史上24年ぶりの日本一に導くと、1983年には2位の阪急ブレーブスに17ゲーム差をつける独走でリーグを連覇。そのままの勢いで古巣巨人を4勝3敗で下し2年連続で日本一を達成した。
1984年は早期に優勝の可能性が低くなったことで辻発彦や伊東勤ら若手中心の選手起用にシフト。チームは3位と健闘するもベテラン勢との間に溝ができ、田淵幸一や江夏豊らはこの年限りで現役を引退した。
1985年は前年活躍した若手選手達に加え、秋山幸二・工藤公康・渡辺久信ら後の黄金世代の中心選手となる若手を積極的に起用。更に台湾球界から獲得した郭泰源の活躍もあり2年ぶりのリーグ制覇を達成。だがシーズン終了後、持病の痛風の悪化を理由にこの年限りで辞任。
この退任劇の裏には広岡の要望が通らなかったことや、フロントとの確執、厳しすぎる指導に選手が音を上げていた事、観客動員が伸び悩んでいた事など様々な理由があると広岡自身が後に語っている。
監督退任後
その後、NHKの解説者に就任し、指導者育成のための勉強会を開催したり、アメリカのマイナーリーグ球団の経営にも乗り出した。
1994年には千葉ロッテマリーンズの日本球界初の試みとしてGM(ゼネラルマネージャー)に就任。ボビー・バレンタインを監督として招聘し、フリオ・フランコやトレイ・ヒルマンらを獲得し2位と躍進する。だが、指導方法や起用法に関してバレンタイン監督や彼を慕う複数の選手・コーチらと、広岡と広岡が招聘した複数のコーチらとの間で対立が生じた。チーム内は非常にギクシャクした状態となり結局バレンタインは1年限りで退任。
翌年は江尻亮コーチが監督に就任し、広岡も複数の助っ人を獲得。だが、獲得した助っ人がことごとく外れ前年を下回る5位と低迷。前年のゴタゴタもあったことからこの年限りで契約を一年残しGMを解任された。
その後は解説者・評論家として活動。野球以外の問題に関しても論ずることも多い。
人物・エピソード
打者としては一発長打があるが大成しきれなかったという形だが、守備に関しては堅実な守備で吉田義男と並び称される名手であった。
打撃面で大成しきれなかった点については、器用で頭が切れるが故に様々な理論を理解し取り入れすぎた結果、本来の良さを見失ってしまったと評されている。
徹底的に理詰めで合理的な考えを持ち、私生活まで徹底的に管理する指導や厳しさを見せる采配は「管理野球」と呼ばれた。この管理野球で数多くの名選手を育て上げた一方で関係者の間で多数の反発も生んだ。
このことから気難しい人物や冷酷な人物と見られることも多いが、野球以外では愉快な面もある人物ともいわれている。
成績
通算打撃成績
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1327 | 5060 | 4513 | 603 | 1081 | 167 | 39 | 117 | 465 | 115 | 77 | 27 | 410 | 39 | 780 | 84 | .240 | .307 |
通算監督成績
通算:8年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 966 | 498 | 406 | 62 | .551 | Aクラス6回、Bクラス2回 |
表彰
表彰 | ||
---|---|---|
新人王 | - | 1954年 |
ベストナイン | 1回 | 1954年 |
正力松太郎賞 | 2回 | 1978年、1982年 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 6回 | 1954年、1955年、1957年-1959年、1965年 |
関連動画
関連商品
関連リンク
関連項目
- 0
- 0pt