羊祜(ヨウコ)字は叔子は三国~晋初の軍人・政治家・文人。生没年221~278年。晋の都督として呉の討滅にあたり、呉の陸抗としのぎを削った。
出自・在野時代
兗州泰山南城の人。羊氏は漢以来の官吏の家系で二千石を食み、祖父や父は太守を務めていた。12才の時に父を失うが、長じて羊祜は博学で文章を能くし、議論にすぐれた長身美髯の人物に成長した。
羊祜を気に入った郡将の夏侯威(夏侯淵の息子)は姪(夏侯覇の娘)を嫁がせた。人々からの評判は高かったが仕官には興味が無く、知人から曹爽の下に行こうと誘われた時も(その滅亡を予期して?)断っており、在野の人として過ごしていた。
司馬家に仕える
255年頃、大将軍として魏の権を握った司馬昭からの招聘をうける。最初は断っていた羊祜だったが公車(皇帝の車)が迎えに来るという礼をうけたので、これを受諾した。一時鍾会から憎まれ、讒言されて遠ざけられそうになったが、司馬昭からは深く信頼されて要職を歴任し、機密を預かる腹心として重用された。さらに中領軍をまかされて軍人としてのキャリアも積んでいる。魏の皇帝とは一定の距離を保ったという。
司馬昭が亡くなると司馬炎が晋王を継いだ。265年。魏から晋への禅譲工作が進められた時には、賈充らと共に司馬炎を補佐して受禅の段取りを整えた。感謝した司馬炎から中軍将軍・加散騎常侍・郡公・封国3,000戸という待遇を与えられそうになったが、他の重臣に遠慮してひとつ下の侯爵位を受けたにとどまった。
また律令の制定に携わる面子に名を連ね、新帝国の基礎固めに貢献した。位は尚書右僕射・衛将軍に進んだ。
陸抗との対峙と友情
晋帝となった司馬炎は呉を滅ぼす志を抱き、羊祜を都督荊州諸軍事(対呉総司令官)に任命した。着任した羊祜は民政に心を配り、呉の人々にも優しく接した。学校を建設し、さらに800もの田地の開墾を成功させた。漢江・江夏の社会と人心は大いに治まり、10年は戦える拠点となったという。
国境を挟んで呉の陸抗が対晋の指揮をとっていた。羊祜と陸抗は互いに好意と敬意をいだき、互いの領土に侵犯する事は無く、もっぱら善政を行って相手の民や兵士が亡命してくるように努めた。また国境の取り決めをして紳士的に揉め事を収めるようにした。
陸抗が病に伏した時に羊祜は薬を調合して陸抗に贈り、陸抗は疑いもせずに服用した。やがて病が治った陸抗は返礼に酒を贈り、羊祜は疑いもせずに飲んだ。当時の人々は両者の友情を評判としたが、臣下として節操が無いと謗る者もいた。陸抗は一度孫皓の叱責をうけている。
呉征伐に従事する
しかし、両者は馴れ合いや茶番をしているわけではなかった。272年、呉の西陵を守る歩闡が晋に降伏を申し入れた。これを聞いた陸抗はすぐさまに西陵に向かい、陣地を構築して内は歩闡を封殺し、外は晋軍を迎撃するという危険な戦法をあえてとり(西陵の防御はかつて陸抗自身が構築したもので短期で落とす事は不可能であった)晋軍を退ける事を成功した。羊祜も兵を率い方策を尽くしたが陸抗が上をいった。兵力は晋軍8万に対し呉軍3万といわれる。
敗戦により平南将軍に降格されたが、以後も都督としての任にあたった。城塞を築いて備え呉の来寇を退け、徳政を行って呉の人々の懐柔にあたった。呉の人々からも人望を得て「羊公」と敬称され、呉から晋に帰服する者たちは少なくなかった。
志半ばで斃れる
地場を固める事数年。征南大将軍・開府儀同三司に進み。いよいよ決戦を行うべく準備を始める。陸抗は274年に亡くなっていた。呉を滅ぼすには強力な水軍が必要と考えた羊祜は、かつての幕僚である王濬を推薦して益州諸軍事・龍驤将軍として艦隊の建造を行なさせた。準備が整ったところで呉討伐を上奏するが多くの群臣の反対にあい許されなかった。失意の中、かねてからの病が悪化し、後任に杜預を指名して亡くなる。享年58才。死後に太傅・鉅平侯の位が贈られた。その死は司馬炎を始め、羊祜の恩恵を受けた民たちからも悲しまれた。
羊祜の死後2年、遂に呉が滅ぼされて祝賀された時、司馬炎は羊祜の功績であると涙を流した。羊祜の廟堂に報告され、夏侯未亡人に爵位と食邑5,000戸が与えられた。
羊祜には男子が無く、司馬炎のはからいで爵位は甥(兄の子)が継いでいる。
人物
呉討滅の先鞭をつけた事で名高く、晋代の名将として後世から顕彰される事も多かった。
清く慎ましい性格で、身につけているものは質素であった。俸禄も一族や部下、兵士に分け与えて財産を残さなかった。自身の葬式も簡素なものを希望していたが司馬炎が許さず盛大に送られた。
司馬昭、司馬炎からは信任され、部下や民からの評判は非常に良かった。朝廷では謙虚に振る舞ったが一部の重臣からは嫉妬されて嫌われた。杜預、王濬の才能を見ぬき、彼らは見事呉を滅ぼす事に成功した。また子供の頃の王衍を見て、いずれ国を乱すものと予言した。
文人としても活動しており、老子に注釈するなど著作が残されている。
逸話
一国の重鎮らしからぬ腰が軽いところがあり、呉征伐に赴任した時、鎧も付けず軽装で出歩くのを好んだ。供も10数人をこえる事もなく、敵地に近い場所で猟や釣りをしていた。ある時ついに業を煮やした幕僚の一人が矛を構え門に立ちふさがり軽挙を諫言したところ、羊祜は謝罪して態度を改めた。
舞が踊れる鶴を飼っており、客に自慢したが鶴は客の前では決して踊ろうとしなかったという。この事から名実が伴わない人物を「羊公の鶴」と呼ぶ者がいた(羊祜個人の悪口ではない)。
襄陽の峴山に登り、そこで景色を眺めながら酒を飲み、詩文を作る事を趣味としていた。羊祜の死後に峴山に碑石が建立されて多くの人々が羊祜を偲んで涙を流した。後に碑石は杜預によって「堕涙碑」と名付けられた。
怪談にも縁があり、幼い頃に隣の家の夭折した子供の記憶を持っていたり、先祖の墓に帝王の気があると言われて(身の危険を感じて)掘ったところ、今度は腕を折って高官に上るが後嗣は無いだろうと言われた。実際、馬から落ちて腕を折り出世したものの、後継ぎには恵まれなかったという。
系譜
- 母は蔡邕の娘(蔡文姫が母だという説もある)。
- 姉の羊徽瑜は司馬師の夫人。
- 別の姉(名は不詳)は夏侯荘(夏侯威の息子)の夫人。
- 異母兄の羊発の母は孔融の娘。
- 司馬昭の夫人である王元姫の母も羊氏の出身で、司馬炎にも羊氏の血が流れている。
- 叔父の羊耽の夫人は辛毗の娘である辛憲英。羊氏の知恵袋ともいうべき女性で、羊祜も彼女の舌鋒の鋭さにたじろいたという。その息子である羊瑾の孫は、恵帝(司馬衷)の皇后から前趙の劉曜の皇后となった羊献容。
南北朝時代、侯景を斬ったという羊鵾も羊耽の系統の末裔である。 - 従姉妹?の子に王衍。
羊祜自身は夏侯覇の娘を娶っている。夏侯覇が蜀に亡命した後は、残された子女に対する風当たりがきつかったが、ただ一人羊祜は妻を大切に扱った。男子には恵まれなかったが女子はおり、娘婿(名は不詳)がいた事が史書に記載されている。
三国志演義
魏末期~晋初に活躍した人物なので、孔明死後は端折られる作品では登場しない。陸抗との関係や名将ぶりは史実と同じ、陸抗の方は内通を疑われ、更迭されて病死という悲劇的な結末となっている。
補足
コーエーの三國志シリーズにおける羊祜の能力一覧。万能型の都督タイプの武将で、総合能力がベスト20に入ることも多いが、登場時期が非常に遅いのがネック。ライバルの陸抗とはだいたい互角となっている。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志Ⅰ | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
三國志II | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
三國志III | - | 46 | 80 | 79 | 74 | 83 | 72 | - | - |
三國志IV | 90 | 73 | 80 | 78 | 85 | - | - | - | - |
三國志V | - | 83 | 82 | 80 | 86 | - | - | - | - |
三國志VI | 91 | 69 | 80 | 79 | 83 | - | - | - | - |
三國志VII | - | 82 | 71 | 74 | 81 | - | - | - | - |
三國志VIII | - | 67 | 89 | 86 | 88 | - | - | - | - |
三國志IX | 87 | 69 | 91 | 86 | - | - | - | - | - |
三國志X | 87 | 65 | 87 | 85 | 90 | - | - | - | - |
三國志11 | 90 | 64 | 84 | 87 | 89 | - | - | - | - |
三國志12 | 90 | 64 | 84 | 87 | - | - | - | - | - |
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