義姫(よしひめ 1548年~1623年)とは、最上義光最愛の妹であり、伝によれば二度も戦場へ参じた鬼姫であり、仁愛が後世誤解された鬼姫であり、伊達輝宗の妻であり、伊達政宗の母である。号は保春院。通称はお東の方、最上御前など。
羽州の鬼姫
1548年、最上義守の娘として山形城で出生。兄は最上義光。
義守は天文の乱に際し伊達稙宗方についていたが、伊達晴宗が勝利に等しい和睦条件を勝ち取ると関係修復を図り、ようやく独立を果たしたばかりであった。
その後も勢力の拡大を目指したが、1560年の寒河江城攻めに失敗すると事態が均衡してしまった。
戦乱に次ぐ戦乱の家中で育った義姫は平和を願う仁愛の人として強い意志を持った女性に育っていった。
1564年、後顧の憂いを断ち、羽州平定に心血を注ぐため、義守により奥州の雄・伊達輝宗に嫁がされる。
当時は珍しくもなんともない政略結婚である。両家の鎹となる使命を帯びて、義姫は山形から米沢へと輿入れした。
同年末には輝宗が家督を継いで伊達家第16代当主となる。
1565年、子宝を祈願するために亀岡文殊堂へ詣でて羽州山岳信仰の象徴・出羽三山の総奥院・湯殿山(葉山に代わって出羽三山に入るのは江戸時代以降)に登頂。山頂の湯に浸した幣束(へいそく。御幣(ごへい)、幣(ぬさ)などとも。木や竹の幣串(ぬさぐし)の先端に紙垂(しで)を挟んだもので、寺社に奉納したり、神仏の依代とされたり、祓具(はらいぐ)として使われたりする)を持ち帰って寝所の屋根に安置している。
1567年、待望の第一子にして嫡男誕生。三年子無きは去れと言われる世俗において、まさに執念の年であった。
ある夜、老僧から体内を宿に貸して欲しいと請われた夢を見て、輝宗と相談し宿を貸すことを決め、翌晩その旨を告げたところ、件の幣束が体内に宿って懐胎したという逸話は有名である。
この老僧は湯殿山の神(大山祇神(おおやまづみのかみ))と信じられ、幣束の中でも紙垂が幾つも下がったものを指す梵天(ぼんてん。古語の「秀(ほ)で」に由来する)にちなんで子は梵天丸と名付けられた、と云われている(後の伊達政宗)。
1568年、竺丸(後の小次郎政道)誕生。※生年には他に1574年と1578年説が有り、実在も疑問視されている。
他2女を後年産んでいるが、いずれも夭折している。
1570年、義光が家督を継いで最上家第11代当主となる。
この際義守と義光の間で対立があり、夫・輝宗は義守に加担している。
1571年、梵天丸が疱瘡に罹り生死の境を彷徨う。のち平癒するも右目を失明。
1574年、再び最上父子の対立が再燃(天正最上の乱)、輝宗はまたも義守の援軍へ参じている。
1577年、梵天丸元服。藤次郎政宗と名乗りを改める。
1578年、義守の妹婿・上山満兼が義光に反発して蜂起(柏木山の戦い)、輝宗は三度これに協力。しかし伊達勢は本格的な戦になる前に撤兵した。
この撤兵の理由を説明する諸説の一つには、実家と嫁ぎ先の争いもさることながら、家督を継いで以降長きに渡る実父と実兄の争いに危機を感じた鬼姫が意を決して戦場へ馳せ参じ、輝宗の陣中に輿で割って入ると激情ともいえる決死の説得を行った、というものがある。もしこれが本当であるならば、御家の留守を守る重責を敢えて放棄し、敵方に加担する業を背負ってでも人の道を貫き通した彼女の行為はまさしく至誠天に通ずの体現であったろう。しかし、結果として伊達家は最上家への影響力を大きく失ってしまう。
1584年、伊達政宗が家督相続し、輝宗が隠居、ともに館山城へ移る。
1585年、政宗に侵攻され深い恨みを持つ畠山義継によって夫・輝宗が拉致され更に救出に失敗、非業の死を遂げる(粟之巣の変事)。深く悲しんだ義姫は米沢にて落飾して保春院と号した。
1588年、大崎義隆が家中の内紛に窮した隙を突いて政宗が大崎家に侵攻する(大崎合戦)。
最上家にとって大崎氏は本家筋にあたるため、義光は援軍を差し向けた。同時に伊達領南方で侵攻が始まり、両面作戦を強いられた政宗は大崎勢に泉田重光を捕縛されるなど苦戦を強いられる。
またもや伊達と最上の争いが巻き起こり、そればかりか北も南もと心中穏やかならざる事態が連続したため、保春院は再度意を決して立ち上った。戦場の鬼姫再びである。
甲冑に身を包むと伊達・最上両軍の間に陣を張り、80日にも渡って双方に睨みを利かせ居座り続けた。
その頑強な意志の前に両軍はなす術も無く、やがて膠着状態を嫌って停戦へと収束する。
この時義光は密かに陣を見舞っており、妹へ「叔母上、叔母上」と無邪気になつく幼い息子を見て落涙したという。
※和睦後に兄妹の間でやりとりした書状が残っており、女性向けに平仮名でよしあきと署名したため義光の読みが判明するという歴史的に重要な資料となっている。
1590年、小次郎が政宗の手にかかって死去。政宗毒殺未遂事件により成敗されたとする説が一般的であるが、この事件は後年の創作が入った可能性が非常に高い。
同年政宗、小田原参陣。
1591年、岩出山転封。
1593年、文禄の役で渡海した息子の下へ見舞金三両と「あきかぜの たつ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空」の一首を添えて送る。
思いがけず遠い異国の地にて母の愛に触れ、感激した政宗は城普請の合間を縫って贈り物を探し回り、ようやく朝鮮木綿を選び出して返書をしたためている。
やりとりは何度かあったようで、このうち現存している一通はとんでもない長さで書き連ねてある。まさしく母子愛。
その内容は、伊達の築城技術は上方に全く引けを取っていないこと、西国に遠い領主から早い帰国が許可されそうな気配であること、この時ばかりは東国の生まれでよかったと思ったこと、一目会って母上の顔を拝みたく思っていることなど、いずれの文面にも不安と喜びが溢れており母子の情が読み取れるものとなっている。
1594年、突如山形へ出奔。その時政宗は帰国して京に留め置かれていた。
1595年秀次事件。姪・駒姫が刑死、義光正室・大崎夫人も後を追って自死。政宗も御家取り潰しの危機に瀕する。
1600年長谷堂城の戦いに際し、政宗の命により援軍に発った留守政景の陣へ催促の書状を出している。
結局伊達勢は具体的な軍事行動を取らなかったが、保春院は戦後政景へ援軍に対する御礼の書状を送った。
※署名には「ひ可し(ひがし)」とあり、伊達家内の通称を使用している。
1614年最上義光没。柱を失って変わり果てて行く最上家中を嘆いたという。
1622年最上家が御家騒動により改易される。政宗は行き場の無くなった老いた母を仙台城に迎え入れた。
二人は再会を喜ぶ歌を詠み合っている。
政宗の歌 ※年月久しうへだたりける母にあいて、と添え書きされている。
「あいあいて 心のほどや たらちねの ゆくすゑひさし 千とせふるとも」
保春院の返歌
「二葉より うへしこまつの 木だかくも えだをかさねて いく千世のやど」
1623年江戸の愛姫へ手製の下げ袋を送っている。すでに目が見えなくおり、足も不自由であったという。
同年徳川秀忠上洛に伴い、政宗・忠宗親子が江戸を経て京へ向かう。
道中の政宗から書状を受け取った保春院は、早速侍女・小宰相に筆を執らせ、国許で旅路の無事を祈念したこと、路次も良く参内に支障がないと知り安堵したこと、帰国まで長生きし続けることを記して送った。
ところがそのわずか1ヶ月後、最愛の息子に看取られることは叶わず仙台城にて没する。享年76。
京にて訃報に接した政宗は「立ち去りて 浮世の闇を 遁れなば 心の月や なほも曇らじ」と詠み母を悼んだ。13年後の辞世は対の句と見るべきだろう。
戒名:保春院殿花窓久栄尼大姉
位牌は政宗自らの手作りと伝わる。
鬼姫は冷徹な悪女・毒婦か?
んなわけねーだろボケェ、鮭ぶつけんぞ。義光様はお帰り下され。なにとぞ、なにとぞ~。
伊達政宗との親子関係は中々複雑なものだったようで、政宗は折に触れ追悼の歌を詠んで終生敬愛する一方で、母には恨みもあると残している。また、疱瘡で醜くなった政宗よりも次男の竺丸の方を溺愛していたというエピソードが有名であるが、有力な資料からはその様子を覗い知ることはできず、近年の頭蓋骨の調査からもそこまで深刻な病痕は無かったようである。政宗は南奥羽の秩序を堅持しようとした父・輝宗とは外交政策で真っ向から対立しており、父の非業の死も実は事故と見せかけた政宗による謀殺であり、母・保春院の出家や後の最上出奔も息子からの暗殺逃れであったとする説もあるが、真偽は定かではない。
以上のような話から政宗毒殺未遂事件でも関与が疑われているが、これに対する検証材料を以下に列挙する。
- 1590年の政宗毒殺未遂事件は貞山公治家による伊達家の正史に記載がある。ただし成立年は1703年。
さらに遡ったとしても編纂者が伊達家に仕え始めたのは1679年で、当時を知る者は生きていない。 - 小次郎成敗直後と思われる政宗直筆の書状が残っており、鬼庭綱元に宛てて事の顛末を書き記している。
今日言われている毒殺未遂事件と全く同じ内容。ただし、貞山公治家記録の付録であり信憑性に疑問の余地有り。 - 1679~1703年の間、最上家は御家騒動により既に没落して奥羽から姿を消している。
ほぼ同年代に伊達家も同じく御家騒動でてんやわんやしていた。詳細は割愛。 - さらに遡って1636年、伊達成実の『成実記』には「饗応が催されるも政宗公虫気(腹痛)にて帰館」とあるのみで、
保春院の手ずからの料理だとか毒が入ってたとかの記載はない。なお政宗の腹痛はすぐ治ったとのこと。 - 1594年の山形行きは理由が全く無い訳でもなく、駒姫の婚姻に際し礼節の教えを授けに出向いた可能性がある。
主立った者はみな京におり、上方に辱めを受けない一流の作法を心得ている彼女が一肌脱いだのかもしれない。 - 山形到着直後に東北で大地震発生。翌95年に駒姫惨死。さらに翌96年慶長伏見大地震。
大事件の連続。心痛に耐え、静かに座して姪の鎮魂を祈る道を選んだためすぐに帰国しなかったのだろう。 - 岩出山転封以来伊達家は財政不安の連続。新領統治、朝鮮出兵、大地震、仙台城普請、さらに家臣の出奔多数。
機を見るに聡いお東の方は政情が安定するまで帰るのを憚り、そうこうしている間に帰る機会を失った。
以上のことから推測するに、
「最上を潰して伊達を残した徳川幕府の英断を讃え恭順の意を表するために、仙台藩が過去の既成事実として長年最上家に留まり続けた保春院を悪人に仕立て上げ、正史として伊達家の歴史に残した」
という仮説も成立する。やや強引だが。
※ただしこの場合は捏造というより処世であり、現代の感覚で感情論にまかせて難癖を付けるのは浅はかである。
ともあれ保春院は、親を愛し、兄を愛し、姪を愛し、夫を愛し、子を溺愛するがあまりに、親と兄に背いて参陣し、姪をむざむざ死なせる業を負い、夫に背いて撤兵させ、子に背いて出奔し28年間も帰らなかった。
我々凡人にはなんとも分かり辛い、誤解されやすい強烈な仁愛の持ち主であったことは確かと言えよう。
『戦国大戦』の義姫
「奥羽の鬼姫とは我の事ぞ!」
CV:小清水亜美
伊達家でVer2.0より参戦。1.5コストで4/6制魅の槍足軽。明らかにイラストが怖い。
計略の「毒入りの膳」は範囲内の最も統率の高い敵武将の兵力を徐々に減らす妨害計略。
この毒が強烈で、槍足軽は攻城ラインから食らえばまず戻れず即死する程の減りっぷり(Ver2.00A)。やっぱ怖い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 専用イベント有り | |||||||||||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | 19 | 武勇 | 46 | 知略 | 80 | 政治 | 59 | ||||||
天道 | 統率 | 19 | 武勇 | 46 | 知略 | 80 | 政治 | 59 |
※姫武将として選択しない限りは登場しない。
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