諸葛恪とは、三国志に登場する人物の一人。呉に仕えた人物であり、ロバ諸葛瑾の息子である。
ロバという言葉は大嫌い
諸葛恪は小さい頃から才気煥発、口達者だった。
上手いこと言って相手をやり込めようとするエピソードが大量に残っている。
有名なのはロバ=諸葛瑾だったのを諸葛瑾のロバにした話だが、もう一つロバの話がある。費禕(費イ)が呉の宴会に来た時のことだ。
孫権は「費禕が来ても無視しよう」と意地悪することを提案した。かくして、費禕が来てもスルーし続ける呉の一同。
もっともそこは費禕、ただではやられない。
「麒麟は、鳳凰が来たら食事をやめたとされます。ここにはロバやラバしか居ないようですな。俯いて食べ続けている」
と皮肉った。
ロバとバカにされては黙っちゃいられない諸葛恪、こう返した。
「鳳凰が来るかと待っていたら、なぜか燕雀の類が来て鳳凰を自称してる。弾弓で撃って、故郷へ帰してやれ!」
この発言はあまり評価されなかったようで、蜀書費禕伝では「費禕を論破できなかった」と述べられている。まぁ、スルーしろと言われていたのに反応した以上仕方ないが……
念のため言っておくと当時の外交では「いかに自国の面子を保つか」もまた重要であり、こういう発言をすることそのものは悪いわけではない。
諸葛恪と張昭
諸葛恪の言葉によく犠牲になったのが、あの張昭である。
まず、宴会の話。諸葛恪はお酒を勧める係をやっていたのだが、もうかなり酔っていた張昭は「年寄りに無理をさせるのは礼に背くぞ」と酒を拒否した。
これに反応したのは孫権である。諸葛恪に反論するよう唆し、諸葛恪はそれを受けてこう言った。
師尚父(太公望のこと)は老いたからと言って軍の役目を辞退しなかったでしょう? 張昭さんはもう戦に出ないんだし、宴会で先頭に立たせることくらい無理とは言いませんよ。(注・元の発言が長いので短く意訳してます)
張昭は無言で酒を飲んだ。してやったりという孫権の顔が見える。
次に、宮殿の前に頭の白い鳥がやってきた時のこと。孫権が「あの鳥はなんだ?」と聞くと、諸葛恪は「白頭翁です」。
しかしこの言葉を聞いた張昭は自分をバカにされたと誤解……いや、わざわざ張昭の前で言うあたり誤解じゃないかもしれないが、ともかくそう思った。
「白頭翁という鳥がいるとは聞いたことがない。対になるはずの白頭母なる鳥を探させてはいかがでしょう」
こう言った張昭だったが、
「鸚母(オウム)という鳥はいても、鸚父なんて聞いたことがありませんが」
と諸葛恪に返されて笑いものになった。
適当な性格
一方で、諸葛恪は父親や叔父とは似ても似つかない性格だった。
相手をやり込めなくては気が済まず、才能をひけらかし、いい加減だった。
陸抗と任地を入れ替えることになった際、諸葛恪は壊れた部分をそのままにしたのに対し、陸抗は壊れた部分をちゃんと補修していたという。
その性格は呉の人間ではない諸葛亮にすらダメ出しされるレベルであり、陸遜もわざわざ注意している。
諸葛瑾もまた、諸葛恪が家を栄えさせると共に潰すのを予見していた。
成り上がる
諸葛恪が一躍その名を馳せたのは、山越退治である。山越とは、山間部の非漢民族のこと。故に支配も難しい。
諸葛恪は「自分が丹陽(山越が多い地域)に行けば、兵士四万人を手に入れてみせますよ!」と大見得を切った。この態度に諸葛瑾が「恪にうちの家は潰されるだろう」と思ったのだが、それは置いておく。
着任して行ったのは、徹底的な兵糧攻めだった。田地の支配を強化し、領境を固めて移住を不可能にし、防御拠点を固める。一方で、降伏してきた山越賊は労る。
こうして丹陽の山越は一時的にとはいえ支配下に入り、四万の兵を入手。諸葛恪は威北将軍に任じられた。
その後も功績を挙げ続け、二宮の変では次が孫和になっても孫覇になっても家は残せる形を(偶然か狙ったかは知らないが)取っていた。更に孫峻の推薦もあり、孫権の臨終においては後事を託されるまでに至る。
自分を排除しようとした孫弘も返り討ちにし、呉の実権は諸葛恪が握った。経済政策も的中し、民衆は喜んだという。
東興の戦い
実権を握った諸葛恪は、東興というところに城塞を築いた。これは合肥への水をせき止める堤防の近くに位置しており、その堤防も修復している。
孫権の死に乗じる意味も兼ねて魏は攻撃を仕掛けたものの、諸葛恪は丁奉らを先頭として迎撃。
降雪により魏軍が休憩して宴会しているところへ、丁奉らは半裸でよじ登って急襲したという。
魏軍は泡を食って逃げ出したものの、朱異が足場となる浮橋を破壊したため死者数万。見事な大勝利である。
しかしながら、この敗北は魏の実権を握る司馬師にとって痛手とならなかった。兄弟の司馬昭に責任を負わせることで、逆に人心を集めてみせる。
一方、勝利した諸葛恪は……
調子に乗る
東興の戦いから半年も経たないうちに、諸葛恪はまた魏を攻めようと言い出した。当然、反対意見が続出する。
生前の孫権からも寿春攻めを止められたりしているのだが、それでも言う。蜀の姜維に手紙を送り、呉と一緒に北伐を開始するよう依頼する熱の入れようである。
時を待てという手紙を送った友人に対して、諸葛恪は別の論文をコピペして送り、こう結ぶ。
この論をじっくりと省みれば、わかるだろう。
こうしてドヤ顔で、二十万の軍勢と共に諸葛恪は出兵した。要請に応じて、姜維も北伐を始めるのだが……
合肥攻め、そして落日
合肥新城には三千の兵しかいなかった。二十万も三千も恐らく大げさな表現であろうが、数に相当な差が開いていたのは確かだろう。
合肥の兵士は半数以上が戦闘不能となり、城壁も崩れてしまう。そこで張特という武将が頭を使い、呉軍に申し出る。
「魏では城を百日守って援軍が来なければ、敵に降伏しても罪にはならず、家族も処刑されない。数日したら百日になるので待ってくれ」
それを信じた諸葛恪、攻撃を中止したのだが……翌朝、呉軍の目の前にあったのは補修し終わった城壁。要するに、騙された。
攻撃を再開した呉軍だが後の祭り、包囲を続けるうちに疫病が蔓延して大量の死者が出る。
それでも、諸葛恪は撤退しようとしない。合肥攻めを批判した朱異は兵を取り上げられ、進言を何度も無視された蔡林は魏に投降。
結局魏軍に援軍が来て、呉軍は追い散らされるのだった。
ちなみに諸葛恪の要請で北伐を行なっていた姜維は、さっさと撤退している。
その最期、そして死後
合肥の大敗は、東興の勝利で得たものを無に帰していた。呉にとっても、諸葛恪にとっても。
だが大敗で人心を失い反省するどころか、更に自分へ権勢を集中しようと試みた。遠征中に自分がいないところで決められた人事をやり直させ、青州・徐州に軍を進める計画を練る。
そんな彼に、もはやついていく人間などいない。かつて諸葛恪を推薦した孫峻によって、諸葛恪は暗殺されてしまう。
弟の諸葛融を始めとする一族も皆殺しに遭い、遺体も投げ捨てられ、諸葛瑾の予言は的中した。
と、こうして書くと孫峻が正義の味方に見えるが……
残念ながらそんなことはなく、その専横によって呉の内部情勢は更に悪化。
諸葛恪は孫峻の夢に化けて出て、彼をぶん殴ったという。
陳寿は諸葛恪の才能を評価する一方で「驕慢で狭量であったので身を滅ぼした」と記し、孫峻のような呉の叛臣・佞臣が並ぶ巻の筆頭に諸葛恪を置いた。
三国志演義
史実とだいたい同じ。
ただし本来は仲の良かった滕胤からも見放されており、史実以上に人望の無い人物として描かれている。
光栄三國志
KOEIは馬謖と諸葛恪を似たもの同士だと思っているらしく、この二人は数少ない「知力が高いのに性格が猪突」な武将に分類される。
特に三國志11では性格・口調・特技が全く同じで、能力の総合値も1しか違わないという徹底ぶりだった。
もっとも二人からしてみれば「あんな奴と俺を一緒にするなよ」といったところだろうが。
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