青函連絡船とは、かつて国鉄→JR北海道が青森駅~函館駅間を運航していた鉄道連絡船である。
航路上の名称は「青函航路」。
基本データ
- 営業キロ(擬制キロ):113.0km
- 普通運賃:2,000円
- 寝台料金:2,400円
- グリーン料金
- 航走料金
- 在籍船数(1988年):7(大雪丸(~1/6)、空知丸(~3/12)、摩周丸、羊蹄丸、十和田丸、檜山丸、石狩丸)
概要
1908年(明治41年)3月7日~1988年(昭和63年)9月18日に運航された。
もともと、日本鉄道が計画し、船を発注していたのだが、その後日本鉄道が国有化されたため、国営の航路となる。
当初は旅客の乗降にはしけ船を使用していたが、函館側は1910年(明治43年)に、青森側は1923年(大正12年)にボーディングブリッジを使用した直接乗降に変更された。
1925年(大正14年)に、貨車輸送を本格的に開始(それ以前に1914年(大正3年)から限定的に取り扱っていた)。
1945年(昭和20年)、3月に第五青函丸が青森港で防波堤に衝突して沈没、82名が死亡(これが青函連絡船初の事故)、7月に空襲により、全連絡船12隻が被害を受け、352名が死亡する事態に。
1946年(昭和21年)、連合軍専用列車を上野駅~函館駅で運行した際に、客車をそのまま連絡船に積み込んで運航。これが初の客車航走である。後に1950年(昭和25年)、一等寝台車に限って、日本人用の客車もそのまま積み込むようになる。
1954年(昭和29年)9月26日、洞爺丸台風による暴風雨の影響で、5隻が転覆・沈没し、1430人が死亡する大事故となった。これが国鉄戦後五大事故の1つである洞爺丸事故である。客車航走は、事故が発生した際に逃げることがかなり難しいため中止となった(宇高航路(宇高連絡船)での紫雲丸事故も理由である)。皮肉にもこの事故が、青函トンネルの構想を具体化させることになる。
1964年(昭和39年)7月、函館桟橋で乗客が転落死する事故が発生したため、「別れのテープ」の使用が禁止。
9月17日、東京オリンピックの聖火を輸送。船舶上で、北海道のランナーから青森県のライナーに引き継いだ。
1967年(昭和42年)、自動車輸送を開始。当初は6台であったが、後に12台まで積むようになった。しかし、露天に晒される状態であったため、後年洗車を行うようになった。また、貨物専用船でも自動車輸送を行うようになった。(自転車などの輸送が始まるのは、1984年(昭和59年)である。)
1970年代前半、この頃には最盛期を迎えており、青森駅や函館駅では列車到着時にプラットホームや跨線橋が乗客でごった返す状態になり、積み残しまで発生した。しかし、1974年(昭和49年)以降、航空機の利用の増加、国鉄の利用者減少により、利用者数が年々減少するようになった。
末期になると、貨物専用船として使用していた船舶を旅客輸送が出来るように改造したものも見受けられるようになるが、グリーン船室、寝台、食堂を設置していなかったため、運用は限られていた。
1987年(昭和62年)、国鉄分割・民営化に従い、JR北海道に継承。船籍も東京から函館に変更された。
1988年(昭和63年)、廃止間近となった3月1日に「別れのテープ」の使用を解禁。3月13日には海峡線(青函トンネル)開業に従い、青函連絡船の運航を終了。この日は海峡線も青函連絡船も営業していたため、「青森~函館~青森」といった、乗車券を購入することもできた。
しかし、青函トンネル開通記念博覧会の開催に従い、6月3日から2往復で復活運航。期間中は通常では立ち入りが出来なかった、操舵室や甲板が公開された。9月18日に最終運航となり、青函連絡船の歴史は幕を閉じた。
2015年現在は青函フェリーと津軽海峡フェリーの2社が青森と函館の間のフェリーを運航している。
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関連項目
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