しまね丸とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造したタンカー兼特設空母である。1945年2月29日竣工。しかし深刻な燃料不足や航空機不足により前線に出る事は無く、7月24日の志度湾空襲で大破着底し、1948年に解体された。
概要
戦時標準船1TL型油槽船に飛行甲板を乗せた即席の輸送船改造空母。そのコンセプトはイギリス海軍のMACシップに似ており、東南アジアの資源地帯と日本本土を往来する輸送船団の護衛に充てられる予定だった。
ベースとなったのは1TL型戦時標準船と呼ばれる1万トン級の大型タンカー。本土・シンガポール間での資源輸送、あるいは艦隊随伴型の給油船の役割を担う。戦時標準船と言えば、簡略化を突き詰め過ぎて不具合が頻発する粗製乱造の代名詞だが、1TL型は原型の川崎型油槽船を若干簡略化した程度であり、正規の油槽船から性能を落とさずに生産された言わば「高級品」(その代わりに戦時標準船の至上命令である工期の短縮はあまり果たせていないが)。ディーゼル機関ではなくタービン機関を採用し、タンカーとしては最速の18.5ノットを誇る。この快足は、速力が求められる空母へ改装するには打ってつけの要素だった。戦況が好転した時は正規空母の補助が出来るよう艦爆の搭載も視野に入れられている一方、元がタンカーなので油槽船としての運用も可能で、その際の原油搭載量は1TL型より20%少ない1万5000トン。まさに護衛空母とタンカーの両面を併せ持った八面六臂な特設空母である。
しまね丸自体は1TL型をベースにしているが、建造の遅れからシアが殆ど無く、上甲板や船首楼もほぼ直線状になって簡略化されているなど船体そのものは2TL型に近かった。船型は平甲板型空母、燃料タンクを残すため格納庫は通常の空母より一段高い場所に配置され、船体中央に片舷支柱8本を設けて飛行甲板を支えている。前方に備え付けられた12m四方のエレベーターは正規空母用のものを流用し、呉式着艦制動装置7基と着艦制止索1基、起倒式マストを装備。格納庫内には12機の九三式中練習機もしくは10機の烈風を搭載可能。最大速力が20ノットを切っているため烈風の発艦はギリギリ、流星艦爆は使い捨てのロケット補助推進器RATOを使えばかろうじて発艦可、安定して飛ばせるのは複葉機の九三式中練習機くらいだった。
諸元は排水量2万469トン、全長160.5m、速力18.5ノット、艦載機12機、そして1万5000トンの燃料を輸送可能な巨体を誇り、艦載機には安定して発艦出来る九三式中練習機が選ばれた。12cm対空砲2門、25mm対空機銃52門、爆雷16発を装備する予定だったが実際には装備されなかった。
特TL型は大量生産が予定されていたが、無事竣工に至ったのはしまね丸ただ1隻のみである。
艦歴
歴史の闇に葬られた幻の空母
大東亜戦争も佳境に入り始めた頃、増大し続ける輸送船の喪失数を少しでも減らそうと陸海軍は協議を行った。船舶不足を補う目的で大小様々な戦時標準船を大量生産していたが、その中で最も大型なTL型が護衛空母への改装に向いていると陸軍が気付き、海軍側へTL型油槽船に飛行甲板を設けて対潜航空機を搭載する案を提示。しかし海軍はこの案に賛意を示さなかった。というのも陸軍は特種船からカ号やキ76号といった艦載機を飛ばして積極的に船団護衛を行っていたが、当の海軍は艦載機より陸上機による援護を是としており、また輸送船を改装した程度の特設空母は低性能かつ脆弱のため、あまり期待していなかったようだ。
一方、艦政本部では貧弱な空母兵力の増強に前々から頭を捻っており、一部のグループが陸軍のTL型改装に興味を示した。陸軍の意見という名目で護衛空母を大量生産出来れば、たとえ低性能であっても作戦使用の価値が生まれ、しかも陸軍が諸費用を出してくれれば海軍の軍備計画にも支障が出ない。こうして難色を示す軍令部とは対照的に艦政本部が乗り気となった。
1943年8月に陸軍から正式に戦時標準船の改装案が提示されるが、この時はTL型ではなく小型のD型だったため海軍に実用性を疑われて成立しなかった。それでも陸軍はめげず、9月に提出した航空機補給船建造要望の中に「TL型10隻にカ号もしくはキ76号を搭載する」とこっそり意見を忍ばせた。これについて艦政本部は賛成、軍令部は「陸軍が持つなら海軍も」と半ば賛成、海軍省軍務局は「カ号は低性能だから陸上機に上空援護を任せたい、でも中間練習機を乗せるのであれば賛成」という意見を述べた。陸海軍が議論を重ねた結果、1944年8月に「陸軍用として三菱重工横浜造船所で建造中の2TL型2隻を、海軍用は川崎重工神戸造船所で建造中の1TL型2隻を購入して改装」「陸軍は1944年12月から来年2月までに、海軍は来年1月~3月までに完成させる」条件で成立。飛行甲板を搭載したタンカーは特TL型と呼称され、続いて1TL型と4TL型多数を特TL型に改造して年間12~18隻を竣工させる計画が立てられたが、戦況の悪化で1945年1月に中止となった。このような紆余曲折を経て、特TL型は誕生したのだった。
難産の末に生まれた世界は
1944年6月8日、特TL型戦時標準船740番船として川崎神戸造船所にて起工。突貫工事で建造が進められたが、敵の空襲が激化した事による国力の低下と特攻兵器の割り込み緊急工事に阻まれて工程が遅延、それでも12月19日に進水して「しまね丸」と命名、名目上は石原汽船に所属する。しかし搭載機を確保出来ず、また制海権・制空権ともアメリカ軍に奪われ、1945年1月12日にヒ86船団が壊滅させられた事で大船団方式から小規模船団による輸送へ切り替えたため、もはや活躍の場など残されていなかった。つまりしまね丸が護衛するような船団はもう無かったのである。このような背景から工事進捗率90%の状態で1945年2月29日に海軍に徴用、竣工扱いとなった。悲しい事に生まれた時点でしまね丸は未来を断ち切られており、そのせいか兵装すら用意されない丸腰の船になってしまった。呉鎮守府所管となるも所属は石原汽船のままだったので軍需品輸送のかたわら海軍配当船として運用する予定だった。
公試終了後は神戸港に停泊していたが、1945年3月17日、240機以上の敵艦上機が襲来して神戸大空襲に巻き込まれる。神戸港南側に係留されていたしまね丸に米軽空母サン・ジャシントから発進した艦載機が襲い掛かり、飛行甲板に多数の機銃弾を喰らうと同時に艦後部には至近弾によって水柱が築かれる。更にエレベーター付近の右舷士官居住区に直撃弾を受けて炎上、操舵室が全損して航行不能に陥り、船体から燃料が漏れ出る程の大ダメージを受けたが、幸い生き延びる事には成功。一連の攻撃は米軍機のガンカメラで撮影されており短いながらも攻撃の様子が窺える。船員6名が戦死、予定していた兵員の乗り込みは中止され、船尾、飛行甲板、エレベーターに重大な損害を受けたため神戸港内で応急修理を実施。3月31日に第一次海軍指定船となる。
深刻な燃料不足で全く動けず、また神戸に留まれば再び敵の標的にされるとして曳航による退避を開始、4月3日に香川県志度湾の長浜沖で投錨した。志度湾にはしまね丸以外の戦闘艦は退避していなかった。一時は石炭運送船に改装する案も出ていたが結局実行されず、敵機の目から逃れる目的で船体に迷彩塗装を施し、目立つ飛行甲板には偽装網をかぶせ、地元住民の協力を得て切り出してきた松の木を上から乗せてカムフラージュする。連合軍にとって空母は最優先攻撃目標なので仮に発見されれば最後、非武装で回避運動すらままならないはしまね丸は壊滅的な破壊に身を曝す事になる。呉で偽装されていた空母は接岸して陸地の一部に見せかけていたのに対し、しまね丸は湾の中心にポツンと停泊していたため小島に偽装していたと思われる。
しかし決死の偽装むなしく7月に入ると敵機に発見され、毎日のようにグラマンが飛来してはしまね丸に機銃掃射を浴びせていった。7月4日未明、116機のB-29が志度湾の西にある高松市を徹底的に爆撃し、1359名が死亡、市街地の80%が灰燼に帰す致命的な被害を受けたが幸運にもしまね丸には被害が及ばなかった。
最期
来るべき日本本土上陸作戦に備え、連合軍は西日本に点在する航空基地と瀬戸内海の艦艇を叩いて極力脅威を取り除こうとした。ただアメリカは戦後を見据えて優位性を確保すべく帝國海軍の本拠地たる呉はアメリカ軍単独での攻撃を主張し、イギリス海軍には大阪港とその周辺の飛行場にしか攻撃許可を与えなかった。
1945年7月24日、英空母フォーミダブル、インディファティガブル、ヴィクトリアスからなる英第37機動部隊の艦載機が日盛山方面より襲来。非武装に過ぎないしまね丸に抵抗の余地など残されていなかった。瞬く間に雨のような爆弾とロケット弾攻撃を受け、前部飛行甲板へ直撃弾3発と無数の至近弾を喰らって船体を真っ二つに引き裂かれて大破着底。乗組員6名が死亡した。対するイギリス軍は事故でファイアフライ艦戦1機を喪失している。浅瀬だったため着底したと言っても大半が水上に出ている状態だが、船尾部分が完全にへし折られて沈下しており、船としては死んだも同然だった。ただ沈んでいるようには見えなかったためか着底後も度々攻撃を受け、しまね丸の移動を阻むべく湾の内外に機雷が投下されてそのうち1発が船体に触れて爆発している。死してなお敵の攻撃を吸収し続けたと言える。そしてそのままの状態で8月15日の終戦を迎える。しまね丸はイギリス海軍に撃沈された唯一の空母となった。
終戦後に撮られた写真を見ると艦前部がひしゃげているのが分かる。残された残骸は1946年11月11日から1948年7月1日にかけて浪速船渠の手で解体されたが、この際に地元有志によって無線マスト2本が引き取られ、警鐘台として再利用される事に。下部には英軍機からの銃撃で穿たれた銃痕が生々しく残る。かつては志度町消防団鴨庄台部屯所前に存在していたが、現在は高松市屋島の四国村に移設され、足元には説明用の看板が立てられている。2006年4月に有形文化財に指定。
関連動画
関連項目
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