その時ドアラが動いたとは、2008年1月19日に発見された第1級歴史資料である。
概要
現在ドアラは中日ドラゴンズのマスコットであるが、
今回の資料発見により歴史の生き証人として、その影響力は計り知れない。
今後のドアラの動向に各界が注目している。
発見された資料
ドアラの歴史
- 永享3年(1431年)ジャンヌ・ダルク処刑
処刑現場にて。一人で苛烈な処刑への非難をし続けた。 - 宝暦12年(1762年)マリア・テレジア御前演奏
モーツァルトの演奏を聴き、彼の優れた才能に感銘を受けたドアラは幾つか助言をした。
その助言が後の『フィガロの結婚 K.492』の元になったという。 - 安永5年(1776年)アメリカ独立宣言
13植民地の代表の補佐としてアメリカに招かれたドアラ。
アメリカ合衆国として独立する『独立論』を委員会に提案し、委員の同意を求めた。 - 天明8年(1789年)バスティーユ襲撃
民衆と共にバスティーユ牢獄を襲撃。ルイ16世に対して人権宣言の採択を求めた。 - 享和4年(1804年)ナポレオンの戴冠式
戴冠式におけるナポレオンの姿を見て「彼も俗物か・・・」と思い、失望したという。 - 文化2年(1805年)アウステルリッツの戦い
オーストリア・ロシア連合軍が敗れ、敗走する様子を横になって眺めたという。 - 慶応4年(1868年)勝海舟・西郷隆盛と三者会談
尾張藩士ドアラは東征軍の西郷隆盛と共に薩摩藩江戸屋敷にて幕府軍の勝海舟と会談。
後の江戸城無血開場へと繋がる重要な交渉を担う。 - 明治4年(1871年)岩倉使節団
使節の108人目として同行。西洋文明に触れ後の近代化への道筋を模索。 - 明治11年(1878年)エジソンと面会
エジソンの誕生日に自宅に招待されたドアラ。
彼が発明した白熱電球を見て電気の将来性を実感したという。 - 明治27年(1894年)日露戦争
旅順水師営にて降伏したステッセル将軍と面会。記念写真に臨む。 - 明治38年(1905年)日本海海戦
東郷平八郎大将に同行し指揮の補佐を努める。下士官が行う雑務にも積極的だったという。
このときのドアラの活躍を描いた小説が、「坂の上のドアラ」である。 - 大正6年(1917年)10月革命
レーニンとベトログラードの市民に演説をする。
だがドアラの存在を恐れたスターリンにより演説時の写真からドアラの姿が消されてしまう。 - 大正8年(1919年)ベルサイユ条約
第一次世界大戦の講和条約時の一時。各国首脳との折衝に臨む。 - 昭和5年(1930年)昭和天皇と満州国皇帝溥儀
千葉にて製造された自動車にてパレードに同行。天皇陛下と共に歓迎の意を示される。 - 昭和9年(1934年)ムッソリーニ・ヒトラーと三者会談
イタリアにて。第40代内閣総理大臣・東条英機の意を汲み大日本帝国代表として赴く。 - 昭和14年(1939年)独ソ不可侵条約締結
調印式にて。英仏軍と独ソ軍が戦う様子を思い浮かべていたという。 - 昭和16年(1941年)真珠湾攻撃
獅子奮迅の活躍であったという。一説には巨大化したとも。 - 昭和20年(1945年)ヤルタ会談
敗戦を察知したドアラは先手を打ち会談に臨んだという。 - 昭和20年(1945年)昭和天皇の玉音放送
日本降伏に打ちひしがれるドアラ。 - 昭和20年(1945年)ポツダム宣言
昭和天皇の裁可を受けた重光葵、梅津美治郎らと共に連合国への降伏文書に調印した。 - 昭和21年(1946年)天皇人間宣言
アメリカ代表マッカーサー元帥に対し、日本代表として天皇陛下のお側に。
不動の姿勢に鋼鉄の意志を携え臨む。 - 昭和23年(1948年)蒋介石と会談
台湾総統の蒋介石と会談。
日本と台湾が友好的な関係を結べるように尽力したという。 - 昭和38年(1963年)ケネディ大統領暗殺
ダラス遊説中のケネディ大統領の身辺警護に当たったドアラ。
狙撃者の姿を見たがその記憶はなぜか消えていたという。 - 昭和39年(1964年)東京オリンピック
その類稀なる身体能力を評価され、日本選手団の旗手へ抜擢。
また、体操男子ゆかにて連続後方転回からの後方宙返り1回ひねりの技を披露。 - 昭和43年(1968年)プラハの春
ソ連・東欧5カ国軍に市民と共に抵抗した。
民主化運動を掲げるドアラに多くの市民が共感したと当事者は述べている。 - 昭和43年(1968年)グエン・ヴァン・レム射殺
ベトナム解放民族戦線の兵士グエン・ヴァン・レムの射殺を防ごうと飛びかかるドアラ。
しかしレムは射殺され、ドアラも拘束されてしまった。
だがこの写真はピューリッツァー賞を受賞し、全世界がベトナムに注目する切っ掛けとなった。 - 平成元年(1989年)天安門事件
民衆の流血を避ける為、戦車隊の前に果敢に立ち塞がる。 - 平成元年(1989年)マルタ会談
東西の間を取り持つ為、会談の場を設ける。
冷戦を終結させ、ドアラの多大な尽力が評価された。
日本の教科書ではヤルタ会談からこの会談への流れを”ヤルタからドアラへ”と表記している。 - 平成元年(1989年)ベルリンの壁崩壊
ベルリン市民の先頭に立ち、自ら進んで壁を壊し始めたドアラ。
その姿に賛同した市民がドアラと共に動いたことで壁は崩壊し、東西ドイツ統一が成し遂げられた。 - 平成3年(1991年)ソ連8月クーデター
エリツィン大統領とベールイ・ドーム前で演説。
クーデターの違憲性を軍や市民に訴えた。 - 平成6年(1994年)ナゴヤ球場に捨てられる
後に中日ドラゴンズのマスコットへ転進。何らかの政治的圧力があったのではとの憶測も。
(マスコットとしての活躍は『こちら』を参照。) - 平成15年(2003年)第29回主要国首脳会議(通称:エヴィアン・サミット)
既に中日ドラゴンズのマスコットとして活躍していたが、
小泉純一郎日本国総理大臣による強い要請により会議の同行を決断。
長年に亘り日本及び、世界を見てきたドアラに対し各国首脳の信頼は厚く、
ドアラも数々の助言、対策案を示されたと言う。 - 平成21年(2009年)オバマ大統領就任
大統領選挙で広報を任せられ、大いに活躍したドアラ。
オバマ大統領は就任式にドアラを招き、感謝の意を述べたという。
関連項目
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