ひじみことは、東方projectのキャラクターである聖白蓮と豊聡耳神子のニヤニヤ出来る、
または百合属性である動画・静画などに付属するタグである。
みこひじ、みこびゃくとも。
概要
ナズーリンが探し当てた「とんでもない代物」を封印するために白蓮が命蓮寺を建てたことで、
逆にその「とんでもない代物」であった霊廟に眠る神子の復活が促されたという設定に端を発するカップリング。
神霊廟~求聞口授
「神子が仏教を広めたのは政治利用するため」という設定もあり、「原作において対立するキャラ同士が実は通じている・通じ合える」という、一種の「お約束」な二次創作の側面が強い組み合わせであった。
特に求聞口授においては一触即発と言った雰囲気の会話をしていたりと、二人の仲が悪そうな描写が多い。
欲のあり方や仏教観など、見解が違い過ぎることでなければ、話が合うことがままあったりもするのだが、
合わない時は魔理沙がストップを掛けるほど剣呑であった。
仏教は政治に利用すべきとする神子に対し、聖はそれを「使うものが未熟である証拠」と断定し、
神子もまた、欲望に囚われないようにする聖を「枯れたお坊さん」と評し、 妖怪に仏教を教えることを
「ただのおままごと」と否定している。
神奈子「その中でも貴方のお寺にいる妖怪達はまだ古典的な妖怪の部類よね?」
白蓮「そう、ですね。(以下略)」
(中略)
白蓮「よかった。」
――(魔理沙)「何が?」
白蓮「古典的ならばみんな消えなくて済むでしょう?」
心綺楼
この状況は心綺楼の発売によって若干変化する。
異変の真相に近づく直前である4戦目の相手は神子では白蓮、白蓮では神子となり、
勝つと敗者が自機の力量を認め、異変の解決を託す様な会話となる。
心綺楼で敗者から異変の解決を託されるような会話が行われるのは、他には魔理沙ルートの神子ぐらいであるが、それと違ってかなり真面目なノリである。
また、秦こころルートでは霊夢、白蓮、神子との3対1での決闘となる。
3人まとめてかかってこいと言うこころに対し、スポーツマンシップに則ろうとする霊夢だが、
それに言い返すこころと残り二人の反応は
というものであった。今回も妙な所で意気投合してんな…。
この際繰り出される共同スペルも、霊夢とでは宗教関連のスペル名なのに対し、
この二人では何故か面霊気特化の(妙にストーリーに関連深そうな)スペル名である。
二次創作でのふたりのお約束
神子の力負け
身から出た錆だったり、ボケをかましたり、不条理な暴力だったりの理由で
神子が白蓮から鉄拳制裁を受けるとういう展開が非常に多い。
そもそも普段の白蓮は常人並の身体能力しか無いはずであり、
能力的にも拮抗もしくは神子が若干有利なのではないか、とも思えるのだが、
金剛不壊の丈夫さと天資英邁のボケを買われてツッコまれ&被害担当と化している。
三角関係
三角関係に発展する場合、残りの一角には屠自古が加わる場合が多く、布都は非常に稀である。
原因は胸囲的なものやみことじの存在が大きいと思われる。
まれに神子が両手に花を体現する場合もあるが、大方は屠自古に雷を落とされ二股を制裁される。
一方、命蓮寺側は外野として応援するケースが殆んどである。
ひじみこころ
こころを加えて三人を擬似親子とみなす場合もある。
みこころと同じ様に、何故か確実に神子が父親役であり、そこに白蓮が母親役として加わる。
かなりの親馬鹿・過保護っぷりを発揮しており、むしろ、こころの迷惑になっていることも。
大抵の場合、神子は慕われていない。希望の面が禍根になっているのかもしれない。
その他考察
聖徳太子と仏教
史実・伝承において聖徳太子と仏教の関わりは非常に深い。
仏教自体を広めたほか、浄土真宗においては女犯の夢告をした観音菩薩の化身として敬われている。
また、三経義疏と呼ばれる3つの経典の解説書を著したとされている。
この内、勝鬘経義疏は在家の仏教徒である勝鬘夫人を主人公とした勝鬘経を解説した物で、
女性である推古天皇に向けた物だとする向きがある。
つまり、日本における、女性と仏教との関係に先鞭を付けたのは聖徳太子である、という解釈も可能かもしれない。
信貴山と毘沙門天
聖白蓮の元ネタは信貴山縁起であり、彼女が毘沙門天を信奉するのも信貴山真言宗の本尊が毘沙門天であるためと考えられる。その信貴山の名は聖徳太子が物部守屋を攻めた際、この山に毘沙門天が現れたことから「信ずべし、貴ぶべし」と言ったことに由来するという伝承がある。またこの出来事が寅年・寅の日・寅の刻のことである為、日本では毘沙門天と虎が関連付けられることとなった。→朝護孫子寺
大欲
神子は仏教に対し、人間の一部である欲を否定し無味乾燥なものにするものだという認識を持っていると思われるが、白蓮が真言宗だとすれば、これは半分正しく半分間違いである。
真言宗では常用経典として様々な場面で常日頃唱えている、理趣経という経典がある。
人間の営み(特に性行為)を、本来は清らかな物であり、小我に囚われることが問題であるとする、十七清浄句と呼ばれる部分が有名だが、このお経の中心ともいわれる最後の段、通称「百字の偈」において次のような文言がある。
欲等調世間 (欲こそが世の中を整える)
如蓮體本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生 (蓮は泥の中に咲くが、花が汚れることはない。 諸々の欲も同じく、汚れなければ人々を生かす)
大欲得清浄 大安楽富饒 (大欲は清浄なもので、安楽をもたらし豊かにする)
単純に欲を捨てるのではなく、仏の持つような大欲を心がけるべきとする物であり、心綺楼における「人々の希望となろう」とする神子の行動にも通じるだろう。
しかし、神子の「欲望も 自分自身の一つ、切っても切り離せない真理」という言葉からして、恐らくは人が自然に持つ小我をも否定しないのだろうとも取れる。
(単純に神主が考えてなかった 後世の仏教のため、細かい主張までは知らなかったかもしれないが。)
関連動画
関連静画
関連コミュニティ
関連項目
余談:インド密教の後期に多数の歓喜仏が登場したが、観音菩薩の歓喜仏は対面座位である。
- 0
- 0pt