概要
アイヌ民族は大和民族の到来以前は北海道、樺太南部、千島にまたがって居住してきており、長らく大和朝廷を中心とする日本とは違う歴史をたどってきた。「一つの列島、二つの国家、三つの文化」という言葉が示すとおり、アイヌは自身の国家を建てることはなかったものの独自のアイヌ文化を打ち立てた。日本史上においては虐げられた民との印象が強いアイヌだが、後述するように近代以前においては北東アジア有数の海洋交易民族だった。
アイヌ民族は日本の近代化の過程でその数を大きく減らし、その生活も大きな変容を余儀なくされた。現代においては北海道もしくは首都圏に居住しているようだが、アイヌ民族であることを隠す人も多く正確な人口はわかっていない。現代日本では琉球王国/琉球文化と比べてもアイヌ文化を知る機会が少ないのが現状であるが、北海道を訪れた方にはぜひアイヌ文化に触れてもらいたい。
ニコニコ動画においてもアイヌのタグは少ないが、ネット上ではアイヌ民族出身であるホロホロ(シャーマンキング)や、アイヌをモチーフとした世界観であるうたわれるものなどが有名である。
アイヌの歴史
アイヌの前史
日本(大和朝廷)は古来から東方の「まつろわざる民」を「蝦夷(エミシ)」と称しており、これがアイヌの祖先の一部と考えられている。蝦夷(エミシ)の征服事業は長らく朝廷の国家事業として行われたが、征夷大将軍坂上田村麻呂がアテルイを破ったことで一旦終結。朝廷の支配下に入った蝦夷(エミシ)は俘囚と呼ばれ、奥州(東北地方)では俘囚と和人が入り交じって生活するようになった。やがて奥州は安倍氏・清原氏を経て奥州藤原氏によって統一され繁栄を極めるが、鎌倉幕府によって滅ぼされてしまう。
考古学的には、北海道において本州で弥生時代が始まった後も蝦夷(エミシ)が狩猟・採集生活を続けた時代を続縄文時代と呼び、これが7世紀頃まで続く。7世紀に入るとオホーツク海周辺(北海道北東部、南千島、樺太全域、沿海州の一部)にまたがるオホーツク文化が登場、北方の諸民族の文化がもたらされた。北東部を除く北海道では擦文文化が成立したが、これが日本の史書に登場する「渡島のエミシ」と考えられている。
13世紀に入ると擦文文化、オホーツク文化両者の特徴を取り入れたアイヌ文化が成立し、ここにアイヌの歴史が始まる。また、この頃から日本では蝦夷(エミシ)は蝦夷(エゾ)と読まれるようになり蝦夷(エゾ)がほぼアイヌ民族を指すようになる。奇しくも同じ頃日本では鎌倉幕府が初めて本州全域を支配下に入れ、満洲ではジュシェン(女真)人が満洲全域を支配するアルチュン・グルン(金国)を建国していた。アイヌ文化とアイヌ民族は周囲に強力な統一国家ができたことによる外圧の中で生まれたとも言える。
*エミシがそのままエゾ(=アイヌ)の祖先であるかどうかは、いろんな説があってまだはっきりしていない。注意しなければならないのは、人種・民族・国民の概念をごっちゃにしないこと。
アイヌ(エゾ)の登場
オホーツク文化の影響を受けたアイヌは積極的に周囲の民族と交易を行ったが、その過程で中国の王朝とも接触を持った。中国の史書によると、先にモンゴル帝国に服属していた吉里迷(ギレミ=ギリヤーク、外満洲から樺太北部にかけて居住する現代のニヴフ)が、毎年のように骨嵬(クイ=北方民族からのアイヌの呼称)が攻めてくると訴えたので、モンゴルは軍を樺太に送りこれを征討したとのことである。これによってアイヌは一時的に樺太から追いやられたが、アイヌがモンゴルへの朝貢を行うようになったことでアイヌと大陸の交易はかえって盛んになった。
その後の明もモンゴルの立場を継承したが、オイラートのエセンに大敗したことをきっかけに明は北方民族への影響力を失い、アイヌと大陸の交易は縮小した。これがアイヌの対日交易偏重を生み、アイヌと和人の抗争(コシャマインの戦い)につながったとの説もある。
一方、鎌倉幕府は津軽の安藤氏を蝦夷管領に任じて対蝦夷(エゾ)への押さえとしていた。安藤氏はアイヌと結びついて日本海・オホーツク海にまたがる大規模な交易を行っていたようで、拠点の十三湊からは様々な交易品が発掘されている。鎌倉幕府末期には安藤氏の内乱とエゾの蜂起が起きるが、これもモンゴルの樺太侵攻との関連性が指摘されている。
鎌倉時代後期頃から、本州では北海道に住むアイヌを渡党(渡島半島)、日の本(北海道太平洋岸と千島)、唐子(北海道日本海岸と樺太)の三つに分けて認識しており、この見方はそのまま後の松前藩・東蝦夷・西蝦夷につながる。この内渡党は安藤氏の下でアイヌとの交易のため北海道に渡った和人とアイヌが混淆した集団と考えられており、日本語とアイヌ語の両方を話せることを生かして本州・北海道間の交易に従事した。渡党の下に移住してくる和人が増えてくるとその拠点として道南十二館が建設され、これが和人のアイヌ支配の拠点となってゆく。
松前藩の支配
道南十二館の領主は当初安藤氏の支配の下で活動していたが、コシャマインの蜂起を通じてアイヌ・和人関係は変化してゆく。交易に関する諍いから始まったコシャマインの戦いは渡島半島から胆振・後志にわたる広い範囲で行われたが、武田(蠣崎)信広がコシャマイン父子を討ったことで和人の勝利に終わった。これ以降、渡党の中での蠣崎氏の地位は決定的なものとなった。蠣崎氏は内紛で衰退していた安藤氏の統制を離れるようになり、蠣崎季広の時代には戦国大名の一つとして数えられるようになる。豊臣秀吉への臣従を経て、徳川家康によって蝦夷地支配を認められた蠣崎氏は松前氏と改称、江戸時代に入って松前藩を建てた。
江戸時代の鎖国政策下にあってもアイヌの北方民族との交易はそのまま認められたため、アイヌを通じて日本に入った清の物産は高値で取引されるようになった。このような江戸時代のアイヌと沿海州の北方民族(サンタン人)との交易を山丹交易と呼び、この時代アイヌは北方において日清両国をつなげる存在であったといえる。
当初の松前藩の影響力は限定的なものであったが、和人の蝦夷地への浸透は地域ごとの文化的・政治的な統合を促し北海道の各地でアイヌ人有力首長が登場するようになる。その内の一人、シャクシャインが松前藩に対して蜂起を行うも武器の差もあって敗北、松前藩によるアイヌ民族の統制はさらに強化されていく。また、この頃から場所請負制が始まり、アイヌ民族は過酷な搾取にあえぐことになる。これに対して松前藩の力が行き届いていない道東・国後島を中心にクナシリ・メシリの戦いが起きるも結局は鎮圧され、北海道・南千島は完全に日本の領域下に入る。
視点を再び大陸側に転じると、ちょうどシャクシャインの戦いが起こった頃満洲では露清の国境紛争が起こっていた。ネルチンスク条約によって外満洲を一旦諦めたロシアはさらに東に進出、カムチャッカ半島を経て千島・樺太を南下してアイヌと接触するようになる。これに危機感を覚えた幕府は最上徳内、間宮林蔵といった人物を北方に派遣し、一時的に蝦夷地を幕府の直轄領とするなど対策を講じた。この後、日露和親条約が結ばれるまで北千島・樺太はアイヌを含む北方少数民族、和人、ロシア人が雑居する国境未確定地域となる。
近代以降のアイヌ
戊辰戦争中、蝦夷共和国が建設されたことで渡島半島が戦場となるもアイヌには特に影響を及ぼさなかった。しかし北海道の開発のため開拓使が設置されると本州からの移民が激増し、アイヌ民族は次々と土地を失ってしまう。アイヌは本州からの移住者達から差別の対象とされ、北海道旧土人保護法の下土地を制限され日本との同化政策が行われた。千島・樺太交換条約で千島が、ポーツマス条約で南樺太が正式に日本の領土となったことでアイヌ民族の居住地はほぼ日本の領土内に入ったが、日露の国境地帯となった千島・南樺太ではアイヌ民族が以前のような生活をすることは不可能となっていた。一方、金田一京助やバチェラー牧師、ピウスツキなどの研究者によりアイヌ文化の研究が進められ、アイヌからも知里真志保などの研究者が出た。
太平洋戦争末期、ソ連が南樺太・千島を占領すると多くのアイヌは「日本国民」として北海道に移住し、その後も北方領土問題が解決しなかったことから千島アイヌ、樺太アイヌの伝統は途絶えた。戦後も長らくアイヌは差別の対象であったが、北海道アイヌ(ウタリ)協会の活動もあって1997年アイヌ文化振興法が制定されてアイヌの立場は向上しつつある。
アイヌの宗教
アイヌの人達の宗教観は日本の古神道(国家神道とは別物)に近く、動植物・道具・自然現象などあらゆる物に神霊が宿っているという汎神論的宗教観を持っている。
アイヌの人々は世界がアイヌモシリ(人間の世界)とカムイモシリ(神々の世界)に分けられているとし、カムイモシリの神霊が何らかの役割を持ってアイヌモシリの事物に宿っていると考えていた。
アイヌと神霊(カムイ)との関わりはユーカラ(口承文芸)によって伝えられており、アイヌ民族の世界観・宗教観を今に伝えている。
アイヌ民族の伝える伝承としては、コロポックル(アイヌ語で「蕗の葉の下の人」の意)もまた非常に有名である。
アイヌ文化
ユーカラ(口承文芸)、イオマンテ(熊送り)、ムックリ(口琴)などによるアイヌ音楽などが特に有名である。アイヌの生活そのものが近代に入って激変したため、失われた文化も多い。一方で北海道では、阿寒湖温泉を初めとして観光名所としてアイヌ文化を紹介するところも増えているようである。また、土産物としてアイヌ独自の刺繍をほどこした衣服や、工芸品も現れている。
ちなみに「アイヌ文化」という言葉には、
の似て非なる二通りの用法があるため、注意。
料理の食材としてはカムイチェプ(鮭)、プクサ(ギョウジャニンニク)などが知られ、現在ではジャガイモなども用いられている。
また、トリカブトを狩猟用の矢毒として使用することでも知られ、コンベ、クラーレと共に『世界三大矢毒』と呼ばれる。
アイヌ語
アイヌ語も参照。
アイヌ語は他に類似した言語を持たない「孤立した言語」であり、日本語ともほとんど共通点を持たない。また、アイヌ民族が統一政権を持たなかったために方言の差が大きくアイヌ語保持の妨げの一因ともなっている。しかしその独特の響き故に近年では創作物においてアイヌ語単語が使われることも増えたようである。
例として、スキー場として有名なニセコアンヌプリは戦後になって作られた和製アイヌ語だったりする。
関連動画
関連静画
関連項目
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