これが競馬だ
騎手は技術の限りを尽くし
絶妙なペース配分と
隙のないコース取りを試みた馬は豊かなスピードと
ありったけの勝負根性で
後続を完封してみせたこれが、これこそが競馬だ
そして19万を超す観衆は
全身全霊をかけたその戦いに
惜しみない称賛を送るのだった
アイネスフウジン(Ines Fujin)とは、1987年生まれの競走馬。「ナカノコール」であまりにも有名な第57代ダービー馬である。
主な勝ち鞍
1989年:朝日杯3歳ステークス(GI)
1990年:東京優駿(GI)、共同通信杯4歳ステークス(GIII)
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「アイネスフウジン(ウマ娘)」を参照してください。 |
概要
父*シーホーク、母テスコパール、母父*テスコボーイという血統。*シーホークは本馬が生まれた時点で24歳という高齢だったが、早期にモンテプリンスを出した以外にも本馬の1歳上のダービー馬ウィナーズサークルも出して息長く活躍したステイヤー型の名種牡馬である。
母テスコパールはテスコボーイ産駒の期待馬であったが、デビュー前に重病を患い、獣医すら匙を投げるような重篤な状態になってしまう。生産者はそれを聞いて「どうせ死ぬなら最後にウマいものを腹一杯食べさせてあげたい」と半ば強引に牧場へと連れ帰り、水や食事をテスコパールの望むだけ与えていたらなんと完治してしまった。結局競走馬にはなれなかったが、繁殖牝馬として毎年仔を出産していた。アイネスフウジンはテスコパールの7番目の産駒である。
アイネスフウジンは牧場時代から人懐っこく、大人しい馬だったそうである。牧草地の草を食べ尽くすほど旺盛な食欲が育てた黒い馬体は迫力満点で、当初から大きな期待を集めていた。
この期待馬の主戦を勤めることになったのは、中野栄治騎手だった。ぶっちゃけて言うとこの中野騎手、当時の競馬ファンはほとんど知らなかった(というか知らなくても問題ないような)騎手だった。人気薄を激走させたりということもほとんどない騎手だったためである。騎乗フォームが美しい騎手だと評価されていたらしいが、そんなことはファンの間ではまったく知られていなかった。
中野騎手は当時既に減量がきつくなり過ぎ、騎乗機会も減って引退寸前。その挙句、アイネスフウジンと出会うしばらく前に滞在していた小倉で酒気帯び運転で事故を起こした際に「助手席に女性が乗っていた」なるデマが飛び出したせいで妻から美浦トレセンに強制送還されてしまった。
そんなタイミングで彼にたまたま巡って来たのがアイネスフウジンの手綱だった。厩舎関係者の間で騎乗技術が評価されていたことと、加藤修甫調教師が騎手にもチャンスを与える主義だったこと、そして様々な偶然の重なり合いがこの巡り合いを生んだのである。
デビュー3戦目で初勝利を挙げたが、その後は疲労のため12月のレースを使うことになった。葉牡丹賞(500万下・2000m)、朝日杯3歳S(GI・1600m)、ホープフルS(OP・2000m)の3択となったが、強気にも陣営は朝日杯3歳Sを選択。無謀な挑戦とも思われたが、逃げる1番人気の牝馬サクラサエズリただ1頭をマークする強気の競馬を選ぶと直線でこれを競り落とし、マルゼンスキーの「不滅のレコード」1分34秒4と並ぶタイムを叩き出して優勝する。まさかこんなに強いとは思われていなかった1勝馬が、マルゼンスキーが唯一本気で走って出したというレコードに並んだことは競馬ファンを大きく驚かせた。
JRA賞最優秀3歳牡馬に選ばれ、翌年始動戦の共同通信杯4歳S(GIII・1800m)では控えるレースを経験させようとしたがあまりのスピードの違いで逃げる形になりそのまま3馬身差完勝。こうなれば当然クラシック戦線でも活躍が期待されるところである。
だがこの年のクラシック戦線は、期待馬が続々登場する、今思っても胸アツな戦国クラシックだったのだ。メジロライアン、ハクタイセイ、ホワイトストーン、ダイタクヘリオス。春には無名だったがメジロマックイーンやメジロパーマーも同世代である。アイネスフウジンは不良馬場の弥生賞でメジロライアンの4着に敗れ、絶対王者とは言えなくなってしまう。
皐月賞ではスタート直後に他馬と接触。これが響いて逃げに失敗し、それでも首差には残ったものの、ハクタイセイの2着に敗れた。この騎乗は物議を醸した。「中野では大舞台は苦しいのではないか?」という意見が出たのである。
ダービーにおいては、皐月賞馬ハクタイセイの鞍上は、勝ったにも関わらず南井克己騎手(中野騎手とは同期である)が自厩舎のロングアーチに騎乗する関係で武豊騎手に乗り替わっていた。メジロライアンの鞍上は横山典弘騎手。若いスター2人が乗るライバルに比べてアイネスフウジンの鞍上は確かに地味で実績も劣る。乗り代わりがあっても不思議は無いところであった。
しかし、加藤調教師は「皐月賞の負けは中野のせいではない。中野は変えない!」と宣言、中野騎手にも「一緒に勝とう」と発破をかけた。
こうなれば今度は中野騎手が加藤調教師の信頼に応える番であった。中野騎手はダービーフェスティバルでこう言った。
ファンはこの言葉を信用せず、アイネスフウジンは当日、3番人気だった。血統的には距離が伸びて良い筈のアイネスフウジンが人気を落としたのは、少なからず騎手人気の差もあったかもしれない。中野騎手は「借金してでもアイネスフウジンを1番人気にしてやりたい」と言ったそうである。
そして快晴の東京競馬場。約20万人という恐るべき数の観衆が見守る中、アイネスフウジンと中野騎手は一世一代のレースを展開するのである。
スタートして、ハナを切ったアイネスフウジン。首を下げた独特のフォームで飛ばして行く。1000mで1分を切るハイペース。中野騎手は時折後ろを確認しながら、後続を離さぬよう、詰められぬように逃げる。ハクタイセイを始めとする先行馬は気が付かない内にハイペースに巻き込まれ、なし崩しに脚を使ってしまっていた。4コーナーを回って更に伸びたアイネスフウジンを先行馬勢は見送るしか無い。しかも、あまりのハイペースに馬群はなが~くなっており、メジロライアンなど追い込み勢ははるか後方。人馬一体の素晴らしいフォームで伸びるアイネスフウジンと中野騎手。最後の最後で必死に飛んできたメジロライアンを完封して、栄光のゴールを通過したのだった。
タイムはダービーレコード2分25秒3である。2004年、あの”死のダービー”を制したキングカメハメハが2秒近く更新するまで14年間レコードタイムは保持された。
ゴールを通過した直後、ゴーグルを外した中野騎手は「ざまぁみろ。俺だってジョッキーだ」と呟いたという。
向こう正面で馬を止めた中野騎手はしばらくそこで佇み、そしてゆっくりとスタンド前に帰ってきた。
すると、超満員(形容ではなくマジで立錐の余地も無い満員で、行った連中は皆一様に「地獄だった」と言ったくらい。コミケ目じゃなかったらしいよ)のスタンドから「ナカノ」「ナカノ」「ナカノ」と声が上がり始め、それが連なって「ナカノコール」が沸き起こったのであった。競馬はそれまであまりスポーツだとは見做されておらず、ましてや騎手や馬に声援をおくるのはゴール前で馬券が外れそうになった時に限られていた。「ナカノコール」は当時、前代未聞の出来事だったのである。この瞬間、競馬がギャンブルから本物のスポーツになったのだという意見も多い。
アイネスフウジンはこの後、左前脚屈腱炎を発症。遂に癒えずに引退した。ダービーのゴール後、向こう正面で立ち止まったのは、中野騎手が泣いていたからではなく、アイネスフウジンが引っくり返ってもおかしくないほどヘロヘロだったからなのだという。ダービーで燃え尽きたと言われた馬は他にもいるが、その言葉が最も似合うのはアイネスフウジンかもしれない。
種牡馬入りしてからはそれほどパッとしなかったが、とどかにゃいで有名なファストフレンドを出すなどダート路線で結構活躍した馬が出た。晩年は宮城県で種牡馬生活を続け、2004年に死亡。17歳だった。晩年まで多くのファンが訪れ、人懐っこさを見せていたという。
アイネスフウジンのダービーは、競馬ブームの一つの頂点であった。同時に、バブル景気の絶頂期でもあった。その名の通り泡と弾けた景気はここから急激な下り坂に入り「失われた10年」がいつしか「失われた20年」へとなっていく。沸騰した競馬ブームはそこでしぼまずに高値安定の競馬人気へとつながり、1997年から98年にかけて馬券売上・入場者数ともに頂点に達するが、こちらもそこから緩やかながら長い下り坂へと入る。アイネスフウジンの馬主は1998年、会社の資金繰りの悪化を苦にして自殺した。それを聞いて、バブル崩壊と競馬ブームの終わりの象徴的な出来事だと思ったものである。
約90回のダービーの歴史の中で、逃げ切り勝ちを収めた馬は僅かに11頭しかいない。その11頭中、メイズイ、コダマ、カブラヤオー、ミホノブルボン、サニーブライアンと二冠馬が5頭もいる。物凄い実力馬でなければ出来ないことなのである。そんな勝ち方で、スター続出世代1万2千頭の頂点に立ったアイネスフウジンはもっと評価されるべき名馬だと思うのだがどうだろう。彼の出したダービーレコードは東京競馬場が改修するまで破られる事は無かった。
中野栄治騎手は、ダービー以降、いよいよ減量がきつくなり、1992年には未勝利に終わるなど苦労した後、引退。調教師になってからはトロットスターで高松宮記念とスプリンターズステークスに勝っている。今後の活躍をきっとアイネスフウジンも見守っていることだろう。
血統表
*シーホーク Sea Hawk 1963 芦毛 |
Herbager 1956 鹿毛 |
Vandale | Plassy |
Vanille | |||
Flagette | Escamillo | ||
Fidgette | |||
Sea Nymph 1957 芦毛 |
Free Man | Norseman | |
Fantine | |||
Sea Spray | Ocean Swell | ||
Pontoon | |||
テスコパール 1976 栗毛 FNo.4-d |
*テスコボーイ 1963 黒鹿毛 |
Princely Gift | Nasrullah |
Blue Gem | |||
Suncourt | Hyperion | ||
Inquisition | |||
ムツミパール 1965 鹿毛 |
*モンタヴァル | Norseman | |
Ballynash | |||
マサリュウ | トサミドリ | ||
ユキツキ | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Norseman 4×4(12.50%)、Nasrullah 4×5(9.38%)、Blue Peter 4×4(12.50%)、Firdaussi 4×4(12.50%)、
主な産駒
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関連項目
外部リンク
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